Hot-blooded inspector Asuka
Episode 1-『堕天使のラブソング』

第26話 Pure heart

 ローズマリーは新聞の1面を見た。
 『青い隕石、死守』という見出しが出ている。
 と言うことはルシファーはあのまま捕まらなかったということ。捕まったのならば、そう書いてあるはずだ。新聞の見出しほど単純なものはない。
 ローズマリーは面白くなさそうに舌打ちした。
 警察は何をやってるんだい。あたいがせっかくとどめを刺すだけにしておいてやったっていうのに。
 やっぱり、警察なんかには任せておけないね。あたいが直接、手を下さなければ。
 ローズマリーは新聞を放り投げ、ソファーに腰を降ろした。

「結局、クリスマスプレゼントはなかったな」
 佐々木刑事がぼそっと呟いた。横で小百合がそれを聞き咎めた。
「え?あげたじゃないですか」
「そうじゃなくてさ。怪盗を捕まえられなかったってことだよ」
 飛鳥刑事が遠くから小百合に言った。
「あ、そー言うこと……」
 小百合は合点がいったようだ。
「イヴのデートを怪盗に盗られちまった。今年のクリスマスはさんざんだ」
 佐々木刑事の言い分に小百合は吹き出す。
「それにしても、こっちももうちょっとというところまで追い詰めたんですけどね。残念でした」
 悔しそうに飛鳥刑事が言う。
「鼻血がでるほど追い詰めたってか」
「鼻血は関係ないです!」
 昨晩は、顔を血だらけにして帰ってきた飛鳥刑事を見て、小百合が卒倒しそうになった。鼻の下を拭って血がついた手で、額に浮かんだ汗を拭ったせいで顔が血まみれになっていたのだった。
「鼻血は転んで顔を打ったんですよ……」
 拗ねて言う飛鳥刑事。自分でも、言われて顔を洗おうと洗面所の鏡の前に立った時にびっくりした。
「まぁ、犯行を阻止したんだからな」
 どこからともなく木下警部が現れた。
「それにしても、最近のルシファーはローズマリーが現れるところに現れてますね。ローズマリーも、何でここにルシファーが来るんだ、みたいな言い方してますよ」
 話題から鼻血を逸らしたい飛鳥刑事が別な話題を持ちだす。
「そういやぁ、そうだな。ルシファーの奴、ローズマリーのこと監視でもしてるのかねぇ」
 佐々木刑事がまだ鼻血のことを話し足りないと言った風情で言った。
「本名も知ってましたしね。あの名前で何か分かったんですか?」
「ああ。ローズマリーの本籍は分かったよ。東京だ。調べて分かったんだが、12年前の4月にローズマリーの父親が自殺している。その前に母親が病死していた。父親の自殺はこれと借金を苦にしてだ」
「なるほど。ローズマリーが高いものしか狙わないっていうのも、分かるような気がしますね。金に対する執着ってわけか」
 佐々木刑事が頷きながら言った。
「ただ、それ以来の足取りはぷっつりと途絶えている。……まぁ、言ってみれば夜逃げってわけだな。借金が一千万ほど残っていたからな」
「ローズマリーも……かわいそうな奴だな。すべての運に見捨てられたような生活をしていたわけか。そして、怪盗になった……」
 感慨深げに飛鳥刑事が呟く。
「ローズマリーが初めて現れたのは5年前だ。それ以前はそれらしい手口の犯行はない。奴は、すべての警備員を眠らせ、悠然と去って行く。そしてそのあとにはローズマリーの香り……。名前の由来もそこから来ている」
 席で煎茶を啜っていた森中警視が湯のみを両手に持ったまま言う。
 それを聞きながら、飛鳥刑事は考えた。
 それならば、ルシファーは、なぜ怪盗を始めたのか。なぜ、怪盗を続けているのか。
 続けている理由を、一度だけ本人に訊ねたこともある。その答え。告白。あなたが、好きだからなのかもしれない。そう答えた。しかし、他にも理由がありそうな言い方をしていた。始めた理由は聞いていない。
 ルシファー。あいつはどんな過去を持っているのか。どんな生き方をしているのか。
 あいつにも、何か心の傷があるのだろうか。犯罪を犯すものは、大体は心に何かの傷を持っているものだ。その穴埋めのために罪を犯す。その原因を取り除くために罪を犯す。罪は、自分勝手なものだ。許されるものではない。しかし、罪を犯す原因は、必ずしも自分にあるとは限らない。
 ルシファーがどんな気持ちで犯行を重ねているのか。
 理由を聞きたかった。
 犯した罪は消えない。
 しかし、許すことはできる。他の人は許さなくても、自分だけは。
 ルシファーの罪が、許せるのならば許してやりたかった。
 あの夜のことが思い出される。あの夜の言葉が。
『盗みなんて、しなければよかった……。怪盗なんて呼ばれて、いい気になって。あなたに告白したことだって。言わなければきっとあなたを苦しめずにすんだのに。全部、あたしが悪いんだ……。』
 後悔。ルシファーの心を満たし淀んでいる気持ち。それでも、いまだに怪盗をやめていない。
 ルシファーは怪盗という行為に何を求めているのか?
 捕まえれば、答えはでるだろう。しかし、その答えがなければ、ルシファーを捕まえられない。その答えを知らずに、ルシファーを捕まえたくはない。
「俺、聞き込み行ってきます」
 飛鳥刑事は立ち上がり、コートを着こんだ。
「そうか」
 木下警部はそれだけしか言わなかった。
 何も言わずに部屋を出て行く飛鳥刑事を、やはり何も言わずに4人は見送った。
 飛鳥刑事の車のエンジンがかかった。それを窓から見下ろしていた森中警視が短く呟く。
「もうすぐ、決着がつくな」
 聞き返すものは誰もいなかった。
 ただ、小百合が不思議そうな顔をしているだけだった。

