Hot-blooded inspector Asuka
Episode 1-『堕天使のラブソング』

第29話 最後の大仕事

 映美は一人佇んでいた。
 今まで、盗んだ物を置いておいた、廃屋の一室に。
 今は、なにもない。
 ルシファーに盗まれたものは、すべてルシファー本人の手により返された。
 返されていないものはただ一つ。それを返せば、ローズマリーが奪ったあのスタールビーを除いて、すべて返されたことになる。そして、『ルシファー』はただの思い出になる。
 その、たった一つの物を返す踏ん切りがつかなかった。
 これを返してしまえば、ルシファーとして犯した罪は忘れられる。たとえ法的には消えなくても、映美の中から消すことはできるだろう。
 しかし、ルシファーとしての楽しい日々。それを消すことにもなる。まだ迷っているのだ。
 これを返せば、全て終わる。スタールビーのことはまだ気に病んでいるが、ローズマリーの仕業だ。
 ルシファーとしては、この小さな物を飛鳥刑事に返せば終わる。
 なのに、踏ん切りがつかない。
 まだ、飛鳥刑事のことを諦められないのだろうか。
 これを返せば、飛鳥刑事との思い出も全て、無に帰るかもしれない。
 怖いのかな。
 忘れられることが?
 まだ、飛鳥刑事のこと、心に残っている。
 誰も傷つけたくない。
 誰にも傷つけられたくない。
 遅いかもしれない。
 でも。
 飛鳥刑事……。
 映美はその最後の品を握り締めた。飛鳥刑事から奪い去った物。返したいのだろうか。返したくないのだろうか。
 映美には自分の心が分からなかった。

「迎えに来たぜ」
 004が来た。
 今日は決行の日だ。ローズマリー立ち上がった。
「修道院か。でかい仕事だね」
 ローズマリーが言った。ローズマリーも004も、いつになく厳しい表情であった。
「この街のシンボルか。まぁ、気楽に行こうぜ。端っからうまくいくとは思っちゃいねぇさ」
「でかい仕事ほど、あたいは燃えるのさ。報酬ははずんでくれるんだろ?」
 004の言葉にローズマリーは答えた。虚勢かもしれない。何せ、盗むものが修道院そのものだ。計画通りに行くのだろうか。
「とっとと終わらせて、次の仕事にかかるよ。あの警視さんのおかげで仕事の割に稼ぎが上がらないんだ。あたいにも意地があるからね」
 ローズマリーは004の車に乗り込んだ。

「修道院?」
 映美はイヤホンを耳に突っ込んだまま呟いた。
 盗聴器で聞いていたのだ。今日は仕事は休みである。朝からローズマリーの様子を探っていたのだが、いつになく落ち着かない様子だったので、注意深く聞いていたのだ。
「何をする気かしら……。これ、飛鳥刑事に教えたほうがいいのかな……」
 映美はしばらく考えこんでいたが、考えがまとまったらしく、着替えてアパートを飛び出した。
 近くの電話ボックスにかけこむ。受話器を手にとり、コインを入れる。そして、ダイヤルを回した。電話は最初のコール音でつながった。
「はい、聖華警察署」
 木下警部。声で分かったが、誰でもよかった。言いたいことさえ伝えられれば。
「ルシファーです。ローズマリーが海岸沿いの修道院に向かってます」
 それだけを、ゆっくりと言って受話器を置いた。
 映美は電話ボックスを出ると、海沿いの道を歩き出した。すぐにタクシーが見つかった。手をあげるとタクシーは止まった。相手が若い女性だからこそだろうか。
 映美はタクシーに乗り込み、行き先を告げた。
「あの修道院までお願いします」
 無愛想な運転手は無言のままギアをローに入れてゆっくりと車を走らせた。

