Hot-blooded inspector Asuka
Episode 6-『Stone in underground』

第7話 裏切りのポーラー・スター

 倉橋優香は完全に自由を奪われたまま、奇妙な機械の前に座らされていた。
 この目の前にある機械。何をする機械なのかはさっぱり分からないが、何のために使われる物なのかは察しがつく。この機械で自分は“殺される”のだ。
 間もなく、二人の人間がこの世界から消える。一人は西川小百合、もう一人は小百合の中で、西川小百合と言う長い夢から覚めたばかりの倉橋優香。
 死ぬ訳ではない。また、深い夢の中で見知らぬ誰かとして平穏な日々を過ごすことになるのだろう。それがとても怖かった。
 今の西川小百合という自分は、思い出すこともない夢の一つになる。西川小百合は消えてしまうのだ。西川小百合が倉橋優香にそうしたように、全く違う新しい自分という誰かにその体を乗っ取られて。西川小百合にとって、それは死以外の何だというのだろう。
 信心深い人達は輪廻転生を信じることで死の恐怖を紛らわせたというが、今の小百合にはその気持ちはとても理解出来そうにない。別な自分に生まれ変わり目を覚ますことが出来る。そう分かっていても、これ程までに怖いではないか。
 それに、倉橋優香としての自分もこれから起こることに恐怖を感じていた。
 倉橋優香は既に一度ストーンの手により抹殺されていた。そして、もう一度抹殺されようとしている。
 誰かとして目を覚ました自分は、なにもかもを忘れ、自分を二度も殺したストーンのことも忘れてしまう。そして、何もかも忘れたまま、いつかまたストーンの手で抹殺される。そんなことを何度も繰り返すことになるかもしれない。
 西川小百合としての死はこれきりになるだろう。だが、優香はこれから何度死ぬことになるのだろうか。また次に夢が覚めるのが怖い。
 そして、無情にも、最後の時は近付いてきていた。

 その隣の部屋では、そのための最後の道具が届けられたところだった。受け取った人物は、神代忠臣。
「神代様。これが約束の品です」
 そう言いながらガラスの小瓶を差し出してきたのは、美しい女性だった。
 だが、神代は彼女に興味を抱くことはなかった。その興味はただひとつ、彼女の差し出した代物だけに向いていた。
 キラキラと輝く粉。ガラスの中に閉じ込められながらも、その輝きはなお魅惑的な物だった。そして、その輝きにも神代は興味がなかった。その粉の謂れと、この粉がもたらす結果。それだけだ。
「これがあの、裏切りのダイヤの粉か……」
 裏切りのダイヤ。それは、ゾディアックによって開かれたスターコッファーの中にあった大玉のダイヤ、ポーラー・スターだ。しかしそれは、持ち主であり、ゾディアック窃盗の依頼人でもあった人物によって叩き割られてしまった。
 割れたダイヤはカットをし直して新しい二つのダイヤとなった。大きなかけらはそのままポーラー・スターの名を受け継いだ。そして、小さなかけらはポーラー・スターの涙、ポーラー・ティアの名をつけられた。それらのダイヤは今、ストーンの闇のセールスマンが世界の好事家や闇商人にセールスをかけているところだ。とは言え、割れて姿を変えてしまったダイヤの価値は、同じ大きさのただのダイヤと大差ない。さらに、そのダイヤに付きまとっていた不気味な言い伝えは、いまだに知る人ぞ知る話。まして、今回の出来事で、その忌まわしい裏切りの連鎖は途絶えてはいないことを印象づけてしまった。
 二つに割れたダイヤの呪いは、消え去ったのかそれとも忌まわしさを増したのか。物好きの好事家たちも、好き好んでその呪いの有無を試そうはさすがに思わないようだ。
 そしてこの粉は、カットし直した二つのダイヤから出た微細なかけらをかき集めた物。曰く付きのダイヤの粉が、催眠術にも影響を及ぼすのか。神代にとっての興味の対象はそれだけだ。
 実験には二人のゲストが必要だった。一人目は実験台。もう既にそちらの準備は整っている。もう一人が到着するまで、先にパーティを始めておこう。
 神代はゲストの待つ部屋へと向かった。

