Hot-blooded inspector Asuka
Episode 1-『堕天使のラブソング』

第25話 空から降りた

 夜が明けた。
 目覚ましの音に布団から這い出そうとする飛鳥刑事。しかし、一瞬躊躇する。
 今日は特に冷える。
 それでも、布団から這い出し、目覚ましを止めた。そして、大きく伸びをする。
 カーテンを開けると一面の銀世界であった。
 こりゃ、寒いわけだ。
 飛鳥刑事は眩しさに目を細めながら思った。
 新聞を取ろうと玄関のほうに行く。しかし、新聞はない。飛鳥刑事は玄関のドアを開けた。新聞は外にあった。
 クリスマスが近い。そのせいで、折込広告の量がものすごかった。
 道路を見ると、新聞配達の足跡が残っていた。雪は夜から降り出したようだ。今は小康状態だが、空の様子を見るかぎり油断はできない。
 やれやれ、タイヤにチェーンをつけないといけないな。まったく、こんな日に限って。
 考えながらドアを閉める。
 飛鳥刑事は気づかなかった。道路の反対側に、飛鳥刑事の部屋の前で引き返している足跡があることに。

「飛鳥刑事ー!」
 小百合の声がした。部屋のドアを叩いている。
「こっちこっちー!」
 飛鳥刑事はタイヤにチェーンをつけ終わったところだった。小百合が声のした駐車場に行くと、ジャージ姿の飛鳥刑事がジャッキなどをトランクにしまっていた。
「ごめん、今着替えてくるから。寒いけど車の中で待っててよ。ヒーターは入れてあるけど」
 飛鳥刑事は小百合に車のキーを渡した。
 小百合が車に乗り込む。確かにヒーターは入れられていたが、まだ冷たい風が出ているだけだ。
 その風が温まってくる頃、飛鳥刑事がいつもの格好で出てきた。
「参ったよ。いきなり降ったんだな」
「うん。でもいいじゃない。やっぱりこうじゃなくちゃね」
 苦笑しながら飛鳥刑事はハンドルに手をかけ、冷たさに少し引っ込めた。
「その様子だと、朝からずっとチェーンかけてたみたいね」
「うん。急だったからね」
「だと思って、サンドイッチ作っておいたの。食べて」
 小百合がアルミホイルに包まったサンドイッチをさしだしてきた。
「えっ。ありがとう、助かるぅ!」
 大喜びでサンドイッチに手を出す飛鳥刑事。右手でハンドルをきりながら左手でサンドイッチをほおばる。
 雪はそんなに積もってはおらず、チェーンで車が派手にがたがた言っている。その振動で舌をかみそうになりながらもサンドイッチを平らげた。
 そうこうしている内に、いつもより少し遅いが警察署に着いた。
「おはよう、二人とも」
 刑事課に入ると木下警部が既に来ていた。二人が挨拶する。
「突然の雪で参ったな。今日は少し早めに出てきたんだが……。だいぶ早くついてしまってな。退屈していたところだ」
 そこに、森中警視も入ってくる。歩いてきたらしく、頭と肩に雪が積もっていた。
「おお寒い寒い」
 と言いながらストーブにあたろうとして、肩の雪に初めて気がついたらしい。
「おっと、いかんいかん」
 と言いながら、慌てて外に出ていった。
「な、何です、今の」
 小百合が言った。
「何って、森中警視じゃないか」
 飛鳥刑事が答える。
「それは分かってるけど。あの格好……」
「ソビエトの服だったなぁ。しかし、妙に似合っていたのはなぜ……?」
 木下警部が呟く。
 ソ連の将校のような服の森中警視が雪を落として入ってきた。
「何て格好で来るんですか」
 飛鳥刑事がつっこんだ。
「いや、まさか雪が降るとは思わなかったからな。慌てて出ようと思ったら、ちょうどいつも来ているコートをクリーニングに出したところで、暖かそうな上着が見当たらなくてな。とりあえず目についたこれで」
 森中警視の弁明を聞いて飛鳥刑事は苦笑する。
「そんな服が真っ先に目につくっていうのは……」
 木下警部は事情がよくわかっていないので、不思議そうな顔をするばかりである。まさか、コレクションしているとは思いもつかないだろう。
「佐々木君はまだこないのかね?」
 森中警視が言った。飛鳥刑事が外を見ながら答える。
「チェーンでもつけてるんじゃないですか?……あ、来た」
 その言葉に一同窓の外に目を向ける。彼らの目に映ったのは、タクシーから降りた佐々木刑事の姿だった。
「痛い出費ですよ。まったく、この年の瀬に」
 部屋に入ってくるなり佐々木刑事がぼやいた。朝起きると雪が積もっていたので、タイヤにチェーンをつけようとしたが、とても間に合いそうにないので諦めてタクシーで来たという。
「佐々木刑事、今日は遅刻かって言ってたんですよ」
 小百合が言った。
「ふふふ、俺を甘く見ちゃいけねぇぜ。俺は諦めがいいんだ、タクシー代くらい払ってやるぜ」
 まだタクシー代にこだわっているところをみるとまだ諦めきれてはいないようだが。
 森中警視が着替え終わって入ってきた。あまりすごい格好でいるところを佐々木刑事に見られるとどんなツッコミを入れられるか分からんといって着替えに行っていたのだ。
「今日は絶対遅刻だと思ったんだがねぇ。賭けをやってたら危なかったな」
 警察官とは思えない科白を吐く森中警視。
「思ったよりも仕事熱心なようだな、よい事だ」
 木下警部が言った。そして、いつものように仕事が始まった。その間際、佐々木刑事がぼそぼそ呟いた言葉を飛鳥刑事は聞き逃さなかった。
「仕事に行くためだと思うと、わざわざチェーン付ける気にならなかったんだよな」