 修道院についた映美は、修道院の庭にある植え込みの影に身を隠した。
 ローズマリーが来ているかもしれないが、まだ動きはないようだ。
 パイプオルガンの静かなメロディーが庭にも聞こえてくる。何も起こっていない証しだった。
 やがて、警察の車が次々と修道院の前に到着した。
 車から木下警部と森中警視が降りた。ぞろぞろと降りる警官の中には小百合の姿もある。
 警官達は周りを取り囲んだ。そのまま、動かない。
 10分ほどして、一台の覆面パトカーが到着した。
 飛鳥刑事と佐々木刑事が到着したのだ。運転していたのは木牟田警部。
 役者は揃ったのだ。
 木牟田警部は森中警視と木下警部に挨拶をするとそのまま車を出した。
 中から一人、先行した私服警官が戻ってきた。
「中にローズマリーらしい女性の姿を確認しました。香川が見張りについています。ローズマリーは礼拝堂の中で祈祷中の信者に紛れています」
 私服警官が木下警部に告げた。木下警部は頷いた。
「よし。私服警官は中に入れ。飛鳥と佐々木もだ。お前らは顔を憶えられているからな。できるだけ後ろのほうで待機しろ。気づかれるな。礼拝が終わるのを見計らって一斉にローズマリーにかかれ」
 木下警部の指示を受けて、私服警官と飛鳥刑事、佐々木刑事が修道院に入って行く。
 その背後で、木下警部が他の警官達に指示を出していた。
「他の警官達はこのまま、修道院の周囲を固めろ。何かあるまで動くな」

 パイプオルガンのメロディーが流れている。
 飛鳥刑事と佐々木刑事は礼拝堂の一番後ろの端の席に着いた。
 そして、辺りを見渡しローズマリーの姿を探した。
 誰がローズマリーなのかわからない。前からみればすぐに分かるのだが……。
 飛鳥刑事は荘厳なパイプオルガンのメロディーの中で視線を泳がせた。一人一人、女性の後ろ姿を見てはローズマリーの特徴と照らし合わせる。
 ローズマリーの髪は、背中までだ。それ以上長いということはない。切ったということも考えられるので、短い髪の女性もとりあえず見てみる。
 違う。これも違う。結局、どれがローズマリーなのかわからない。
 飛鳥刑事から少し離れた席に一人の女性が腰を下ろした。飛鳥刑事はその姿をちらりと見た。違う。髪が長い。視線を戻す。
 そして、すぐにはっとしてその女性の方に顔を向けた。
「ルシファー!?」
 小さな声で呟いた。
「なに?」
 佐々木刑事の耳にはその声が届いたようだ。飛鳥刑事のほうを見、飛鳥刑事の向いている方向に目を向ける。
 今し方飛鳥刑事の座っている一晩後ろの列の、真ん中の通路沿いの席に腰を下ろした女性。目を閉じ、額の前で手を組んでいる。見間違えるはずがない。ルシファーだった。
 飛鳥刑事と佐々木刑事の視線に気付いたのだろうか。それとも、気付いて目を向けるのは分かっていたのだろうか。
 ルシファーが顔を上げ、飛鳥刑事の方に目を向けた。
 無言で見つめあった。
 そして、ルシファーが飛鳥刑事の横の席に腰を下ろした。
「ローズマリー、そこにいるわ。あのグレーの背広の男のとなり」
 ルシファーは刑事二人を恐れた様子はない。捕まえない、と確信しているのだろうか。腰を下ろしたときからローズマリーの背中に視線を向けている。
 飛鳥刑事は、言われてグレーの背広の男を探した。見つけた。そして、その隣にいる女。夫婦だと思って見過ごした女だった。
 パイプオルガンの音楽が終わり、暫しの沈黙が訪れた。
 そして、神父の最後の一言とともに信者達が腰を上げ始めた。
 私服警官達も。そして、ローズマリーも。
 立ち上がったローズマリーがこちらを振り向いた。
 目が合った。
 ローズマリーの口元に笑みが浮かんだのが見えた。
「ねぇ。あたしのこと捕まえないって約束してくれたら、協力するわよ」
 ルシファーが淡々とした口調で言った。
 飛鳥刑事が何かを言いかけるのを遮って佐々木刑事が言った。
「怪盗に協力してもらうつもりはねぇな。まぁ、そっちが勝手に何かやらかそうってのは自由だ。あと、俺はお前を捕まえる気はねぇ。お前を捕まえたいと思ってるのは飛鳥のほうだ。俺がお前に手を出したら飛鳥が妬くしな。飛鳥がどう思うかだ」
 飛鳥刑事は佐々木刑事のほうを見た。目が合い、佐々木刑事の口元が歪んだ。笑みを浮かべたのだ。飛鳥刑事も無言のまま頷いた。
 信者達は帰っていく。席に散った刑事達とローズマリー、そしてそのとなりの男はそのまま動こうとしなかった。
 邪魔者達がいなくなった礼拝堂は、荘厳な空気と深い沈黙、そして張り詰めた緊張感に満たされていた。