 ストーンのエージェントと一言で言っても、その立場は様々だ。
 例えば、ナンバーズと呼ばれる下層のエージェントがいる。その多くはストーンの基地、地下の世界で働き続ける働き蟻だ。
 しかし、その中には幹部候補もいる。伊沢刑事と名乗っていたエージェントもそれに当たる。彼らはストーンの中で生まれ育った者たちだ。
 赤星息子のように、外部からやってきてエージェントになる者もいる。自ら望んでそうなる者、ストーンに全てを奪われ、他の道を失った者。事情はそれぞれだが、彼らは皆、現実社会からは決別を強いられる。書類によって死を与えられ、戸籍上は存在しない人間となるのだ。
 現実社会での権利や自由がほとんど抹殺されることで、ストーンから脱走しようという意志を奪い去っているが、それでも元の社会を知っているだけに、そちらに戻ろうとする者は少なくはない。だからこそ、彼らは捨て駒にされるのが常だ。
 そんな彼らを縛り付ける鎖は社会的な『死』だけではない。ストーンのエージェントには必ず配偶者が与えられる。そして、その配偶者との間に子供を成すことが、構成員になるための最低条件となる。それまでは、地位の低い奴隷のような扱いだ。
 配偶者と子。守るべき家族。その子供たちはいつ命を落とすことになるか分からないエージェントたちのスペアであり、いつ裏切るかも分からない彼らを縛り付けるための人質でもあるのだ。
 そして、その子供たちは幹部候補生として英才教育を受ける。基本的に、ストーンという狭い世界の中で育てられた人間だ。裏切ることはまずない。さらに、彼らは早々に配偶者候補をあてがわれる。幼少のころから共に過ごした相手だけに、その思い入れも自ずと深くなり、より強固にストーンに縛り付ける鎖となるのだ。
 絹田や伊沢と名乗っていた人物にも、幼少のころから共に生きた妻と、その間に生まれた子供がいる。
 絹田のように警察に捕らえられる前に命を断てば、家族の命は保証される。だが、そうでなければ家族には悲惨な宿命が待っているのだ。
「分かっただろう?俺を殺せ。さもなくば、お前達は三人の女子供を見殺しにすることになるのだ」
 伊沢刑事と名乗っていた男、仮ながら正しい名は石和であるその男は言う。口調は強気だが、半ば懇願に近かった。しかし、佐々木刑事は突っぱねた。
「さすがに、そりゃ無理な相談だな。そんなことすりゃ始末書じゃすまねぇ。それに、乱暴な言い方だが、戸籍も持たない人間が、俺たちの知らない所で人知れず闇に葬られたって、俺たちには何の関係もねえ。本当に殺されたのかも分からねぇだろ?それどころか、そんな人間が本当に存在したのか。それさえあんたの話以外に証拠がねぇんだ」
 石和は俯く。
「……ならば、俺に何かを期待しないことだ。おまえら警察は俺の家族を奪ったも同然。そんな連中に利するような情報は、たとえどんな拷問を受けようと口にすることはない」
 これでは埒が明かない。折角伊沢を追い詰めたのに、無駄骨に終わるのか。
 その時飛鳥刑事に一つの考えが浮かぶ。
「伊沢さんが死んだことになれば、家族は助かるんですよね」
「そうだ。もちろん、彼らに俺が死んだことが伝わる必要があるがな。聖華署に潜伏しているエージェントはいない。だが、近隣の署に潜んだ仲間が組織に俺の死を伝えるはずだ」
「いいのか?他の署に潜んでるなんて事、ぺらぺらとしゃべっちまってよ」
 佐々木刑事の言葉に、自嘲的な笑みを浮かべながら石和は答える。
「ふん。まさか組織の構成員がこの署にしか入り込んでいないなどと、本気で思っていた訳ではないだろう?」
「まあ、な。……こんな分かり切った事をいくら話しても困りはしないって事か」
「とにかく。死んだという話さえストーンに伝わればいいんです。死んだふりで何とかなりませんか?」
 飛鳥刑事の言葉に、伊沢はかぶりを振る。
「馬鹿なことを。すぐに気付かれるだろう。時間稼ぎにしかならない」
「時間稼ぎにはなる……。それで十分です。その間にご家族を救出しましょう」
 石和は顔を上げた。
「本気で言っているのか?馬鹿らしい、どうやって助け出すというんだ」
「基地を捜索すればいい。相手はそれこそ、警察官を殺したと思われる組織ですからね。多少強引な捜査だってしますよ。後は保護するなり、他の構成員と一緒にしょっ引くなりして連れ出せばいい」
「本気で言っているのか?」
「もちろんです」
 飛鳥刑事は強く頷く。佐々木刑事が口を挟んできた。
「言い方は悪いけどよ。あんたは警察にしてみりゃようやく生け捕りに出来たストーンの証人なんだ。家族の安全を確保出来ないなら口を割らないってんなら、どうにかして家族の安全を確保して口を割らせてもらう。そういうこった」
「……ふん。夢物語だな。しかし、その調子では俺を殺すつもりはないのだろうな。そこまで言うなら俺もあんたらに賭けてやってもいい。……他に選択肢は無さそうだしな。だが、しくじった場合は俺は何も語らない。そしてお前達は3つ……俺を含めて4つの命を見殺しにしたということを生涯背負って生きてもらう」
 話は纏まった。あとは、速やかに行動に移すまでだ。

