Episode 6-『Stone in underground』第8話 裏切りの高射砲塔
アパートに着いた。ここで小百合を着替えさせ、森中警視の屋敷に連れて行く。
森中警視の頼まれ事とはいえ、警察の仕事ではない。小百合は警官の制服ではなく、普段着で現れた。貴重なおしゃれ着のうち一着は、不幸な女性の血で汚れきってしまったうえ、証拠品だ。これがダメになると、もう地味な服しかない。
飛鳥刑事には、救出された小百合はいつもの小百合とどこも違わないように思えた。
だが、表面に現れない部分で小百合は変わっていた。ストーンの潜入工作員という偽りの秘密を胸に、微かな緊張を抱きながら飛鳥刑事とともに行動する小百合。
今までに、飛鳥刑事の側にいることでこんな緊張を感じたこととはない。むしろ、飛鳥刑事の隣は安心できる場所のはずだった。今までに感じたことのない緊張感。だが、小百合はこの奇妙な緊張感にも、特に違和感を受けることはなかった。なぜなら、緊張の要因の一つに、飛鳥刑事の運転する様子もあったためだ。飛鳥刑事はこの二日間、軽く仮眠を取ったくらい。石和を捕らえ、そして夜が明けてからも駆けめぐり、彼の家族ほかも押さえた。そこに来て、元気な小百合を見たことで緊張の糸が一気に切れ、耐え難い眠気が襲って来たのだ。
ハンドルを握りながら今にも寝そうな飛鳥刑事にこれ以上ハンドルをまかせてはおけない、小百合が運転を代わった。即座に眠り出す飛鳥刑事。
森中警視の屋敷に到着した。ここで小百合を置いて飛鳥刑事は帰る予定だったが、到底無事にアパートまで帰れそうにない。
「すまんね、まだ本調子でもあるまいに」
森中警視はこれから署に出勤するところらしく、パリッとしたスーツ姿で小百合を出迎えた。
「ここ二日、ほとんど寝てたみたいで……。体調の方はむしろ万全です。それより、飛鳥刑事がアパートまで持ちそうにないんですけど……。ここで寝かせやってもらえませんか?」
ここ二日、ほとんど寝ていないため、そのスーツ以上に草臥れた飛鳥刑事を引っ張りながら小百合が言う。本調子でないのは、どう見ても小百合よりも飛鳥刑事の方だった。
「それは構わんよ。飛鳥君もよく働いてくれたからな。今日は非番だし、ゆっくりして行きなさい」
森中警視は家政婦を呼び付けると、飛鳥刑事を来客用のベッドに寝かせるように命じた。そして、小百合を高射砲塔の入り口に案内する。何も知らずに見ると、ただの重厚な石造りの建物でしかない。
「君に頼みたいのは見張りだ。ここに怪しい人物が出入りしないように見張ってほしいのだ。……とは言っても、万が一怪しい人物が入ろうとしたときは君一人では何ともなるまい。その時は逃げ出してもかまわん。すぐに応援を呼びたまえ。中から出ようとする人間の方に注意してくれればいい。いつもの仕事と大差ない、簡単な任務だろう。生憎警察としての仕事ではないから給料は出ないが、そのうち何か御褒美でも考えておくよ。個人的にな」
そう言うと、森中警視は地下に停めてある装甲車や戦車の中に混じって停められていた、貴重な普通の国産車に乗って仕事に向かって行った。
結局、小百合は何を見張るのかよく分からないままだ。とりあえず、ここからの出入り口は二箇所。地下駐車場に繋がるスロープと、正面の大きな鉄扉。どちらも、正面付近で見張っていればその動きは容易く見て取れる。塔の中には見張り台もあり、そこからも辺りが見渡せる。
ストーンから指示は受けていないが、今は森中邸から情報を盗むチャンスなのではないだろうか。そう思い立ち、小百合は高射砲塔を出た。
庭では先程飛鳥刑事を寝室に案内した家政婦が、マシンガンを手にうろついていた。小百合は慌てて高射砲塔に引き返した。
森中警視特製のマシンガン型ホースヘッドで、家政婦が庭園に水を撒いている頃、小百合も動き出していた。
マシンガンを持った家政婦に動揺したが、ただ何もせずにここにいる訳にもいかない。とにかく、ここに何があるのか。それを突き止めねば。家政婦にまでマシンガンを持たせて見張らせるくらいだ。重大な秘密があるに違いない。