 突然、予想もしなかった方向から予想もしていなかったものが聞こえてきた。
 銃声。同時に、私服警官の一人が弾かれるように倒れた。
 警官達は銃声のほうを一斉に見た。
 十字架に張りつけられたキリスト像。礼拝堂の一番奥のその像の後ろに人影があった。
 銃を持ったスーツ姿の男と、その後ろに隠れるように立つ中年男性。ただ者ならぬ雰囲気を醸し出している。
 見慣れない人物だった。ただ一人、その姿を見て声をあげたものがいた。
「ストーン総裁!」
 小百合だった。私服警官として飛鳥刑事達とともに礼拝堂の中に突入した小百合。
 ストーン総裁。初めて聞く呼び名だった。
「おや、記憶は消したはずですが」
 ストーン総裁が言った。冷たい目だ。
「思い出した……。全部思い出した!忘れるもんですか、あなたの顔は!憶えてる……」
 小百合はそれだけ言って顔を伏せた。とらわれの日々。その中で受けた苦痛が、屈辱が、小百合の中に甦ってきたのだ。
「ローズマリー。きみの催眠術はまだまだ修行がいるようだな。ともかく、その女の記憶が戻ったとなっては厄介だ。……今日はついていない日だと思ったが、君がいらぬことを思い出したと言うことが知れて、その意味では幸運な日だったようだね。君……名前は何と言ったかな?とにかく、ついてきてもらおうか」
 ストーン総裁の前に立つ男が小百合に銃を向けた。
 私服警官の一人が小百合の前に立ちふさがった。それと同時に、警官達が次々と銃口をストーン総裁の方に向ける。
 立て続けに銃声が起こった。
 硝煙の臭いが礼拝堂の中に漂いだした。
 銃弾を受けたのはストーン総裁ではなかった。キリスト。ストーン総裁はキリスト像の背後に身を隠したのだ。
「おやおや。いけませんね。偉大なるキリストの像に銃弾を撃ちこんでは。神罰が下りますよ……?」
 言いながらストーン総裁は自ら銃を構え、撃った。銃声は二つ。一発は外れた。もう一発は小百合の前に立ちふさがった私服警官の肩にあたった。
 応戦すべく、警官達が一斉に引き金を引いた。ストーン総裁は倒れない。
 ローズマリーの方向からも銃声があがった。ローズマリーの横にいた男だ。
 警官達はその方に気をとられた。その横にはローズマリーがいる。宝石の袋を構えていた。私服警官の何人が術中に落ち倒れた。
 それを確認すると、ローズマリーは背中を向け走り出した。ローズマリーの横の男も椅子の背もたれに身を隠しながら逃走した。
 キリスト像の背後に隠れていたはずのストーン総裁の姿はいつの間にか掻き消えるようになくなっていた。

 撃たれた警官達も、致命的な傷を負ったものはいなかった。急所は外れていたし、殺傷力も小さな銃だ。護身用に持ち歩いている物なのだろう。
 その警官達に付き添うように小百合も修道院を後にした。心理的ダメージが大きいためだ。
 残された警官達、そして刑事達は修道院のどこかに身を隠しているはずのストーン総裁、そしてローズマリーの姿を探した。
 そして、ルシファーの姿はいつの間にかなくなっていた。
「どこだ、ルシファー……」
 飛鳥刑事はルシファーの身を案じずにはいられない。相手は銃を持っている。
 無事でいてくれ、ルシファー……。
 飛鳥刑事の祈りに呼応するかのように、正午を告げる鐘が鳴り響いた。

「厄介なことになったな」
 冷静にストーン総裁が言った。
「警察が来ているとはな……」
「ルシファーもいたよ」
 ローズマリーが鋭く言った。
「役者は揃った、か……」
 ローズマリーの付き添いとして来ていたグレーの背広の004が誰となく呟いた。
 3人の頭上で鐘がけたたましい音を奏で始めた。
「正午か……」
 ストーン総裁の呟きは鐘の音に掻き消された。

