Hot-blooded inspector Asuka
Episode 5-『Star seekers』

第4話 蟹と蠍のシンフォニー

 森中警視と蟹江氏が何やら怪しい相談をし始めた頃、佐々木刑事が小百合を連れて刑事課に入ってきた。その姿を見て、飛鳥刑事は自分が署に連れてこなければならない小百合をアパートに置いてきてしまったことに気付いた。
「飛鳥刑事ぃー。置いてかないでくださいよぉ。着替えてたら飛鳥刑事の車が走り出す音がしたんで、慌てて佐々木刑事呼んだんですからねー」
 当然のように小百合は不機嫌だ。
「いや。新聞見たらこんな事が書いてあって、驚いてつい」
 飛鳥刑事は、予告状について書かれた新聞を小百合に手渡す。
「だからって私のこと置いていかなくてもいいじゃないですか。私とスコーピオン、どっちが大事なんですか?」
「えっ。そりゃあ……警察官という立場からしてスコーピオンとしか答えようが……」
「ここで小百合を選ぶようなら刑事として失格だよな」
「市民の安全のため?……あたしだって市民なのに……」
 飛鳥刑事の模範解答に佐々木刑事まで後押しをし、小百合は言い返せない。
「で、あそこで怪しい人と話をしている警視はなんなの」
 佐々木刑事は、小百合を迎えに行っている間に来た蟹江氏が、なんのために来たのかもまだ知らないのだ。飛鳥刑事はその辺の事情も説明した。
「で、たちの悪い仕掛けの中に誘い込んで陥れてやろうと作戦会議ってか。警察のやるこっちゃねーな」
「個人で楽しんでますよね」
「まあ、放っておこうぜ」
 飛鳥刑事と佐々木刑事はとりあえず、予告状を受け取った新聞社で話を聞くことになった。
 とにかく、一気に慌ただしくなった。

 この動きはすぐにストーンを介してローズマリーにも届いた。
「あたいは行かないよ。絶っっっっ対に行かないよっ!」
 キャンサーで散々な目に遭わされた蟹江氏と、ずっと前から散々な目に遭わせ続けられいる森中警視のコラボだ。行きたい訳がない。語気も粗く拒絶するローズマリー。
「まあ、そう言うと思ったがね。後で除け者にされたとか気分を悪くされると困るからな、一応聞いてみただけだ。……アローにゃまだ荷が重いし、チームを送り込むことになるか」
 この話のためにローズマリーを呼び出したのは、今回関わっている3人のエージェントのうち最も年嵩の人物だ。事件の現場になったためにしばらく警察がうろついていた彼の店も、今は警察も去って静かになっている。だからローズマリーも堂々と店に出入りできる。もっとも、出入りはもともと裏口を使っているのだが。
 わざわざローズマリーを呼び出してこんな話をしたものだから、ローズマリーに行けと言うのかと思いつい語気を荒げたが、行かずに済みそうだと分かりほっとする。そのついでに、ふと気になったことを聞いてみた。
「前から思ってたんだけど、チーム、あいつらは何者なんだい?まるで訓練でも受けてるような動きだけど」
「ああ、訓練を受けてるのさ。プロジェクトジュエルっての、やってるだろ?窃盗技術の向上を目指して窃盗技術者の育成と新たなる窃盗技術の開発って言う」
「平たく言えば泥棒の育成だろ」
「ああ、そうだな。で、連中はその育成された泥棒って訳さ」
「アローってのもそうだろ」
「ああ。だが、チームはあいつみたいな他の連中とはいろいろと事情が違ってな。……お前だから話してやるんだが、あいつらの裏には神代がいるんだ」
「神代?催眠術の神代かい?」
 ローズマリーが使っている催眠術の基礎を編み出し、さらに技術を向上させるために手ほどきまでした人物、神代。人格をも破壊するほど強力な催眠術の使い手である神代は、ストーンに技術を貸し与えている。莫大な報酬のためだ。モラルなど持ち合わせてはいないらしい。恐ろしい人物が恐ろしい催眠術を手に入れたものだ。
「ああ。アローみたいな連中は、やる気と技術を買われてスカウトされた連中だ。扱いは実質部外者。あんたと同じさ。プロジェクトが育成してる奴の中には未だにストーンの存在すら知らない奴もざらだ。そのくらい組織とつながりが薄いのが普通なんだ。だが、チームと呼ばれる連中はストーンの関係者だ。脱落した幹部候補、裏切り者、役立たず……そんな組織が不要と判断した連中だよ。能無しだが若さだけはまだ使える、そんな奴らを寄せ集めて再教育したのがチームさ」
