Episode 6-『Stone in underground』第6話 Stone in Seika police station
絹田と名乗っている男は、薄暗い通路を歩いていた。
必要な事は伝えた。
本部も至急対策を練り、方針を変える事になった。
厄介な事になったものだ。思えば、倉橋優香が送り込まれていた署に森中秀雄が異動になった時点で、既に歯車は狂い始めてっていたのかも知れない。そもそも、その倉橋優香が警備担当になった怪盗が聖華市に来ることになると言うことからして誤算だ。
そもそも、ルシファーは最初、聖華市に現れた。最初に優香が配属になった西山村署には聖華市からの増援も来ていた。ルシファーが捕まるなり、そのまま姿を消すなりすれば、いずれはその刑事達も聖華市に帰ることになる。その時、理由をつけて一緒に聖華市に行かせるだったと言うことは考えられる。案外、最初から優香を聖華市に送り込む下準備だったのかも知れない。
小さな歯車の狂いは全てに大きな歪みをもたらし、崩壊をも生み出そうとしている。
ストーンにとって、倉橋という一族の血は斯くも呪われたものなのか。
死をもってしても償えぬ罪。その贖いために、生かして苦しみを受け続ける。それがストーンが倉橋親子に与えた罰だ。だが、その罰のさなかにもこうしてストーンを穿つ力となっている。
いっそ、償いなど求めずに、消してしまった方がよいのではないか。
だが、そう思っても自分の立場ではそんなことは言い出せるはずもなかった。
地下駐車場に停めてある車に乗り込み、エンジンをかけて走らせる。
地下駐車場を出た途端、目を疑った。そこには覆面パトカーとおぼしき黒塗りの車が待ちかまえていたのだ。署に向かって走り出すと、その後を追うように覆面パトカーも走り始める。バックミラーに見覚えのある刑事の顔が映った。
また基地が一つバレたらしい。しかも刑事に追われている。
基地がバレた事を知らせたいが、今引き返す事は出来ない。
この追っ手を撒いて戻るべきだ。そう判断し、スピードを上げた。
覆面パトカーは、待ってましたと言わんばかりにパトランプを屋根に取り付け、追跡をしてきた。ハンドルを握るのは佐々木刑事だ。話には聞いたことがある。車を乗り回すのにも、女を乗り回すのにも長けた小癪な男だと。そのハンドルさばきは聞いた通りの物だ。そうそう撒けるものではない。一向に車間距離は広がらない。
彼は観念した。
車はそのまま港へ向かう。そして、その埠頭の突端から海へと飛び出した。水柱を上げ、車は海に落ちた。
車を追っていた車から、何人かの刑事が降りた。そのうちの一人……飛鳥刑事は車から飛び降り、上着を脱ぎ捨てて海に飛び込んだ。
半ば沈みかけた車のドアを開けようとするが、水圧が掛かりなかなか開かない。窓から覗き込むと、中では絹田巡査部長が口から血を吐いている。海から落ちた際にどうにかなったとは思いにくい。舌を噛んだか、毒物でも煽ったのか。
飛鳥刑事は車を下から持ち上げ、運転席のドアを水面から出そうとする。だが、運転席に絹田巡査部長がいるので上がりにくい。反対側に回った。こちらのドアはすぐに水面から出す事が出来た。急いでいてそこまで気は回らなかったのだろう、鍵は掛かっていなかった。ドアを開ける。車内に海水が流れ込んでいく。飛鳥刑事は絹田巡査部長を引きずり出した。ぐったりとしている。
佐々木刑事と森中警視も手伝って埠頭に引き上げたが、すでに事切れていた。
森中警視は速やかに鑑識課員を呼び寄せた。死体の検分が始まる。
その際、鑑識課員にはしばらくこの件を署内でもただの事故として扱うこと、そして検死で得られた結果を森中警視以外の誰にも明かさないことを命じた。
鑑識課員は異例の指示に首をひねるが、相手が警官だけに警察内に容疑者でもいるのだろうと思ったようだ。それも強ち間違いではない。
ほどなく、簡単な検屍結果が出た。死亡時刻はやはり事故が起きたその時と一致した。
死体の口の中からは毒物が検出された。毒物の種類などはまだ特定できないが、口内に高濃度で、かなりの量が付着していたらしい。恐らくは自殺だろう。追い詰められ、覚悟の自殺を図ったといたところか。