 このことは、すぐに森中警視に伝えられた。森中警視は、自宅に一時的に石和を匿うと言う。そして、その一方で飛鳥刑事と佐々木刑事に石和が乗っていた車を美倉岬の崖のうえに移動させるように命じた。
 その指示通り、美倉岬の崖の上まで車を移動させた。追い詰められた石和が、この崖から飛び降りたことにする訳だ。この下の海は流れが速く、その海流はしばらく海岸沿いに流れた後、川から流れ込む水と共に沖へと向かう。沖に流れた死体はそうそう見つかりはしない。ここなら死体が見つからないことで訝られる恐れはない。後は、飛鳥刑事と佐々木刑事が、石和が崖から飛び降りたと証言すれば、石和は崖から落ち恐らく死亡したということになるだろう。

 崖から飛び降りたという伊沢刑事の捜索は、連絡を受けて駆けつけた警察により丸一晩続けられた。だが、捜索の甲斐なく伊沢刑事は発見できなかった。
 伊沢刑事なぜ死を選んだのか。昼事故死した絹田巡査部長と関係があるのか。
 全ての真相は薮の中だ。

 斯くて伊沢刑事が“死んだ”その頃、ただでさえ暗い夜の闇の中、昼でさえ一条の光も差さぬ地下へと降りて行く人影があった。この人物は、言うなれば“処刑人”だ。
 案内役の一人が先に奥へ向かう。ほどなく前方から光が漏れた。秘密の扉。
 一応部外者である自分はその扉を開けるところを見たことはない。隠し扉の場所を知る者も限られているが、その開け方まで知る者はさらに限られている。
 いずれにせよ、呼ばれたとき位しかここに来ることのない自分には関係のないことだ。
 通路を進み、その先の部屋へと導かれる。そこには自分を呼び出した人物がいた。そして、もう一人。
 この男に呼び出されるときはいつもこの女絡みだ。しかし、様子がおかしい。虚ろな目でただじっとそこに座っている。
「今日は何をさせようってんだい、神代さン」
 ローズマリーはその男……神代忠臣に話しかけた。
「この……名前は何と言ったかな?とにかく、彼女の記憶を少し書き換えて欲しい」
「書き換える……だって?一体なぜ?」
「彼女はこれから別人に生まれ変わる。だが、厄介な問題が起こってしまった。我々は彼女の死というシナリオを彼女の知人たちに見せてやったんだが、彼らはそれを信じてくれなくてね。やむを得ない。彼女には最後に一芝居打ってもらうことにしたのだ。演じるのに邪魔な、余計なことは既に忘れてもらった。あとは、台本を憶えさせるだけだ」
 台本……ストーンからの指令書に目を通すローズマリー。そこに書かれていたのは、新たな西川小百合の姿だった。
 聖華署警備課勤務の婦人警官。そこまでは普段の小百合と同じだ。だが、今度の西川小百合には裏の顔がある。ストーンのエージェント、警察への潜伏工作員と言う顔。
 小百合は森中警視に信頼されている数少ない人間だ。ストーンとしては、かなり利用価値のある人物と言える。ならば、利用しない手はない。
 もちろん小百合、倉橋優香をストーンの一員にするつもりはない。ストーンにとって彼女はあくまでも敵だ。それに、ストーンのエージェントは基本的に使い捨てられる存在。生かして罰を与え続けなければならない倉橋優香は、仮初めでもストーンの一員にはできない。ただ、演じさせるだけだ。
 警察の一員として、森中の腹心の一人として活動する傍ら、警察の情報をストーンに流し、ひそかに妨害活動を行っていた。そして、最後には警察を裏切りその姿を消す。それが新たなシナリオ、この操り人形が演じるステージだ。
 神代は、何かを取り出してローズマリーの前に翳す。粉の入った小瓶だ。
「記憶を植え付ける催眠には、このダイヤモンドの粉を使ってもらう。話には聞いているだろう?スター・コッファーの中に入っていた、裏切りのダイヤモンド……」
「ああ、あのカニの……」
 ローズマリーはシラス干しの中に小さなカニを見つけたときのような顔をした。もちろん、カニにトラウマをもつローズマリーのそれは、砂漠でサソリを見たときのそれと変らない。
 ローズマリーにとって、ゾディアックと言えばカニというほど、キャンサーの蟹江氏はインパクトがある。あの事件に関する何を聞いても、不気味で不敵な笑いを浮かべる蟹江氏の顔と、その蟹江氏率いる666億のカニ軍団が脳裏をよぎるのだ。
 そんな、カニから生まれたようなダイヤモンドの粉を使えと言われて、ちょっとだけ不愉快になるローズマリー。
 そのゾディアックで開くことができる小箱スター・コッファー、その中に収められていたが、取り出されるなり割られたダイヤ。一連の話はかい摘まんで聞いている。だから、このダイヤの持つ気味の悪い謂れももちろん知っている。
 持つ者に裏切りによる災いをもたらすダイヤ。おまけに見てるだけでカニがちらつく、いろいろと関わりたくない代物だ。だが、裏切り者の記憶を植え付けるのにこれ程ふさわしい道具はない。
「宝石の粉を使っての催眠は、君の方が何枚も上手だ。プロに任せるに限る」
 そうとなればさっさと済ましてしまうに限る。ローズマリーは準備に取りかかった。
「もう始めるのかね?今日はもう夜も遅い。明日にしてはどうだ」
「あたしを誰だと思ってるんだい?怪盗ローズマリーだよ?これからの時間があたしの時間だよ。それに、この子を寝かしつけるにはいい時間だろ?」
 神代の言葉に、ローズマリーは素っ気なく言う。
「そうか。好きにするがいい。私は疲れた、退散させてもらう。後は君に任せよう。前に彼女に記憶を植え付けたのは君だからな。そのとき植え付けた記憶については君しか知らん。私の出る幕でもないだろう」
 そう言うと神代は部屋を出て行った。
 残されたローズマリーは、もう一人部屋に残された人物を見た。様々な思いを巡らすうち、一つの考えが浮かぶ。ローズマリーは悪戯を思いついた子供のような顔をし、命令と、今思いついたことの実行に移った。