 映美は、机の引きだしを開けた。
 鉛筆や便箋などが並んで入っている。その上に、ノートが2冊あった。
 そのノートの片方を手に取り、開いてみる。
 そして、小さく頷いた。
 きっとこれだ。
 これをローズマリーからひったくった時のことが思い出される。
 ローズマリーが奇術団の宿舎から出てくるところだった。そこで、これをひったくった。
 ノートの表紙に名前があった。羽丘と書かれている。間違いない。

 ノックの音。
 来客なんてあるはずがない。そう思いながらも、ドアを開けた。
 見覚えのある女性が立っていた。しかし、誰なのか、最初は分からなかった。
「こんにちは」
「え、あ、こ、こんにちわ」
 突然のことで、どう対応していいのかわからない。
 今、目の前にいるのが誰なのか、ようやく思い出した。分からないはずだ。昨日会った時とは、服装も髪型も、化粧さえも違うのだ。目の前の女性は、昨日見た時とは全然印象がちがっていた。
 夢じゃなかったんだ。
 彼女はデパートの紙袋を持っていた。その紙袋を差し出しながら言う。
「昨日の服、洗って持ってきました」
「ありがとう」
 昨日会った時は、自分は怪盗ルシファーだといっていた。しかし、そう呼んでいいのか。
「あと、これ」
 彼女は一冊のノートを差し出してきた。
 見覚えのあるノート。表紙の文字。
「えっ、これは……。どうしてキミが?」
「やっぱりあなたのだったのね。ローズマリーから盗んだの」
 ノートを開いてめくってみる。自分が考えあげたトリックの数々が記されている。
「ごめんなさい。あたしがそれをすぐに返してあげてれば奇術団にいられたんでしょう?知らなかったの、こんなことになっているなんて……」
「もういいよ……。これがあれば、またやり直せる。……やっぱり、キミは天使なのかもしれないな」
 まだうつむいている彼女に声をかける。
「あがってよ。何もしてあげられないけど……」