 再び、修道院に銃声が響き渡った。
 逃げ惑う修道僧達。警官達が、彼らを誘導する。
 修道院の中には、ストーンの手下達が身を潜めていた。
「ローズマリーを追ってきたのに、こんなことになるとはな!」
 佐々木刑事が叫ぶように言いながら引き金を引いた。その銃声とともに、長い廊下の先の人影が倒れた。
 遠くからも銃声が聞こえる。警官のものだろうか。ストーンの手下のものだろうか。すぐにそれに呼応したように別の銃声。
 飛鳥刑事も、いつでも銃を撃てるように撃鉄を起こしてある。
「こいつら、何が目的でしょうか!?」
「知るかよ……。そうだな。何が目的かも分からずに撃ち合いやってるんじゃしょうがねぇ。問いただしてみるか」
 佐々木刑事は今し方撃ったばかりの男を近くに部屋に引きずり込んだ。飛鳥刑事もそれに続く。
 男の傷は腹だった。内臓をやられたらしく、苦しそうな表情だ。
「おい、てめぇら、何だってこんなところでこんな真似してるんだ?」
 佐々木刑事が男を絞めあげた。男は佐々木刑事を黙ったまま睨みつけている。
「黙ってちゃわかんねぇんだよ!」
 佐々木刑事が男を壁に叩きつけた。男はそのまま床に沈む。佐々木刑事が男の襟首を掴んで起こした。男はやはり答えない。
 佐々木刑事が男の顔を数発張った。男は相変わらず、佐々木刑事を黙ったまま睨みつけている。
 やがて、男は口から血を吐き出し、力尽きた。
「チッ、くたばりやがった」
 男の体を捨てるように手放す佐々木刑事。
 佐々木刑事はその服のポケットを漁った。出て来たのは銃が1丁だけだった。
 諦めて部屋を出る二人。
「どこに行きます?」
「わからねぇ。お前決めろ」
 佐々木刑事に聞いた飛鳥刑事だが、佐々木刑事に返されてしまった。辺りを見回す飛鳥刑事の目に階段が留まる。
「とりあえず、上に行きましょう。下のほうにはいないと思います」
「上……。この上は……時計塔か?そんなところに逃げるかね。追い詰められるだけだぜ?」
「鐘つき堂と時計塔の間には橋がかかっています。逃げることはできます」
 飛鳥刑事は外から見た礼拝堂を思い出していた。
「よし。ストーン総裁は派手好きそうなやつだし、ローズマリーも派手好きだからな。目立つところにいるってのはあるかも知れねぇ。……どうせなら挟みうちにしようぜ。俺は時計塔、飛鳥は鐘つき堂を登れ」
 飛鳥刑事は頷いた。佐々木刑事と別れて廊下を走る。途中で木下警部と出っくわした。
「飛鳥君。無事か!佐々木君はどうした!?」
「先輩は時計塔を登っています。俺は鐘突き堂を登ります。敵は派手好きなな連中です。目立つところに向かうはずです!」
「決めつけるのはよくないがな。よし、私も鐘突き堂を登ろう」
 木下警部も飛鳥刑事の後を追った。

 裏庭。噴水がさわやかな音を立てている。
 しかし、噴水に心をなごませるものは今はいない。
 ストーンの構成員を追い詰めたまではよかったが、背後からストーンの物らしいヘリが現れたのだ。
 ヘリの中からマシンガンで攻撃を仕掛けて来る。
 警官達は植え込みの中に身潜めるしかない。その間にも構成員達は逃げていく。
 構成員達が逃げ去った後もヘリはその場所を離れない。時折マシンガンの銃口がスパークする。
 追い詰められたも同然だった。
 敵を追い詰めたと思ったのに。
 歯噛みする警官達の頭上のガラスが撃たれてくだけ散った。破片が降り注ぐ。その時。
 ドォン!
 けたたましい音がした。
 見ると、森中警視がバズーカ砲を担ぎ、ヘリに応戦していた。
 再び森中警視のバズーカが火を噴いた。
 ヘリに衝撃があったらしく、大きく揺れた。そして、身を乗り出してマシンガンを構えていた男が振り落とされて噴水の水の中に落ちた。
 ヘリはたまらずに逃げ去った。
「よしっ!全軍、撤退!」
 森中小隊長いや警視の号令が響き渡った。