 石和は森中警視宅の倉庫地下にいた。
 軟禁状態だが、本人も了承のうえでのことだ。
 警察には既に彼は事故で海中に消えたと言う話が伝わり、捜索隊が動き出している。この状況で石和がそこらへんをうろつく訳には行かない。家族を無事に連れ出すまで、彼も身を隠す必要があるのだ。
 石和は、その家族を助け出すのに必要な、最低限の情報を警察に流した。それ以上は家族を無事助けだし、その安全を確保してからだ。
 石和から提供された情報は、彼の家族のいる場所、そして、そこに入る方法。
 石和の家族がいるのは、聖華市内のとある企業のビルだ。1階だけ別なテナントが入っているのだが、そのテナントはコングロマリット石川グループが運営する喫茶チェーン『Amber』だ。
 このビルにはもともと石川グループの企業が入っていたが、撤退の際に1階以外を引き払い、売りに出した。こうして、石川グループと関わりのない企業が所有することで、カムフラージュにもなるという訳だ。
 そして、1階部分だけ押さえたのは、もちろんそこに重要なものがあるからだ。とても重要な、地下への入り口が。
 地下はエージェントの居住空間になっている。ストーンの支部のある町にはこのような建物がいくつかあると言う。
 そこには石和の家族を始め、3家族が住んでいる。ただ、石和は他所の家族については何も知らない。うまいこと顔を合わせないように行動を管理されているのだ。
 写真がある訳でも無い。石和の家族が誰かなど、飛鳥刑事たちには分からない。似顔絵や言葉では特徴をつかみにくい。
 だが、悩むことは無い。石和が死んだことで、その家族は一度本部に連れ戻されることになる。一度管理下に置かれ、石和の死に様によりその後の運命を決める審判にかけられるのだ。潔く死んだことが認められれば残された家族も厚遇される。僅かでも情報を漏らした虞れがあれば、苦痛と屈辱に満ちた生涯が待っている。
 審判は本部で行われる。当然、本部に家族を連れて行くことになる。その、連れ出される瞬間を狙うのだ。
 そこは地下通路などと言った凝った仕掛けは無い。どうしても一度店の外に連れ出し、そこで車にでも乗せることになる。その瞬間を狙う。
 救出というよりは拉致と言った方がいいかもしれない。警察がとるには多少手荒すぎるやり方だ。しかし、それ以上の手段は思いつかない。それに、相手は闇の中にだけ生きる地下組織だ。お行儀よく相手にしていては分が悪い。
 作戦は速やかに決行された。
 万が一に備えて白昼から店を張り込むが、連れ出されるのは夜になるはずだ。もう既に連れ出されているという可能性は極めて低い。石和の死が組織の上層に伝わるのは夜が明けてからだ。その後、その死を処理する形式的な手続きも踏まなければならない。それは、店の張り込みを始めたころにはまだ済んでいないはずだ。

 その頃、森中警視が陣頭指揮を執り、砧と石和が目撃されたそれぞれの地下施設入り口の捜査が行われていた。名目は、逃走中の泥棒が逃げ込んだ可能性があるので調べさせてほしいという、適当極まりないものだ。それだけに、断ればかなり怪しまれる。
 人が逃げ込めそうな場所がないかをくまなく捜す。それは即ち、隠された入り口なども捜し出すことになる。
 捜査官の人海戦術で怪しい仕掛けはすぐに見つけだされ、その仕掛けの起動方法も森中警視に見抜かれた。捜査官たちが地下になだれ込む。
 だが、ストーンも既に撤退を始めていた。重要そうな書類も粗方持ち去られ、基地は静まり返っている。
 今し方まで人がいたらしい部屋もあるにはあった。コーヒーやタバコの匂いが漂っている。しかし、やはり人そのものは見られなかった。
 ただ一人、そんな捨てられた地下空間に取り残されていた者がいた。無骨な椅子に鎖で縛り付けられて意識を失っている女。
 髪は解かれ、眼鏡も落ちていたが、それは小百合だった。

 喫茶店付近を張り込んでいた飛鳥刑事たちにも、小百合救出の知らせは届いた。
 今すぐ駆けつけたい飛鳥刑事だが、ここの張り込みを他の人に任せる訳にも行かない。なにせ、この張り込みのことは飛鳥刑事と佐々木刑事しか知らないからだ。
 まだ、警察内にストーンの関係者が潜り込んでいる可能性はある。他の人に知られれば、その潜伏中のエージェントの耳に話が届いてしまう危険性があるのだ。
 いずれにせよ、小百合はすぐに病院に運ばれ、体調に異状などがないか検査を受けることになる。この任務を終えるころには晴れやかな気分で小百合に会えるはずだ。
 そのまま、何も起こらないまま夜が訪れた。
 喫茶店に訪れた客も異常は無い。入り口から入った者は全て出てきた。入ってもいないのに出てきた者もいない。裏口にも不審な動きは見られなかった。店は営業を終え、閉められた。
 そして夜は更け、日付が変ろうとしていた。その時、動きがあった。