「よくおとなしく再教育されて従ってるねぇ」
「そこよ。それが神代の噛んだところよ。チームの連中はもう完全に催眠術でコントロールされてる。にわか仕込みの催眠じゃねぇ、あれはもう洗脳だな。今じゃすっかり言われたことを忠実にこなすロボットだ。自分や仲間を人間だとも思ってないんじゃないか?だから必要があれば仲間でも躊躇なく殺すし、自分の命を投げ出すことも何とも思わないだろう。あいつらはもう、チームに入る前の自分が何をしていたのか、何者だったのかも覚えちゃいないだろうよ」
「そんなことにまで手を出してるのかい、ストーンってのは」
「ああ。さすがにこれにはストーンの中でも賛否両論出ているがね。総裁は組織が一枚板である必要はないとおっしゃって隙にさせているが。まあ、手放しで賛成なさっている訳でもないようだ」
「ふーん。でもさ、裏切り者とか幹部候補じゃ経験なんかないだろ。役に立つのかい?」
「だから寄せ集めてるのさ。組織にとっては切り捨てるだけの人間だからな、使い捨てる気満々だ。群れて、危なくなったら誰かが蜥蜴の尻尾になって切り捨てられる。誰かを犠牲にしてでも目的は果たす。それがチームだ」
「気持ちの悪い連中だねぇ……。でもまあ、あいつらの相手をさせるにはちょうどいいのかもねぇ」
「どうだか。で、森中って刑事とも渡り合って来たし、蟹屋敷で何があったのかも知っているあんたに詳しい話を聞いて対策を練ろうと思うんだが。カニ屋敷での話を聞かせちゃくれんかね」
「えー。あれを思い出せってのかい。あたしゃあれのせいでカニかまを見ても腹が立つし、テレビでカニを食ってるのを見るだけで怒りが込み上げてくるんだ」
「俺にもわかるぜその気持ち。豪勢な花咲ガニ尽くしなんかをアイドルやおもしろくもない芸人が自腹も切らずに食ってるのを見ていると腹の底から怒りが込み上げてる」
「あんたの怒りは誰かにカニをおごってもらえば収まるだろ。あたいのは訳が違うんだ。黙ってな」
 ローズマリーは思い出したくもないカニ屋敷での出来事を思い出しながら事細かに話した。
 話しているうちにローズマリーの胸にふつふつと怒りが込み上げてくる。エージェントは途中から必死にローズマリーをなだめながら話を聞かなければならなかった。
「大体の話は分かった。もうちょっと落ち着いて話してくれればもっとよく分かったかもしれんが。まあとにかく、警察に潜り込んでる仲間の報告を待って、対策を練ることにするよ。……まあ、いつまでもカリカリしてんな。組織の金でカニすきでもおごってやるから」
「カニはカニかまさえ嫌だって言ってんだろ!シラス干しも小さいカニが入っているから嫌になっちまったし……」
「えらいトラウマだな」
「おごるならエビにしておくれ」
「エビはいいのか」
「エビに罪はないからね」
「カニそのものにだってないだろ……」
 その一言でローズマリーの機嫌が少し悪くなったのを察したエージェントは、さっさとお茶を濁して帰っていただくことにた。

 その頃。そのカニ屋敷に蠍がお邪魔していた。
 蟹江氏が提示した蠍防衛の舞台はやはり蟹江邸のコレクションルームだった。森中警視が預かっていたスコーピオンを手に蟹江邸を訪れた。
 普通であれば警察に置いておくのが一番安全かもしれないが、相手はストーンだ。警察内にもスパイがいるかもしれない。そうなると決して安心はできない。警察内に置いておいて、むざむざ盗まれては警察の沽券にかかわる。そう言った意味でも蟹江氏の提案を飲むメリットは大きい。
 森中警視はコレクションルームの警備システム……と言っていいのか分からないが、例のトラップをつぶさに見たのは初めてだった。実によくできている。
 蟹江氏はさらに新作を披露した。先日は間に合わなかったさるかに合戦をモチーフにしたトラップ各種だ。キャンサーが盗まれてしまったが、作りかけで放っておく気にはなれず、完成させたそうだ。
 よくできた仕掛けに感嘆しきりの森中警視。しかし、このようなものを次々と作り出す蟹江氏は日ごろ何をしている人物なのだろう。何かの技術者か。
