Episode 5-『Star seekers』第2話 恐怖のカニ屋敷
リブラが強奪された翌朝、太平洋上を日本に向けて航海していた川中氏の貨物船に賊が入り、ピスケスが奪われたとの連絡が入った。
賊は近辺の島から闇に紛れて小型ボートで接近したと思われる。どの様にしてかは分からないが数人が甲板に侵入し、そこから船長室まで向かったようだ。甲板から船長室までの途中の廊下で船員が数名眠らされているのが他の船員により発見された。最初の連絡の時にはまだその船員たちが目を覚ましていないため、詳しい話は聞けなかった。
彼らが目を覚ましてからさらに連絡があった。賊は黒いボディスーツを着けた一団で、少なくとも3人はいたという。眠らされた船員は、出会い頭に何かガスを浴びせられ、そこで記憶が途切れているらしい。催眠ガスを使っているようだ。
まさか海上でも狙ってくるとは。こればかりは聖華署だけではどうしようもない。
早くも残ったゾディアックは拓磨氏のタウラス、村上氏のジェミニ、蟹江氏のキャンサー、石原氏のレオ、そして光浦氏のスコーピオンの5つになってしまった。
ローズマリーら犯人側も、警察が対策を立ててきたことで今までのやり方でという訳には行かなくなった。今までは不意をついて無警戒のところに入り込めばよかったが、そう容易くは行かない。
だが、ローズマリーはそんなのおかまいなしである。幸い、今はまだ警察の手が分散している。この程度の見張りを突破することは容易い。
夕方。ゾディアークのある各所の警備状況を見回っていた飛鳥刑事たちに無線連絡が入った。
これから回る予定になっていた光浦邸の警備を担当しているチームからの定時連絡がないと言う。飛鳥刑事たちは光浦邸に急行した。
光浦氏は警察にもスコーピオンの隠し場所を明らかにしていない。ただ、犯人たちを欺くために邸内に警官を配置している。
光浦邸に到着した。門前には警官が二人、何事もなく警備に当たっている。飛鳥刑事は車から降り、声をかけた。
「定時の連絡がないので来てみたんけど……異常は?」
「異常はありません!」
敬礼しながら元気よく返す警官。悪びれた様子はない。忘れていただけのようだ。
「定時の連絡はちゃんと入れてくれよ……」
飛鳥刑事はそのついでにここの様子を見て行くことにした。
「光浦さーん」
玄関を開け、屋敷の中に呼びかけるが応答はない。訝りながら屋敷の中を警備する警官のもとに向かう。
邸内の一室に通じる扉の前に、警備の警官が立たされている。この部屋には金庫が置かれ、スコーピオンこそ無いものの、それなりには貴重な品が収められている。
「光浦氏は?」
「外出中です!」
「外出って……どこに?」
「本人しか分からない場所であります!」
「行き先くらい聞いておけよ……」
こいつらはだめだ、と飛鳥刑事は思った。
外で車の停まる音がした。そして、ほどなく玄関から光浦氏が屋敷に帰ってきた。
「おや、刑事さん。どうされました?」
「警備の警官が定時連絡を忘れていたようで……。ところで、どこにお出掛けだったんです?」
「お出掛け?私がですか?」
光浦氏はきょとんとしている。
「ええ。ほら、車でどちらかに行かれてたじゃないですか」
飛鳥刑事は光浦氏が手に持つ車のキーを指し示す。光浦氏はしばらくそのキーを不思議そうに見つめていたが、急にその表情が強ばる。そして、光浦氏はすごい勢いで外に飛び出して行った。訳が分からないまま、飛鳥刑事もその後を追う。
光浦氏は今し方降りたばかりの車に飛び乗った。
「おう、どうした飛鳥。何かあったのか」
慌てて飛び出してきた光浦氏とそれを追ってきた飛鳥刑事を見て訝しんだ佐々木刑事が声を掛けてきた。
「俺もよく分からないんですが……」
光浦氏の車がガレージから飛び出してくる。
「あの車を追ってください!」
「お、おう!」