しかし何と恐ろしい家政婦だろうか。森中警視が雇う家政婦だけに、ただ者ではあるまい。きっと、元傭兵だったりするのだろう。
小百合は高射砲塔の奥へと踏み込んで行く。人の気配がないことを確認し、扉の一つを開けてみた。
小百合はそこが倉庫であることを知らない。そんな彼女でも、そこの光景を見ればここが倉庫だと分かるような光景だった。とは言え、倉庫は倉庫でも武器倉庫だが。
無数の火気が乱雑に置かれている。ある物は壁にかけられ、ある物は壁に立て掛けられ、ある物は床に置かれ、ある物はばらされた状態で作業台に置かれている。
ここに置かれているもののほとんどがレプリカで、森中警視が自分で作ったおもちゃだ。今、上で家政婦が使っているホースヘッドのような物もここで作られている。ほとんど、と言うのは推して知るべしだ。
小百合はあまりの光景にしばらく固まってた。
奮い立って、武器庫の中を見渡す。使い方は分からないが、家政婦がマシンガンを持ってうろつくような危険地帯を丸腰では歩けない。何かあったときに武器があった方が心強い。そう思い、作り物だとも知らずにサブマシンガンを手に取った。
さらに奥に進む。かすかに話し声が聞こえた。外に出ないように見張れと小百合が命じられている人達だろう。
しかし、こんなところに人を閉じ込めておくなど、まるで犯罪ではないか。一体何をやっているのだろう。
小百合は話し声に耳を傾けてみた。
「……はずがない……など……」
「……が、他に……択肢は……」
よく聞こえない。もう少し声のする方に近付いてみる。
「こうしてここにいる時点で、すでに手詰まりなんだよ。今から戻ることができないのは、あんたもよく分かっているんじゃないのか?」
「だが……!我々だけでストーンに刃向かうなど不可能だ!」
ストーンという言葉に、小百合はより会話に耳を傾けた。
「刃向かう必要などありはしない。知ってのとおり、今ストーンはこの町からの撤退を余儀なくされ、浮足立っている。しばらく逃げ切れば、しばらくは安全だ」
何やら聞きすてならない相談をしているのは明らかだ。
「いずれにせよ、今ストーンの人間に見つかれば命は無い。たとえあんたがストーンに我々の裏切りを知らせたとしても、その手柄はあんたの命よりずっと軽い。一度警察の手に落ちた操り人形など、連中は何の躊躇いも無く壊して捨てるだろう。まして、人質である家族もストーンから連れ去られている。裏切らずに従い続ける理由がない……そう思われても仕方がないのだ。ますます要らない存在なんだよ」
自分もストーンの一員だと思っている小百合はその言葉に驚く。自分はそんな恐ろしい組織にいるのか、と。
「それに、そうなればこちらから見てもあんたは裏切り者だ。そんな裏切り者の家族は置いておくわけにいくまい。警察はストーンみたいにいきなり殺したりできる組織じゃない。できることはそっと持ち主のところに返すことだけだ。……それがあんたの家族にどんな運命をもたらすか……。組織に関わっている以上、分からないはずはないだろう」
小百合にはさっぱり分からない。しかし、説得されている男は分かるらしく、押し黙った。
何はともあれ、組織の人間に引き抜きをかけているらしいことは分かった。このことはストーンに報告しなければならないだろう。
問題は、地上にいる武装家政婦をどうするかだ。
そしてもう一つ、重大な問題に気付く。
小百合はどうやって組織とコンタクトを取るのか分からなかったのだ。
盗み聞きしたストーンからの引き抜き説得も、よく分からない話ばかり。
小百合は本当に自分がストーンの関係者なのか、不安になって来た。
飛鳥刑事は目を覚ました。
あれは夢だったようだ。自分の乗った旅客機が、いきなりミサイルで撃ち落とされる夢。
なぜそんな夢を見たのか。眠い目をこすっているうちに、その原因に気づく。ジェット機のエンジンのそれとは比べるまでもないが、音が小さいだけで似たような音が部屋の外から聞こえていた。それに混じって、ドン、ガタンという物音もする。