 森中警視は装置を一通り拝見し、そこにさらに森中警視の考えたトラップも追加することにした。

 スコーピオンが蟹江邸に行ったことは分かっている。だが、森中警視がそこで何をしているのかは掴めない。飛鳥刑事や佐々木刑事に聞いても細かいことは分からないと言う答えしか返ってこない。森中警視と蟹江氏しか、何をしているのか分からないようだ。
 警察内に侵入している立場として、ストーンにより精度の高い情報を提供しなければならないと言うのに。自分ばかりか、森中警視腹心の飛鳥刑事や佐々木刑事でさえ蚊帳の外に置かれた状況。どうすればいいのやら。
 とにかく、報告のふりをして森中警視のいる蟹江邸に入り込み、様子をこの目で見る。それが一番確実だろう。
 そのためには報告すべき情報が必要だ。幸い、報告できる情報はいくらでも持っている。だが、あまり重要な情報を与えてしまえば計画の成否に関わる。
 出すべき情報については熟考しなければならない。彼は他のエージェントと話し合い、出すべき情報を決めることにした。今回のプロジェクトリーダーである人物は、今は多忙だ。話だけを伝え、他の二人と話し合う。
 話し合いは彼らがプロジェクトのために使用しているマンションでいいだろう。自分と彼らの表向きの立場を考えれば、マンションを訪ねて話を聞くことには特に違和感を持たれることもないだろう。
「とにかく、あと一歩なんだ。まさかこんな面倒なことになるとは思わなかったが、ここを切り抜ければ今度こそプロジェクトは終了、クライアントも心置きなく我々の要求に応じてくれるだろう」
 この言葉を皮切りに会議が始まった。
 警察はまだクライアントが誰かを知らない。それどころか、クライアントである人物がこの件に関わることのできない人物だという確証も得ており、無関係であることは覆しようがないと考えている。今は警察もそのクライアントである人物の情報は集めていない。興味を示していない人物に関する情報など、急いで持って行くのは不自然だ。せっかく警察の目が逸れているのだ。わざわざ余計なことを伝えて目を向けさせるる必要もない。
 警察の目を無関係な誰かに向ける方がいい。
 かといって、露骨なデマを流す訳にも行かない。裏付けも取らずにいいかげんな情報を捜査に持ち込んでは潜入しているエージェントの立場が悪くなり今後の活動に差し障る。
 話し合いの結果、今回のプロジェクトに関わるエージェント、つまり自分たちの存在について仄めかすことにした。どうせプロジェクトが完了すれば被害者面をやめて雲隠れする。その直前で自分たちに目が向いてもどうということはない。
 その囮情報を引っ提げて森中警視のいる蟹江邸に向かうことになった。
「とにかく、あのローズマリーがもう二度と関わりたくないと言うほどだ。慎重に事を進めなければならない。何とも厄介なことだ」
 その言葉に頷き、マンションを出る。そのときから彼はまた、ストーンのエージェントではなく警察官の顔になった。

 蟹江邸は飛鳥刑事と佐々木刑事が担当していたので細かい構造は朧げにしか分からないが、コレクションルームの場所くらいは分かる。
 伊沢刑事はコレクションルームの扉のノブに手をかけた。カニの形のドアノブだ。どう握っていいのか対処に戸惑う。適当に鷲掴みにして回そうとした。そのとき、唐突に手首に痛みが走った。ドアノブの蟹の二つのハサミが手をがっちりと挟み込んでいる。罠だ。
「足音がしたので見に来たら君か、伊沢君。扉に触れてはいけない、危険だ」
「遅いです!遅すぎます警視!」
 ハサミはドアノブから手を放すと離れた。手首に跡が付いている。
 ひとまず手筈どおりに報告を行った。ゾディアックのうち、人から人の手に渡って来たもののうちいくつかは特定の人物の手に渡っていると。その人物はどうやら全てを集めようとしていたようだが、人の手を渡って行くうちにどんどん値段が釣り上がっていたことと、どんなに金を積まれても手放さないと言い張る所有者の存在が原因で集めることを諦めなければならなくなった。
 この話はオークションで落札したがすぐに手放した人物から聞いたものだという事にした。実際、この依頼を持って来たストーンのクライアントが自力でゾディアックを集め始めたとき、オークションで落札した人物を巡り歩いていたときに聞いた話だった。