 飛鳥刑事は、K氏の邸宅周辺の家を順に回って聞き込みを続けていた。
 無駄だというのは分かっていた。何かしていないと気が紛れない。
 昨日たどった道をゆっくりと歩いてみる。ルシファーが逃げた道のり。自分が追った道のり。
 思ったよりも長い。歩いているからだろう。
 昨日転んだ水たまりがある。今は凍っていない。
 そのまま行くと、ルシファーからティッシュをもらった場所があった。
 そして、見失った場所。
 辺りを見渡した。細い道だが、路地とはまだ呼べないだけの広さをもった道。そこから、路地がのびている。
 道をたどってしばらく歩いた。
 道はやがて、より大きな通りに交差する。その通りを曲がってしばらく行くと駅がある。
 目の前を川の水のように止めどなく車が流れていた。
 飛鳥刑事は踵を返し、元の道をたどって行く。
 前から女性が歩いてくる。目が合った。飛鳥刑事は足を止めた。女性は目を逸らした。そのまま足早に飛鳥刑事の横を通り抜けようとする。
「なぁ」
 飛鳥刑事は女性に声をかけた。女性も足を止めた。
「……捕まえないの?」
 その言葉を聞いて飛鳥刑事は溜め息をついた。
「やっぱりルシファーか」
 ルシファーが振り返った。
「捕まえないの?」
 ルシファーが再び言った。また目が合った。今度は悲しそうな目をしていた。
「こんな捕まえ方はしたくないんだ」
 飛鳥刑事は低い声で呟くように言った。
「ルシファー。訊きたいことがある。何で怪盗を始めたんだ?何で今でも続けているんだ?」
「そんなこと、聞いてどうするの?捕まえてからでもいいでしょ?」
 飛鳥刑事の問いにルシファーは答えずに逆に訊き返した。
「……これを聞いておかないと、俺はおまえを捕まえられない。答えてくれ」
 ルシファーは飛鳥刑事から目を逸らした。
 そして、ため息を一つつき、話しだした。
「つまらない理由よ……。馬鹿にされたから。だから怪盗を始めたの。ううん、怪盗なんて始めたつもりはなかったな。周りが、怪盗だっていって騒ぎ立てるから、それが面白くなって……」
 一呼吸開けて、ルシファーは続ける。
「そのあと、ローズマリーが現れた。ライバル意識っていうのかな。そんなことをしているうちに、あなたのことが……好きになっていた」
 ルシファーが再び飛鳥刑事の方に目を向けた。
「いつしか、あなたにあいたい、それが理由になっていた。でも……」
 ルシファーの瞳に悲しげな光が戻ってきた。無理に微笑んでルシファーは続ける。
「不思議だね、いつも、怪盗を続ける理由が違うんだね。今は、ローズマリーをこの街から追い出したい……。あたしが、あいつをここにつれて来たようなものだから。……きっと、ローズマリーがいなくなったらもう怪盗を続ける理由はないんじゃないかな……」
「え?」
 飛鳥刑事は思わず訊き返した。その言葉が意味するものは。それが分かっているかこそ、訊き返した。
「あたし、本当は後悔してるんだ、今までのこと。それに……」
 ルシファーは、さっきまでのことを思い出した。
 源一郎にノートを返した。源一郎は喜んでくれた。人に喜ばれることをすることがこれほど快いことだとは思わなかった。
 自分が怪盗として盗みを働く。飛鳥刑事との追いかけっこ。楽しい時間だ。だが、誰も喜んでくれない。盗まれて悲しむ人がいるだけ。
 そう思い始めた時、全てが虚しくなってしまった。
 その時思ったのだ。
「あたし、もう怪盗……やめる」
 ルシファーは小さな声で呟いた。
「……そうか」
 飛鳥刑事は短く答えただけだった。
「残念?」
 悪戯っぽい笑みを浮かべながらルシファーが訊いた。飛鳥刑事は慌てたように首を振る。
「ば、ばか!怪盗なんかやめたほうがいいんだよ!怪盗なんか……」
 飛鳥刑事はそう言ったきり、うつむいて黙ってしまった。
「ごめんなさい」
 ルシファーが突然飛鳥刑事に向かって頭を下げながら言った。
「え?」
 戸惑いながら飛鳥刑事がルシファーのほうを見た。
「怪盗なんて、やっぱりやるんじゃなかった。だって……やめるって言ってもまた人に迷惑かけちゃうんだもん」
 今度はルシファーのほうがうつむいてしまった。
「そ、そんなんじゃない!俺のことは気にするな」
 飛鳥刑事は慌てたように言った。その言葉を聞いたルシファーの目に涙が浮かんだ。
「ごめん……。ごめんね」
 言いながらしゃくりあげるルシファーに、飛鳥刑事はなにも言えなかった。励ますような言葉をかけてやることもできない。
 俺はなにもできないダメな男だ。
 飛鳥刑事は、自分が情けなくなった。

