Episode 1-『堕天使のラブソング』第30話(最終話) Good bye, my sweet little devil...
生暖かい血が、手に触れた。
ルシファーが撃たれた。
俺の目の前で。
「ルシファー……」
飛鳥刑事はルシファーの体を揺さぶった。
「ルシファー!」
飛鳥刑事の悲痛な叫び声があたりに響く。
「飛鳥刑事……」
その声にルシファーが閉じていた目を開いた。生きている。
「よかった……」
二人が同時に言った。お互いの無事を確認して。
「飛鳥君。ルシファーを病院へ運びたまえ。出血がひどい。急がないと手遅れになるかもしれん」
木下警部が言った。頷く飛鳥刑事。
ルシファーの傷は、腕のつけ根だった。動脈を傷つけたようだ。血が流れだしている。
止血のためにルシファーの腕を解いたネクタイで縛り、ルシファーを抱き上げた。そして、鐘つき堂に入ろうとする。
「待って」
ルシファーが言った。そして、腕を差し出した。腕時計のような機械がつけられている。
「このワイヤーを結びつけて……。そうすれば、ここからすぐに降りられるよ。このボタンを押すとワイヤーがゆっくり伸びるの」
「分かった」
飛鳥刑事はルシファーの腕からその機械をとると自分の腕につけた。そして、ワイヤーを引き伸ばして橋のワイヤーに縛りつけた。
「気をつけろよ」
木下警部が言った。飛鳥刑事は橋から身を投げだした。ワイヤーで宙吊りになった。ワイヤーがゆっくりとのびていく。
中庭に降り立つと、森中警視が下で待ち受けていた。
降りてくる二人の様子を見て状況を察したのだろう。パトカーがエンジンをスタートさせた状態で待っていた。
「後部座席に乗れ。こういうときは誰かが近くにいて声をかけてやったほうがいい」
車が走り出した。緊急灯とサイレン。
「この近くにはあまり大きな病院がない。こいつは賭けになるが……。小さな診療所が近くにある。とりあえずそこに運び込む」
飛鳥刑事は森中警視の言葉を上の空で聞いていた。
車に乗ってから、ルシファーは眠ったように動かない。目も閉じられたままだ。微かな息づかいだけが、その命の証しである。
天使のようだ。
その顔を見て、飛鳥刑事は思った。そして大きく首を振る。
「だめだ。天使になるな。お前は悪魔でも天使でもない。人間なんだ。頼む。天使にならないでくれ……」
飛鳥刑事はルシファーの体を折れんばかりに抱きしめた。
「ついたぞ」
森中警視の言葉に、顔を上げる飛鳥刑事。
小さな診療所といったが、わりと新しい診療所らしい。こざっぱりとした建物だ。
飛鳥刑事がルシファーを車から下ろすと、森中警視が診療所から担架を借りて出て来た。
担架に乗せられ、ルシファーはすぐに手術室に運びこまれた。
ルシファーの状態を見た医師は難しい表情を浮かべた。
「いかんね。出血がひどすぎる。これは、輸血がいるが……。うちは急患を扱うようなところじゃないんでね。生憎、血液がない。取り寄せれば30分ほどで届くだろうが、その間持ちこたえられるか……」
「そんな……」
飛鳥刑事は歯噛みした。
「今から大きな病院に運ぶと!?」
「だめだ。怪我人をあまり動かさんほうがいい」
飛鳥刑事に、医師は冷静に言った。
「どうにかならないんですか!?」
「血液さえあればいい。怪我人の血液型は分かるかね?」
医師の言葉に、森中警視は考えこんだ。
「血液型は……。記録にあったかな」
「それならば試薬で調べたほうが早い」
「A型です」
二人の会話に飛鳥刑事が割って入った。
「それは確かかね?」
「はい。B美術館の事件で見つかった血液です。俺と同じ血液型なんでよく憶えています」
力強く言う飛鳥刑事。
「しかし、あの血液はルシファーのものかローズマリーのものか」
森中警視の言葉を遮り飛鳥刑事が続けた。
「あの事件の後、本人に聞きました。あの時、ルシファーがローズマリーに斬りかかられたんです。あの血液はルシファーのものです」
力強く言う飛鳥刑事。