「そのどうしても手放さなかった人物というのがどうも蟹江氏らしいんですよ」
 この話を聞いたクライアントは自分でも蟹江氏と交渉しようとしていた。だが、あっさり断られた。話どおりで、最初から期待もしていなかったが。
「そうか。しかし、蟹江氏も今は手が離せない状態でなぁ。私も蟹江氏も、アイディアがどんどん出てね。素晴らしい仕掛けが続々とできあがっているよ」
 喜々として言う森中警視。
「へぇ。少し見せてもらえませんかね」
 放っておくとどんどん仕掛けが増えて行きそうだ。そうなるとそれに比例して手出ししにくくなることだろう。早めに情報を伝えて実行に移させた方が良さそうだ。そのためにも中がどうなっているのかを見ておきたい。
「残念だが、それはできないよ伊沢君」
「なぜです」
「その扉を開けて中を覗くだけでも大変な思いをすることになる。悪いことは言わない。やめておきたまえ」
 実際、扉を開けようとしただけでドアノブに酷い目に遭わされた訳だが。
「そ、そんなにですか」
 多少酷い目に遭っても少しくらい中を見て報告した方がいいのだろうか。そんなことを考えていると、蟹江氏が何かを持って現れた。何かと言っても、どう見ても蟹だが。
「おや。もう完成しましたか」
 森中警視が声をかける。
「ええ。早速設置しますから、離れて離れて」
「おうおう。こんなところにいたら酷い目に遭う。さあ、離れようか」
 森中警視に引かれて伊沢刑事は扉の前から離される。いつの間にかコレクションルームの扉が開かれ、蟹江氏が中に入ろうとしていた。蟹に手を挟まれた様子はない。しまった、どう開けるのかをよく見ておくべきだった。
 森中警視について行くと、工作室と言う所に入っていた。名前の通り、旋盤や溶接器具など、さまざまな工具や作業機械が置かれている。蟹江氏はこの手の仕事をしている人物なのか。
 機械のほかには大小さまざまの蟹が置かれている。作りかけのものが多い。この蟹が仕掛けのベースになったりするのだろう。入口のカニ型門扉など、この屋敷に点在するカニオブジェもここで自作したものが多そうだ。蟹工室と言うことか。
 森中警視は自身が製作中の仕掛け作りの作業に戻った。
「見るならそこのゴーグルをかけたまえ」
 かにさんサングラスを指しながらそういう森中警視。その森中警視もカニっぽい溶接マスクを装着した。大の大人がする格好ではないと思う。
 森中警視が作っているのは蠍型の仕掛けだ。
「ここにはカニのための素材はいくらでもある。サソリも足やハサミが流用できるから作るのに苦労しないよ」
 バチバチという溶接の音に混じって森中警視の声が聞こえた。
「随分慣れた手つきですね」
「趣味で兵器や戦車のレプリカを作ったり、修理をしたりしているからね」
 伊沢刑事は森中警視がそんな趣味を持っていたとは初耳だった。自宅を見たら確実に引くだろう。
 そうこう言っている間にも、サソリの仕掛けがある程度できあがって来た。足元のペダルを踏むと、そのサソリがくいくいと尻尾を振る。まさかあそこから毒矢でも撃つのではあるまいか。或いは実弾でも飛び出すのでは。
 こんなのが続々と出来上がって仕掛けられるのでは、のんびりしてなどいられない。
 伊沢刑事は急いでチームを動かすように伝えるべく屋敷を飛び出した。

「そうです、今こうしている間にもトラップは増えているんです。早く行動を起こさないと厄介なことになる」
「ふむ。分かった。どのような罠があるのか分からずじまいなのは残念だが、そのような状況だということが分かっただけでも収穫と言えるか。とにかく、即刻チームを向かわせることにしよう」
「あ。そういえば一つだけ私も引っ掛かった罠が。ターゲットのある部屋の扉のドアノブは開けようとすると手を挟んできます。それだけ用心した方がよいかと」
「ドアノブが挟んでくる……?」
「カニですから」
「ふむぅ。まあいい、伝えておこう。警備の方は?」
「門の前とエントランスに二人ずつです」
「思ったより手薄だな」
「危険なので警官を配置していないのかも知れません」
「そうか。報告ご苦労」
 報告を受け、すぐさまチームが動きはじめた。