よく分からないまま佐々木刑事は車に飛び乗り、発進させた。どういう事だ、と飛鳥刑事に尋ねるが、その飛鳥刑事もどういう事なのかまだ分からない。
光浦氏の車はすっかり暗くなった道を海に向かい走って行く。よく分からないまま佐々木刑事の運転する車もそれを追った。
二台の車が辿り着いたのは市街からそう離れていない砂浜だった。夏の盛りには海水浴に来る人で溢れ、佐々木刑事もよくナンパに訪れるビーチだが、この時期のこの時間には人影は無い。海岸に打ち寄せられたワカメばかりが黒い影を作っている。
光浦氏は車を飛び出し、ビーチを走り始めた。そのビーチのど真ん中には穴が掘られていた。その穴を見ると、光浦氏はがっくりと膝を落とした。
「これは?」
「ここに埋めて隠しておいたんですよ……。砂漠の殺し屋スコーピオンらしく、砂の中にね」
飛鳥刑事は急ぎ署に連絡を入れた。
そこに隠しておいたことは警察にも言っていない。飛鳥刑事たちも今初めて知ったくらいだ。ここにスコーピオンを埋めたということを知っているのは光浦氏本人のみ。
光浦氏によると、リビングでテレビを見ていた時、警官が来客ですと言いながら一人の女性を連れてきたという。
以前この屋敷にローズマリーが入った時も、光浦氏ははっきりとその顔を見たわけではないので、ローズマリーの顔を覚えているわけではなかった。それに、変装までしなくても、女性であれば化粧一つでだいぶ印象を変えられる。ましてや警官が連れてきた相手がローズマリーだとは思いはしないだろう。
すっかり油断していたところに、ローズマリーお得意の催眠術をかけられた。ローズマリーに言われるまま、スコーピオンの隠し場所へと案内し、自ら掘り出して手渡してしまったという。
玄関を見張っていた警官二人も、同じように催眠術をかけられてローズマリーの思うままに動いてしまった。
警官によると、一人の身なりのいい貴婦人が道を尋ねたいと声をかけてきたという。
「あのあばずれが、いくら身なりを整えても貴婦人はありえねぇだろ」
佐々木刑事のツッコミが入る。とにかく、その貴婦人ぶったあばずれはメモ用紙に書かれた地図を指し示し道を尋ねてきたという。その地図をよく見ようとしたところ、上から煌めく宝石の粉がはらはらと落ちてきた。そのまま催眠にかけられ、光浦氏のところへ案内させられたという。
そんな話を聞いているところに、連絡を聞いて駆けつけた森中警視たちの車が停まった。
飛鳥刑事は今し方聞いた話を森中警視に伝えた。森中警視は少し考え込む。
「……そうか。とりあえず、ここは私たちに任せて、二人はまだ回っていない所有者の家に行ってくれ。残っているのはどこだね?」
「えーと。タウラスの拓磨氏とキャンサーの蟹江氏ですね」
そこに、森中警視と一緒にやってきた伊沢刑事が声をかけてきた。
「拓磨氏の方は私が行きましょうか?先日行ったばかりなので話が早いと思います」
森中警視は少し考える。
「ここに刑事が大勢いても仕方ないと思いますが」
伊沢刑事の一言に、森中警視は頷いた。
「そうだな。ここの様子を把握したら私も後を追う。では、頼む」
伊沢刑事と、飛鳥刑事、佐々木刑事は敬礼して各自車に乗り込む。
「またあのカニ屋敷か……」
佐々木刑事はため息混じりに呟きつつ、車を発進させた。
カニ屋敷の様子は相変わらずであった。いや、夜のカニ屋敷は昼間にはない発見がある。庭のカニオブジェの目が光り、庭をライトアップしている。光る目はゆっくりと向きを変え、照らし上げる場所を変えている。
ここは特に変わった様子は無いようだった。もちろん、屋敷の有り様があまりにも風変わりであることはおいといてだ。
一応キャンサーの様子を確認したところで無線が入る。
「拓磨氏のマンションに賊が入ったそうです!」
「んだとぉ!?行くぞ、飛鳥!」
佐々木刑事と飛鳥刑事は覆面パトカーに飛び乗る。大急ぎで拓磨氏のマンションへ向かった。