「まさか毒物を持ち歩いているとは……」
森中警視もそれは意外だったようだ。スパイのような立場だったとは言え、警察官としての職務中だ。不審な物を持ち歩いてはいないだろうと踏んでいた。
絹田巡査部長の死が知れれば、伊沢刑事などのほかのストーン・エージェントも警戒する。絹田巡査部長の死が発覚する前に伊沢刑事の尻尾を掴むしかない。
やがて、絹田巡査部長の体から発見された毒物が明らかになった。
とは言え、よく知られた物質ではない。恐らく、研究中の農薬の類いではないかとのことだった。その『農薬』が害虫などを殺すために研究されていた物なのかは、甚だ疑わしいところだ。
問題は、その毒物がどこから来たかだった。絹田巡査部長の所持品を調べてみたが、このような薬品をいれて持ち歩いていたと思われる容器は見つかっていない。
運転中に窓の外に投げ捨てた可能性もある。だが、追跡中にそのようなそぶりを見せてはいなかった。港に進入するまで、絹田巡査部長は佐々木刑事の運転による追跡から逃げ回っていた。窓からものを投げ捨てるような余裕があったとは思えない。
遅効性の毒物なら服毒後に運転も出来るかもしれないが、恐らくこの毒物は何かあった時の口封じなどに使うために持ち歩いていたはずだ。口封じのために毒物を飲ませるのに遅効性では都合が悪い。効果が出るまでに、隠したいことをべらべらとしゃべり尽くされてはたまらない。毒物は即効性のはずだ。
そのようなものを服毒し、運転は続けられない。服毒は港に入ってからだろう。毒物の容器を捨てたとすると、それもその後になる。
しかし、港にはそれらしいものは落ちていなかった。引き上げられた車からもそれらしいものは見つからない。車の窓も閉まっていた。毒を飲んでから、窓から容器を放り投げて車の窓を閉めたとは考えにくい。普通に考えれば、車内のどこかに容器があったはずなのだ。
飛鳥刑事が車のドアを開けた時に流れてしまったのでなければ、まだ絹田巡査部長の死体が隠し持っているはず。衣服のポケットにはそれらしいものはない。毒物が口から体内に入っていることを考えると、毒物と一緒に飲み込んでいる可能性もある。そうなると、解剖でもして取り出すしかない。いずれにせよ毒物で死んだとなれば司法解剖は行われる。あとは、出来るだけ絹田巡査部長の死を他の警察官に悟られないようにそれを進めさせるだけだ。
署では一つの捜査本部が立ち上げられていた。
ゴルフ場地下殺人事件捜査本部。通常なら所轄である桜丘署が捜査するのだが、被害者が聖華警察署の警官ということもあって合同捜査をすることになった。殺人事件の担当は1係だが、2係からも応援のために数人が捜査に当たることになった。
だが、そのメンバーの中に飛鳥刑事はいなかった。被害者の恋人ということもあり、捜査に私情を挟むことを危惧してとのことだった。
聖華警察署刑事課捜査2係からの応援は、佐々木、大沢、村橋、そして伊沢の四名だ。
基地のあるゴルフ場に警察官がぞろぞろと入っていく。佐々木刑事や伊沢刑事もパトカーを降りた。
伊沢刑事は、特に佐々木刑事の動向に警戒していた。この男はパッと見ただの遊び人だし、実際うだつも上がらないが、こう見えても森中警視の腹心だ。ストーン基地で好き勝手やらせる訳には行かない。それとなく佐々木刑事に声をかけ、一緒に行動を始めた。
元々このような基地には重要な資料などは置かない。多少家捜しされても平気だ。とは言え、ここはちょうど使っていた基地。何が持ち込まれていたか、そしてあの急な捜索の中の撤退で全てを持ち出せていたかどうか。
この基地ではあの時ゾディアック奪取計画の後始末が行われていた。後始末だけに大したものは残っていないだろう。
ここで行われていたことについて詳しくはないが、あの時は牛の糞まみれにされた作業車を洗浄したり、依頼人が割ったというダイヤモンドの調査を行っていたはずだ。割れたダイヤはどちらのかけらもカットと研磨をし直せば、元のものには遠く及ばないもののそこそこの値段はつきそうだという。