 飛鳥刑事が署に戻ると、佐々木刑事が出てくるところだった。
「ナーイスタイミング!車に乗れ!」
 言われるままに車に乗り込む飛鳥刑事。乗ってから訊く。
「何があったんですか?」
 エンジンをかけながら佐々木刑事が答える。
「ローズマリーだよ。ここんところ失敗ばかりだからあいつも焦ってるんだろう。ペースあげて来やがった」
 車が急発進した。すいている道で一気に加速する。後ろで木下警部と森中警視が車を出すのが見えた。
「そっちの聞き込みはどうだった?何かつかめたか?」
 佐々木刑事の問いに飛鳥刑事は短く答えた。
「いえ、たいしたことは」
「そうか。じゃ、ちょっとしたことはあったんだな」
 それ以上佐々木刑事は何も言ってこない。
 車が停まった。
 大きな屋敷だった。
 屋敷の中では、主人がおどおどしていた。
「ローズマリーが現れたっていうのはここですね」
 佐々木刑事が聞いた。主人が頷いた。
 主人に案内されて屋敷の中の小さな部屋に入った。
 民間の警備員が、眠そうな顔で座っていた。どうやらたった今たたき起こされたようだ。
「盗まれたものは?」
 佐々木刑事の問いに、主人はしばらく考えてから答えた。
「宝石が20個ほど……」
「20個?ずいぶん持ってましたねー……」
 佐々木刑事は呆れたように言った。
「外国に旅行に行く度に買っていたもので……」
「はぁ。税金大変だったでしょ?で、具体的な総額は?」
「200万くらいですかね……」
「宝石にしては安いですね」
「外国ですから」
 主人はおどおどしているのだが、佐々木刑事がのんきなので、段々落ち着いて来ているようだ。
 大体、こう言うときは、落ち着いてきたところに佐々木刑事が余計なことを言って不安を煽ることが多い。
 森中警視と木下警部が部屋に入ってきた。
「何か分かったかね?」
「今、先輩が事情を聞いています」
 森中警視の言葉に飛鳥刑事が答えた。
「通報によると、ローズマリーが入ったのは20分も前だそうだ。玄関のチャイムがなったので応対に出た主人は、いきなりローズマリーの催眠術で眠らされ、目が覚めた時は金庫は空。で、通報したということだ」
 通報を受けたのは木下警部らしい。森中警視もその言葉をなるほど、といった顔で聞いている。
「今さら来ても手遅れだったな」
 森中警視が言った時、後ろで主人が騒ぎ出した。案の定、佐々木刑事が何か言ったのだろう。
「飛鳥君、現場は木下君と佐々木君に任せて、我々は聞き込みに行こう」
 森中警視が言った。飛鳥刑事は頷くと、そのまま森中警視の後について行った。
 主人は、まだ興奮気味に騒いでいた。本当に佐々木刑事に任せておいていいのか、少し不安になった。

