Episode 1-『堕天使のラブソング』第28話 空から降りた天使
「なぁ、本当に捌かなくていいのか?」
その言葉は聞き飽きていた。
「何度聞けば気が済むんだい?あれはあのままあんたのところにおいておけばいいんだよ。誰にも渡すんじゃないよ」
ローズマリーは表情も変えずに言った。そして、カップのコーヒーを啜ろうとして、熱さのあまりカップを落としそうになる。
「お前、また何か企んでるだろ?」
004がタバコに火をつけながらローズマリーに言った。
「やっと気づいたのかい?」
ローズマリーは再びカップに口をつけた。今度は飲める熱さだ。
004はローズマリーの言葉を無視して続けた。
「何をするつもりだ?ルシファーを誘い出してバラすのか?」
ローズマリーは004のストレートな言葉に苦笑する。
「あたいがそんなつまらない事する訳ないじゃないか。いいかい?今ルシファーは自分のやったことを清算したがっている。でも、あたいがこうやってあの宝石を隠しちまえばあいつは盗んだ物を全部返したことにならないんだ」
「で、そんなことしてなんの得があるんだ?」
「あいつが苦しむのが見たいのさ」
ローズマリーはいいながら笑みを浮かべた。ぞっとするような笑みだ。
「くだらねぇな」
タバコの灰を愛用の携帯灰皿に落としながら004がつまらなそうに言う。
「あたいはあいつにはさんざんな目に遭わされてるんだ。あっさりとカタをつけたらつまらないだろ?」
ローズマリーはカップのコーヒーを飲み干した。インスタントなので、あまりいい味はしない。立ち上がり、カップを流しに置いた。流しには、2日分の食器が洗われずにたまっていた。
食器もうっとうしいが、たまにはインスタントでないコーヒーが飲みたい。
「仕事の話だけど、手早く終わらせてくれないかい?たまにはうまいコーヒーが飲みたくなったよ」
「じゃ、どこかの店に飲みに行くか。どうせ、今日の話は聞かれてもかまわない話だ」
004も腰を上げた。
「自分のコーヒー代は自分で払っておくれよ」
嫌な顔をしているローズマリー。004は肩をそびやかした。
「俺の仕事には顧客のご機嫌取りも兼ねてるからな。コーヒー代くらい俺が持ってやるよ。どうせ経費で落とせるし」
「えっ、本当かい?」
急にローズマリーが嬉しそうにはしゃぎだした。
「コーヒーくらいでこんなに喜ぶなんて、思ったより安い女だな」
004がぼそぼそと呟いた言葉はローズマリーには届かなかった。
映美は時計を見た。1時47分。もうすぐ映美の勤務時間は終わる。映美の勤務時間は2時までだ。
同時に入口のドアが開いた音がした。
店に出ていた光子が慌てて奥に引っ込んできた。
「店長。なんか、ガラの悪そうなお客さんが来たんですけど」
新聞を読んでいた樋口は、光子の言葉を受けて立ちあがった。そのまま、店の方へ出て行った。
「いらっしゃい。ご注文は何にします?」
樋口の声が聞こえてきた。
じっと声だけを聞いている映美。美紀と光子も、店の隅のほうで小さくなっている。
「コーヒー。豆の種類も選べるのか?」
客の声だろう。野太い声だ。
「いえ、当店ではそのようなサービスはありません」
「そうか。まぁ、どうせ味なんかわからねぇんだろうし」
「では、コーヒー二つでよろしいですか?」
樋口の言葉で、客が二人であることが分かった。客は樋口の言葉に短く返事をした。
樋口が戻ってきた。そして、3人に低い声でいった。
「確かにスジ者だな、あの男は。ヤクザの夫婦と言った感じだった。コーヒーも僕が持って行くよ」
それに重なるように、客の声が聞こえてきた。
「失礼なこと言うね。あたいにだってコーヒーの味くらい分かるよ。分からなかったらさっきのインスタントで満足しているさ」
その声を聞いて、映美は自分の顔から血の気が引いて行くのが分かった。物陰から恐る恐る店の様子を見る映美。そこには、見慣れた顔の女が座っていた。