 昼過ぎには、空は晴れ上がり、うっすらと積もっていた雪もほとんど見あたたらなくなっていた。
「あーあ、帰る時はチェーン外さなきゃ」
 道路を見下ろしながら飛鳥刑事が呟いた。
「だからチェーンをつけるのばかばかしいと思ったんだ。この時期の雪は長持ちしねぇ」
 佐々木刑事が勝ち誇ったような笑みを浮かべながら言った。
「せっかくホワイトクリスマスになると思ったのに」
 いつの間に来たのか、小百合が後ろに立っていた。
 そう、今日はクリスマスイヴなのだ。
「イヴのデートにチェーンでがたがたする車でドライブなんて興醒めだからな」
 佐々木刑事が言った。
「やだぁ」
 佐々木刑事の言葉に小百合が笑う。
 そのとき、電話のベルがなった。木下警部が受話器を取る。
「はい、聖華署。……ル、ルシファー!?」
 その声に飛鳥刑事達の視線が木下警部に集まる。
「お、おい!?待て……切りやがった!」
 木下警部は忌々しげに受話器をおくと、飛鳥刑事達の方に向き直り言った。
「ルシファーから予告だ。これから3丁目のK氏邸から『青い隕石』を頂くそうだ。まったく、直接警察に電話してくるとは、とんでもない奴だ」
 佐々木刑事がガックリとうなだれながら言った。
「デ、デートが……。選りにもよってこんなときに……。聖華市民はクリスマスには大人しくしてろ!」
「ほらほら、お仕事ですよ!」
 クスクスと笑いながら小百合が佐々木刑事の背中をぽんと叩いた。

「ええっ、怪盗が!?」
 K氏は怪盗と聞いて真っ青になった。
「はい。先刻怪盗から予告がありまして。狙われているのは『青い隕石』というものらしいですが……」
 言われてK氏は頷いた。
「や、やはりそれですか……」
 K氏は金庫を開けて、中から大きめの宝石箱を取り出した。中には、大きなサファイアが入っていた。
「それが『青い隕石』ですか?」
 森中警視の問いにK氏が頷いた。
「先日、知り合いの宝石商が仕入れたのを購入したんです。まさか、こんなに早く狙われるとは……」
 K氏は落ち着かない様子で警察の面々を見渡した。
「だ、大丈夫なんでしょうね……」
「最善を尽くしてみますが、相手は怪盗ですから……」
 不安そうなK氏に対し、不安を煽るようなことを言いだす木下警部。言ったあと、しまったという顔をする。
「そ、そんなああぁぁ!」
「さ、小百合君、警備頼むぞ!」
 今にも泣き出しそうなK氏を無視して、木下警部は警備の様子を見に部屋を出ていった。

 K氏の屋敷の周りには、既に警備の手が回されていた。
「な、何でだい!?」
 ローズマリーは唖然となった。なぜ、もう警察が?まだあたいは何もしていないと言うのに……。
 慌てて路地に身を隠すローズマリー。
 しかし、ここまで来てしまった以上、今さら引き返すのもローズマリーのプライドが許さない。
 ローズマリーは懐から宝石の粉の袋を取り出した。
「しょうがないねぇ……」
 そう呟き、路地から玄関先にたつ警官に目を向けた。そして。
「きゃああぁぁ!」
 ローズマリーはわざとらしい悲鳴をあげた。玄関先の警官達は顔を見合わせ、少し迷ったあと、二人ともローズマリーの方に走ってきた。
 警官達が路地に駆け込んでくる。二人の目に飛び込んできたのは、宝石の袋を掲げたローズマリーの姿。二人の警官は、袋から零れ落ちる宝石の粉を直視してしまい、放心状態になった。
 ほくそ笑むローズマリー。
「そこだと他の警官に見つかるからね。こっちにおいで……」
 ローズマリーは警官を路地の奥へと誘い込む。
「何か騒がしいようだけど、何があったんだい?」
 ローズマリーの問いに、警官達は答える。
「ルシファーが……」
「『青い隕石』を……」
 それだけ聞けば充分だ。ローズマリーは指をぱちんと鳴らした。警官達は、そのまま地面に突っ伏し、眠り込んでしまった。
「おやすみ、日も暮れかかってるし、風邪をひかないようにね……。それにしても、またしてもルシファーか……。まぁいい。飛んで火に入る夏の虫ってやつだね……」
 びゅう、と木枯らしが吹いた。ローズマリーは身を震わせた。

