Hot-blooded inspector Asuka
Episode 4-『胎動』

第3話 怪人大暴れ

 急がせた甲斐があり、地下室の扉の合鍵が早めに出来上がった。
 古い鍵と言うこともあって、造りも簡単でさほど手間取らなかったのも助けになったようだ。
 店員達が見守る中、鍵が鍵穴に差し込まれる。
 長らく使われていないせいかやや固かったが、鍵は回り、かちりと音を立てた。
 緊張した面持ちで飛鳥刑事はドアを開けた。そして、中を覗き込んで拍子抜けした。部屋の中はがらんとし、人影はおろか物一つ無い。
 ドアの横にあったスイッチで電灯をつける。しばらく経ってから蛍光灯が点灯した。何本かは点滅し、中には暗いままの物もある。
 蛍光灯の光に照らし上げられた室内には、やはりなにも見られなかった。コンクリートが打ちっぱなしになった床、やはりコンクリートがむき出しの壁。
 調べる物もない。壁や床を見ただけで、もう何も見る物はなくなった。
「何もありませんね」
「だな」
 飛鳥刑事は上を見上げた。天井と言うべきものはなく、鉄骨がむき出しだ。その上にあるのは上の階の床だろう。何本かパイプが見える。蛍光灯もそう言った鉄骨にチェーンが溶接され、直接取り付けられている。
 あまりにも殺風景だった。使われていないというのは確かなようだ。
 とりあえず地下室には元通り鍵を掛け、鍵は他の鍵と一緒に保管してもらうことにした。
 1階の店舗に戻ると、学校から帰ってきたところらしい恵が椅子に座っていた。
「地下室、開けたの?」
 恵は不安そうな目で刑事達を見ながら問いかけてきた。
「何もなかったよ。見てみるかい」
 恵は飛鳥刑事の言葉に怯えたような表情で激しく首を横に振り、二階に駆け上がっていった。
「そんなに怖がらなくてもいいのに」
 飛鳥刑事はぼそっと呟いた。

 その後、これと言った動きがないまま数日が過ぎた。
 この出来事のことを忘れかけ始めたその時、オケラ屋は再び怪奇な出来事に見舞われたのである。
 通報を受けて飛鳥刑事と佐々木刑事、そして森中警視と制服警官数名がオケラ屋に駆けつけた。
「刑事さん、地下です!」
 店長に促され、地下に降りていく刑事達。
 そこにはいくつかの人影があった。だが、何よりも目につくのは薄暗い地下の廊下の蛍光灯の光を受け、怪しく輝く金色の大きな『凶器』であった。
 地下にいたのは更田に栗本。そして、軽井沢と見慣れない女性。
「私の妻の小夜子です」
 彼女は比留間の妻だった。そして、比留間の妻の小夜子が今回の被害者であるらしい。
「小夜子さんが地下に降りて、しばらくしたらものすごい音がしたんです。慌ててみんなで駆け下りたら小夜子さんが倒れてて、それが……」
 栗本はそう言い、凶器を指さす。
「一体何があったんです?」
 飛鳥刑事は小夜子に尋ねた。
「私、用を足しにトイレに降りてきたんです。そして、出てきたところで誰かの人影を見たような気がするのは覚えてるんですが、そこからは何も覚えてなくて……。気がついたら頭の上にそれがのっていたんです」
 とても釈然としない証言である。
 どういう状況なら、こんなものを頭に乗せて気がつかずにいるのだろう。
 何よりも不思議なのは、凶器……いや、そう言っていいものだろうか。とにかく、小夜子の頭に乗っていたと言うもの。
 直径1メートルはあるだろうか。新品らしく光り輝く、金色の美しい金ダライである。
「もう、何がなんだか分からないんですが」
 飛鳥刑事は考えるのをやめた。そんな飛鳥刑事に森中警視が力強い一言をかける。
「その謎を解き明かすのが我々刑事の役目だ」
 もっともなことを言われているような気もするが、とても釈然としない。
 とにかく、事件なのかどうか、その出来事が起こった時のことを詳しく聞いてみることにした。