樋口はコーヒーを入れて、トレーに置いた。
その時、光子が映美の様子に気付いて寄ってきた。
「映美。どうしたの?真っ青よ?」
不安げな顔で映美の顔色をうかがう光子。
「ローズマリー……」
「え?」
映美の戦慄く声に光子はさらに不安そうな顔をした。
「あの女、怪盗ローズマリーよ」
「えぇッ!?」
光子と美紀も同じように物陰から見る。
樋口にも、その言葉が聞こえたらしい。
「それ、本当かい?」
「間違いないわ。あたし、見た事あるもの」
辺りに重い空気が漂いだした。
「僕はなにもなかったようにコーヒーを出してくる、その間に君たちは警察に通報してくれ。サイレンを鳴らさないようにいっておいてくれよ」
樋口は落ち着いた様子で言った。美紀が電話の受話器をとった。
「もしもし?あの、ローズマリーがうちの店に来ているんです。サイレンを鳴らさないようにして来ていただけますか?」
美紀は、店の名前と大体の場所を言って受話器を置いた。
「もしかしたら、あのローズマリー逮捕の瞬間が見られるかも!」
光子が押し殺した声で言った。
それっきり、誰も口を利こうとしなかった。樋口は、客がいるということでカウンターにいる。映美達3人は、頼る相手もなくただ息を殺しているしかない。
やがて、店の前に車が停まった。降りた人物に見覚えがある。木下警部と森中警視だ。
二人の顔を見て、ローズマリーが驚いた。それに004も気付く。
「知り合いか?」
004がのんきな声で言った。
「警察だよ」
「ななななにぃ!?」
さすがに、004も慌てだす。
二人が店の中に入ってきた。ローズマリーと004は立ち上がり、二人の刑事と睨み合う。
「今はプライベートだよ」
ローズマリーが言った。
「そっちがプライベートでもこっちは仕事でね。お前を捕まえねばならん」
森中警視が後ろに隠していたバズーカ砲を出した。
ローズマリーが身構える。森中警視をよく知らない004はバズーカ砲を見て心底驚いたようである。銃を取りだそうとしているようだが、もたついている。
そんな004の様子に気がついたのか、森中警視はバズーカ砲を004に向けた。004はたまらず逃げ出すが、森中警視は容赦なくバズーカ砲をぶっ放した。
バズーカ砲からぶっ放されたのは軟式野球の球だった。それが004の後頭部に命中した。004は前のめりに倒れ地面に突っ伏した。
「何やってるんだい!」
ローズマリーは004を怒鳴りつけた。返事はない。ただ、気絶したわけではなさそうだ。
ローズマリーが再び森中警視の方に目を向けると、バズーカはローズマリーのほうを向いていた。
森中警視はローズマリーめがけバズーカをぶっ放す。ローズマリーは飛び出してきたボールを、素手でだと言うことを忘れ、反射的にそのまま受け止めた。
ローズマリーは手の痛さに顔をしかめた。そして、そのままボールを森中警視の方に投げ返した。
森中警視の顔面にボールがヒットする。森中警視の顔がのけ反り、眼鏡が吹っ飛んだ。
戸惑う森中警視の腹にローズマリーの拳がめり込んだ。森中警視はそのまま床に沈んだ。
木下警部は身構えた。だが、ローズマリーになすすべなく蹴倒された。
「ほら、ボールがあたったくらいでのびてるんじゃないよ!」
ローズマリーは004の袖を引っ張った。004は立ち上がり、埃を払った。
「とんでもない警察だな。いつの間に日本の警察は軍隊並みの武装をしたんだ?」
「聞くところでは個人的な趣味らしいよ。あたいも何発ぶちかまされたか」
「趣味ってのは盆栽とか将棋とか、もっと静かなものじゃないのか」
「射撃が趣味って奴もいるだろう?似たようなものさ。こんなことを言っている暇はないよ。逃げないと」
004はカウンターで震え上がっている樋口に500円札を投げつけて言った。