飛鳥刑事と佐々木刑事が駆けつけたときには、既に現場にはパトカーが数台と、なぜか消防車が一台駆けつけていた。
話によると、小火とまでも行かないがわずかに火の手が上がり、住人から消防署に通報があったと言う。
拓磨氏の部屋に駆けつけると既に現場検証が始まっていた。
部屋の窓は派手に割られて砕け散り、ガラスが室内に散乱していた。そして、部屋の隅にある金庫は開かれている。
拓磨氏は湯上がりのすっきりした様子だった。賊は拓磨氏の入浴中に室内に侵入してきたそうだ。突然ガラスが割れる音がしたため、慌てて飛び出してきたと言う。
見てのとおり、賊はベランダの窓ガラスを破って侵入し、ガラスの音を聞いて驚き様子を見に来た夫人の目の前で悠々と金庫を開けて中からタウラスを奪い、また窓から逃走したと言う。夫人は怖くてただ狼狽えるばかりだったという。
部屋にはわずかに灯油の臭いが残っていた。犯人は屋上からロープを垂らし、そのロープを伝ってベランダから部屋に侵入。レオを奪った後もそのロープを伝い下に逃げた。そのロープには灯油が染み込ませてあり、ロープを降り切った犯人はロープに火をつけた。火はロープをたちまち灰にし、マンションの壁に一直線に煤の跡を残しただけですっかり燃え去ってしまった。恐らく証拠隠滅か。そのロープを調べたところで大したものは見つからないとは思うが念には念をということだろう。
「話を聞いていると、随分とあっさりと金庫を破られてますね」
飛鳥刑事の言葉に拓磨氏は小さく頷く。
「恐らく事前に番号を調べておいたのかも知れませんね。相当組織的で大掛かりな犯罪をやってのける集団のようですし、想像も及ばない方法で金庫の番号を割り出したのでしょう」
まあ、そう考えておくのが一番無難なのだろうか。
その後の現場検証でも大した痕跡は見つからなかった。
これで、早くも残されたゾディアックは三つになってしまった。
一夜明けて翌日。このペースで行くと、今夜も犯行は行われるだろう。残るは三つ、数が減ったので警備もしやすい。とは言え油断はできない。現に今まではほとんど何もできないまま奪われてしまっている。
昨日の反省点は、まずスコーピオンが奪われたことでそちらに人員を回し過ぎたことにある。盗まれたものの事後処理よりもまだ盗まれていないものの守りを固めるべきだった。あっさりと陽動に乗る形になってしまった。
それに。
森中警視にはひとつ気になることがあった。昨日の犯行はいずれも手際がよすぎるのだ。
そんなことを考えていたところに、伊沢刑事がやってきた。ゾディアックについての調査を頼んでおいたのだ。
「何か分かったかね」
「ええ。まずゾディアックの由来ですが……」
ゾディアックは海外で作られたものだ。それが日本にあるのはもちろん資産家が買って持ち込んだためである。
聖華市の古い資産家で赤星幸一郎と言う人物が、大正時代にイギリスで手に入れて日本に持ち込んだ。赤星氏はその自分の名前と結び付く赤い星を抱いたスコーピオンを特に気に入り、他のものを含めて大切にしていた。だが、赤星家は徐々に没落し、ゾディアックも人手に渡ることになった。
「で、ゾディアックをオークションに出品した人物については分かったかね?」
森中警視の問いに、伊沢刑事は少し間を置いて答えた。
「荒木建一という人物です。赤星家からゾディアックを買い取った人物の息子ですね。荒木の父親は企業家で財を成していましたが、ゾディアックを手に入れてからすぐに、そのゾディアックの入手に関して詐欺として告発、立件され逮捕されています。それにより信用を失った会社は倒産し、息子もすべてを失い、父親の資産を売却し、今はどこに行ったのかも分かりません。飛鳥君が聞いてきた話にゾディアックは呪われているという話もありましたが、確かに呪いでもかかっているような話ですね」
「結局出品者の行方は分からずじまいか」