そして、割れた呪いのダイヤに興味を示したのが神代だ。カットのときに出る屑を分けてほしいと言っていた。神代がここに来ていたのも、割れたダイヤのかけらをかき集めて実験を行っていたためらしい。ゴルフ場に迷い込んだカップルは、ちょうどいいモルモットだったというわけだ。
ここでの仕事は粗方終わっているころだ。後は神代が遊んでいただけか。そのために基地に警察が踏み込んだとなると、何とも迷惑な客人だ。しかし、神代は総裁に気に入られている。無碍には出来ない。
あの客人が余計な手掛かりをここに残していないことを祈るばかりだ。
警察の捜査はやはり死体の見つかった一室を中心に行われている。死体は服を取り替えられていた。今のところ、その入れ替えトリックに警察が気付いている様子はない。いつまで騙せるだろうか。
現場に残された手掛かりは少ない。万が一あの死体の正体に警察が気付いても、死体を入れ替えた理由にまではたどり着けないはずだ。
自分はその事実にかかわったり、組織についてまずいことが発覚する恐れのある証拠品が残されていないか確認し、何かあれば隠滅しなければならない。
何かありそうなのは、作るだけ作って近頃は滅多に使わない地下の基地より、トナミメンテナンスの方だ。地下基地は客人が遊んでいたのと、出張組が休憩所に使っていたくらい。工場側は一応営業していたため、普通に書類なども置かれていた。そこに混じって組織にかかわる書類が置かれていることも有り得る。
刑事数名とともにトナミメンテナンスの方に向かう。幸い、トナミメンテナンスの捜査について来たのは、佐々木刑事以外は事件について詳しく知りもしない桜丘署の刑事だ。駐車場の方をよろしくお願いしますと言ってやると、何の疑いも持たずに駐車場を調べに行った。
伊沢刑事は書類入れの中を探り始めた。佐々木刑事は机の上を探っている。そんな目立つ場所に大事な書類を置いたりはしない。
ひとまず、見られては拙いような書類は無さそうだ。書類入れには車工場の伝票などしかない。ゴルフ場も工場も、いくら家捜ししても何も出てこないだろう。ひとまず安心と言ったところか。
「おっかしいなぁ」
佐々木刑事が何かを呟いている。なにかがおかしいようだが、何もない工場の、何もない机の上を眺めて抱くような疑問だ。大した疑問でもあるまい。ただ、一応何が不審なのかは聞いておくことにした。
「何かあったのか?」
「いやさ。大したことじゃないんだけど、車の整備工場なら車のカタログみたいな本があると思ったんだけどな。……俺の車、中古だし、もう5年も乗ってるし、あちこちぶつけてるから買い替えたいんだよな」
本当に、心から大したことなかった。それにしても、同じ署の同僚が無残な死体となって発見されたというのにこの気合の入ってなさは何なのだ。
しかし、それはそのまま自分にも言えることだと気がついた。確かに自分は西川小百合という婦警とはそれほど面識があった訳でもない。それでも、仲間の死に対してドライすぎる。
それも、些細な理由で仲間が使い捨てられ死んで行くのが当たり前のストーンという集団に慣れ過ぎたせいなのだろう。もちろん、警察の『仲間』が自分にとって本当の『仲間』ではないと言うこともある。警察組織への忠誠心もない。
目の前の男は元々感情を前に押し出すような男ではない。いつも飄々とし、何を考えているのか分からないところがある。今もそういうところが出ているだけなのかもしれない。
とにかく、ここにはもう何もない。いくら探られても何ともない。好きなだけ調べてもらって結構、時間を無駄にするがいい。
こうしている間にも、倉橋優香を再び別人に作り替える計画は進んでいるだろう。それが終われば、西川小百合と言う人物は本当に死ぬことになる。いや、そもそも西川小百合は既に死んでいる。今の西川小百合は、倉橋優香が演じていた二人目だ。二人目の死は最初の西川小百合の死と違い、存在しないはずの人物が、本来そうあるべきであるように消えていなくなる。それだけだ。
捜査は無駄に終わった。有益な証拠などは全く見つからず、分かったことはただ一つ。ここには何もない。それだけだった。
まじめに捜査をしていた連中には悪いが、佐々木刑事にはこの捜査が無駄だということは分かっていた。その根拠は簡単だ。森中警視が、ここには大したものは残っていないだろうと推測したのだ。