「釣はいらねぇ、とっときな。まったく、この店は落ち着いてコーヒーも飲めねぇや。二度と来てやらねぇぞ」
コーヒー1杯300円なので100円足りないのだが、そんなことを言ってられない。二度と来ないのは願ったり叶ったりである。
ローズマリーと004は森中警視と木下警部の乗ってきた車に乗り込み、そのまま走り去った。
しばらくして、連絡を受け西山村署から飛鳥刑事と佐々木刑事が到着した。
飛鳥刑事は、店の前で立ち止まった。そして、不安な表情のまま店内に入っていく。
中に入った飛鳥刑事は店内に視線を巡らせた。店内には、森中警視と木下警部、あとは店の男がいるだけだ。
この店はたしか、ルシファーが勤めていた店だ。まだ、ルシファーはいるのだろうか。
佐々木刑事は、真っ先にコーヒーを頼んだ。店主らしきは頷いて店の奥に引っ込んだ。
しばらくして、店の奥から、話し声が聞こえてきた。奥のほうに何人かいるようだ。
「マスター、私が運びますーぅ」
若い女性の声。やはりさっきの男がこの店のマスターのようだ。
「いや、一応注文を聞いた人が運ぶことになっているし」
マスターの声。まもなく聞こえてくる女の子のブーイング。何でもめているのかはよくは分からない。
ほどなく、マスターがコーヒーを持ってきた。
コーヒーをもってきたマスターに佐々木刑事が座るようにいい、そのまま聴取が始まった。コーヒー片手にリラックスした雰囲気でとても聴取とは思えないが。
「店に出ていた女の子が、ガラの悪い客が来たって言うんで、私が応対に出たんです。それで、その客の連れの女がローズマリーだと分かって、女の子に通報させて……」
佐々木刑事に質問されて、樋口がそう言ったとき、後ろから突然声があがった。
「店に出てたのは私ですぅ」
「通報したのは私でーす!」
いつの間にか、店のウェイトレスが後ろに立っていた。見覚えがある顔だ。
その二人の後ろに隠れるようにルシファーがいた。引きつった笑顔である。
「私が店に出ていたら、怖いお兄さんが入ってきたんです」
「私はマスターに言われて警察に電話を……」
ウェイトレス二人が、聞かれてもいないことを喋りだした。佐々木刑事がそれを止める。
「分かった分かった。一人ずつ話を聞くから、そこに座ってよ。そっちの子は頼んだぞ、飛鳥」
いきなり言われてびくっとする飛鳥刑事。『そっちの子』ルシファーの目を見る。
「こ、こんにちは……」
引きつった笑顔のままルシファーが言った。
「お、おう」
「あ、通報したのはその子がローズマリーの顔を知っていたからです」
マスターが言った。
どう対応したらよいのかわからない飛鳥刑事。とりあえず、店の端のほうに歩いていく。
そこで、佐々木刑事の耳に届かないように小声でルシファーに言った。
「ローズマリーと何かあったのか?」
ルシファーは首を横に振った。
「何もなかったけど……。まさかここに来るなんて思わなかったもの。びっくりしちゃった」
ルシファーが言った。その後の言葉はどちらからも出てこない。お互いの顔も見ることができず押し黙ったままの二人。慣れない見合いの席のようである。
「あ、あのさ」
やっとの思い出飛鳥刑事の口から言葉が出た。
「は、はい?」
ルシファーが緊張したように体を震わせた。
「この間の冠のことだけど」
ルシファーが表情を曇らせうつむいた。
「どうして、ローズマリーが盗んだはずの冠がおまえの名前で返ってきたんだ?本当のことを言ってくれ」
ルシファーは顔を上げた。
「あれは、あたしがローズマリーの手からもぎ取ったの。だから、あの冠を返すのをローズマリーが狙っていたみたい。あの宝石をとったのはあたしじゃないよ……」
訴えるようにルシファーが言った。目は飛鳥刑事の目をまっすぐに見つめている。
「わかってるよ」
飛鳥刑事の言葉に、ルシファーは意外そうな、それでいて安心したような表情を浮かべた。