 礼拝堂では激しい銃撃戦が続いていた。礼拝堂のキリスト像を背にストーンの面々、入口を背に警察。
 銃声は途切れ途切れに続いている。今のところ倒れたのは警察が一人、ストーン側が一人。元の人数は警察のほうが多い。警察のほうが優勢である。
「これじゃ、埒があかないな」
 警官の一人が言った。
「クソッ、一気に攻めるぞ!」
 それに反応した別の警官が言った。
 3人ほど立ち上がって敵の方に突っ込んで行く。
「バカッ!」
 警官の一人が言った。その3人が銃を構えた。ストーン側の連中が一斉にその3人に銃を向けた。
 その瞬間。天井から何かが落ちてきた。ストーン側の連中のいる辺りの真ん中である。連中はその方に気をとられた。同時に白い煙が連中の周囲に巻き起こった。
「今だぁッ!」
 誰かが叫んだ。その声と同時に、銃声が一斉に鳴り響いた。銃声が止み、煙がかき消えると、ストーンの連中はみな倒れていた。
「やった!」
 警官の一人がいった。その一言でみな銃を下ろした。
 同時に倒れていた一人が顔を上げた。そして、銃口を警官達に向ける。警官達も、それに気付き銃を構えようとするが間に合わない。
 男が引き金を引こうとしたその刹那、その手に、ダーツの矢が突き刺さった。銃声。しかし、弾は警官達からだいぶ離れたステンドグラスを色とりどりの光のかけらにしただけだった。
 天井からルシファーが降りてきた。そして、礼拝堂から身軽に駆けだして行く。その姿を警官達はただ唖然と見つめるだけだった。
 長い渡り廊下。その渡り廊下を駆け抜けようとするルシファーの目に、飛鳥刑事の姿が飛び込んできた。鐘突き堂の窓。その窓に、らせん階段を駆け登って行く飛鳥刑事の姿があった。

「今日はひとまず撤退だ」
 時計塔の柱の横でストーン総裁が言った。
「警察の邪魔が入ってはこの計画はうまくいかない。今日は撤退だ。次がいつになるかは分からないが。今日のことで警察もこの修道院に目を光らすことになるだろう。機を待つしかない」
 頭上で大きな機械が忙しなく動いている。
 暫しの沈黙。
 その沈黙を破ったのは総裁でも、ローズマリーでも、まして004でもなかった。
 乱暴に開かれる扉の音。
 佐々木刑事が飛び込んできたのだ。
「総裁、ここは任せて逃げてください!」
 004が言って銃を構えた。
「あんたも逃げるんだよ!」
 ローズマリーが004に向かって叫んだ。しかしその声は004の銃声に掻き消された。
 ローズマリーの背後から風が吹いてきた。時計塔と鐘突き堂を結ぶ橋のある扉が開かれたのだ。薄暗い時計塔に太陽の光が差し込んだ。
「さあ」
 ローズマリーはストーン総裁に手を引かれた。004に目を向けたまま、塔の外へと歩くローズマリー。ローズマリーが顔を外に向けた瞬間、2発の銃声が塔の中にこだました。
 1発はローズマリーのすぐそばから。そしてもう1発は奥のほうから。その一瞬後、人の倒れる音がした。ローズマリーのすぐ近くからだった。

 長い螺旋階段だった。
 飛鳥刑事の姿はどこまで行ってもみえない。
 本当にこの塔を登ったの?
 不安が込み上げてきた。
 くじけそうになるルシファー。
 足を緩めた。その時。
 はるか頭上で微かな物音。
 そして、飛鳥刑事の声。
 いる。
 ルシファーは再び駆けだした。
 まだ長い、螺旋階段を。

 腹は立つけど、嫌な奴じゃなかった。
 004。西村山市に流れついたときからローズマリーの担当としてさんざん見慣れた男。
 別に好きとかいうことはない。
 人生の中で何人かいる、言葉を何度か交わしただけの男の一人。
 しかし、こうしてぼろきれの様に倒れている姿を目の当たりにすると、悲しみが、やり場のない怒りが、込み上げてくる。
 佐々木刑事が004を踏み越えて姿を現した。
 目が合った。
 その時には佐々木刑事の顔面に拳が叩き込まれていた。
 004と折り重なるようにして佐々木刑事が倒れた。気絶したようだ。
 ローズマリーの髪をなぶるように風が背後から吹いた。海風ではない。
 見上げると、ヘリが真上に来ていた。縄梯子をゆっくりと下ろしてくる。風はヘリが起こしたものだった。
「先にいけ」
 ストーン総裁がローズマリーに縄梯子を示した。
 ローズマリーは頷き、最後にちらりと佐々木刑事と004の姿に目をやり、縄梯子を登って行った。
 ストーン総裁が縄梯子に手を掛けた。
 その時、時計塔の反対側の塔の扉が乱暴に開かれた。