「間違っていて、もしも合わない血液型だったら取り返しはつかない。間違いないんだな?」
森中警視の言葉に力強く頷く飛鳥刑事。
「俺の血を使ってください」
医師は頷いた。
「よし。そこの台に横になりなさい」
飛鳥刑事の腕とルシファーの腕が細いチューブでつながっていた。
チューブの中を赤い血液が流れていく。この血がルシファーの体の中に流れ込んでいく。
横では、医師と看護婦が治療を始めていた。輸血用の血液が届かないのであまり出血をともなうようなことはできない。止血を第一に始めているようだ。
「よし。これで後は輸血の血が届くのを待つばかりだ」
医師が言った。
時計を見ると、到着から20分ほど経っていた。
「あんたがいてよかったよ。あんたの血がなかったらダメだったろうな。これで、よほどのことがなけりゃこの人は助かるよ」
飛鳥刑事の腕からチューブがはずされた。
起き上がろうとすると、少し目眩がした。
「献血の後と同じだ。運動はせんほうがいい。帰ったら血を作れるように蛋白質と鉄分をしっかり摂っておくようにな」
医師はそれだけ言うと、椅子に腰かけた。
全身の力が抜けていた。血がだいぶなくなってしまったようだ。それだけ、ルシファーは危険な状態にあったのだろう。
血液はいつ来るのか。
そう思ったとき、看護婦がカートを押して入ってきた。血液が届けられたようだった。
「目立たんところの傷だしな。弾も小さいやつだから傷は綺麗に治るよ。いやぁ、弾の摘出なんて若い頃、満州でやって以来だからな」
手術を終えた医師は、椅子にかけてくつろいでいた。
「どうも、ありがとうございます」
飛鳥刑事は医師に向かって言った。まだ頭がぼんやりしている。
ルシファーはベッドの上で寝息を立てている。
「先生。岸川のおばあさんが見えましたよ」
看護婦が入ってきた。医師は腰を上げた。
「しづさんか。また腰でもやったのかね」
医師はのんびりとした足取りで部屋を出て行った。階段を降りていく足音がした。
森中警視が立ち上がり、摘出された銃弾をビニール袋に入れた。
「じゃ、私は先にこれを持って帰るから。ルシファーの目が覚めたら連絡を入れてくれたまえ」
ルシファーの目が覚めたら。
捕まえなければならないのだろうか。
こんな捕まえ方はしたくなかったな……。
「あ、そうそう」
麻酔で眠っているルシファーの顔を見つめている飛鳥刑事に森中警視が声をかけた。
「我々だって鬼じゃない。命を張ってまで部下を助けてくれた恩人ならば、1回くらいは見逃してやってもいいだろう」
飛鳥刑事は驚いて振り返った。森中警視の姿は既にない。階段のきしむ音が聞こえてきた。
「ありがとうございます……」
飛鳥刑事は、もう姿の見えない警視に届くはずのない感謝の言葉を投げかけた。
「ひどい戦いになってしまったな」
木下警部が言った。
「まったく。ローズマリーどころの話じゃありませんでしたね」
佐々木刑事が目を覚ましたときは、残った警官達によりストーンの残党はまとめて捕らえられていた。
そして、礼拝堂には命を落とした警官とストーンの構成員達の遺体が並べられた。
その場で、供養が始まったのである。
ストーンの構成員の一人の顔を佐々木刑事はじっと見つめていた。
004。
佐々木刑事はこの男がそう呼ばれていることさえも知らない。
ただ、一度は共に戦ったことがある。Bloody Justiceとの戦いだ。
その後も、何度か顔を合わせている。
まさか、自分がこの男の人生に幕を引くことになるとは思ってもいなかった。ローズマリーを通しての友人のような気がしていたのだ。
ストーン。
結局、この男がどんな奴なのかさえも、そして、この男のいる組織がどんなものなのかも知らないままだ。
ローズマリーにも逃げられてしまった。
これからもローズマリーはこの街に現れるのか。それとも、これで終わりなのか。
この男が死んでしまったことは、ローズマリーにとっても大きな出来事なのではないだろうか。