「あの冠は確かにローズマリーが盗み出した。おまえが返すまでローズマリーが盗んだと思ってたよ」
「よかった……。あたし、ローズマリーが『お前は悪魔だから聖華市に移った時点で運は尽きた』って言われて、気にしてたんだ……。こっちに来てから、あまりいいことなかったもの」
ルシファーは寂しそうな目をした。
「そんな。気のせいだろ?」
いいながらも、確かにそうだと飛鳥刑事は思う。飛鳥刑事にはルシファーの気持ちが痛いほどわかる。なのに、かけるべき言葉さえ浮かばない。
「おい、飛鳥。何か分かったか?」
佐々木刑事にいきなり声をかけられて慌てる飛鳥刑事。なにせ事情聴取らしいことは何一つしていないのだ。
「こっちは、喋る割には大した話は聞けなかったな」
手帳を見ながら佐々木刑事がぼそぼそと言った。
「あ、でもな。さっきの子の電話番号は聞けた」
佐々木刑事にとっては一番の収穫はそれらしい。あの様子だと、ローズマリーの話そっちのけであのウェイトレス達を口説いていたのではないだろうか。大した話など聞けるはずもない。
「じゃ、そろそろ帰るから」
飛鳥刑事は店を出ようとしている佐々木刑事の後を追って駆けだした。
その翌日。
ルシファーがまた盗んだ物を返してきた。
返されたのは初めてこの街に来たときに盗んだ絵。
すぐに現場に向かう飛鳥刑事と佐々木刑事。
絵を返された画家は、以前よりもいい身なりで飛鳥刑事達を迎えた。
話によると、その絵がルシファーに盗まれてマスコミに騒がれたことで、一気に有名になってしまったらしい。
つい先日もそんな話を聞かされた。長い話だったのでよく憶えている。さすがに話の内容までは憶えていないが。
その画家が目を覚ますと、部屋の隅のキャンパスの一番手前にその絵が置かれていたらしい。
事情聴取を終わらせて帰る途中、飛鳥刑事はその新鋭の画家の名前を書いたメモを見ながら、どこかで聞いたか思い出そうとしたが、全く思い出せなかった。
その日の午後。帰る準備をして時計を見ながら残り3分が過ぎるのを待っていた飛鳥刑事に、またルシファーが盗んだ物を返してきたという連絡が来た。
K美術館の『薔薇と少女』の彫像だった。
『薔薇と少女』と言われても飛鳥刑事はいまいちピンとこなかった。
K美術館に到着し、その建物を目にした時、そこで起きた盗難事件のことも思い出す。
この美術館の事件では、ルシファーに顔を引っ張られたり、キスがなんだと言われ慌てた記憶がある。要は、あれでその他のファクターが頭から飛んでしまったようだ。
「いや、返ってきてよかったですよ。せっかくこれを作った彫刻家が分かったんですから」
美術館の職員は嬉しそうに言った。
この彫刻はいくつかの美術館を転々とするうちに制作者不明になっていたらしい。
それが、ルシファーに盗まれることにより、新聞やテレビでその姿が全国に報道され、制作者が名乗り出て来たのだ。
この彫刻は、国際的にも有名な岡村三郎の駆け出しの頃の作品であることが分かった。そして、幻の作として再び話題を巻き起こしたが、飛鳥刑事にはその噂は届いていなかった。
それもそのはず、どこかの新聞の端のほうにそんなに大きくない記事としか報道されてないのだ。ニュースでも大きく取り上げられていない。
噂では、かの岡村三郎の幻の作なので、数千万円は下らない値がつくだろうとのこと。
ちなみに、警備の警官にまぎれ込んでその彫刻を見ながらも、大したものじゃないと高をくくっていたローズマリーは、この翌日に美術館に返された『薔薇と少女』像の記事にある、この像の価値を見て悔しさに歯噛みすることになる。
そのローズマリーは、住宅地の大きな邸宅の近くの路地に身を潜めていた。
遠くから騒々しいエンジン音が近づいてくる。ローズマリーの目の前をトレーラーが轟音を響かせながら通り過ぎて行った。排気ガスのいやな臭いにローズマリーは顔をしかめた。