 全ての店が閉められ静まり返った通りを、一台のマイクロバスが走る。それは例の喫茶店があるビルの前に停まった。
 車から何人かの男が降りて、喫茶店の裏手に回る路地に消えて行く。それから5分ほど後、路地からぞろぞろと人が出てきた。
 ストーンは聖華市からの一時撤退を決定した。そのため、ここから連れ出すのは石和の家族だけではない。4家族、全員をここから連れ出すことになったのだ。だからこの大きな車を用意した。
 全員を車に乗せ、ドアを閉める。これだけのことでも、部外者にはあまり見られたくは無い。手早く行われた。
「よし、出せ」
 全員の乗車を確認し、一人がそれだけ告げた。運転者も無言のまま車を走らせた。
 車が走り出した直後、背後で何か物音がした。座席の背後からガスマスクを身につけた不審な人物が顔を出し、車内に何かのガスを撒き散らす。そして、戸惑うことしかできない子供達から意識を失って行く。
「おい!車を止めろ!」
 エージェントはハンドルを握っている男に向かって怒鳴る。男はブレーキをかける様子も無く振り向く。顔はよく分からなかった。その顔は大仰なガスマスクで覆い隠されていた。
「運転中は話しかけるんじゃねえ。心配しなくても、一眠りしている間にパラダイスに案内してやるよ」
 言い終わると、運転手はエージェントの鼻先にスプレーを突き付け、シュッと一吹きした。アルコールのような臭いがした。エージェントの視界は歪み、意識は忽ちの内に遠のいていった。

 森中警視の屋敷に一台のマイクロバスが到着した。
 庭で待っていた森中警視は、マイクロバスの中を覗き込みながら言う。
「確かに、随分といるな」
 石和の家族は三人だ。ここに連れて来られるのもその三人と他のエージェント二、三人を想定していた。その倍どころか三倍近い人数だ。森中警視も無線で聞いた話どおりとは言え、さすがにこの人数には面食らった。
「これだけいると車から降ろすだけでも一苦労だ。……そうだな、いっそ、このまま車ごと地下に運び込んでしまおうか」
 森中警視の言葉に佐々木刑事も驚く。
「地下に、こんなでかいバスを入れるほどのスペースがあるんすか?」
「コレクションの戦車や装甲車をどこに入れていると思っているんだね、君は」
「……そういうことっすか……。俺はてっきり庭にでも並べているのかと」
 納得はした。が、ある意味納得出来ない。
「管理が大変になるからな、雨晒しにはできんよ。それに、庭に置いておくとどうしても人目につく」
「一応、あまり人様に大っぴらにできるものじゃ無いって言う自覚はあったんすね」
 だが、森中警視の答えは斜め上だった。
「日頃から大っぴらに見えるようにしておくと、外に出した時にあまり驚いてくれないからな」
「警察官が、市民を効果的に混乱させるような配慮をしてどうするんですか。それより、それなら早く地下に入れましょう」
 飛鳥刑事の言葉に佐々木刑事と森中警視は頷いた。
 森中警視の案内でマイクロバスはは地下に下りて行く。地下にはいかにも目立つ戦車や装甲車に混じって森中警視が出勤に使う車や、泊まり込んでいる家政婦さんのものらしい、ママチャリなどが並んでいる。むしろ、これらだけが日常的で浮いた感じだ。
 マイクロバス1台を入れるにはまるで困らないだけのスペースがある。この様子だと、まだまだコレクションは増やせそうだ。