 その様子を、屋根の上でじっと見続ける黒い影。
 ルシファー。ローズマリーが邸宅内に入って行くを見て、小さく頷いた。
「よかった、思ったより早く来てくれて……。さ、寒い寒い!」
 小さく震えると、ルシファーは屋根から降りて邸宅の屋根にある小窓の前に立ち、ガラスを軽く叩いた。
 中で警備していた警官が、その音を聞きつけ、窓の方に目を向けた。そして、窓の前に立っているルシファーの姿に気づいた。
「ル、ルシファーだ!」
 警官が叫びながら窓に駆け寄ってくる。ルシファーは逃げるように飛び退いた。警官は窓を開け、ルシファーの消えた方向に顔を向けた。その視界の端に黒い影が捉えられた。ルシファーは消えた方向とは逆の方にいた。警官がそれに気づいた時には、既にルシファーは部屋に滑り込むところだった。
「ありがとっ♪」
 窓から入り込んだルシファーは、それと同時に警官をロープで縛りあげていた。目にもとまらぬ早業。
 叫び声を聞いた警官達が部屋に駆け込んできた。そして、見渡す。部屋にはロープで縛られた警官がいるだけだ。その警官のロープを慌てて解く。
「おい、ルシファーはどこだ!?」
「て、天井裏だ!」
 見上げると、天井の板が一枚はずされている。
「どうする?」
「だめだ、とても登れそうにない。ここは、警部に報告するのが先決だ!」
 警官達は部屋を出ようと扉のノブを回した。
 かちゃっ。
 ノブは、手応えもなく根元からはずれた。
 とれたノブを無言で見つめていた警官達は、ドアを押してみた。開かない。体当たりする。それでも開かない。
 警官達は声をそろえて叫んだ。
「助けてくださああぁぁぁい!警部ぅ〜!」