 露骨に怪しい作業車が蟹江邸の前に停まり、露骨に怪しい連中が飛び降りてきたのを見て、門前と玄関前の警官が駆けつけてきた。催眠ガスを浴びせてやるには持って来いだ。
 倒れ込んだ4人の警官を踏み越え、正面から悠々と侵入するチーム一行。
 後は森中警視と蟹江氏。この二人は作業室だろう。伊沢を名乗り警察に潜入している構成員の情報を頼りに作業室に向かう。外での騒ぎを聞き付け廊下に出てきた森中警視と鉢合わせる。出会い頭に催眠ガスを浴びせて眠らせる。そして、作業室にいた蟹江氏も眠らせた。
「無能なサルどもが徒党を組んでやってきたか!だが、母ガニを殺された子ガニの怨みのように、沢ガニを殺された私の憎しみは、私のかわいい子ガニ達が晴らしてくれるだろう……。苦しめ!この屋敷に踏み込んだことを後悔するがいい……!貴様らの肉体はカニのハサミによって切り刻まれ、心はサソリの毒のような屈辱に蝕まれるの……だ……!ぐふぅ……」
 薄れ行く意識の中、蟹江氏は最後の力を振り絞り、そう言い残した。
 目的の品のある部屋が危険な仕掛けで溢れかえっていることは先刻承知だ。脅しのつもりなら今更、もう警戒はしている。それにしても気味の悪い一言だ。
 これで全員を眠らせた。だが、チーム到来を警官や森中警視が仲間に伝えて応援を呼んでいることも考えられる。のんびりしてはいられない。
 早速コレクションルームに向かう。
 扉。これだ。話にあった危険な扉だ確かにカニのドアノブが取り付けられている。こいつが挟んでくるのだ。扉にはさらに、手書きの『さるかに合戦番外編、はじまりはじまり〜』と言う紙が貼られている。なんだこれは。
 プロテクターグローブを装着したメンバーが解除に挑む。カニのドアノブを掴み回してみる。カニのハサミがその手に襲いかかる。だが、グローブのお陰で痛くも痒くもない。
 どうやらこのノブはただ回すだけではこのハサミの罠が起動するだけでドアは開かないようだ。足がレバーのように動かせる。これを特定の組み合わせで動かせばロックが解けるようだ。
 足はそれぞれ前後に動かせる。前、後ろ、そして動かさないすなわち真ん中。その3通りが8カ所。つまり3の8乗、6500以上の組み合わせがある。片っ端から調べてなんかいられない。錠前と同じ、力業で分解するのが一番だ。
 カニの甲羅……カバーを外し、中の機構部分を露出させる。その状態でカニの脚を動かしてみると中でどう動いているのかがよく分かる。正しい組み合わせを見つけるのは難しくなかった。
 扉を開く。ここからはどんな仕掛けが待っているのか分からない。
 メンバーの一人がガスマスクを外した。中が可燃性のガスで満たされていることも考えられる。異常な臭いがしないかのチェックが必要だ。警察一般人が相手なのでそこまではしないと思うが、致死性の毒ガスの危険もあるので全員はマスクを外さない。
 マスクを外したメンバーは、すぐさま異常な臭いを感知した。有毒なガスという訳では無さそうだが……一言で言ってしまえば、臭い。
 それはうららかな春の日、陽気に誘われて町から離れ緑の中をドライブしているときに時折窓から飛び込んでくるあの臭い。農家が近くにあることを感じさせるローカルの臭い。
 聡明な読者諸君はもうその犯人にお気付きだろう。さるかに合戦では土間に潜み、猿に踏まれて転ばせる地味な役目ながらインパクトのあるキャラだが、そのヨゴレのイメージのためか文献によっては存在を抹消されていることもあるアイツ。
 牛の糞である。
 牛の糞の臭いがこの狭いコレクションルームに充満していた。
 メンバーはすぐさまマスクを装着した。
「どうした、毒ガスか」
 仲間の問いかけに彼は短く答えた。
「臭い!」
 それだけで十分だった。他に言葉は要らなかった。
 彼らはマスクを着けたままコレクションルームに踏み込んだ。だが、すぐにマスクを外さなければならなかった。
 牛の糞は臭い盛りの発酵中だった。発酵により生み出された熱はこの部屋の気温をとても蒸し暑くしていた。水蒸気も発生して湿度もとても高い。マスクのゴーグルがたちまち曇ったのだ。
 臭くても前が見えないよりはましだ。皆マスクを外し、その臭いに顔を歪めた。
 臭いの出所はコレクションルームの真ん中に鎮座するプールだった。茶色いものが溜まっている。ただの牛糞では無さそうだ。妙にてらてらと光っている。