初めて聞くような音ではない。割とよく聞く音だ。ありふれた掃除機の音。
飛鳥刑事はドアを開け、部屋の外を覗く。家政婦が廊下に掃除機をかけていた。キャタピラのついた戦車のような掃除機だ。形だけはありふれていない。とりあえず、普通のキャスター付きの掃除機よりも段差には強そうだ。
家政婦は廊下を覗き込む飛鳥刑事の姿に気付くと、申し訳なさそうに言った。
「ああらあ。起こしちゃったぁ?ごぉめんねえ〜」
あまり申し訳なさそうではない。家政婦はまた掃除を始めた。
時計を見るともうすぐ昼だ。よく考えると今日は朝ごはんも食べていない。そう考えると急に腹が減って来た。
まだ少し眠いが、アパートに帰るまで耐えられないほどの眠気ではない。帰って何か食べてまた寝よう。
飛鳥刑事は地下に車が停めてある高射砲塔に向かった。
小百合が見張っているはずだが、その姿が見えない。飛鳥刑事は地下に下りるスロープからではなく、高射砲塔の扉を開けて中に入って行った。
夜明け前にここに来たときは暗くて分からなかったが、入ってすぐの所は吹き抜けのようになっている。一番上まで続く鉄の階段があり、ミサイルが何本か立て掛けてある。レプリカだと思う。さすがに本物ではないだろう。断言は出来ないが。
階段の所々には外を見られる窓がついている。ここから中と外を両方見張れるようだが、ここにも小百合の姿はない。
さらに奥に向かうと、通路の角に張り付いて息を殺しその奥を覗く混む小百合の姿を見つけた。
さらに奥からはかすかに話し声も聞こえる。奥で何かしているのだろうか。飛鳥刑事も足音を殺してそこに近寄る。
飛鳥刑事は小百合の肩を叩く。
「きゃああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ!」
飛鳥刑事の方がびっくりするような悲鳴を上げて、小百合はへたり込んだ。ぐっと手に力を入れて抱え込んでいた自動小銃も取り落とし、大きな音がした。
あまりの悲鳴と自動小銃に飛鳥刑事もしばらく固まっていたが、我に返る。とりあえず、まだ腰を抜かしている小百合を立たせて入り口のところまで引っぱり出した。
小百合は少し落ち着いたところで言った。
「もう!驚かさないでくださいよ!」
「ごめんごめん。驚かす気はなかったんだけど……。何やってたの?」
「え。ううん、何でもないの。えーと、その、見張ってたの!」
「ふーん……」
飛鳥刑事に特に怪しむ様子はない。小百合はほっとする。
「飛鳥刑事こそ、こんなところに何の用ですか?」
「俺?俺は帰ろうと思ってさ。車を取りに来たんだ」
「ふうん……」
小百合は少しほっとしたような、少し心細いような気分になる。
ストーンの一員としての小百合にとって、ここは敵地のただ中だ。そして、飛鳥刑事は敵である。敵は減るに越したことはない。
その一方で、警察官・西川小百合にとっては、飛鳥刑事はいまいち頼り甲斐はないものの、一番の味方。こんな何がなんだか分からないところに、一人で取り残されるのは不安が大きかった。
ここは何が起こるか分からない。庭では武装した家政婦が獲物を探していたし、ストーンのエージェントは家族を人質に取られて組織を裏切るように説得されている。ここはストーンの地下施設並みに無法地帯なのだ。
そして、今もまさによく分からない物が小百合に近付きつつあることなど、知る由もない。
飛鳥刑事は車が停めてある地下に降りていく。その後について行った小百合は、スロープからちゃんと出られるかを見てくるように頼まれ、スロープを上り出した。
入り口には鉄の扉がついているが、今は開いている。今朝、森中警視が出掛けるときに開けたままだ。
何の問題もない、そう伝えに戻ろうとしたとき、問題が発生した。
ズザザザというタイヤの音が聞こえた。その音に振り向いた小百合の目に、細長い影が映った。
厚いコンクリートの壁に遮られた建物の中、そして闇に閉ざされた地下空間。その暗さに馴れた小百合の目には、開け放たれた扉から差し込む光は目映く感じる。緑の庭に青い空。それは小百合の目には緑の光と青い光だった。