 そもそも、小夜子がこの店にいる理由とは。そこから話が始まった。
 ここしばらく軽井沢の体調が優れなかった。なぜか。軽井沢を不幸な出来事が襲ったからである。ある日、仕事が終わり帰宅した軽井沢はいつものように風呂に入ろうとした。だが、浴槽に浸かった時に異変に気付いた。下半分が水だったのだ。体に湯をかける時は上の熱い部分を桶で汲んでかけたので気付かなかったのだ。
 慌てて浴槽から飛び出そうとして、足をすべらせて浴槽に全身を突っ込んだ上、その時足までつって動けなくなってしまった。溺れることはなかったが、季節は冬の初め。冷たい水は容赦なく軽井沢の体温を奪い、軽井沢は風邪をひいてしまった。
 翌日、お茶と鼻を交互にすすりながらそのことを話す軽井沢の相手をしていた野尻にも風邪がうつり、その次の日の昨日には二人ともダウンしてしまった。そんな二人の代わりに店を手伝いに来ていたのが小夜子だった。
 手伝いには来たものの、ここ最近は店もそれほど忙しくはない。小夜子は比留間や更田、栗本に風邪がよくなってきたのでがんばって出勤してきた軽井沢の5人で店でだべっていた。
 そんな中、ふらっとトイレに行った小夜子だが、比留間がずいぶん長いトイレだな、と気になり始めた時に地下からけたたましい音と悲鳴が聞こえてきた。
 全員が大急ぎで地下に降りてみると、地面に倒れた小夜子と、例の金ダライが目についた。
 小夜子によると、トイレのドアを開けたところまでは覚えているが、そこからの記憶が飛んでおり、気がついたら頭の上に金ダライがあり、驚いて倒れてしまったという。
「上から落ちてきたというわけではないんですか」
「えと……分かりません」
 飛鳥刑事の問いに小夜子はかぶりを振る。
「分からない、とは?」
「突然のことでもう何がなんだか分からなくて……。てっきり天井が落ちてきてて、このまま死ぬんだと思いました」
 とにかく、そのくらいパニックに陥ったと言うことだ。