 とにかく、避けて通ればいい。プールの横を通ろうとしたとき、メンバーは息を飲んだ。
 カニだらけだった。壁に据え付けられた棚がカニで埋め尽くされている。カニグッズのコレクションルームなのだから至極当然のことなのだが、この中のどれがトラップになっているのか分かったものではないのだ。
 前にいたメンバーが進み出したことで、後ろのメンバーも部屋に入ることができるようになった。最後のメンバーが室内に入ったとき、入り口の扉が閉まった。別に不思議なことが起こった訳ではない。オフィスなどにもよくある、手を放すと勝手に閉まるドアだ。
 そのドアが閉まると同時に、頭の上で何かの蓋が開く音がした。その次に聞こえてきた音、それは。
 ぅぁーん。ぶーんぶっぶぶぶーん。
「蜂だ!」
 誰かが叫んだ。少なくとも蠅や蚊の羽音でないことはその力強さで分かる。さるかに合戦のイメージを徹底的に植え付けられた今、この状況で羽音を聞けば、蜂としか思えないのである。
 メンバーの一人が激痛を感じた。刺されたらしい。あっという間にパニックになった。押し合い圧し合い。だが、身動きはあまりとれるわけではない。結局、バランスを崩してプールの方に倒れるしかないのだ。
 芳しいプールに顔面から突っ込むメンバー。
 プールに溜まっていたのは、牛糞と何かねばねばした液体の混合物だった。糊だろうか。発酵で生じた熱で異常なまでに温かい物体が、ねっとりとまとわりついている。簡単には落とせそうにない。
 尻を刺されたメンバーが思わず飛び上がり、そのままプールに入ってしまう。プールと言っても、深さはせいぜい30センチか。しかし、突っ込めば全身糞まみれになるには充分すぎる。
 よく見ると、飛び回っているのは蜂ではない。虻だった。牛の糞に紛れてきたものだ。だが、安心は出来ない。刺されたメンバーがいる通り、刺す虻のようだ。刺されても死にはしないが、痛い。
 刺してくるのは虻ばかりではなかった。気がつけば、コレクションの蟹に混じったサソリオブジェもしきりに尖った針を持つ尾を振り回している。これも刺していたのだ。森中警視の作品である。
 危険を感じ身を守ろうとしたのか、逆上したのか、合図も無しに催眠ガスのタンクを担いだメンバーがガスを噴射し始めた。それに気付いた仲間は慌ててガスマスクを再び装着する。一人、間に合わずガスを吸い込んでしまったものが居た。力尽き、プールの中に引き寄せられるように倒れ込んだ。糞で溺死しないように、慌てて助け出す仲間。虻は全滅したが、ガス隊員を褒める気にはなれなかった。

 早くもメンバーの心は折れ始めていた。心が折れきり、むしろ開き直ってしまったものもいる。だが、あまり糞まみれの手で大切なスコーピオンを触るわけにもいかない。
 まだ汚れていない、唯一の女性メンバーが慎重にスコーピオンのあるだろう台座に近づいた。
 台座の上には、やはり蟹のオブジェがあり、その腹の中にスコーピオンが見える。だが、迂闊に手を出せばどうなるやらだ。カニの隣で尻尾をこちらに向けているサソリの置物も何をしでかすやら。
 鼻をつまんでいた手を、ゆっくりとカニに近づけようとしたその時。予想もしない方向から衝撃を受けた。頭上から、何かが落ちてきたのだ。それは、臼だった。餅つきの臼。とは言え、発泡スチロールか何か、それほど重くない素材でできたもののようだ。臼は逆さまの状態で降り注ぎ、頭にズボッと被さった。それは実に深々と被さる。まるで虚無僧のようだ。
 その臼の中から、嫌な液体がこぼれでる。二層構造になっており、中に牛糞が入っていたのだ。これは糊ではなく、水で薄めたもののようだ。ゆるゆるである。汚れていなかった女性隊員の、顔も体も長い髪も糞の溶けた水で濡れそぼった。ショックのあまり、女性隊員はへたり込んでしまった。

 多くの犠牲は払ったが、スコーピオンを取り囲む仕掛けは一つ、また一つと減っている。ここでへこたれるわけにはいかないのだ。
 あとはスコーピオンの収められた、カニを模したコッファーと、それの左右に配置されたサソリ。これに気をつければスコーピオンは手に入る。