この男を殺した後に殴りかかってきたときの、ローズマリーの目。今までに見たことのない目だった。
怒りの奥に、見えたもの。悲しみ。憎しみ。
あいつはあんな奴だ。きっと、数少ない、気軽に話せる人間だっただろう。
その男は、ここで死んだ。
そう思うと、ローズマリーはもう現れないような気がした。現れるとしたら、この男のことを思い出さないですむ、どこか遠いところだ。
オルガンが静かにレクイエムを奏でだした。
佐々木刑事は目を閉じ、祈りを捧げた。
名も知らぬ、友に。
目を開きたくなかった。
気だるい。
しかし、ときどき鋭い痛みがある。何があるのか。目を開かなければ分からない。
霞む目を、やっとの思いで開いた。見慣れない天井が見えた。
ここはどこだろう。視線をめぐらせる。その時、横から聞き覚えのある声がした。
「目が覚めたのか」
顔を声のほうに向けた。飛鳥刑事がいた。
途中まで思い出せた。あたしは飛鳥刑事の身代わりに撃たれた。そして、飛鳥刑事に抱えられて、修道院の塔から中庭に降りた。
その先は憶えていない。自分も無事だったようだ。痛むのは撃たれた傷。
あの時、飛鳥刑事の腕に抱かれながら、心の中で密かに、こう思った。
飛鳥刑事の腕の中なら、死んでもいい……。
でも、今こうして生きている。
これで、返せなかった最後の一つ、返すことができる。
「後は放っておけば治るそうだ」
飛鳥刑事が安心したような笑顔で言った。ルシファーも微笑み返した。
「すまない。俺のために、こんな……」
「いいの。あたしが、自分でしたくてやったことなんだから」
飛鳥刑事の言葉を途中で遮りルシファーが言った。
それっきり、黙り込んでしまった。
「ごめん、俺、帰るから。早く元気になれよ」
飛鳥刑事は堪え兼ねたように立ち上がった。少し足元がふらついているようだ。
「捕まえないの?」
ルシファーが訊いた。
「森中警視が、一度だけ見逃してやるって言ってた。それに、俺もこんな捕まえ方はしたくない」
飛鳥刑事が振り返りもせずに言った。
でも、それじゃ、もう捕まえられないよ、あたしのこと。
ルシファーは心の中で呟いた。
飛鳥刑事が階段を降りていく足音がした。
しばらくしてから、階段を上ってくる足音がした。白衣を着た見慣れない初老の男性が部屋に入ってきた。医師のようである。
「気がついたかい。しばらくは腕を動かさんほうがいい。傷が開いちまう。一応感染症とかが出ないか様子を見てから退院になるからね」
「あ、はい」
映美は医師に訊いてみることにした。
「あたし、どうなったんですか?」
「死にそうだったねぇ」
医師は表情も変えずに言った。
映美はひやりとした。そして、ひやりとしてから、自分がまだ死ぬのを恐れていたことに気づいた。
「動脈に穴があいててね、そっから血がどんどん出てたんだよ。あんた、あの若いあんちゃんには感謝しなきゃいかんよ」
「え?」
「あのあんちゃんがあんたと同じ血液型だってんで、輸血の血が来るまでの間、あのあんちゃんの血で持ちこたえたんだからな」
飛鳥刑事と映美は同じ血液型だということを、映美は初めて知った。
ということは、今自分の体の中を飛鳥刑事の血が流れているんだ。そう思うと、嬉しいような、恥ずかしいような変な気分になった。
その時、ぱたぱたと階段を上ってくる足音がした。
「先生。城田のおじいちゃんが見えましたよ」
看護婦が入って来て医師に声をかけた。
「コウさんかい。あの人は薬さえもらってりゃ満足なんだよねぇ」
いいながら医師は部屋を出て行った。
あの騒ぎの後、修道院は立ち入り禁止になっていた。
しかし、立ち入り禁止にならなかったとしても好んで近寄ろうと言うのは事件好きの物好きくらいだろう。
ここで多くの人命が失われた。地面にはどす黒い血痕が所々に落ちている。
そして、象徴ともいえるキリストの像も、銃弾が当たりひびが入り、所々欠け落ちてしまった。既に信者の手によりキリスト像は撤去されることになっている。
そして、そのあと新しい像が置かれるという予定はない。