森中警視は、この出品者が手放したゾディアックを再び手に入れようとしている可能性も考えていた。今回明らかになった話では、その可能性は消える訳でも、確かになる訳でも無い。
伊沢刑事には出品者の行方を中心にさらに調査を続けるように指示を出した。
後は。
森中警視は残りのゾディアックの警備状況を確認に行っている飛鳥刑事と佐々木刑事を待った。数がとても少なくなっており、すぐに帰ってきた。
キャンサーの蟹江邸は警備の警官を増やしている。問題のキャンサーが収められているカニのオブジェの仕掛けとやらは相変わらず未知数だ。
とりあえず気になった点と言えば、浴室が泡風呂で、もちろん泡を吐くのはカニだということが分かったことだが、警備とは一切関係ない。あの屋敷は様子を見に行くたびにコレクションの自慢をされるのでうんざりする。
レオの石原氏の店は店内を自社の警備員で固め、店の外を警官が固めている。店はいつも通り営業している。ただ、物々しすぎて客が来るかどうか分からない。ただ、日頃からそんなに客の来る店ではないようだ。ここを警備していた警官たちも、今までに数人しか客を見ていない。
ジェミニの村上邸も警官を増員し警備に当たっている。焼け石に水だろうが、金庫の周りに古新聞の山が積み上げられている。カムフラージュになるとは思いにくいが、時間稼ぎくらいにはなりそうだ。
「飛鳥君、佐々木君。君達にはひとつ頼みがあるんだ。警備についてだが……」
そう言いながら、森中警視は辺りを気にする素振りを見せた。そして、少し考えてからメモ帳に何かを書き、その一枚を破って二人に差し出す。
「指示がこれに書いてある。車に乗り込んだらこの通りにしてくれ」
やけに用心深い森中警視を訝りながらも、二人は敬礼してそれに従った。
「いよいよ、今日で最後だね」
ローズマリーは時計を見て立ち上がるとそう呟いた。
今日は残りも少なくなり、警備も厳しくなっている。ローズマリーには何の問題も無いのだがアローとチームが心配だ。特にアローはローズマリーのように単身。しくじり、捕まるようなことになれば取り返しかつかない。プロジェクトジュエルで育成中のサポーターに過ぎないのも気になる。
チームについても得体が知れない。話によれば、ローズマリーよりストーンに近い集団であるらしい。ストーンは今までこのような実行犯グループを抱えることは無かった。かつてよりの密輸や盗品取引に、最近になって窃盗の依頼仲介ビジネスが加わったばかりだ。この方針転換にどんな意図があるのかなど及びもつかない。いずれにせよローズマリーはストーンの顧客の一人に過ぎない。詮索したところでどうなる訳でもない。
ローズマリーはターゲットの元へと向かった。
ローズマリー最後のターゲット、キャンサーのある蟹江邸へ。
その日、口火を切ったのはレオのある石原氏の商店だった。
にわかに店内が騒がしくなった。外で見張っていた警官たちにはその犯人の侵入に気付けなかった。当然だ。犯人は最初から店内にいたのだ。警備員に扮装して。
店内にはレオが他の商品と一緒に陳列されていた。店内に警備員も立たされていた。特にレオ周辺には重点的に配備されていた。
そこに一人の巡回警備員がやってきた。そのとき、その警備員の周囲に煙が巻き起こった。催涙ガスや催眠ガスの類いではない、ただの煙幕だったが、警備員を混乱させるには十分だった。
レオの一番近くにいた警備員は、犯人が煙の中から飛び出しその手が迷う事なくレオをつかみ、再び煙の中に飛び込むのを見たことを証言している。
警備員たちは視界の利かない中犯人を追おうとしたが、ただでさえ過密なほどに配備されていた警備員たちはお互いぶつかり合い、つかみ合いを演じてしまった。そして警備が手薄になっている場所を選んで犯人は屋上に駆け登り、そこに用意しておいたグライダーで裏手の川を渡り、対岸に停めてあった車で逃走した。警備員が屋上に着いたときにはグライダーが川を渡るところだったと言う。