その青と緑の逆光の中に見えた影、それは大きなハンマーのように見えた。車の一部のようだ。
車がスロープから入って来た。それは分かった。だが、最初に見えた物は何なのか。
その車が闇の中に入り込んで来るにつけ、姿がはっきりと見えるようになる。
前を向いた砲台。装甲に覆われた車体。やはりと言うか何というか、それは戦車だった。
ここで戦車を見るのは珍しくはない。問題は、それを乗り回しているのが誰かということだ。まさか、もう森中警視が帰って来たのだろうか。とにかく、小百合は急いで引き返す。
戦車は小百合の後ろに迫って来た。追われているような気分になる。そして、それは小百合の中に底知れぬ、得体も知れぬ不安と恐怖を呼び起こした。まるで、追いつかれたら全てが終わるような嫌な予感が駆け抜ける。尤も、このまま追いつかれて、そして戦車が停まらなかったら、そのまま轢かれるのだからそれも強ち間違いではない。
地下の駐車場にまで戦車はやって来た。そして、小百合の横を走り抜け、飛鳥刑事の車の横につけた。まるで、小百合を先回りするように。
再びたまらない不安が、不吉な予感が押し寄せて来て、小百合は足を止めた。
戦車から、先程は機関銃を持っていた家政婦のおばちゃんが顔を出した。今は機関銃は持っていないようだ。その家政婦が口を開く。
「なあに、帰るのあんた。それなら、お昼ご飯食べてからにしなさいな」
あまりにも普通の会話に、妙な緊迫感が一気に崩れ去った。
「そっちのあんたも一休みしてご飯になさい」
「え、あたしですか」
小百合も食事に誘われた。
「でも、ここの見張りほったらかしちゃっていいんでしょうか」
「大丈夫でしょ。この車でスロープを塞いでおけば乗り物は使えないし、歩いて逃げようとすれば窓から丸見えでしょ。自転車で追いかければすぐに捕まるわよぉ」
「あれ。人が中にいることは知ってるんですね」
飛鳥刑事にはそれが意外だった。
「そりゃあ聞いてるわよぉ。空襲避難体験ツアーでしょ?」
「……は?」
本当の理由は知らないようだ。それにしても、何という適当なごまかし方だろうか。一個人の所有する、倉庫として使われている建物に寝泊まりするだけのツアーなど、一体誰が参加するというのか。そんな物好きは森中警視くらいではないのか。
そう思った飛鳥刑事だが、ふと考える。世の中に物好きは少なからずいるものだ。何せ、こんな身近なところにもいるくらいなのだから。
こんなくだらないツアーも、案外人は集まるかもしれない。しかし、家族連れではさすがにそんなツアーには……。
「ちょっと、手伝ってほしいんだけど。さっき旦那様からこれが届いてねぇ。ツアーの人の食事らしいんだけど、これを運ぶばなきゃならないのよ」
飛鳥刑事は家政婦のおばちゃんに声をかけられ、そのどうでもいい思考から引き戻された。
家政婦は戦車に積まれた缶詰を指さす。ツアーの食事が缶詰というのはいかがなものかとは思うが、家政婦さんは特に気にしていないようだ。細かいことを一々気にしていては、この家で家政婦などやっていられないのだろう。
「この缶詰をツアコンの……えーと、イサワさんって言う人に渡すのよね、確か。一人だけスーツ着てるから分かるって話よ。悪いけど、頼まれてくれないかしら。その代わり、ご飯の準備しておくからさあ」
「え。ま、まあ、いいですけど」
石和はツアコンと言うことになっているらしい。
「助かるわー。ほら、私若いのは気だけで体の方は年相応なもんでねぇ。こんな重い荷物運んでたら腰痛くしちゃうし、腰に来ないように小分けにすると、回数が、ねえ」
家政婦はそう言うと、乗り付けてきた戦車の外枠をつけられただけのカートを、脱走に使えるような乗り物の邪魔になるような場所に停め、屋敷に戻って行った。よく考えると、ここにこれを放置されては飛鳥刑事の車も出すことができない。これをどかしてもらうまでは帰れない。
家政婦のおばちゃんの腰には脅威となる缶詰も、若く、まして片方は男という二人の手にかかれば、ちょっと重いだけの荷物だ。