そしてこの先、この建物がどうなるかは分からない。
死人がでるような戦いがあった場所である。気味悪がって誰も近づいたりしないだろう。ただ、この街のシンボルであったのだから、そう無下には取り壊せないはずだ。
飛鳥刑事は、修道院の時計塔と鐘つき堂の間の橋に立っていた。
かつて、この修道院に集っていた信者達の姿はない。そして、この修道院をめぐる得体の知れぬ陰謀も潰えたようにみえる。
今、この修道院は静寂に包まれていた。
3時間おきになる鐘の音だけがその静寂をやぶる。いや、その音が、かえって静寂を深いものにしているのかもしれない。
飛鳥刑事は自分の腕時計を見た。まもなく、正午。
あの日、この時間はこの修道院は戦場と化していた。今は、静かである。
あの火の戦いの爪痕は修道院のところどころに残されていた。
ここに来るまでに、乾いた血痕をいくつも目にした。銃弾の痕も。
結局、あの激しい戦いは何だったのだろうか。
ストーンの思惑が知れない限り、それは分からない。
飛鳥刑事に分かることは、あの戦いを最後に、多くのことが終わろうとしているということだった。
何が終わるのかははっきりとは分からない。漠然とした何かが終わろうとしている。
正午の鐘の音。
中庭でさえずっていた鳥達が一斉に飛び立った。
今日は、ルシファーが退院するはずの日だ。
しかし、どうするべきなのかわからない。退院を見送るのか。そんなことして何になる。
結局、飛鳥刑事はここに来た。何をするでもなく、時の過ぎるのを待った。
時計を見ると、まだ正午の鐘から30分しか経っていなかった。
日暮れは、このまま一人で待つには遠すぎる。
飛鳥刑事はしかたなく署に戻ることにした。
同じ時刻。海風を受けながら修道院を彼方に見つめる人影があった。
ローズマリー。
春の遠さを感じさせる冷たい海風がローズマリーの髪を弄んでいる。
凍えそうな風の中、ローズマリーは凍りついたように動かない。
強い風が吹いた。その風を合図にしたようにローズマリーの目が修道院からそれる。
そのまま踵を返し、修道院を背に歩き出した。
数歩ほど歩き、ローズマリーは振り向いた。
言葉では何も言わない。
呟きは、心の中にだけ木霊した。
もう、この街を去る。
でも、まだやり残したことがたくさんあるんだ。
また、いつか戻ってくる。
近い将来かもしれない。遠い未来のことかもしれない。
それまで、待っていてくれるね?
聖華市。聖なる街か。
あたいの思い通りにならない街だった。
次、この街に来たときは、微笑んでおくれ。
さらばだ……。
海からの風に背を押されるようにローズマリーは再び歩き出した。
これから、遠い街に行こう。ほとぼりが冷めるまで。海の無い街がいい。海を見るとこの街のことを思い出すから。
また、悲しい思い出が増えてしまった。
悲しみから、逃れたくて怪盗になったのに……。
ローズマリーの旅は続くだろう。全ての悲しみを忘れるその日まで。
受話器を置いた木下警部が、飛鳥刑事と佐々木刑事に言った。
「たった今、聖華駅から連絡があった。ローズマリーらしい女が北へ向かう快速電車に乗りこんだとのことだ。切符の金額からして、かなり遠くまで行くつもりらしい。追うかね?」
佐々木刑事はかぶりを振った。
「女を追ってそんな遠くまで行く気はありませんよ。しつこい男だと思われるだけです」
それ以上、何かを言おうとする者はなかった。
気まずくなったのか、佐々木刑事は頭をかき、タバコに火をつけた。
映美は病院をでると、タクシーを拾った。
タクシーを止めようと手をあげたとき、腕のつけ根が痛んだ。慌てて腕を下ろしたが、タクシーの運転手は気付いてくれたようだった。
行き先を告げると、タクシーは走り出した。
流れる景色。
あまり通らない道だった。知っているような、知らないような景色。
本当に、映美が住んでいる街なのかどうかさえも分からない。
しばらく走るとようやく見覚えのある道に出た。