そのとき、飛鳥刑事と佐々木刑事は小百合を含む制服警官数名とともに、聖華市のある場所に待機していた。
そこはキャンサー、レオ、そしてジェミニのある三カ所の中央付近だった。
レオが奪われたと言う連絡を受け、飛鳥刑事は警官たちに移動の準備を指示する。佐々木刑事は覆面パトカーのエンジンに火を入れた。
「なんだい、この悪趣味な屋敷は……」
カニ屋敷である蟹江邸を目にしたローズマリーは思わず顔を引きつらせた。
とにかく、とっとと仕事を終わらせよう。ローズマリーは門の前に立つ警官に近づく。不審な女性の接近に警官たちもローズマリーに歩み寄ってきた。充分に近づいたところで催眠術を掛けてやるとあっさりと催眠に落ちた。
「全くちょろいもんだねぇ。この屋敷にいる警官は何人だい?」
「全部で8人であります!」
敬礼しながら答える警官。
「あと6人か。どこにいるんだい?」
「エントランスホールに二人、コレクションルームの前に二人。後は巡回が二人であります!」
「そうかい。それじゃあまずはエントランスの二人を呼んできてもらおうかしらね。不審な人物数人が門の前に来ているから応援を頼むとでも言えば、ついてくるだろう」
「了解であります!」
敬礼をし、警官は屋敷の中に駆け込む。エントランスの二人がすぐにその警官に連れられて飛び出してきた。
「こんにちは。あたいがその不審人物だよ」
そう言いながら、駆けつけた警官の前で宝石の粉をさらさらと落とす。警官の目が虚ろになり、催眠にかかっていく。
「ご苦労だったね。眠いだろう?そこのベンチで一眠りするといいよ」
ローズマリーに言われるまま、警官二人は庭の隅にあったカニの形のベンチにふらふらと近寄り座り込むと居眠りを始めた。その警官たちを尻目に、ローズマリーは悠々と玄関を開けてカニ屋敷に入り込んだ。
「なんだい、これは……」
玄関に入ってまず目に付いたのは、決して広くも無いエントランスに鎮座する黄金のカニだ。よく見るまでも無くメッキが剥がれかかっており、高いものでは無さそうだ。尤も、普通の人ならこんなものために出そうなどとは思うはずも無い金額だろうということは容易に予想できるが。
とにかく、奥に進む。まだ巡回の警官がいる。近づく気配をしっかりと探りながら慎重に歩みを進める。
前から話し声が近づいてきた。ローズマリーは近くの扉を開けてその中に身を隠した。
「ん?何だ、今の音は」
「そこら辺だと思うぞ」
二人の警官が近づいてくる。扉を開けたところで催眠を掛けてやる。手ぐすねを引いて待ち構えつつ、扉の向こうの気配を探る。
そのとき、ローズマリーの周囲にも何かの気配があることに気が付いた。
ぎくりとしながら鋭い動きで振り返るローズマリー。背後に人影は無い。そう思ったとき、何かを踏んだ。パリッ、と言う感触が足の裏に伝わってくる。
足元を見ると、小さなカニが潰れていた。目線を少し先に送ると部屋の床一面にサワガニがはい回っている。そう、ここはサワガニの飼育繁殖室だったのだ。
「ぎょわああぁぁ!ああああぁぁぁー!ああぁぁー!ああぁぁー!」
ローズマリーは言葉にならない喚き声を撒き散らした。
「誰だ!」
喚き声で誰かがいることに確信を持った警官が部屋に踏み込んできた。ローズマリーにはもはや催眠術など掛けている余裕は無い。何よりも精神的に。
「お前はローズマリーだな!」
「おい、俺たちだけで大丈夫か?」
「とりあえずここに閉じ込めて応援を呼ぼう!」
それはとんでもないことだ。こんな気味の悪い部屋に閉じ込められてたまるか。
ローズマリーは踵を返そうとした警官一人の後頭部に回し蹴りを決めた。警官は倒れ込み、カニのように泡を噴いた。ローズマリーは着地のときにまた一匹カニを踏んだ。残るもう一人にも当て身を食らわせ、よろけたところで引き倒し、絞め落とした。ローズマリーの尻の下でカニがもぞもぞと動いていたが、ローズマリーが警官を落とし、立ち上がろうとしたときにバリッと言う音とともにおとなしくなった。