雰囲気からして、ここはストーンが聖華市に再び進出するための前線基地となるべくして建設されたのだろう。だが、その計画は頓挫してしまったようだ。銃撃戦にまでなった修道院での出来事も響いたのかもしれない。
この基地には、日頃使われている雰囲気がなかった。突然の警察の突入だったが、基地内はかなり片付いていた。必要なときにだけ、たまに使われるくらいだったのだろう。そんなところに、大したものが残っているとは思えない。そもそも、大したものが持ち込まれていたかも怪しい。
何か残っていれば伊沢刑事と名乗る組織のエージェントがもみ消そうと動くだろう。その動きにだけ注意していればよかった。
伊沢刑事が書類を調べている間、机の上を調べる素振りを見せながら、その動きに注意を配っていた。書類を全て調べ終えた伊沢刑事は、そのまま動きを止めた。まずいものがありそうな場所はその書類の中位だったようだ。念のため、意味ありげな話を振って動揺でもしないか探りを入れてみたが、変わった様子はなかった。
その後は、伊沢刑事も適当に捜査を始めたので、佐々木刑事も適当に捜査をして時間を潰したのだった。
その間に、秘密裏に進行していた絹田巡査部長の司法解剖も成果が出ていた。
毒物は口の中から大量に検出されたが、他にもう一カ所大量に検出された場所がある。左手の小指の先だ。
詳しく調べてみたところ、小指の先に仕掛けが見つかった。指先が切り取られ、代わりに指先に偽装されたカバーが装着されていた。カバーを取り外してみると、中には割れたガラスのカプセルがあった。このカプセルに毒物が仕込まれていたのだ。
指先のカバーにはわずかに歯形が残っていた。中のカプセルを噛み割り、そこから浸みだした毒物で死に至ったのだ。
伊沢刑事の体にも同じような仕掛けがあるかもしれない。
ゴルフ場を調べていた警官たちは捜査を切り上げ戻ってくると言う。なんとかして、伊沢刑事の体を調べたい。それも、出来るだけ早く。
佐々木刑事と伊沢刑事は署に帰って来た。
1係の方はいまだに慌ただしい。何せ、殺人事件が起こり、犯人につながりそうな情報がいまだ得られていない状況だ。
ストーンのことは警察でも知る者は多くない。昨日のゴルフ場での動員も、ゾディアック連続盗難事件の捜査、並びにその捜査中に消息を絶った警察官の捜索が名目だった。ストーンなどという組織については、捜査に当たり基地内に突入した警官たちですら、その名前も知りはしない。突入した警官たちも、ゴルフ場地下の謎の空間にさぞ首を捻ったことだろう。そして、その謎はいまだに解けぬままになっているはずだ。
だが、その謎の空間に関しては上から捜査の指示が出る事はない。そのまま放って置けば、真相は永遠に暴かれることはないだろう。それも、ストーンが既に警察組織に深く入り込んでいるせいだ。そして、それがストーンが警察組織に入り込んでいる理由でもある。
そうやって入り込んでいる一人である伊沢刑事がいる2係の方は1係ほど慌ただしくはない。とはいえ、ゾディアック連続盗難事件もまだ解決している訳ではないし、まだ捜査を縮小するほど調べ尽くされた訳でもない。まだ帰りは遅くなるだろう。
刑事たちの机にお茶が運ばれて来た。一息入れて、もう一働きしろと言うことだ。
飛鳥刑事と佐々木刑事は飛鳥刑事と小百合が襲われたときの状況を詳しく思い出すためにゴルフ場へ。伊沢刑事は資料漁りを任された。
あのゴルフ場近辺で起きた今までの事件に、不審な点は見られないか。
伊沢刑事にはその答えは分かりきっていた。ストーンが好き好んで新たな拠点としようとしている場所の近くで事件など起こす訳はない。
運悪くあのゴルフ場が男と女のアブノーマルな火遊びの場所として使われやすくなり、秘密を抱えた男女が要らぬ冒険心を発揮してゴルフ場の秘密に首を突っ込みかける事がある。そんな時にだけ、そこで見たものを誰かに言うことも、思い出すことさえも出来ない死体にしたり、最近では記憶や自我を奪い別人に変えたりと言ったことは行なってきた。だが、そういう場合は大体、ここに来ることを誰にも告げずに二人だけでこっそりと来るものだ。二人が消えても、どこで消えたのかは誰も知らない。ただの駆け落ちとしか思われない。