「とりあえず、彼らを高射砲塔に運び込んでおこう」
「……どこですって?」
「この上にある倉庫の名称だよ。外見はドイツにある高射砲塔を再現しているが、使い道はただの倉庫だ」
「そりゃ、本来の使い道まで再現してたらえらいことになりますし」
 高射砲塔についてはよく分からないが、砲とついているだけに、砲台がついているのだろう。
「このヒトの家は来る度呆れるわ……」
 佐々木刑事は顔を引きつらせた。
 催眠ガスの効き目が切れないうちに家族たちを高射砲塔に搬入する。保護と言えば保護なのだが、監禁と言えば監禁だ。しかし、他に方法はない。
 女子供が中心とは言え、この大人数を3人だけで運ぶのは些かキツい。石和にも手伝わせることにした。ちゃんと石和の家族の身柄を確保できているかも確認する必要がある。
 飛鳥刑事が石和を連れてきた。思えば、今石和が身を隠している場所も高射砲塔なのだ。
 石和の家族は連れて来られた中に、全員ちゃんと揃っていた。
「それはいい。ところで、だ。この大人数は一体何事だ?愛人と隠し子って訳でもないだろ?」
「同じ場所に我々を含めて3家族が住んでいた……。その他の家族だろうな。あいにく、俺はその顔を見る機会がなかったので断言はできないが……」
「最近、隣近所とのお付き合いが希薄になってきて、隣の住人が何をしている人か知らないことも増えてるってよく聞くけどな……。度が過ぎると変な事件を起こす奴が出て来るぜ」
 佐々木刑事の言葉に、石和は苦笑する。
「生憎だが、このまま行けば全員何らかの事件に関わる人間になっていただろうな。これからは、事件も起こさず目立たないように生きて行くことしかできないだろうが……」
「そのほうが幸せだろ?」
「どうだろうな……。戸籍も名前も、何も無い人間だ。正にアウトロー……法の外で生きてきた。今更、法で縛られた世界に馴染めるとは思えないがね……。とにかく今は、命があるだけでいい。どうにかなる。そう思って生きるしか無いさ」
 石和と力を合わせ、彼らを高射砲塔に運び込んだ。隣同士で座っていたのが同じ家族だと思われる。その辺りから家族の組み合わせを推測し、家族毎に小部屋に収容していく。
 倉庫として使われている高射砲塔の扉には鍵が掛かる。もちろん、内側から開閉出来る物ではない。倉庫に掛かる鍵らしく、扉の外から鍵を使って開閉するだけの物だ。奇しくも、中に人を閉じこめるにもぴったりだ。
 石和はまずは自分の家族を説得し、ストーンからの脱退を理解させることにした。いずれにせよ、彼らに後戻りはできない。信じている夫、そして父の言葉だ。文句はない。
 その後は、連れて来た他のエージェントも説得することになった。彼らもまた、説得に応じる以外に生き延びるすべはない。だが、寝返るくらいなら死を選ぼうとする者もいるかもしれない。その辺は交渉次第だ。言葉は悪いがこちらには人質もいるのだから。家族をストーンに送り返す。そう言えば、逆らいようがない。石和は説得はあまり得意ではないが、やるしかない。
 とにかく、ここは石和に任せることにした。石和とて今は虜囚。そして、ストーンから見れば裏切り者だ。ここでの更なる裏切りは何の得にもならない。もっとも利のある行動をとるまでだ。