邸宅の門の少し先でトレーラーは止まった。
トレーラーには『安心!迅速!信頼の稲垣運輸』と書かれている。
稲垣運輸。この会社はただの輸送会社ではない。高価な品や、機密の書類を届けるために特化した高セキュリティの輸送会社なのだ。
そんな高価なしなや機密の書類を取り扱う輸送会社が、社名丸出しのトレーラーで荷物を運んでいるのは、狙われても返り討ちにできるほどにそのセキュリティの高さに絶対の自信を持っているからなのだろう。多分。
このトレーラーの中には、高価な品がごっそりつまっている。
トレーラーから輸送会社の男が二人降りてきた。一人が見張りに立ち、もう一人がトレーラーのコンテナの扉を開ける。
ぎいぃ、と音がしてコンテナの扉が開いた。その中にも鍵のかかった扉がロッカーのように並んでいる。
見張りについていたほうの男が大きな声を出した。
つられて、扉を開けていた男も見張りの見ていたほうを見る。
人影があった。女。トレーラーに近づいてくる。見張りについていた男が制止しようとした。女はポケットから小さな袋を取り出した。
見張りの男が倒れた。何があったのか、扉を開けていた男にはすぐには分からなかった。
しかし、すぐにピンとくる。
「お、お前はローズマリーか!?ローズマリーだな!?」
「御名答……」
ローズマリーの持っていた袋から粉が零れ落ちるのが、男の目に飛び込んできた。催眠術だと気づいたときには既に遅かった。男の目の焦点があわなくなってくる。
「さぁ、中の扉を開けて、この車の積み荷を全部出すんだ」
ローズマリーに言われ、男は扉についたダイヤルを合わせ、扉を開こうとする。
勝ち誇った笑みを浮かべて男の一挙一動を見ていたローズマリー。男の姿が遠ざかっていく。
気がつくと、トレーラーが走り出していた。
「あ、あっ。あああーっ!なんでなんで?どうしてだい!車に乗ってるのは二人だったんじゃないかい!?」
喚くローズマリーと眠らされた男を残してトレーラーは何処へかと去って行った。
実は、稲垣運輸では前回ルシファーに襲われたことにより、セキュリティを一新した。車に搭乗する人員を、今までの見張り兼運転手と責任担当者の2人から、運転手、見張り、責任担当者の3人に増やし、運転席から運転手が離れないようにしたのだ。
そして、後ろの様子は運転手にもみえる。カメラがトレーラーの奥から外に向けられているのだ。
そのカメラにローズマリーが催眠術をかける様を見て、運転手が車を発進させたというわけだ。
まさに、ルシファーのおかげでセキュリティーの穴が見つかり、それを埋めた形である。
そして、その元になった事件で盗まれた絵も、その日の夕方、ルシファーの手により返されることになる。
執事が部屋に入ってきた。
「奥様、郵便物が届いております」
奥様と呼ばれた婦人は、執事の言葉に僅かに頷いた。それだけで、また膝の上に載せたシャム猫にブラシをかけ始めた。
執事は、それが当然といった風情で、テーブルの上に手紙の束を置いた。そして、軽く一礼して部屋を出た。
シャム猫が婦人の膝から飛び降りた。
婦人は質素な格好である。
『歩く宝石箱』とも呼ばれるほど派手好きで、宝石に身を包んだ姿しか想像されないノースフィリッツランドの大臣夫人。そんな彼女でも、プライベートまでそんなごてごてした格好ではない。
猫がいなくなってしまった膝の上に、今し方執事が持ってきた手紙の束を置いた。猫は床の上であくびをしながら伸びをしている。
代わりばえのない面々からの御機嫌取りの手紙ばかり。ひいきにしている宝石店や、旦那のポストの後釜を狙う政治家からのおべっか尽くしの手紙。
そんな中に、一つ目立つ手紙が混ざっていた。エアメール。封筒は当然、あの床屋をほうふつとさせるあれである。
差出人を見てみる。日本から。よく見ると、夫人の名前のスペルが間違っている。