遠くに修道院が見えた。あの日の出来事が思い出される。しかし、現実だったのか、夢だったのかさえ分からないほど、朧に感じた。
夢であるはずがない。あの時の傷はまだ痛む。
いつしか、見覚えのある風景から見慣れた風景にかわっていた。
映美のアパートの前にタクシーは止まった。
運転手に料金を渡し、車を降りた。アパートの鍵をポケットからとりだす。
ドアを開け、部屋に入った。玄関の土間に1週間分の新聞がたまっていた。
久々の、自分の部屋。
1週間ほどしか開けてないのに、ずいぶん長いこと戻ってないように感じる。
まず、バイト先に電話を入れることにした。1週間の無断欠勤だ。怒っているかもしれない。
コール音が3回鳴り、4回目の途中で樋口が電話に出た。
「あ、映美ちゃん?退院したんだ」
樋口の言葉に驚いたのは映美のほうだった。
なぜ、樋口が映美の入院を知っているのか。少し考えて、すぐに思い当たった。樋口の次の言葉が、映美の考えが正しいことを証明する。
「刑事さんが来て、撃たれたって聞いてびっくりしたよ。無理しないで、調子が戻ってから出てくればいいよ」
映美の口から短い言葉が洩れる。
「ありがとう……」
「いや、いいって。じゃ、お大事にね」
映美の言葉を聞いて、樋口は照れ臭そうに言った後、受話器を置いた。
しかし、映美の感謝の言葉は樋口に向けられたものではなかった。わざわざ、樋口に伝えてくれた飛鳥刑事に向けられたものだった。
飛鳥刑事の車が走り出した。
小百合はこれから港につく大臣の警護の夜勤があるため、帰りは11時近くになるとのことだった。
独り車を走らせる。
道はすいている。もともと車の通らない道だ。
街並みが途切れて海が見えてきた。そして、フロントグラスに夕日が差し込んでくる。半ば、海に埋もれた夕日が飛鳥刑事の車の中を照らしあげていた。
海沿いのカーブを曲がったとき、修道院の姿が見えた。
夕日を受けてステンドグラスが輝いている。しかし、いつもと変わらぬその外見と違い、中は今も深い沈黙に包まれているはずだった。
街も、いつもと何ら変わらない。
しかし、ローズマリーはこの街を去った。
そうなれば、ルシファーももう現れる必要はないだろう。
もう、会えないのか。
飛鳥刑事の心の中に、一抹の寂しさだけが残った。
やはり、迎えに行くべきだったのかもしれない。
今さらながら、飛鳥刑事は思う。
駐車場に車を停める頃には、日も沈み、辺りは薄暗くなり始めていた。藍色の空に一番星が見えた。
アパートまでの道のりは長くはない。
うす闇の中を歩く飛鳥刑事。
「刑事さん」
角を曲がってしばらく歩いたところで、声をかけられた。
聞きなれた声にはっとして振り向く飛鳥刑事。しかし、姿はない。
気のせいか。
そう思い、向き直ろうとする飛鳥刑事に再び声がかけられた。
「上だよ」
見上げる飛鳥刑事。その目に、年季の入った街路樹の枝が見えた。
その枝の上に腰かけている女性の姿。
ルシファー。
いつも見慣れた黒い衣とは違う。喫茶店の制服でもない。普段着のルシファーだった。
「ル、ルシファー?」
突然のことに動揺している飛鳥刑事の目の前に、ルシファーは降り立った。
逆光とうす闇のため、ルシファーの表情までは見えない。
「この間、ありがとう。血液型、同じでよかった」
ルシファーの言葉に、短く相槌を打つ。しかし、それ以上言葉が出ない。
沈黙。
破ったのはルシファーだった。
「やっぱり、あたしって迷惑かけてばかりだね。ごめんなさい」
ルシファーの言葉に、飛鳥刑事はようやくの思いで言葉を紡ぎだした。
「いや、助けてもらったのはこっちのほうだし。俺のほうこそ、ごめん。君にあんな思いさせる気はなかった」
再びの沈黙。そして、その沈黙を破ったのは、やはりルシファーだった。
「今日は、ルシファーとしての最後の仕事をするために来たの」
「えっ」
戸惑っている飛鳥刑事の手に、何かを握らせるルシファー。
薄闇の中、おぼろげにみえるそれを目を凝らして確認する飛鳥刑事。