「比留間さん。この金ダライは店にあったものですか?」
「いいや、私は見たことありませんね」
 確かに、金ダライは真新しい光沢に覆われている。このために新たに用意されたものだろう。近所の金物屋などに最近このタライを売った憶えがある人がいないかどうかの確認を急がせた。結果から言えば、この金ダライは東京の大きな金物工場で作られているもので、この近所ではあまり取り扱われておらず、数少ない取扱店でも最近売れたという話はない。その一方で、全国的に広く取り扱われている商品でもあり、流通経路などからの洗い出しは難しいという結論に辿り着いた。
 とりあえず、現場をよく調べてみたが、特に変わった点は見当たらなかった。天井にもおかしな仕掛けをした跡などは見当たらない。
「うーん。あとは例の地下室くらいですかね。比留間さん、念のために地下室の様子を見たいと思うのですが、鍵を貸していただけますか」
「ええ、ちょっと待ってください。鍵を取ってきます」
「あ。それなら俺も同行します」
 飛鳥刑事は現場を森中警視と佐々木刑事に任せて比留間店長の後をついていく。
 鍵は2階の鍵置き場に他の鍵と一緒に置かれている。
 はずだった。
「あれ?おかしいな。地下室の鍵がない」
 比留間はもっとよく探してみるが、やはり見つからない。
「誰かが持ってるのかなぁ」
 仕方なく下に降りると、こんな訳の分からないことに付き合わされた鑑識を残して関係者達は店舗に来ていた。
「誰か地下室の鍵がどこにあるか知りませんか?」
「あれ?ありません?」
 軽井沢が今日初めて声を発した。かすれたひどい声だ。
「俺は知りませんよ」
「私も」
 更田が言うと、栗本も後に続く。
「鍵があるのを最後に確認したのはいつですか?」
 比留間は少し考えてから答えた。
「四、五日前かなぁ。せっかくだからみんなで地下室を覗いてみようってことになって開けたのが最後ですね。その時いたのが私と更田君、栗本君、そして軽井沢君。結局その時は『うわー何もないねー』『うん、何もない』とだけ言ってすぐに閉めました」
「その『うわー何もないねー』『うん、何もない』というのは一体誰が……」
「覚えてません」
 比留間はきっぱりと言いはなった。
「飛鳥君。残念ながらそのことがこの出来事に関係しているとは思えないぞ」
 森中警視に突っ込まれてしまった。
 とにかく、その日、4人は何もないことを確認して、とっとと鍵を閉めてしまった。その直後、鍵は比留間の手によって先ほど探した鍵置き場にしまわれたはずだった。
 なお、この時野尻も店にはいたが、あまり興味がないのとちょうど昼メロの真っ最中で、テレビにかじりつきながら煎餅にもかじりつき、ついでに茶をすすっていたという。
「そのドラマは一体……」
「さあ。興味がないので知りません」
 比留間はきっぱりと言いはなった。
「飛鳥君。残念ながらそのことがこの出来事に関係しているとは思えないぞ」
 森中警視に同じ言葉でまた突っ込まれてしまった。
「野尻さんが鍵を持っていったと言うことは考えられませんか?」
「うーん。あの人、こう言う物に徹底的に興味がないからなぁ。確かに野尻さんは2階にいることが多いから一番持っていく機会は多いでしょうけど、なにぶん動機が」
「あっ」
 栗本が突然声を上げた。
「そう言えば。この間地下室を覗いた時からメグちゃんの様子がおかしかったです。多分野尻さんから私たちが地下室を覗いたことを聞いたんだと思うんですけど、例のお化けのことを怖がってて……」
 その言葉を聞いて、飛鳥刑事はピンと来た。
「まさか、恵ちゃんが地下室をもう誰も開けられないように鍵を隠したなんてことは……」
「ああ、ないとは言えませんね」
「うーん……。それなら野尻さんの家に行ってそこら辺を訊いてみるべきか……。しかし、万一関係なかった場合、濡れ衣は子供には酷すぎるし、風邪もうつされたくないし……」
 飛鳥刑事は考え込む。そこに比留間が口を挟んできた。
「そこまでするくらいなら、私の家から鍵のスペアを取ってきた方が早いでしょう」
「スペアがあるんですか」
「ええ。二本ほど」
「早く言ってください」
 飛鳥刑事の力が抜けた。

 早速、比留間店長に鍵を取ってきてもらうことにした。念のため、飛鳥刑事も同行する。
 比留間の自宅は店から車で5分と掛からないところだった。鍵は茶の間の小箪笥にあった。鍵を取ると、他に用もないのでさっさと店に戻る。
 戻った飛鳥刑事は、早速その鍵を使い地下室を開けた。
 この間覗いた時と何一つかわらない、殺風景な部屋がそこにあった。
「うー……。もう、何がなんだか。本当にこの部屋関係あるのかなぁ……」
 ため息をつく飛鳥刑事に森中警視が声をかけてきた。
「しかし、鍵がなくなったというのは大変興味深い。それに、以前更田氏が被害にあったのも、今回比留間氏の奥方が被害にあったのも地下だ。この地下には何かあるとしか考えられん。比留間さん、この地下室の鍵のうち一本を警察に預けてもらえませんか」
「ええ、いいですよ」
 店長はあっさりと了承した。
「とりあえず、この金ダライも証拠品として預かっておきます。今のところ大した被害は出ていませんが、今後重大事件に発展する可能性もありますので何か気付いた点があったら連絡を」
 それだけを告げ、金ダライと地下室の鍵を持ってオケラ屋をあとにした。