そんな状況だ。過去の資料など、いくら調べても何も出はしないのは分かり切っている。出るようなものがあったとしても、とっくに隠滅されているはずだ。結局、時間潰し位しかすることはない。
ここ数日の疲れのせいか、猛烈な眠気が襲ってきた。眠気は、それに抗う気力さえ瞬時に奪われていく。
伊沢刑事は忽ちの内に深い眠りに落ちていった。
伊沢刑事は目を覚ました。目を覚ましたことで、自分が眠っていたことに気付く。
慌てて時計を見た。1時間ほどしか経過していない。どうにかごまかせるだろう。
刑事課に戻り、大した発見はなかったと報告する。どうせ、調べても本当に大した発見はなかっただろう。それが分かっているのだから堂々と言い切れる。
「そうか、ご苦労だったな。今日の所はもういいだろう。……ところで、庶務課の絹田巡査長とは知り合いだったのかね?」
森中警視の口からその名前が出たことに、伊沢刑事は少し緊張する。
「ええ。駆け出しのころから何かと世話になってます。手錠の使い方が荒いせいで、今でも交換のときにちょくちょく世話になってますよ」
不自然な所がないように気を遣いながら答えた。
「そうか。先日、君の見舞いにきていたようだから、君の耳にもいれておいた方がいいかと思ってね。……絹田巡査長が亡くなったそうだ」
「なんですって」
そのことには素直に驚いた。
「事故だそうだ。原因は分からないが、聖華埠頭から車ごと海に転落して、死亡したらしい。ただの不注意であんな事故になるはずはないから、何かあったと考えるべきなのだろうが……」
森中警視の言葉に伊沢刑事は考える。ただの事故とは思えない死に方だというのなら、自ら命を断ったか消されたか。そんなところだろう。
とにかく、ストーンから詳しい話を聞かなくては。もしかしたら、絹田の死を組織の方もまだ把握していないかもしれない。その場合は急いで伝えなければならない。幸い、今日の仕事はもう終わりだ。このまま連絡に向かおう。
署を出た伊沢刑事は車を走らせた。
聖華市内にあるとある工場に入って行く。その敷地内の朽ちかけた倉庫に入り、壁のスイッチを押す。埃塗れの棚がスライドして壁に吸い込まれ、棚のあった場所に隠し通路が現れた。この奥にはストーンの支部がある。
伊沢刑事は通路に踏み込む。ここは古い基地だ。戦前の、石川商会時代から使われている。さすがに設備などは改良したが、石壁などはその歴史の古さを感じさせる。それもそのはず、この通路自体は江戸時代に作られた物。オケラ屋の地下にあった地下通路と同じ物だ。二つの通路は、いや、聖華市の地下にいくつかある地下トンネルはすべて繋がっている。
とは言え、オケラ屋のある辺りのような末端の通路を使うことは普段はない。今は、まだ組織の一部しかこの町に送り込まれていない。そういうこともあって、過去の遺産を使い切れていないのだ。
基地にいるのは当直のエージェントだ。かつては、ゾディアック計画のときに居合わせたエージェントたちも含まれていたのだが、顔が割れたこともあって入れ替えられている。そこにいたのはあまりなじみのないエージェントだった。
「ナンバー062が死んだらしいが、聞いているか」
伊沢刑事は単刀直入に言った。ナンバー062は絹田のナンバーだ。絹田はもちろん仮の名前、そして、彼らには本当の名前など無い。
「何だと。聞いていないぞ」
「そうか。私も多くは伝えられなかったが、事故死ということになっているようだ。ただ、ただの事故死とは思えない死に方だったらしい。何か掴まれて自ら命を断ったのかもしれん」
ストーンに始末されたのなら、連絡係でもあるこのエージェントもこのことを知っていて当然だ。知らないと言うことは、組織にはまだその死が伝わっていなかったということであり、その死にストーンが関与していないことを示している。
「062は昼間ここに来た。その直後に死んだって言うのなら……悪い予感がするな」
エージェントは難しい顔をした。
「ああ。これ以上面倒事が起こる前に、一度ここも引き上げるべきだろうな」