いささか不愉快になりながら封筒を開けてみる。中には、紙の包みと一枚の便箋が入っていた。
夫人は、紙の包みを解いてみた。中からは、見覚えのあるブローチが出て来た。
日本に行ったときに盗まれたブローチ。驚いて、封筒の差出人の名前を改めてよく見てみる。Yamada Hanakoと書かれている。ハナコという姓で、ヤマダという名前の人物のようである。
添えられて便箋には、間違いだらけの英語でこう書かれていた。と推測される。
『これは、私が盗んだ宝石です。これはお返しします。怪盗ルシファー』
このブローチは、旦那が10年目の結婚記念日に買ってくれたブローチなのだ。それだけに、返ってきた嬉しさはひとしおである。
夫人は喜びのあまり、部屋から飛び出した。甲高い声で旦那を呼びながら。
窓際で煙草を吸いながらひなたぼっこをしていた飛鳥刑事と佐々木刑事は、後ろから木牟田警部に声をかけられた。
「外務省から電話があってな、ほら、ノースフィリッツランドの派手なご婦人が怪盗に宝石が奪われた事件があっただろ。ローズマリーのここでの初めての事件の。あの時ルシファーに盗まれたブローチが返ってきたそうだ」
「だってよ。どうする飛鳥。行くか?」
佐々木刑事がタバコをくわえたままで言った。駆けだそうとする飛鳥刑事の背中に慌てて冗談に決まってるだろと声をかける。
「それでな、大臣夫人からルシファーに礼を言っておいてほしいらしい」
木牟田警部の言葉に二人は呆気に取られた。
「なんですか、そりゃ。盗まれた宝石が返ってきたからって、礼は言わないでしょう」
飛鳥刑事の言葉に、木牟田警部も難しい顔をした。
「それがな。どうも、外務省と向こうの大使、それと大臣サイドで何度か電話のやり取りがあったそうだが、それで少し事実が歪んでしまったというか、そういう訳なんだな」
まず、喜んだ大臣から、日本大使の方に連絡が入った。『怪盗ルシファーからブローチがが返ってきた』という連絡だ。
それを大使館側から日本の方に伝えてきたという。その時、日本の外交官が『ルシファーだから返ってきたんだ。ローズマリーだったら返ってこなかった』という言葉を返したらしい。ニュース通りの意味である。
その言葉が、大臣サイドに伝えられた。大臣サイドは、詳しい事情を知らないので、ルシファーがローズマリーからブローチを守ってくれたととってしまったらしい。それで、お礼を言って欲しい、ということになったのだ。ルシファーはすっかり義賊にされてしまったようだ。
「ややこしい話になってますね」
佐々木刑事が呆れて言った。
「日本語と外国語のニュアンスの違いってやつもあるんだろう」
木牟田警部が苦笑した。
「何でも、堕天使になっても天使はやっぱり天使なんだな、ともいってたらしい」
木牟田警部の言葉に二人はきょとんとした。
「何ですか、その天使とか堕天使とかいうのは」
佐々木刑事が訊いた。
「何だ、聖華市から来たのに知らんのかね。ま、そんなに信仰が厚いという風情でもないし、無理もないか」
ルシファー。神話でこの名を持つ者は、神に対し叛意した天使である。もともと、天使の中でももっとも神々に愛された天使であった。その名の意味は『光を掲げる者』、『曙の明星』であり、天界でも光り輝く存在であった。
しかし、あるとき、神の奸計を知ったルシファーは、神に対し弓を引いた。謀反である。全能である神は、謀反を起こしたルシファーと、共に立ち上がった多くの天使達を天空より奈落の底に落とした。
これが、ルシファーが堕天使となった由縁である。
「なるほど。ルシファーってのは始めっから悪魔じゃなくて、最初は天使だったわけですね」
佐々木刑事が顎に手を当てて頷きながら言った。
「元は天使だった、か……」
飛鳥刑事も難しそうな顔で頷いた。二人とも分かったのかどうかは分からない。