「シャンデリアだ」
 署に帰る車内で森中警視が低く呟いた。
「なんです?」
 後部座席で金ダライと仲よく並んだ飛鳥刑事が聞き返す。
「今回の出来事は間違いなく『オペラ座の怪人』の中でシャンデリアが落ちるシーンだ」
 怪人からの忠告を無視し、支配人達はオペラを開演する。その夜、トップスターだったカルロッタの歌声はヒキガエルのような醜い声になり、客席の上にあったシャンデリアが落下。クビになっていたジリーの代わりに来ていた女性が圧死する。
「カルロッタ役の軽井沢の声が枯れ、ジリー役の野尻夫人の代わりに来ていた女性がシャンデリアがわりの金ダライの直撃を受けた。まさにシナリオ通りに進んでいる」
 いくつかの出来事は偶然だろうが、その偶然さえも味方につけて、店員達にオペラ座の怪人のステージを演じさせているのだ。
「シナリオがオペラ座の怪人をモチーフにしていることが分かっているのだから、次に起こることも予測できると言うことだ」
 今後、シナリオは怪人とクリスティーヌ、そして恋人のラウルを中心に動く。ラウルの目の前で怪人の声と語らっていたクリスティーヌが消えたあと、クリスティーヌは帰ってくるが様子に変化が現れる。連れ去られて怪人の正体を見たクリスティーヌは全てをラウルに打ち明ける。だが、それを見ていた怪人は再び強攻策に出る。舞台の上で歌っていたクリスティーヌを、衆人環視の前で消し去ってしまうのだ。
「クリスティーヌ役が栗本なら、今後は彼女の身に何かが起こるはずだ。恐らく、犯人の最終的な目的は栗本なのだろう。署で情報を洗い直したら、今後君たち二人には栗本の監視と情報収集に当たってもらいたい」
「よし、聞き込みは任せろ。飛鳥は妙子ちゃんのお守りだ」
 佐々木刑事は勝手に決めた。もっとも、この割り振りがもっとも良さそうではあるのだが。

 店長から預かった地下室の鍵は、飛鳥刑事が肌身離さず持ち歩くことにした。飛鳥刑事はオケラ屋の店の向かいの喫茶店で張り込み、ショーウィンドウ越しに中の様子を窺う。
 その合間に時間つぶしがてら、森中警視から借りたオペラ座の怪人の本に読みふける。
 読んでみると、確かに今回の事件のシーンがフラッシュバックするシーンがある。間違いなく今回の一連の事件はこの話になぞらえて起こっている。
 この日は結局、来客が数人あっただけで店は閉められた。全員がバラバラと帰宅の途につく。
 何か起こるとすればこの店だろう。何事もなく栗本が店をあとにしたのを見届けたところで飛鳥刑事は切り上げた。
 署に戻り、何も起こらなかったことを伝える。佐々木刑事は聞き込みからまだ戻っていなかった。帰ってきたのはそのさらに1時間ほどあとのことだった。
 栗本の近所の人に、栗本について尋ねて回ったのだが、特に近所の人から恨まれたり嫌われたりする要素はなく、良い印象を持っている人が多いことが分かった。
「とりあえず、近所での怨恨の線はないッスね。学生時代に遡るか、あるいは変質者による歪んだ愛情か……ってなところじゃないスか?」
 佐々木刑事の言葉に森中警視は頷いた。
「この事件が完全なまでにオペラ座の怪人を再現するのなら、怪人はヒロインを愛し、自分のものとするために連れ去る。自分を報われぬ恋に落ちた怪人に見立て、怪人は掴むことの出来なかったヒロインとの愛を掴んで見せようという思いがあるのか。……栗本の過去の恋愛遍歴でも漁った方が良さそうだな。明日はまず栗本本人からその話を聞き出してくれ。それから、私はもう一度この目で例の地下室をよく調べてみようと思う」
 とりあえず、明日の捜査の方向性は決まった。