騒ぎを聞き付けて警官が一人駆け寄ってきた。ローズマリーは鳥肌の立った腕を撫でながら心を落ち着け、催眠術の準備をした。
「何があったんだ!」
警官が顔を出した。
「いいから持ち場にお帰り!」
「は、はいっ!」
催眠をかけながら言うと、警官は慌てて引き返して行った。この警官はキャンサーの近くで警備している警官だ。この警官の後をついて行けばキャンサーのありかに案内してくれるだろう。
もう一人いるだろう警官を警戒しながら警官を追跡する。警官が二つ目の廊下の角に消えたとき、そのもう一人が声をかけた。
「どうした、何だった?」
「あれ。そういえば何だったっけ」
「おいおい……」
ローズマリーはそんなやり取りの最中に踏み入って行く。
「ん?何だお前は」
「ここが分かればあんたらに用は無いよ。二人とも寝てな」
「はいぃ」
ローズマリーの催眠術により、警官は二人ともその場に倒れ込み鼾をかき始めた。
扉を開けると、そこはカニであった。カニ天国というべきか、カニ地獄というべきか。屋敷中カニだらけだが、この部屋は一段とカニが凝縮されている。
大阪から持ってきたのかと思うような巨大なカニの看板を尻目に、部屋のどん詰まりを目指すローズマリー。聞いていたとおり、カニのオブジェらしいものがある。他にも似たような物はゴロゴロあるが、これだろう。これでないと困る。
腹を開き、キャンサーの姿を拝めたときは心からほっとした。
後はこれを戴いて帰るだけだ。ローズマリーはキャンサーをむんずと掴み、持ち上げた。そのとき手首に激痛が走った。見ると、ただのオブジェだと思っていたカニが、そのハサミでローズマリーの腕をがっちりと挟んでいるではないか。しかも、かなりの力で。
あまりの痛さに声も出なかった。思わずローズマリーはキャンサーを取り落とした。するとハサミは開きローズマリーは解放された。
だが、それで警報ブザーらしいものが鳴り始めてしまった。らしいものと書いたのは、ブザー言う感じの音ではなかったためである。これは蟹江氏が飛鳥刑事にさるかに合戦と言われて着想を得、にわか仕込みで拵えたものであった。本当であれば臼や栗や蜂、牛の糞などと言ったさるかに合戦で猿を袋だたきにするメンツをそろえた罠にしたかったのだが、時間がなかった。結局は蟹江氏が自分で吹き込んだカセットテープが大音量で再生される物で落ち着いたのだ。
『カニからおにぎりを奪おうとするお前は猿だ。お前は猿だ!猿め!猿め!さーるさーるお前のおけつはまっかっかー』
挟まれた腕の痛みを堪えながら、どうしたものかと考えるローズマリーだが、耳をつんざくような音量で流れるこのテープに考えるどころではない。スピーカーは天井にあるらしい。手近な所にあった金属のカニの置物を投げ付けては見たがびくともしなかった。
耳を塞ぎながら辺りを見渡すとマジックハンドというかマジックカニバサミを見つけた。それで何とかならないかとキャンサーを持ち上げるが、持ち上げたとたんにオブジェのハサミにがっちりと掴まれてしまう。
頭の上からは、さるかに合戦で猿がたどった運命を、諭すような口調で延々と投げかけてくる。これでは眠らせている警官が目を覚ましてしまうし、そうなったらこの声が邪魔で催眠もかけられない。急がないと。
どうやらキャンサーを持ち上げて重さがかからなくなるとハサミが発動するようだ。それならば。
ローズマリーは手に持っていたマジックカニバサミで台座を押し付けながら素早くキャンサーをつかみ取った。
一瞬で油汗まみれになり、鼓動も呼吸も激しくなったが、ハサミはローズマリーの腕を掴むことはなかった。
「はは。ははははは!ざまあみろー!」
思わず高笑いがでるローズマリー。だが、悠々と部屋を出ようとすると、扉が開かなくなっていることに気が付いた。押しても引いても開かない。