 ノックの音。誰がきたのかは分かった。
「入りな」
 入って来たのは案の定004だった。
「よう、久々にあがりがあったんだって?」
 ローズマリーは004を睨みつけた。
「いやなこと言うね」
「でも本当のことだ」
「本当のことを言われるといやなんだけどね」
「そうだろうけど。一応言っとかないとな」
「何が一応だい」
 ローズマリーは呆れてため息をついた。
「でかいものを狙うと、すぐにルシファーが食らいついて来やがるんだよ。どこで探ってるんだか」
 ローズマリーは、まだこの部屋に盗聴器があることに気付いていない。
 その盗聴器が隠されている棚から、ビニール袋に入った宝石を持って来て004に手渡す。選りにもよってビニール袋に入れられている宝石を見て004はおいおい、と言うような顔をした。
「にしても、ずいぶんあるな。じゃ、こいつは確かに。それと、今日来たのはこれだけじゃないんだな」
「何だい?」
「総裁から話があってな。またお前の力が借りたいそうだ」
「今度は何だい?」
 総裁からの依頼。いつも大した仕事ではない。しかし、組織にとっては大きなものなのだろう。報酬はまさかと思うほどの金額が来る。
 しかし、今回の依頼は、ずいぶんと大きな仕事だった。
「建物が一つほしいらしい。海沿いの修道院だそうだ」
 ローズマリーは動きを止めた。この街はキリスト教の街だ。その町のシンボルとして知られる、海沿いの大きな修道院。
「でかい仕事だね……」
「ほかに言えるのは、あそこに新しい支部ができるということだけだ」
 あの建物を、どうやって盗むのか。
 そもそも、あの建物を盗むということはどういうことなのか。
「詳しい計画については、後日総裁から直々に話があるらしい。組織の中でも、かなりでかいプロジェクトのようだ。そもそも、ここに支部を持つということがかなり重要なことらしい」
「どうしてだい?」
 この街はたしかに金持ちの多い街だ。しかし、それ以上に何があると言うのか。
 004は立ち上がりながら言った。
「お前が思うほど、この街はつまらない街じゃないってことだ」
 そして別れの挨拶がわりに片手をあげ、部屋を出ていった。
「つまらないなんて思っちゃいないけどね」
 呟きながらローズマリーは窓から外を見た。
 修道院。ローズマリーの部屋からも、建物の陰になりながらもどうにか見ることができる。
 かなり大きな建物。この街の歴史そのものと言ってもいい建物だ。
 あれを、どう盗むのか。今から、楽しみだ。
 ローズマリーの口元には、笑みが浮かんでいた。

 年が明けた。
 年末にも、ローズマリーは何度か現れた。しかし、ルシファーは一度も現れなかった。
 やはり、怪盗をやめるのか。
 窓から外を見る。窓の外には雪が舞っていた。
 しかし、ルシファーは言っていた。ローズマリーをこの街から追い出したい、と。
 ローズマリーがこの街にいるかぎり、ルシファーは現れる。
 あの時の、悲しみをたたえた瞳。
 飛鳥刑事も、怪盗のほかにも多くの犯罪者を見てきた。しかし、あのような目の犯罪者は今まで会ったことがない。。
 いつか、もっと前に、間近でルシファーの目を見たことがあった。
 子供のような、邪気のない瞳。
 1年近い時間が、彼女を変えていた。
 原因が自分にあることも分かっている。悲しませたのは、自分だ。
 俺が、あの瞳を奪ったのだ。
 雪はいつしか、本格的に降り出していた。今度は積もりそうだった。