「これは……」
飛鳥刑事の手に握られているのはルシファーだった。飛鳥刑事の手のひらの上で、ルシファーがポーズをつけて笑っている。いつか、飛鳥刑事の手から奪い取られたルシファーの人形だった。
「これで、あたしの盗んだ物は全部返したわ。一つだけ、ローズマリーにとられちゃったけど」
ルシファーの声に顔を上げる飛鳥刑事。
「これで、あたしのお仕事はおしまい」
少し寂しそうな響きだった。飛鳥刑事は思わずルシファーに言う。
「もう、会えないのか?」
沈黙。
ルシファーがうなだれるのが見えた。
飛鳥刑事の胸にルシファーが飛び込んできた。
泣いていた。
涙声でルシファーが呟いた。
「最後だから……しばらくこのまま……」
「ああ」
言葉が終わるのを待たずに飛鳥刑事が答えた。
飛鳥刑事の胸に頭をあずけるルシファーの肩をそっと抱き寄せる。
永遠を誓いあった恋人同士のように。
しかし、二人が会うのはこれが最後なのだ。
宵闇が二人を包んでいた。春の遠さを思わせる冷たい風が二人をなぶる。しかし、飛鳥刑事はルシファーの、ルシファーは飛鳥刑事の温もりで寒さから守られていた。
「ね、あたしのこと、捕まえる?これが、最後のチャンスよ」
不意にルシファーが言った。
少し間を置いて、飛鳥刑事が答えた。
「ごめん。俺にはできないよ。こんなやり方で決着をつけたくない」
ルシファーは無言で頷いた。
「やっぱりね。飛鳥刑事らしいよ」
沈黙。
「あのね、あたし……。飛鳥刑事の他にも好きな人がいるの。今、捕まえないと……。あたし、他の人のものになっちゃうよ?」
飛鳥刑事が何か言いかけた。が、先に口を開いたのはルシファーのほうだった。
「ごめん……。迷っているのは本当はあたし。あたしなの……。このまま別れたくないよ……」
飛鳥刑事の服を掴むルシファーの手に力が込められた。
飛鳥刑事はなにも言い返すことができなかった。
何かを言って、ルシファーを傷つけたくはない。沈黙でもルシファーの心が傷ついていくだろうことは飛鳥刑事にも分かる。しかし、言葉で傷つけたくはなかった。
言葉の代わりに、ルシファーを抱きしめる腕に力を入れた。
「ごめんなさい。……また迷惑かけてる。あたし、どうしていつも……」
「いいよ、今日は。今日だけは……」
最後だから。その言葉を飛鳥刑事は飲み込んだ。
「……これが、最後だもんね」
言ったのはルシファーのほうだった。
「ね、最後のわがまま。聞いてくれる?」
無言でルシファーの言葉に頷く飛鳥刑事。ルシファーは、言ってから次の言葉を絞り出すのに躊躇してうつむいている。
「なんだ?」
飛鳥刑事が訊くと、決心したようにルシファーが口を開いた。声のトーンが少し下がっている。
「あたし、もう怪盗をやめるって決心したの。でも……。このままじゃ、またいつか怪盗になりたいと思う日が来るかもしれない。悪魔が私の心にささやきかけないように……、お願い、あたしのこと……ふって」
「え?」
「いつからか……、あたし、あなたに会いたくて怪盗を続けるようになっていた。怪盗になればあなたに会える、そう思って……。あなたがあたしのこと、好きだって言ってくれた時から、どこかにあなたに頼ろうとするあたしがいたの。だから、このままじゃ、またあなたに会いたくなるかもしれない。だから……」
ルシファーが言葉をつまらせた。そして、うつむいていた顔を上げる。目が合った。涙の浮かんだ目から目をそらすように飛鳥刑事が無言のまま頷いた。
「ありがとう」
聞き取れないような小さな声で呟いたルシファーの声には嗚咽が混じっていた。目から涙がこぼれ落ちる。飛鳥刑事がルシファーを抱きしめる腕に力を入れると、ルシファーは飛鳥刑事の胸に顔を埋めた。
二人の横を車が通り過ぎて行った。一瞬だけ、ライトに二人の姿が浮かび上がる。辺りは、いつの間にか夜の闇に包まれていた。それに気付き、飛鳥刑事は空を仰いだ。星が瞬いている。
気がつくと、同じようにルシファーも空を見あげていた。