奥に行くとさっき小百合が聞いたのと同じ話し声が聞こえた。
二人の足音に、話し声が止む。
「……誰だ」
部屋の中から現れたのは石和だった。
「あ。その……石和さん。食料です。缶詰……」
なんと呼ぶべきか迷うが、とりあえず飛鳥刑事は缶詰を差し出す。
「助かるよ。朝運び込まれたパンしか食べる物がなくてね。……パンにサバ缶か。贅沢は言えんがな」
「あれ、缶切りも一本しかないな。……まあ、この辺は我慢して、うまいことやってもらうしか」
飛鳥刑事は缶詰を部屋の隅に積み上げた。
「イサワって、伊沢刑事のことだったんですね」
口を挟んできた小百合の言葉に、意味深長な笑みを浮かべる石和。
「さっきの悲鳴は君か。……今の私は、イザワでも刑事でもないがな」
その言葉にきょとんとする小百合。
「ああ、小百合にはまだその話してないのかも」
「そのようだな。……西川小百合巡査。……君も、早く自分の名前を見つけることだ」
いきなり言われ、小百合はさらにきょとんとした。
「……なんのことか分からない、そんな顔だな。いずれこの言葉の意味が分かる時が来るだろう。俺は余計なことを言うような、無粋な真似はしない。全ての答えは自分で探すことだ」
石和はそう言い残し、小百合の持っていた缶詰を受け取って部屋の中に戻っていった。
高射砲塔から屋敷に向かう間、飛鳥刑事は小百合が行方不明になっている間に起こったこと、石和のことを掻い摘んで小百合に話した。
森中警視がストーンのスパイを見抜いた話、その一人が伊沢刑事だったこと、そして伊沢刑事の本当の名前……いや、本当の偽名は石和だったこと。
屋敷に向かうまでの短い間では話せることに限りがある。食事が終わったらもっと詳しく聞かせてほしいと小百合はねだった。飛鳥刑事にも断る理由はない。
とにかく、食事を済ませることにした。
いい匂いに釣られてダイニングにむかう。
家政婦のまかないのおすそ分けではあるが、家のリッチさが全然違うだけに、飛鳥刑事や小百合にとっては滅多に食べられないような御馳走だ。同じ敷地の一角で今頃食事をしている面々が、サバ缶でパンを食べているのに比べ、えらく贅沢な気がする。普段なら、飛鳥刑事や小百合の方がサバ缶でパンを食べるような経済状態だ。
おいしい料理に集中したいが、おばちゃんの世間話がそれを阻んだ。庭で機関銃を構えていた家政婦だけに、しゃべりの方も機関銃なみだ。料理の味がよく分からないまま食事は終わり、飛鳥刑事と小百合は高射砲塔に戻って行った。
高射砲塔に入ってすぐの所には、ちょっとした吹き抜けがある。そこにはミサイルもあるが、少し高い小窓に続く階段もあった。中も外も見渡せる一方、どう考えても見張り以外の用途が思いつかないその階段の上で、先程の話の続きを始めた。
飛鳥刑事はストーンの内情などほとんど何も知らない。森中警視から聞いていたことと、昨日石和から伝え聞いたことがほとんどだ。
そんな話でも、小百合にとっては初めて知るような話ばかりだ。自分が所属しているはずの組織についての、初めて聞く話に驚愕する小百合。無理もない。小百合の知っているストーンはたった一晩の内に植え付けられた情報だ。まして、その記憶を植え付けた人物も実質部外者のローズマリー。こんな内情、知る由もない。
ストーンの構成員という偽物の記憶を植え付けることを思いついたストーン側も、まさか内部の情報がここまで漏れるとは考えてもいなかった。いずれまた敵になる小百合……倉橋優香に、詳しく内部のことを教えてやる必要などなかった。石和の、予想外の裏切りさえなければ。
そんな小百合は、話を聞けば聞くほど自分の知らない話が出てくるストーンの話に首を捻るしかない。しかし、自分は下っ端だからなにも知らないのだ、石和は幹部クラスなのだと勝手に解釈して納得する。
もう一つ気になるのは、先程石和に言われた一言だ。