 このスコーピオンもダミーである可能性がある。手を出す前に本物かどうかをよく確認する。手を出してさんざんな目に遭ってから偽物と分かったのでは割に合わないからだ。古びた質感、宝石の輝き。本物のようだ。
 スコーピオンは、八本の脚を踏ん張りうつ伏せになったカニの脚の下にある。取り出すには頭の方から手を差し込まなければならないだろう。そのとき、いかにも待ち構えてますよと言わんばかりに構えられたハサミが襲いかかってくることは必至だ。だが、グローブを装着して手を入れるほどの隙間は空いていない。
 挟まれても耐えることを覚悟して手を突っ込むしかない。いや待て。せっかくこれだけの人数で来ているのだ。数を活かさない手はないだろう。
 仲間を呼び、カニのハサミを押さえさせた。手を突っ込もうとすると、案の定カニのハサミが動こうとした。だが、押さえているので動かない。ざまあみろだ。
 サソリの存在を忘れていた。
 二匹のサソリは尾を振り上げ、メンバーの顔目がけてアンタレスのように赤い毒液を放って来た。
 目に入り、激痛が走る。かかった皮膚も焼けるように熱い。呻きながら背後に倒れ込んだ。
 牛糞プールに尻から浸かる。漏らしてないのに尻が糞まみれだ。
 顔にかけられた毒液が口の中にも入って来た。ぴりっと辛いラー油の味がした。
 手を汚さないように立ち上がり、再びトライだ。今度はサソリの尻尾も押さえさせ明後日の方を向かせた。スコーピオンをがっちりと掴む。長かった。時間にすれば数分しかかかっていないが、とても長い時間ここで過ごしたような感じがした。
 一度はほっとしたが、もう少し、ここにいなければならないようだった。
 スコーピオンを取り出そうとしたが、引っ掛かって手が出ない。カニの腹の下は手を通すのがやっと。一緒にスコーピオンまでは通らないのだ。
 どうすべきか。ワイヤーを縛り付けるか粘着テープで張り付けて引っ張り出そうか。
 そのとき、頭の上から歌声が聞こえて来た。
「うーんこー♪ウーンコまーみれーのおばかなおっさーるさーん♪カニかーらおーにぎり取り上げることもできないおーまーぬーけーなお猿はウーンコまみれで臭い臭いー♪」
 小馬鹿にした歌を浴びせられ、メンバーは切れた。
「脚をぶった切れ!」
 工具で脚を切り始める。最初からこうすればよかったのだ。邪魔なカニは取り外され、もはや阻むものは何もない。今度こそ、ついにようやく、スコーピオンが手に入った。
 とにかく、とっととここを出よう。臭い。もっともここを出ても既に前身糞まみれだ。臭いはそうそう取れないだろう。
 メンバーは扉を開けた。そのとき、背後で何かの音がした。ガラガラと何かが崩れる音と、ボトボトと言う何かが落ちた音。
 振り返ったが、何が起こったのかは分からなかった。もう少し時間が与えられれば気付いたかもしれないが、そんな暇は与えられなかった。
 別にふんで韻をふんだ訳ではないが、次の瞬間部屋の中央にふんぞりかえるように鎮座していた牛の糞だまりが、ぶんと音のしそうな勢いで宙に踊り、逆さになってメンバーたちの頭上に降り注いできた。
 ねっとりとした、発酵中の温かい牛糞を頭から浴びた。あまりのことに踏ん張りが利かなくなる者、興奮し憤怒の表情を浮かべる者。反応はそれぞれだが踏んだり蹴ったりだ。そろそろいい加減にしろという声が聞こえて来そうなのでやめる。
 糞を頭から浴びたメンバーが感じていた温かさは発酵の熱だけではなかった。
 今までに、牛の糞はこれでもかというほど纏わり付いて来た。臼も落ちて来た。虻だったが、蜂っぽいものにも刺された。
 そう。まだ、栗が出ていない。囲炉裏の中で熱々になって弾けて飛んでくる栗が出ていなかったのだ。
 先程の音とともに栗が、正確には栗のようにペイントされた丸い小石が降り注いでいたのだ。もちろん、熱々である。
 ただ触っただけでも熱い焼け石だが、ねばねばした牛糞糊で体に密着したまま半固定になる。大慌てで一つ一つ手でもぎ取っていかなければならない。
 ようやく全てを引き剥がし終わり人心地つくメンバーたち。熱さでスコーピオンを取り落としてしまっていた。糞まみれの焼け石を両手で引き剥がしたので両手とも糞まみれだ。だが、スコーピオンも既に糞まみれになっていた。こんなものを持ち帰ったら上にどやされるが、致し方ない。こんな警備システムを配置した蟹江氏と警察が全て悪いのだ。