まさか。ローズマリーはオブジェのハサミが掴んでいるカニバサミを掴み、台座を押さえて邪魔なハサミを開かせつつキャンサーを置いて、ドアを開けてみた。開く。どうやらこのハサミと連動して扉に鍵がががるらしい。それならばと扉を開けて閉まらないように置物を重しにした。すると、今度はオブジェのふんどしが開かないばかりか、またカニオブジェに挟まれてしまった。
ハサミはすぐに離されたが、ローズマリーはブチギレてカニオブジェの大理石の台座に回し蹴りを入れた。当然びくともせず、足まで痛くなっただけだった。
こんなに凝った仕掛けだとは思わなかった。キャンサーを手に入れる正しい方法は、キャンサーと何かそれなりに重いものを入れ替えることだろう。
ローズマリーは、さっきから天井に投げ付けたり、重しにしたりとお世話になっている置物をそこに置くことにした。
重すぎて挟まれたりしないだろうか。置物を置く瞬間そんな不吉な考えが頭をよぎり、また脂汗が出た。不安は取り越し苦労に終わったが。
自業自得で痛む足を引きずりながらコレクションルームを後にする。部屋の前の警官たちか寝苦しそうにしている。カニさんやめて、猿はいやだ、などと寝言を言っている。もう少しで起きるところだった。
廊下を歩いていると館の主人と思しき男と出っくわした。
「お前が犯人かぁー!返せ!サワガニたちの命を返せぇー!」
いきなり飛びかかってくる蟹江氏。
蟹江氏は警報ブザーのようなものの音に驚き部屋を飛び出した。そして、サワガニ飼育繁殖室の扉が開いていることに気付いた。覗き込むと二人の警官が倒れており、とてもかわいがっていたサワガニが5匹も潰れて死んでいることに気付いたのだ。
間違いなくこれはキャンサーを盗みに侵入してきた泥棒の仕業だと確信し、怒りに燃えながらここでローズマリーと鉢合わせたのだ。蟹江氏はその怒りをローズマリーにぶつけた。
その声はローズマリーの耳にしっかり届いた。その声は先程までコレクションルームで大音量で頭の上から浴びせられていた声と同じだった。コレクションルームでの出来事が瞬時にローズマリーの脳裏にフラッシュバックする。気が付くと、ローズマリーは先程オブジェの台座を渾身の力を込めて蹴り痛めた足で、蟹江氏の横っ面に回し蹴りを叩き込んでいた。
ますます痛くなった右足を引きずりながら屋敷を後にする。目の前にはカニのあしらわれた門扉が立ち塞がっている。
「サソリも嫌いだけどカニも嫌いだよっ!」
そう言いながら、今度は左足でその門扉のカニに蹴りを入れた。あまり慣れない動きに、軸足だった右足を捻ってしまった。
ローズマリーと鉢合わせる直前、ブザーらしきものを聞き付けた蟹江氏は警察に一報を入れていた。何があったか、とても取り乱している様子だった。話を聞いていると、殺人事件でも起きたようだが、どうも人ではなく死んだのはカニのようなのでひとまず落ち着かせることにした。
その上で、警備しているはずの警官がベンチで居眠りしているという話を聞き出すことができ、恐らくはローズマリーであろうと推測できた。
森中警視は残っていた警官を、残るジェミニの村上邸にまだ異変がないことを確認した上で村上邸に向かわせた。
さらに、待機していた飛鳥刑事たちの別動隊も村上邸に向かわせた。
村上邸では、金庫のある部屋と、蟹江邸のように門前ならびに玄関前に警備の警官が配備されている。
昨日は最初に起こった犯行に人員を集中させ過ぎ、ほかの守りが甘くなってしまい、そこを突かれる形になった。ただでさえ多くの人手を割けるわけでもない。そこで、森中警視は既に盗まれてしまった物に人を回すのはひとまず後回しにし、残ったものの守りを固める方針にしたのだ。
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