 ドアがノックされた。
 源一郎がドアを開けると、映美が立っていた。別に着飾るでもない。
「明けまして、おめでとう」
 映美は微笑みながら言った。
 源一郎も、同じことを言う。
「あがってよ。寒いでしょ?」
 源一郎は、映美を自分のアパートに招き入れた。
「バイト、見つかったんだ。これでお金をためたら、また一からやり直すんだ」
 源一郎が嬉しそうに言った。
「本当?よかったじゃない!……でも、一人で手品をやるのって、大変じゃない?」
 映美は心配そうに言った。
「駅前の大道芸から始めるつもりだよ。それなら、多少地味な手品でもみんな見てくれるから」
 源一郎の手品は映美が見てもすごいと思うような手品だった。
 生憎、今は資金がなくて、バラ、それも近所のパーティホールで出る使い古しの萎れかかったバラをどこからともなく出す、と言うものしかできない。
 しかし、喫茶店の樋口から、源一郎のことが聞けた。稲城奇術団の期待の新人。しかし、最近はあまり聞かなくなった、と言っていた。
 樋口は手品は詳しくなかったが、聖華テレビでは、季節に1回、稲城奇術団の特番を流す。それを見て少しは知っていたのだと言う。
 樋口の話では、ベテラン顔負けの手品をやらかしているとのことだが、詳しくない人の話なのであまり参考にはならない。
 それでも、そこそこに名の知れたマジシャンではあったのだ。
 それが、今はこんなボロアパートにこもって、萎れたバラを出す手品しかできない。
 あたしが悪いんだ。
 映美はどうしてもそう思ってしまう。
 あたしが、この街に戻ってこなければ、ローズマリーだってこの街に来ることはなかっただろう。そうすれば、この人のトリックノートがローズマリーに盗まれることもなかった。
 それに、どうせ予告状もない盗みだったのだ。返してやることもできたはずだ。
 どうしようもなかったこととはいえ、自分に責任を感じてしまう。
 きっと、あたしが盗んださまざまなものの持ち主達も、悲しい思いをしただろう。喜んだ人なんていない。
 そう思うと、自分のしてきたことが悔やまれた。
「あたし、怪盗、やめたいと思ってるの……」
 映美はそう呟いた。
 源一郎は何も言わず、ただ微笑んでいる。子供のような穏やかな顔で。
 全てを、打ち明けよう。映美は決意した。
 自分が怪盗になったわけ。自分が起こした事件。遠くの街に行き、そこでまた騒ぎを起こしたこと。ローズマリーのこと。またこの街に戻ってきたこと。
 飛鳥刑事については触れなかった。飛鳥刑事のことを考えると、怪盗をやめられなくなってしまう。
 話しているうちに、怪盗としての日々が鮮明に甦ってきた。まだ、懐かしいと言えない。最近の話。だから、何もかもを鮮明に憶えている。たどった路地、飛び回った屋根の一つ一つを思い出せそうだった。飛鳥刑事と交わした言葉の一つ一つも。
 気がつくと、窓の外は真っ暗になっていた。
「ごめんなさい、お正月からこんな話しちゃって。まだ会って間もないのに……」
 言いながら映美は時計を見た。正午過ぎに来たのに、もう6時を回っている。
「ううん、面白かったよ。あ、こんな言い方しちゃ悪いのかな」
「あたしも、楽しかった。……でね、やめるって言ったのに、そんなこと言っちゃ」
 映美はそういい、うつむいた。
「全然お正月らしい話、できなかったね。もう遅いし帰らなきゃ……」
 言いながら、窓の外を見た。
 雪が降っている。空の上の雲が見えないくらいに今も降り続けている。積もっていた。街の全てが雪の中に埋もれている。
「すごい雪……」
「帰れそうにないね。……今夜は泊っていったら?」
 源一郎の言葉に映美は驚いた。源一郎の顔を覗きこむ。
 男に泊まれと誘われたのは初めてだった。飛鳥刑事の部屋に泊まり込んだことはあるが、あれは自分が頼みこんで泊めてもらったのだ。映美の胸は高鳴っている。
 しかし源一郎はいつもと変わらない顔で微笑んでいる。下心などなさそうだ。
「もっと、いろんな話を聞かせてよ。ぼくも何か話してあげる。つまらないかもしれないけど」
 源一郎の言葉に映美は小さく頷いた。
 映美と源一郎は夜通しお喋りをした。
 何もかも忘れられる時間を過ごした。
 飛鳥刑事とはこんな時は過ごせない。
 おそらく、こんな感じでは話せない。
 ぎこちなくなってしまうことだろう。
 また、飛鳥刑事のことを考えている。
 映美の心はまだ葛藤に揺らいでいる。