どれほどの時間が流れたのか。
不意に、ルシファーが体を引き離した。飛鳥刑事とルシファーの目が合った。
「もう、会えないね」
ルシファーが言った。
「これでいいんだ……」
飛鳥刑事が答えた。そう思わなければ辛すぎる。
「ルシファー。せっかく怪盗をやめたんだ。俺なんかのことは忘れて幸せになってくれ。好きな人が、いるんだろ?」
「ね、最後だけ、私のこと、本当の名前で呼んで」
ルシファーの言葉に飛鳥刑事は首を振った。
「本当の名前を知ったら、君のことを探してしまいそうだ。知らないほうがいいと思う」
ルシファーは寂しそうにうなだれた。居たたまれなくなって飛鳥刑事が言う。
「ごめん、最後なのに……。今日だけはいいって言ったのに」
「じゃあ、さ」
次の言葉を待つ飛鳥刑事。
しかし、次の言葉はなかった。
気がつくと、自分の唇がルシファーの唇で塞がれていた。
「最後だから……お別れのキッス、なんてね」
ルシファーが唇を離しながら言った。
「これが、怪盗ルシファーの本当の最後のお仕事かな」
怪盗ルシファーの最後の仕事。奪われたのは飛鳥刑事の唇だった。
だが、それでは今までにやってきた事にあわない。
「待てよ」
飛鳥刑事が離れようとするルシファーの腕を掴んだ。驚き、飛鳥刑事の目を見つめるルシファー。
「な、なに?」
戸惑いながらルシファーが訊く。
「今まで、奪ってきたものは全て、返してきたんだろ?」
飛鳥刑事の言葉の意味するものを理解したルシファーは小さく頷いた。
目を閉じ、飛鳥刑事の方に向けられたルシファーの顔が、遠い微かな街の灯に照らされている。
奪い返されるのを待っているルシファーの唇に、飛鳥刑事は自分の唇を重ねた。
長い口づけだった。まるで、別れを惜しむように。
二人の唇が離れた。
そのまま、言葉もなく見つめあう。
沈黙を破ったのは、やはりルシファーだった。
「あたし、飛鳥刑事のこと、忘れない。あなたがあたしのこと忘れても、絶対に忘れないから」
そういい、ルシファーは闇の中に駆けだして行った。
飛鳥刑事は、闇に溶け込んでいくその背中に向かって呟いた。
「俺も忘れないよ……。忘れるもんか」
すでに足音も聞こえなくなってしまっていた。ルシファーと触れていた感触が、まだ消えずに体に残っているだけだった。それも、ほどなく消えるだろう。そして、ルシファーのことは思い出になる。
手の中に握られた人形。これが、何よりの思い出の品になるだろう。
結局、あいつのことは何も分からなかった。
やっぱり、あいつは悪魔か天使だったのかもしれない。
でも、今は。ルシファーの名前を捨てたのだ。
飛鳥刑事は、ルシファーがさようならを言わなかったことに気がついた。そして、自分も言わなかった。
また会いたい。その思いのためだろうか。飛鳥刑事には分からなかった。
今度会うときは、別な形で会いたい。怪盗と刑事としてではなく。
その思いをこめて、飛鳥刑事は呟いた。
さようなら、俺の小さな悪魔……。
エピローグ
この街を騒がせた怪盗は、多くの謎を残したまま、消えて行った。
ローズマリーは遠くの街で騒がれているのをテレビで見かける。
向こうは向こうで腕利きの刑事達が頑張っているようだが、やはり苦戦しているようである。
ルシファーの話題は、既に世間から消えて久しい。一時期は世間を騒がせた怪盗も、姿を潜めてしまえば忘れ去られてしまう。新しい事件がおき、新しい話題が巻き起こる。時の流れが全てを押し流していく。
怪盗ルシファーは、もういない。残されたのは、空から降りた悪魔でも、天使でもない。この街のどこかで普通に生きている、飛鳥刑事は名前さえも知らない一人の女性だ。
このまま、全ては昔話になり、忘れ去られていくだろう。
しかし、人々が忘れていっても、飛鳥刑事の心からルシファーの事が消えることはない。
忘れない、と誓ったのだから。
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