 翌日。早速森中警視と飛鳥刑事、佐々木刑事の3人はオケラ屋に出向いた。佐々木刑事は2階の事務所で栗本に話を聞くことになった。
 2階に行くと、今日は野尻も出勤していた。マスクをしている。もちろんファントムのマスクではなくガーゼのマスクだ。
「風邪、大丈夫ッスか」
「ああ、まだ本調子じゃないのが残念だけどねぇ、あんまり喋ると喉が痛くなるんだよ。あんまり話しかけないでおくれよ。あたしゃ大丈夫だけど恵に風邪がうつってねぇ。今日は恵が寝込んでるよ。まったくタチの悪い風邪だったらありゃしない。あの頑丈なタカちゃんがひくような風邪だから分かる気もするけどねぇ」
 タカちゃんとは軽井沢孝子のことだ。それにしても、喋ると喉が痛くなるから話しかけるなという割にはよく喋る。
 こんな調子で話しかけられても困るし、色恋沙汰の話は聞き耳を立てられると話しづらいだろう。佐々木刑事は事務所の隣にある給湯室に栗本を連れ込んだ。
 男と二人っきりでこんな所に来ると、相手が刑事でも口説かれるんじゃないかと身構えてしまう。まして、佐々木刑事の第一声がこれだ。
「おたく、彼氏とかいるの?」
 栗本は思わず身構えてしまう。そして、これまた思わずこんな事を言ってしまうのである。
「います!」
「あそ。やっぱりあの最初の被害者の更田君?」
「えと。……は、はい、そうですっ」
 少し躊躇ったが、栗本はそう答えた。
「付き合ってどのくらい?」
「えと。えと……1年くらいです」
 本当は付き合っていないのだが、話を合わせないといけない。
「その前に付き合ってた人は?」
「高校の時に部活の先輩と。先輩が卒業して自然消滅しちゃいました。先輩、大学で別な彼女見つけてて……」
「そんじゃどちらかって言うとその先輩の方が悪いなぁ。怨みと掛かってたりしないでしょ?付き合ってた人はそれだけ?」
「そう……ですね」
「一方的に好かれてて、振った相手とかいない?」
 栗本もだんだん、この質問が自分を愛憎絡みで恨んでいる人がいないかどうかを調べているだけだと言うことに気付き始めてきた。なんとなく気まずくなる。
「振った相手はいませんね。先輩と付き合ってる間はかなり堂々と付き合ってたので、他の男の人が寄ってこない感じでした。あとは私は分からないです」
「変な奴にじっと見つめられてたりとかそう言う経験も特にない?」
「ありません」
「こんな所かな。捜査にご協力ありがとうございます、っと。何かあったら警察にガンガン言っちゃってね」
 聞き込みは終了した。
 部屋を出ると、野尻はマスクを外してお茶を啜りながらテレビを見ていた。昼前の芸能ゴシップ満載のワイドショーだった。

 その頃、飛鳥刑事は森中警視に連れられて地下室をくまなく調べているところだった。
 くまなく調べるにせよ、何もないところだ。壁を調べるか、床を調べるか。上にあるパイプの類は脚立でも持ってこないと手が届きそうにない。
 調べるところなんかあるのか、と思いながら、森中警視が床をしげしげと見つめているので飛鳥刑事は壁を調べる。叩くと、コンクリートが薄いところもあるらしく、空洞の音の所とつまった音の所がある。だが、だからどうしたというのだろう。
「何かありますか?」
 飛鳥刑事は森中警視に聞いてみた。
「ないな」
「ですよね」
「何もないのはおかしいと思わないかね」
「え?」
「上を見たまえ。何がある?」
「鉄骨とパイプ。蛍光灯。あとはクモの巣くらいですかね」
「長らく使われていなかったせいか、パイプも柱も埃まみれでサビが浮いている。だがこの床にはおかしなことに剥がれ落ちたサビも、虫の死骸や抜け殻も、目立った埃も落ちていない。どういうわけだね?」
 言われてみればその通りだ。
 この部屋の扉は長らく閉まっていたが、虫くらいは入ってきていそうなものだ。現に、天井にはクモの巣がある。だが、床はまるで掃除でもされているかのように綺麗だ。
「誰かが掃除したんでしょうか?何のために?」
「それは分からないが、長らく誰も立ち入らなかったはずの部屋がきれいに掃除されているというのは明らかに不自然だ。何らかの必要性があったから掃除をしたのは間違いない。やはりこの部屋には何かある」
「店長や店員たちにこの部屋の掃除をしたか訊いてきます!」
 飛鳥刑事は駆け出していった。そして、程なく店長を連れて戻ってきた。店長はしゃがみ込んで床をまじまじと見る。
「はあ。確かにずいぶんきれいですねぇ。二階の床の方が汚いかも」
 などとぶつぶつ呟いている。
「店長や店員に話を聞きましたが、掃除をした憶えはないと言うことです」
「部外者なのか、店員の誰かが嘘をついているのか……。とにかく鑑識を呼んで徹底的に調べた方がいいだろうな」
 程なく、鑑識課員が駆けつけて部屋を調べ始めた。
 その間、また店員への聞き込みを続ける。しかし、鑑識の捜査も聞き込みも大した成果はなかった。
 だが、佐々木刑事は微かな予兆を見逃してはいなかった。署に帰る車中で、こんな事を呟いたのだ。
「あの妙子ちゃんの様子がなんかおかしかったッスね。朝に比べて昼過ぎには元気がなくなってたような……」
 その後、まあ特に関係はないと思いますよ、と付け加えられたが、森中警視は少し考え込んでいたようだった。