 廃屋。
 この古びた洋館に、それはごく自然に置かれていた。
 ルシファーが今までに盗んだ物。一つ一つ手にとってみる。まだ、それらを盗んだ時のことがありありと思い出される。
 宝石で飾られた宝冠。これはローズマリーから奪い取った物だ。船から降りてきたローズマリーの手からひったくった。あの時のローズマリーの悔しそうな顔。
 小さな人形。怪盗ルシファー、自分の人形。これは飛鳥刑事が持っていたものだ。自分の人形があると知って、どんな人形かわくわくしながら盗みに行った。どさくさに紛れて飛鳥刑事の手を握ったことまで憶えている。
 絵。大きなものではない。映美は、あまり芸術と言うものがよくは分からない。ただ、素人が見てもきれいな絵だとは思う。この絵には映美の思い出がある。クイーンズパレス。告白の夜、その時の収穫だった。
 巻き物。古いものではない。高いものでもない。これを書いたのはちょっと筆のたつ素人だ。これをとった時、あの柳とか言うハゲ頭の男に銃を向けられた。あの時は怖かったが、今はもうあの時のことを思い出してもあまり怖くない。
 時計。やはりこの聖華市は聖なる都市なのだ。空から降りた悪魔、怪盗ルシファーには、聖華市にきてからはつらいことばかり起きている。ルシファーと映美。二人の自分。一人は飛鳥刑事と恋に落ちた怪盗。もう一人は飛鳥刑事とは全然関係のない一人の女。映美として飛鳥刑事とあった時の寂しさをまぎらわすために盗んだのがこの時計。
 ダイヤ。ローズマリーに叩きつけた挑戦状。ローズマリーは怒り狂い、ルシファーを殺そうとした。
 目の前にあるさまざまな物。一つ一つに、怪盗ルシファーとしての記憶が、思い出が宿っていた。どれを、いつ、どのように盗んだのか。全てを思い出すことができた。
 今まで、これらのものを売ろうと思ったことはない。それは、これを売れば警察に正体を知られることになる、ということもあった。しかし、それ以上に、手放したくなかったのだ。ルシファーとしての思い出を。
 でも、それももう終わりだ。
 ルシファーとしての日々に別れを告げるには、これらの物が、ルシファーとしての思い出が邪魔だった。
 持ち主に返そう。
 罪は消えない。でも、これを返すことで自分の中からルシファーとしての日々が薄れていくだろう。たとえ、完全に消すことはできなくても。
 つい先日盗んだばかりのダイヤ。これを見つめていると、あの時のローズマリーの恐怖が甦って来た。
 映美はそれを手にとり、立ち上がった。
 そして、歩きだす。
 自分の思い出と訣別するために。

 外は雪が降っていた。
 全てが雪に埋もれている。
 純白の街並み。
 あまりにも神々しかった。
 やはり、ここは聖なる都市なのだ。
 降りかかる白く煌めく雪が、まるで自分の中に生まれた悪魔との訣別を決めた映美を祝福しているようだった。
 新しい年が始まった。
 どんな年になるのかは、まだ分からない。
 ただ言えるのは、怪盗ルシファーが、昔話に変わっていく年になるということだった。
 それは、世間にとっても、飛鳥刑事にとっても、そして、映美にとっても同じだろう。
 雪は降り続いていた。
 外を歩く人影は少ない。
 まるで、空が映美の邪魔をする者を退けていくようだった。
 白い雪。この雪のように、真っ白な汚れのない心に戻れるのだろうか。

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