伊沢という刑事は石和という名を隠していたストーンのエージェント。そんな石和が、小百合に対してもう一つの名前の存在を示唆した。それはつまり、小百合も正体を隠したストーンだと言っているに等しいのだ。少なくとも小百合にはそうとしか思えない。何せ、自分はまさにそういう立場だと思い込んでいるのだから。飛鳥刑事の前でそんなことを言われては、バレるのも時間の問題なのではないか。とんでもないことをしてくれたものだ。
それと同時に小百合の中に新たな疑問が沸き起こる。何せ、その隠しているだろう本当の名前が全く思い当たらないのだ。
ストーンのエージェントの名前には石の字か石偏のついた文字が使われると言う。すると、自分はさしづめ石川小百合と言ったところだろうか。思えば、その名前にはどこかで聞き覚えがある。どうやらあまりにも長いこと西川小百合でいたため、本名を忘れていたらしい。
それにしても何とも分かりやすい本名だ。こんな名前ではばれるのも時間の問題なのではないだろうか。そう思うと、頭の中を過っていた些細な疑問などどうでもよくなった。
日が暮れ、森中警視が帰ってきた。
これから、石和と森中警視が今後について話し合うらしい。そして、小百合の見張りももう要らないだろうと言うことになった。飛鳥刑事は小百合を連れて帰ることにした。
スロープに置かれていた戦車も、今はない。まだ置かれていたら森中警視の車も通れなかっただろう。飛鳥刑事の車も、すんなりと出ることができた。飛鳥刑事の車の後ろで、鉄の扉が閉められていく。
アパートに帰るのも久しぶりだ。二人の部屋のポストには、それぞれ新聞や手紙がぎっしりと詰まっていた。小百合が連れ去られている間の新聞や郵便物は飛鳥刑事が預かっている。突き刺さったままでは、部屋に誰もいないことが見え見えで、泥棒にも狙われやすいからだ。もっとも、泥棒も入ったらがっかりするに違いないが。
飛鳥刑事から新聞と手紙の束を受け取った。数日分の新聞は結構な厚みと重さだ。これだけ溜め込むと、もう読む気は起こらない。最近の新聞からスーパーのチラシだけを引っこ抜いた。これはまさにライフラインだ。
思えば、なぜこんなに新聞がたまるほど家を空けていたのだろう。ここ数日のことがさっぱり思い出せない。目が覚めると病院だった。ストーンの基地で意識を失っている所を発見されたという話は聞いていたし、ローズマリーの暗示で、その基地にいた理由も連絡のため拉致を装って姿を消し、保護されるふりをして外に出るためだと思い込んでいる。そこは問題ない。しかし、それだけにしてはやけに日数が経っているらしい。それに、何を連絡したのかも思い出せない。そもそも、それならさっき石和の裏切りの件を知ったとき、連絡しなければならないのに、連絡方法が分からなかったのかが分からない。同じように出向いて連絡すればいいのではないか。しかし、そうすると、今度はどうやって基地に行ったのか、そしてどこに基地があるのかがさっぱり分からないのだ。何とも不思議だ。
しかし、忘れっぽいのはいつものことだ。日数がかかっているのも何かうっかりしたか、もたもたしたのかもしれない。あまり気にしないことにした。
郵便物は多くはない。水道代の引き落とし通知と封書が一通。小百合の所に手紙が来ることなど滅多にない。この封書はなんだろうか。
封書には宛て名だけで差出人の名前さえなかった。小百合はピンと来た。この得体の知れない封書こそ、ストーンの密書であり、極秘任務や連絡などが書かれているのではないか。
小百合は慎重に封書を開き、中の便箋を引っ張り出した。
開いて書かれている内容を見る。文字は少なく、一瞬で読み終わる程度の長さだ。そして、内容は思っていた以上に得体の知れぬ内容だった。
『私を見つけてください。倉橋優香』
差出人の署名らしいものを含めて、たった2行。どういう意味なのかさっぱり分からない。そもそも、この送り主も誰なのかさっぱり分からない。
しかし、なんとなく気になる名前だ。学生時代の同級生だろうか。そう思って思い出そうとして、衝撃的な事実を知ってしまう。同級生の名前が一人も思い出せない。それどころか通った学校の名前さえ思い出せない。