「聖華市が天界なら、天界から現れたルシファーは正にこの街に天界から現れた堕天使ってことだ。で、再び天界に戻り心が洗われた、って事かな」
木牟田警部が冗談のように言った。飛鳥刑事は、その冗談混じりのこじつけに、相も変わらず難しい顔で頷いていた。
ルシファーの現れなくなった聖華市では、ローズマリーがまるでルシファーの不在を狙うように派手に暴れ回っていた。
だが、派手に暴れ回っていたのはローズマリーだけではない。
警察。特に、森中警視の暴れっぷりは凄まじかった。
投網バズーカーも出た。なかなか狙いが定まらないのが欠点だが、一度見事にローズマリーにかかった。しかし、網の強度がいまいちで、ローズマリーが隠し持っていた小刀であっさりと切られてしまった。
小麦粉弾装填のマシンガンも出た。ローズマリーの催眠術を封じることはできたが、同時に警察サイドの視界も遮ることになり、逃げられてしまう。
風圧地雷も出た。踏むと、凄まじい風圧でふっ飛ばされる、と言うものである。しかし、風圧が足りずにローズマリーのワンピースのすそがまくれただけだった。
次々と兵器といえるようなものが出る。まさに、警備は戦争である。
敵もさる者、ローズマリーは捕らえるに至らないが、それでも現場に間に合えば犯行は半々くらいで阻止されている。
「まったく!身が持たないよ」
ローズマリーは怒っている。愚痴を聞いている004も、迫力に負けているのかすっかり黙り込んでいる。
今回はある企業家の邸宅に侵入したのだが、すぐに警察がかけつけた。その時森中警視が乗り付けてきた戦車のようなものに怖じ気づいて、しっぽを巻いて逃げ出した。
邸宅を出た後、その戦車のようなモノの砲台が門の上側につっかえて敷地内に入らないということを知ったが、屋敷を出てしまった以上戻るわけにもいかない。結局、持って来られたのは玄関の脇にかかっていた見覚えのある絵と、小さな金の置物だけである。
「この金の置物はそこそこの値で出そうだな」
004が相変わらずぶつぶつ言っているローズマリーの言葉に割って入った。どうも、004が黙っていたのは愚痴を聞き飽きただけのようだ。
「この絵だけどな」
「こいつはユトリロだろ?昔、本で読んだことがあるよ」
ローズマリーは自信たっぷりに言った。
「お前、ルシファーのことなんか考えたくもないだろうけどな。この絵はルシファーに盗まれた絵なんだよ」
ローズマリーは考えるような顔をした。
「つまり、どういうことだい?」
ルシファーのことはあまり考えたくないようだ。考えもせずに004に聞き返す。
「まだこの絵は盗まれたままなんだな。つまり、この絵は贋物さ」
ローズマリーの顔が引きつった。目に怒りがありありと現れる。さすがに004もこればかりはびびって目を逸らした。
「何だってえええぇぇぇぇ!」
「本物だって言われていたこの絵はいくつもあるんだな。どうも、アメリカだかのマフィアが金策のために本物と全く見劣りしない贋物を大量に作って世界中にまいたらしい。これは、恐らくその贋物だろうな。本物はそのマフィアのドンが大事に持っていたんだが、寝首を掻かれてその時に持って行かれたらしい。で、ルシファーがかっぱらったのがその本物で、ルシファーにかっぱらわれたのはその首をとったマフィアの手先だったらしい」
一気に捲し立てる004。その間にタバコに火をつけ、携帯用灰皿をポケットから出している。
「その本物がルシファーに盗まれなければそれも結構な値で売れたはずなんだが、今はそんな血と金に汚れた贋物にいい値がつくわけねぇよなぁ」
タバコの煙をくゆらせたまま振り向く004。その表情が凍りつく。くわえていたタバコが土間に落ちた。
ローズマリーは、正に鬼といえるような表情を浮かべていた。特に機嫌が悪いらしい。どうも、日に日に機嫌が悪くなっていくようで、それもあの警視の活躍と、今までは悪党扱いだったルシファーも、なにかといい人扱いを受けて気に入らないという事が起因しているようだ。