「森中の監視はどうする?」
「我々が聖華市から切り上げてしまえば、監視の必要もないだろう?」
冷めた表情で言い放つ伊沢刑事。
「それはそうだが……。放し飼いにすると危険じゃないのか?」
「奴だって警察という組織の飼い犬だ。法律の首輪に縛られている限り、無茶は出来ない。なにかしようとすれば目立つしな」
「その点、縛る物のない俺たちのような野良犬の方が有利か」
「明日の保証のない野良犬と、縛り付けられた飼い犬か。言い得て妙だが、野良犬なのに首輪を付けられた俺の立場がないな。首輪だけでも外させてもらうか」
伊沢刑事はそう言うと、ポケットから警察手帳を取り出し、机の上に投げ出した。
もはや伊沢刑事という人物は存在しない。元々、名前らしい名前さえなかった組織の操り人形に割り振られた役名、全てが虚像だ。
今の彼は、役をもらう前と同じ、番号だけが振られた人形・ナンバー075。舞台を下りた人形に光は当たらない。次の舞台があるとすれば、まったく違う役名だろう。
彼は乗り付けてきた車に乗り込んだ。そのとき、スポットライトのような強い光が彼と車を照らし上げた。
怯んでいる隙に車の両脇に二つの人影がそれぞれ駆け寄ってきた。
逆光の中、シルエットだけが見えていた人影だが、ドアの横に立ったときにその顔がはっきりと見えた。見慣れた顔だった。
「よう。こんなところで何をしてるんだい?捜査なら、捜査令状は取ってるかい?」
佐々木刑事がにやけた顔で言う。
とぼけてはいるが、何も知らずにこんなところにやってきて声をかけてくる訳がない。自分と組織の繋がりに気付いて後をつけてきたようだ。
「……私用さ。あんたらこそ、こんな所に何の用だい?連んでいるところを見るとどうやら捜査のようだが?」
「俺を散々な目に遭わせてくれた犯人の一派が、この辺りにいるらしいんですよ。正式な捜査命令が出ている訳じゃないですけど……まあ、そういう意味じゃ俺たちも私用と言ったところですか」
軽く笑みを浮かべながら飛鳥刑事が言った。
「どうやら、躾のなっていない飼い犬もいたようだな。俺をどうする気だ?不法侵入ででもしょっ引くかい?」
佐々木刑事が助手席に乗り込んできた。横でタバコに火を付ける。
「司法取引って言葉を知ってるかい?この工場であんたが入ったところに案内してくれれば見逃してやってもいいぜ」
「日本には司法取引の制度はない。それに、君たちの様子からして何かを掴んでいるようだが、それならばその取引がこちらにとってあまりにも割が合わない物だということも分かるはずだな」
「そうか?話をしたのが知られるとヤバいってんなら、証人保護プログラムってのもあっただろ。逮捕されちまったほうが安全じゃないのか?」
「それもこの国にはない制度だな。生憎、俺はあんたらが思っているほど自分の命には執着がないんでね。自分の命如きの為に余計なことを喋ったりはしないさ」
たとえ、目の前にいる二人の刑事が、自分の正体に気付いている訳でもなく、最初の言葉どおりに不法侵入を咎めるために声をかけてきたのだとしても、むざむざ捕まる訳には行かない。
理由はどうであれ、警察に密室で話を聞かれたとなれば、組織のことを話していないという証明は誰にも出来ない。その時、ストーンが奪うのは自分の命だけではないのだ。こうして警察に声をかけられた時点で、既に手詰まりだった。
「俺はさっき、自分の命は惜しくないと言ったな。それがどういう意味か教えてやろう」
彼は小指の先を噛み砕いた。痛みなどない。ここにあるのは自分の指先ではないのだから。毒薬の入ったカプセルと、それをカムフラージュする偽の指先。
これで、噛み破ったカプセルから溢れだした毒で自分は死ぬ。役目を終えた操り人形が、次の役目を与えられる事なく、自ら糸を切って捨てられるだけだ。
だが、噛み砕いた感触は確かにあったのだが、毒液が染み出してこない。
もう一度指先を噛んでみた。やはり毒液が染み出る様子はない。
「どうした?女みたいに小指を噛んで……。男らしくきっぱり死んで見せるんじゃなかったのか?」
馬鹿にした笑い顔で佐々木刑事が言う。そして、飛鳥刑事は勝ち誇ったような笑みを浮かべながら言った。