 翌日、暇をみてまたオケラ屋に向かうことになった。寝込んでいた恵が学校に行ったので、帰りに寄ったところで「お化け」についての話をさらに詳しく聞いておきたいと思ったからだ。
 オケラ屋についた飛鳥刑事たちは、店の雰囲気がいつもと違うことに気がつく。
 原因はすぐに分かった。栗本が居ないためだ。昨日佐々木刑事が気にしていた栗本の変化が、形となって現れたと言うことだ。何のことはない、軽井沢から野尻親子にうつった風邪が、今度は栗本にもうつったのだ。
 その影響は他の人にも出ていた。若々しい栗本が抜けたおかげで店内のお喋りにも華やかさがなくなったほか、更田のテンションが低く、その辺が店内から活力の抜けた感じを醸し出しているようだ。
 なお、今日は忙しくないこともあって、比留間の妻の小夜子は手伝いに来ていなかった。
 やがて、午後のワイドショーの時間になると野尻が二階に上がっていき、軽井沢もそれにくっついていった。
 飛鳥刑事はなんとなく地下に降り、地下室を調べ始めた。
 すっかり男むさくなった店内には佐々木刑事が残った。元々佐々木刑事の守備範囲に収まる女性が居ないのでどうでもいいようだ。
「元気ねぇなぁ」
 その佐々木刑事は、すっかりテンションの落ちきっている更田に声をかけた。
「えー?そうですかねぇ」
 テンション低く答える更田。
「まあ、今夜見舞いにでも行っといてやれや。ああ、そう言えば家族と一緒に住んでるんだっけか、妙子ちゃん」
 佐々木刑事の言葉に更田はちょっと驚く。
「えっ、いやそんな。お見舞いに行くような関係じゃないですよ」
「付き合ってんだろ」
「付き合ってないですよ」
「照れるなよ。妙子ちゃんは付き合ってるって言ってたぞ」
 その言葉に一番驚いたのは更田だ。栗本が勢いでついた嘘で、そんな事実はないのだから当然だ。
 更田の驚きようを見て、佐々木刑事もなんとなく事情を察した。経験豊富な佐々木刑事は、栗本の言葉が自分を諦めさせるための発言であることを今更ながらに感じ取ったのだ。自分がナンパだと思われたことにちょっとブルーになる佐々木刑事。
「んじゃ別な人なのかな。今のは忘れてくれよ」
 佐々木刑事はとりあえず誤魔化すことにした。が、これはつまり栗本が誰かと付き合っていると言うことになってしまうわけで、更田の心は千々に乱れるのであった。

 そんなことをしている間にも、学校が終わって恵が店にやってきた。刑事たちの姿を目にした恵は、顔の半分を覆うマスクから辛うじて見える目元だけでも分かるほどに動揺を顕わにした。何せ、お化けの出る怖い地下室をあさっている人達なので、関わると祟りがあるのだ。
 しかし、そう思われていてもやはり聞くべきことは聞いておかなければならない。
 まずは鍵のことだ。地下室の鍵を知らないか、との質問に、恵は知らないと答えた。様子から見ても嘘をついているとは思えない。鍵について何か知っていても、スペアがあることはまだ知らないはずなので、自分達が持っている鍵をこれ見よがしにして揺さぶってみたが、やはりそれがどうしたのと言わんばかりだ。この話はこれ以上聞いても無駄のようだ。
 もう一度、地下室で見たお化けの話を詳しく聞いてみることにした。しかし、以前聞いた以上の話は出てこなかった。
 確かに、明らかに地下室が怪しい。だが、それ以上の手がかりが何も出てこないのだ。また、何か起こるのを待つしかない。