自分にはちょっとそそっかしい所がある。忘れ物やど忘れ度忘れも多い。しかし、通った学校のことまで忘れてしまうのはあまりにも酷いのではないのか。
よく考えると、昔のことはほとんど何も思い出せないようだ。まるで、記憶喪失にでもなったかのように。
いくら何でも親の名前くらいは思い出せるだろう。そう考えて、それも全く思い出せないことに気が付いた。
これはきっとあれだ。さっき聞いたストーンエージェントの特殊な生い立ちのせいだ。
細かいことは気にせず、前を向いて生きよう。そう自分に言い聞かせる小百合。
とにかく、この訳の分からない手紙だ。これもやっぱり気にしない方がいいのだろうか。そう思いながらもう一度手紙をじっくりと見た小百合は、とても気味の悪い事実に気付いてしまう。
この得体の知れない手紙の文字は、どう見ても自分の筆跡なのだ。
こんな聞いたこともない差出人の手紙など、自分には書いた覚えがない。
果たして本当にそうなのだろうか。よく考えて見ることにした。熟考の結果、小百合は一つの結論にたどり着いた。間違いない。これは酔っ払って無意識のうちに書いたに違いない。
ここ数日の記憶がはっきりしないのもそのせいだろう。お酒は節度を守らないと怖い。
結論が出たことですっきりしたような、やっぱりすっきりしないような、そんな微妙な気分で小百合は眠りについた。
朝が訪れた。
飛鳥刑事は朝食を済ませ小百合に声をかけた。いつも通りの穏やかな朝だ。
車に乗り、出勤した署もいつもとそれほど変わった様子はない。ただ、随分と刑事の数が少なく感じる。石和……伊沢刑事が居ないのももちろんだが、佐々木刑事もいない。今日は非番なのだ。
森中警視もやって来た。どうやら、石和たちをどうするかも決まったようだ。森中警視の義兄が経営している貿易会社の労働者として働かせるそうだ。仕事は苛酷だが、余計な人と顔を合わせることがないのでストーンに見つかる危険性が少ない。
そして、石和や砧がストーンのエージェントだったことも、署内にぶちまけられていた。ストーンのことをまるで知らない人間も署内には多数いたが、警察内部に得体の知れない犯罪組織の人間が紛れ混んでいたと言う事実はそんな署内を騒然とさせた。
今なら署内にストーンの人間はいない。県警に潜伏しているエージェントにこの動きが悟られれば潰しにかかるだろうが、今なら気付かれるまでに時間がかかる。その隙に動けるだけ動いてしまおうというのが狙いだ。
そんな流れのせいもあり、手の空いた刑事はストーンに関する捜査のために出払っている。トナミメンテナンスとゴルフ場地下の基地、砧が出て来た基地、石和が出入りしていた基地……。
飛鳥刑事もすぐさま調査に向かうように言われた。場所は石和が出入りしていた基地、小百合が見つかった場所だ。石和の家族を救出……と言う名目で実質拉致した、あの作戦。それと並行して行われていた、森中警視らの率いる捜査隊の捜査によって小百合は発見された。その時居合わせることができなかったのは残念だったが、調べることで何か掴めるかもしれない。
署を出ようとした飛鳥刑事に小百合が声をかけて来た。
「飛鳥刑事。ストーンの基地の捜査に行くんですよね。あたしも行っていいですか?」
「え。でも、警備課の仕事はいいの?」
「こっち、いろいろとキャンセルが入ったせいで仕事が暇なんです」
ゾディアック連続盗難、警察官拉致・殺害事件……。実際に殺害されたのは警察官ではないが、既に報道では警察官ということになって大いに盛り上がっているところだ。それらの事件のせいで、美術品や要人、あらゆるこの町に来るはずだった物がキャンセルされたのだ。治安の回復が認められるまで、それは仕方がない。
後は森中警視の許可が出ればいい。それは、二つ返事だった。連れて行っていいろいろ思い出させながら捜査するといい、とも言われた。
飛鳥刑事は意気揚々と、小百合は何が出てくるか分からない不安と共に、小百合が捕らえられていた地下へと降りていった。
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