「あんたが隠し持っていた毒薬は、抜き取って科捜研に送ってある。特殊な毒物だから、入手元を辿ると面白い所に行き着くんじゃないかと期待してますよ」
「今、代わりに入ってるのは発信機さ。スコーピオンにくっつけてたのと同じ奴だな」
と言うことは、森中警視が使っていたものと言うことか。
「どうやら躾がなっていないのは飼い主の方だったうようだ。警察の職務の範囲を超えているんじゃないのかね?」
「今はもう職務は終わってますよ、イザワ刑事。いや、イサワ刑事と呼ぶべきですか?」
「……好きにしろ。どちらにせよ俺の本当の名前じゃない。……俺の正体には気付いているんだろう?」
「やはり、ストーンのスパイなんですか」
「……その通りだ。しかし、体の仕掛けに気付いた上に、発信機まで仕込まれていたとはな。いつの間にやった?」
「あんたが仕事をサボって居眠りしてたからな。ちょっとした可愛らしい悪戯さ」
そう言ったのは佐々木刑事だ。先ほど、調べ物を頼まれ一人で資料に当たっているとき、抗いがたい睡魔に襲われ、気が付いたときには眠りから覚めるところだった。
どうやら、あの強烈な睡魔……一服盛られていたらしい。署に戻って来た時に、さりげなく出されたあのお茶か。
「俺の正体に気付いたのはいつだ?」
「一昨日のことかな?森中警視があんたらの分かりやすい名前の仕掛けに気付いたんだよ。まあ、あんたらのはもうちょっと捻ってあったから危なかったけどな。あんたが無駄にもう一ひねり入れてたお陰で森中警視が気付いたんだ」
「どういうことだ?」
「イザワだよ。石和と言うもう一つの名字に気付かれないようにイサワをイザワと読ませていただろ?森中警視はあんたの本当の名前を知って、イサワと読まれると困ることでもあるんじゃないかと感付いたんだな」
「用心し過ぎてボロが出た……よくあることですよ」
「ふん。よく気付けたものだ」
「気付きますよ!名前を間違って覚えられるのは普通は嫌なものです!俺だって、友貴をユウキと読まれてちょっといらっとしましたし」
不機嫌そうに飛鳥刑事が言う。
「ちょっと待て、飛鳥。もしかして、おまえが言っているのは俺が口説いた子の話か?それなら腹が立ったのは俺の方だぜ?せっかく口説いた子が、名前を聞いたらお前と同じ名前でよ。一々お前の顔がちらついて百年の恋も冷めるってもんよ。ま、知り合って百分も経ってなかったし、名前なんかより人間中身と体だろ。名前のことは忘れて、楽しむことはしっかり楽しんだけどな」
「……最後の話は出来れば聞きたくなかったです」
「そもそも、お前がこの話を聞いたときにちょっと気分が悪かった理由……、俺と同じなんじゃないか?自分と同じ字の奴が俺に口説かれてコマされたって聞いたからだろ」
「コマされたってのは今初めて聞きましたけど……。まあ、それもあるのは確かですが、俺はユウキじゃないトモキだと思ったのは確かです。他人の名前と比較されてもこんな感じなら、自分の名前そのものを間違えられたら当然訂正しますよ。たとえそれが濁点ひとつでもね!」
二人のどうでもいいやりとりに、石和が口を挟む。
「ふっ……俺には分からんよ、名前に関するそんな拘りはな」
「なんだと」
「分かっているんだろ?俺の名前は本当の名前じゃない。石和、もしくは伊沢隆広……付き合いは長いが、所詮は仮初めの名前だ。それに、俺には本当の名前と呼べる物はないんでね。名前を持つ人間の名前への拘り……そんな物、知る由もないんだよ」
「慣れないことはするもんじゃないな」
「まったくだ」
しばしの沈黙のあと、名を持たぬ男は言う。
「俺たちがあんたらにとって当たり前のことを知らなかったように、あんたらには俺たちの住んでいる世界のことは分からないだろう?なぜ、俺たちが躊躇いもなく組織のために命を捨てるのか……考えたことがあるか?」
「無いですね」
飛鳥刑事はどキッパリと言った。
「どうせ俺はもう逃げることはできない。少しだけ教えてやろう。ストーンという組織の仕組みをな」
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