 そして、それはそんな中、まさにすぐさま起こったのだ。翌日のことである。
 その日のオケラ屋は店員全員が揃っていた。昨日休んだ栗本も、全快とは行かないが昨日ほどひどくもないので出勤してきた。その栗本が奇怪な出来事に巻き込まれたのだ。
 命には別状はない。だが、不審な人物を目撃した上、誰もいないはずの地下室に閉じこめられていたのだ。
 通報を受けて急行した刑事たちは、まず異様な光景を目にした。
 店員全員がマスクをしていたのだ。順番に風邪をひいた女性店員たちはもちろん、店長と更田もマスクをしていた。
「とうとう二人とも風邪にやられちゃったんですか?」
 飛鳥刑事の質問に比留間店長は苦笑いを浮かべながらかぶりを振った。
「いや、うつされたらかなわないので予防策ですよ。更田君もです。どうせお客さんあまり来ませんから」
 それはなんとなく納得がいった。一緒についてきていた森中警視は難しい顔で低く呟く。
「まさに仮面舞踏会のシチュエーションだ。怪人に連れられクリスティーヌが姿を消したとなればストーリーにもぴったりだ」
 飛鳥刑事にもその呟きが届いた。飛鳥刑事も、薦められて本を読んでストーリーを頭に叩き込んだところだ。うろ覚えながら、仮面舞踏会は印象に残ったシーンの一つである。
 クリスティーヌに呼び出され、仮面舞踏会に駆けつけたラウルは、クリスティーヌと共に『赤い死神』に扮した怪人と遭遇。逃げまどう中、ラウルはクリスティーヌと怪人の間に愛があることを知る。失意の中、クリスティーヌの楽屋に身を潜めていたラウルは、そこでクリスティーヌが怪人に誘われ、忽然と姿を消すのを目撃してしまう。
 そして。オケラ屋では店員全員がマスクをつけているという仮面舞踏会のようなシチュエーションの中、それは起こった。
 栗本は、何気なくトイレに立った。そして、そのままずいぶんと時間が経った。いつまで経っても戻らない栗本を心配し、軽井沢と野尻、そして更田の三人が地下に向かった。階段を下りたあたりで、異変に気がつく。どこからともなく音楽が聞こえるのだ。音楽は、地下室から聞こえてきていた。大急ぎで比留間を呼び、比留間の持っていた鍵で地下室を開ける。そこには、後ろ手に縛られた状態で意識を失った栗本が倒れていた。その傍らにはカセットプレイヤーが置かれ、音楽が流れていた。
 地下室の扉には確かに鍵がかかっており、その鍵は以前の鍵が盗まれて以来、比留間が持ち歩いていた。栗本がトイレに立ってから、三人が地下に向かうまで、比留間も店内にいた。そして、地下室の鍵が必要になり、比留間を呼びに行く。比留間も、半ば階段を覗き込むような状態で、その間10秒と経っていない。地下室は密室のようなものだった。もちろん、以前鍵が盗まれていることを考えれば、少なくとも一人にはこの部屋が密室ではないことになるが。
 だが、密室かどうかよりも重要なことがある。発見され、揺り起こされて無事が確認された栗本が、意識がはっきりした時に、その目に映った犯人の姿を思い出したのだ。
 栗本が、トイレに向かってから警察が来るまでの間のことを思い出せる限りで証言した。
「私、気味が悪いとは思いながらもトイレに入ったんです。手を洗っている時、何か物音を聞いたような気がしました。とにかく、早くお店に戻ろうとトイレを駆け出すくらいの勢いで出たんです。そしたら目の前の地下室の扉が開いてて、人影がありました。驚いて動きが止まっているうちにいきなり意識が遠くなって。でも、確かに人影を見たのを憶えてます。女性でした。真っ赤なマニキュアが爪に塗られていたのを憶えています」
 生憎、顔まではよく覚えていなかったが、それでも口元に塗られた真っ赤な口紅は記憶に残っていた。
 貴重な情報ではある。だが、これはまた、新たな謎を呼ぶことになるのは間違いなかった。

Prev Page top Next
Title KIEF top