「ああ、そんなわけで、総裁からこれを預かっているから読んどいてくれよな。じゃ、俺はこれを持って帰るわ」
004は封筒に入った書類を置き、代わりに金の置物を手にそそくさと部屋を出て行った。
閉められたドアの向こうから、ローズマリーが暴れる物音と野猿のようなわめき声が聞こえてきた。
いつもあんな調子ならば隣の部屋の住民は不愉快だろう。
いつもローズマリーは宝を求めて転々としているからいいものの、この街のようにしばらく居座りそうなところでは、途中で一度アパートを移さないといけないかもしれない。そんなことで警察を呼ばれてローズマリーの居所が知られては困る。
004が車に乗りこむとき、何があったのか、ローズマリーが一層甲高い声をあげた。
004がうっかり土間に落としてきた火のついたタバコをローズマリーが素足で踏んづけたのだが、そんなことは知る由もない。知っていたら、二度とローズマリーの前に現れないだろう。
そして、この騒ぎの元になった絵。
その絵がクィーンズパレスの、あの画商の泊まっていた部屋にさり気なく飾られていることに部屋を掃除していた清掃業者の人間が気付いた。部屋に、見慣れない絵が飾られていたのだ。不審に思った業者の人間がホテルの従業員に話したことにより、この絵のことが発覚した。
絵の入った額の裏側には小さな紙切れが貼りつけられていた。その紙切れにはこうあった。
『この絵はお返しします。怪盗ルシファー』
それを聞いてこのホテルに駆けつけた刑事達。その中でも飛鳥刑事は、いつになく言葉少なだった。
ついこの間までは盗んだ物が一杯置かれていた、この廃屋の一室。
ここに置かれている、最後の品に映美は手を伸ばした。
これを返せば、後に残されているものは……。
電話がなった。木牟田警部が受話器をとる。しばらく話してから受話器を置いた。
「スズラン通りの時計店にルシファーがローズマリーに盗られたはずの置き時計を返してきたらしい。詳しいことはその時計店に行って聞いてきてくれ」
その木牟田警部言葉を受けて飛鳥刑事と佐々木刑事はスズラン通りの時計店に急行した。
駆けつけると、時計はショーケースの上に置かれていた。
天使の彫刻で飾られた、いかにも高そうな時計だった。
その時計の天使像の一つにリボンでメッセージカードが結びつけられていた。
『この時計はお返しします。怪盗ルシファー』
しかし、飛鳥刑事は時計より、メッセージカードより、何よりもそのリボンを気にした。
見覚えのあるリボンだった。
これと同じリボンを飛鳥刑事は持っている。そう、今でも持っているのだ。
ルシファーがこの店に残したリボン。それと同じ赤いリボンだった。
「ローズマリーじゃなかったっけ?この店に押し入った怪盗ってさ」
佐々木刑事が思い出したように言った。
「そうです」
店員が言った。
「きっと、ローズマリーからこの時計を取り返してくれたんだ、ルシファーは」
店長と思しき男が言った。
近ごろの報道の影響でルシファーはすっかり善人扱いになっている。
飛鳥刑事は、この間の木牟田警部の言葉を思い出した。
『聖華市が天界なら、天界から現れたルシファーは正にこの街に天界から現れた堕天使ってことだ。で、再び天界に戻り心が洗われた、って事かな』
「あいつ、天使になろうとしているんだ……」
小さな声で呟く。
その呟きに気付くものは誰もいなかった。
ローズマリーは、004の持ってきた封筒から書類を出して読んでいた。
いつになく、厳しい顔をしていた。
そして、低い声で呟いた。
「そうか、遂に始まるんだね……」
その視線は、海の向こうにみえる修道院を見つめていた。
刑事達と怪盗の最後の戦いが始まろうとしていた。
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