 広い海が広がっていた。
 そして海岸にそって走る道。
 風が鐘突き堂の中に吹きこんできた。海風。
 しかし、海風だけではなかった。
 すぐ頭上にヘリがホバリングしていた。たれ下がっている縄梯子。そしてそれに手をかける男。
 ストーン総裁。
「逃げる気かぁっ!」
 飛鳥刑事は叫んだ。そしてストーン総裁に向かって駆けだそうとする。
 しかし、飛鳥刑事はそのままヘビに睨まれたように動きを止めることになる。
 銃を向けられたのだ。自動拳銃だった。
 飛鳥刑事も銃を取り出し、構えた。
 銃声。火を吹いたのは飛鳥刑事の銃だ。
 ストーン総裁は立っている。弾は肩にあたったようだが、意に介さずと言った顔で立っている。
 飛鳥刑事はもう一度撃鉄を起こし、引き金を引いた。
 銃声はなかった。弾が切れたのだ。
 ストーン総裁は冷たい笑みを浮かべ、引き金を引いた。

 橋の上に人影を見つけた。
 あれは、さっきの……。
 ストーン総裁。
 小百合が叫んだ名前を思い出した。縄梯子に手を掛けた。鐘つき堂の方に目を向ける。飛鳥刑事の姿を認めたようだ。
 ストーン総裁が手を鐘突き堂のほうに向けた。その手には銃。
 いけない……!
 鐘突き堂から出ようとするルシファー。しかし、扉には木下警部が立ちふさがるようにして背中を向けてたっている。
 上を見上げるルシファー。大きな鐘が揺れている。海からの風を受けて。
 ルシファーは腕につけられた機械を鐘に向けた。
 ボタンを押すとワイヤーが鐘に向かってのびた。ワイヤーは鐘の横を通り過ぎ、屋根を支える支柱に巻きついた。
 再びボタンを押すと、ワイヤーが一気に巻きとられていく。空が見えていた窓から街並みが見えた。そしてストーン総裁が、飛鳥刑事が。
 銃声がした。
 撃ったのは飛鳥刑事だった。飛鳥刑事の銃から煙があがったが、風にすぐに掻き消える。
 再び飛鳥刑事が銃の引き金を引いたようだ。しかし、何の音もしない。
 弾切れ。
 このままじゃ、飛鳥刑事が撃たれる。
 もう、何をするのも間に合わない。
 ルシファーは懐からどうにか引っ張り出したナイフを手に、身を踊らせた。

 ストーン総裁の指は引き金を引いた。
 銃声と同時に、ストーン総裁の手に痛みが疾った。
「うっ!?」
 ストーン総裁は思わず銃を取り落とした。ストーン総裁の手を離れた銃はそのまま眼下の屋根に落ち、そこからさらに落ちて見えなくなった。

 銃声の瞬間も飛鳥刑事はストーン総裁を見据えていた。
 その視界を、何かが遮った。
 空から舞い降りた黒い影。
 そして、銃声。
 その黒い影がルシファーの姿だと気づくのに、2秒を要した。
 銃を向けられた飛鳥刑事をかばうために、飛鳥刑事の前に、空から降り立ったのだ。
 倒れるルシファーの肩ごしに、ストーン総裁の手を離れた銃が遥か下に落ちていくのが見えた。
 そして、そのストーン総裁の手にはナイフが刺さっていた。ルシファーがナイフを投げつけたらしい。
 ストーン総裁は舌打ちすると、ナイフを引き抜き、血の滴る手で縄梯子を登っていった。
 倒れたルシファーの肩を抱くように押さえる飛鳥刑事の頭上を、ヘリは騒々しい音を立てて飛び去っていった。

Prev Page top Next
Title KIEF top