 部屋を転げ出ると、そこには催眠ガスが切れて目を覚ました警官や森中警視が待ち構えていた。
 森中警視はチームのメンバー達を見、指差しながらこう言った。
「えんがちょー!」
 激怒したメンバーが催眠ガスのノズルを向けると、森中警視達は一目散に逃げ始めた。
 全身糞まみれになったメンバーたちは、せめてもの報復として、体についた牛糞を蟹江邸の壁や床になすりつけてから退却した。
 もっとも、コレクションルームで糞まみれになった犯人が歩き回るのをちゃんと想定して、床も壁も簡単に剥がせるシートが貼り付けられている。蟹江邸なのに壁にも床にもカニの姿がないのがその証拠だ。
 蟹江邸から飛び出し、作業車に戻る。車で待機していたメンバーはメンバーの状態に困惑した。目を覚ました森中警視が呼び寄せたのだろうパトカーのサイレンが近づいてくる。混乱している暇は無い。全員乗り込んだことを確認し、作業車を発進させる。
 背後に回転灯をつけた黒塗りの覆面パトカーの姿が見えた。逃げたチームを追っていた森中警視も通りに姿を現した。何か長い物を担いでいる。
 覆面パトカーに乗っていたのは飛鳥刑事と佐々木刑事だ。森中警視はすぐさまに覆面パトカーに乗り込んだ。
「今の車を追ってくれ!」
「合点!」
 佐々木刑事は覆面パトカーを発進させた。ところで、さっきから気になることがある。
「何すか、この……なんかすっごいド田舎を走ってるときのような臭いは」
 聞かずにはいられない佐々木刑事。
「気にしてはいけないぞ」
 森中警視はそう答えた。佐々木刑事は仕方なく窓を閉め始める。一方、森中警視は窓を開け始めていた。そして身を乗り出してドアに腰掛け、いわゆるハコ乗りの体勢で長い筒状の物、バズーカを構えた。よい子は真似をしてはいけない。
「こ、この町のど真ん中でぶっ放すんですか!?」
 慌てる飛鳥刑事。
「なあに、爆薬は入っていない!もっと近寄ってくれ!」
 こう言い出したら森中警視は犯罪者並に止まらない。
「警視、あの車臭いっす!」
「構うな!」
「構いたいっす!」
 そう言いながらも距離を詰める佐々木刑事。
 前の車の中から何かを投げて来た。道路にばらまいている。覆面パトカーががくがくと揺れ出した。それと同時に森中警視もバズーカをぶっ放す。砲弾は作業車に命中した。砲弾は弾け、茶褐色のゲル状物質をぶちまけた。
 命中ぶりに森中警視は満足げだが、車は走れなくなってしまった。佐々木刑事は車を降りてタイヤを確認する。走り方やハンドルの取られ方で予想はしていたが、案の定パンクしていた。その原因はタイヤに深々と突き刺さったままになっている。
「今時マキビシかよ……。忍者か、あいつら」
「ローテクを侮ってはいかんぞ、佐々木君。最新の機器も水をかければ壊れるし、鳴らないラジオもひっぱたけば案外直ったりするものだ。昔ながらのからくり仕掛けだって侮ったものではない。マキビシなど、白昼に歩いているなら足元に気を付ければあっさり避けられるが、車だからこそ効果的な足止めとなる」
 カニやサソリのからくり仕掛けに触れた森中警視はそれを実感していた。様々な仕掛けがあったが、いわゆるハイテク物はほとんどない。皆、ただのからくり仕掛けだ。
「しかし、彼らがこんなに早く蟹江邸にスコーピオンがあることを嗅ぎ付けてやってくるとは。知っている人物はそんなに多くはないだろうに。これは思ったよりも身近にストーンのスパイが潜り込んでいるようだな」
 森中警視はひとりごちた。
「スコーピオンは無事なんですか?」
「いや。諸事情により遠巻きにしか確認はできていないが、防衛システムは破られていたよ。……だが、諦めるにはまだ早いぞ。むしろまんまと我々の罠に引っ掛かってくれた。コレクションルームに仕掛けられたトラップなど、それを紛れさせるための小細工に過ぎん。さて、辛勝をかみしめる彼らのところに、辛くも『勝った』という認識が間違っていることを解らせるために……乗り込もうか」
 そう言い、森中警視は唇の端を吊り上げた。

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