 再び夜が明けた。長らく休息を得られなかった飛鳥刑事にも、ようやく人心地つけるひと時が来る。だが、その前に最後の仕事を済ませておかなければならない。
 飛鳥刑事は小百合が運び込まれている病院に向かった。
 小百合は体の方は至って健康だという。後は監禁やその間の体験による精神面へのダメージが懸念されるくらいだが、小百合は落ち着いており、そちらも心配は要らないという話だった。
 小百合はパジャマ姿で病室にいた。無事保護されたという話は聞いていたものの、飛鳥刑事はその姿を見て初めてほっとできた。
「小百合、体の調子は大丈夫かい?早速森中警視がこき使いたがってるんだけど」
「もうちょっといたわってほしいものですねー。でも、体の方は問題ないそうですよ」
 だからこうしてすぐに帰れる訳だ。
「じゃ、支度して」
 飛鳥刑事は言うが。
「あたし、支度するものなんて無いよ」
「え。着る物は……」
「ありませんよ。なんだか、見つかった時にはガウンを着てたって話です。そのガウン、捜査のために鑑識に回されちゃって……。おかげで病院の売店に売ってたこのパジャマしか着る物ないんです」
 ガウンは恐らくストーンが用意したもの。それならば、ストーンに関する何かが残っているかも知れないというわけだ。あまり、期待はできないが。
 パジャマ姿のままの小百合を連れて帰ることになった。着替えが無いのだから仕方ない。どうせこの姿で町中を歩く訳ではない。病院を出て車に乗り、そのままアパートに戻るだけだ。

Prev Page top Next
Title KIEF top