「ん?誰か、呼んだか?」
 木下警部は辺りを見回した。部屋の中にいる面々は揃って首を横に振る。
「来ましたかね……」
 佐々木刑事が言った。
「早いとこ来てもらわないと、デートに遅れちまう」
 佐々木刑事はさっきから時計を気にしている。
 その時、正面のドアが勢いよく開いた。
 ルシファーか!?
 しかし、現れたのはローズマリーだった。
「ローズマリー!?な、何でお前がここに!?」
 飛鳥刑事が訊いた。
「それはこっちの科白だよ!来てみたら警察が先回りしているじゃないか!しかもルシファーも来るんだって!?あたいはそんな話きいてないよ!」
 ローズマリーが言った。怒鳴ったと言ってもいい。
「ほんの30分前にルシファーから電話があってな。『青い隕石』を狙っているらしい」
 木下警部の言葉に、相変わらず怒ったような口調でローズマリーが答えた。
「ついさっき、警官からきいたよ。30分前じゃ、あたいが出た後じゃないか。まさか、ルシファーの奴、知ってたんじゃないだろうね……」
「本人に訊いてみたらどうだ?刑務所の中でじっくりとな……」
 佐々木刑事がローズマリーを挑発する。
「残念だけど、刑務所に行くのはルシファーだけだよ」
 ローズマリーが袋を構えた。
「そうはいかねぇぞ!」
 佐々木刑事がローズマリーの手を蹴り上げた。袋が宙に舞う。それを飛鳥刑事が受け止めた。
「チッ、やるじゃないか。でもこれで終わったと思っちゃいけないよ!」
 ローズマリーが佐々木刑事に蹴りを放った。佐々木刑事はそれをすんでのところで躱す。そして体勢を立て直す暇も与えず、裏拳がさらに繰り出される。
 ごっ。
 佐々木刑事は裏拳を食らい、よろめいた。後ろで警備していた小百合が短く悲鳴をあげた。
 ローズマリーは飛鳥刑事を探して辺りを見渡した。その時、背後から腕を掴まれた。慌てて振り向こうとするが、腕があっという間にねじり上げられる。
 痛みに顔を歪めるローズマリー。その視界の端に、自分の腕を掴む飛鳥刑事の姿が映る。
「あじな真似をしてくれるじゃないか……」
 木下警部が手錠を手にローズマリーに飛び掛かる。ローズマリーの蹴りを恐れてサイドからだ。その木下警部の横っ面を手刀で叩く。そのまま、後ろの飛鳥刑事の顔面に肘を叩きこんだ。飛鳥刑事の力が緩み、ローズマリーは逃れることができた。
「離れろ!」
 森中警視の怒号が響いた。
 木下警部が横に跳んだ。その影になっていた森中警視の姿が見えた。肩にバズーカ砲をかついでローズマリーのほうを狙っていた。
「な……冗談じゃないよっ!またそんなもので……」
 その言葉が終わらないうちに、森中警視の手が動いた。ローズマリーは慌てて横に飛び退く。
 ボン!
 鈍い音がした。
「失敗だ!」
 森中警視が言った。バズーカから網が出ていた。どこかに引っかかって全部出なかったようだ。
「おどかすんじゃないよ!」
 ローズマリーは立ち上がりながら言った。
 そこに、体勢を立て直した飛鳥刑事と佐々木刑事が飛び掛かった。
 ローズマリーはどうにかかわしたが、さすがに二人がかりでかかってくる刑事に押され、ついには背中を向けて逃げ出した。
「逃げるんじゃねぇ!」
 佐々木刑事が怒鳴る。当然ローズマリーは止まらない。
「こっちだって逃げたくて逃げてるんじゃないよっ!」
 ローズマリーは玄関のドアを開け、外に飛び出した。
 その時、飛鳥刑事の目に、火柱のようなものが見えた。
「ぅあっつうううぅ!」
 外に出たローズマリーが叫ぶ。
 玄関の庇の部分に花火が括りつけられていたらしい。驚いて足を止めたローズマリーの頭に色とりどりの火の粉がふりかかった
「な、何だこれ。森中警視が仕掛けたのか!?」
 佐々木刑事が言った。
「まさか……」
 飛鳥刑事はまさかとは思いながらも否定できない。
 そうこうしているうちにも、ローズマリーは甲高い声をあげながら火の粉の向こうに走り去っていった。
 パァン!
 すさまじい音と共に、辺りが煙幕のような煙に包まれた。そして、その煙が晴れると、たれ幕がぶらさがっていた。
 たれ幕には『ルシファー登場!』と大きく書かれている。
 飛鳥刑事と佐々木刑事は顔を見合わせた。
「や、やばい!」
「戻りましょう!」
 二人はもと来た道を引き返す。
 まだ、部屋には森中警視と木下警部、そして小百合の3人がいたはずだ。その3人がいるのに、そうあっさりと金庫に近づけるはずがない。
 二人はそう思いながら部屋に駆け込んだ。
 目に飛び込んできたのは、惨澹たるありさまだった。
 木下警部と森中警視は背中合せに縛りつけられ、床に転がっていた。小百合は、足を縛られ天井に逆さ吊りになっていた。
「な、何であんだけの時間でこんなになるんだぁ!?」
 佐々木刑事が言った。
「と、とにかく早く捕まえないと……!」
 慌てて駆け寄ろうとする二人の頭の上を、ルシファーは軽々と飛び越えていった。振り返る二人。
「ふふふ、もう遅いわよ!」
 ルシファーは手に持った『青い隕石』を二人に見せながら言った。そして軽くウィンクする。
「おいおいおいおい、早くないか!?」
「そりゃ、怪盗だもん♪」
 そういいながらルシファーは手を振り、走り去って行く。
「待てぇ!」
 飛鳥刑事はルシファーを追った。
「だ、だいじょうぶっすか?」
 ルシファーを追って駆けだして行く飛鳥刑事を見送った佐々木刑事は、床で縛られて渋い顔をしている森中警視と木下警部に言った。
「縛られただけだ。とりあえず西川君のほうを助けてやってくれ」
 森中警視は憮然とした声で答えた。
「た、助けてくださいぃ、頭に血が上るー……」
 小百合が情けない声をあげた。
「しかし、手が届かないしなぁ」
 佐々木刑事は辺りを見回し、手ごろな椅子をとってきた。そして、小百合の足にかかったロープをほどこうとする。
「ほどけそうにないな、固く縛ってありやがる」
「そんなぁ!」
 佐々木刑事の言葉に喚く小百合。
「まかせとけって。ロープを切るから、頭から落ちたくなければ俺にしっかり掴まってろ」
 言われて小百合は佐々木刑事の首に逆さ吊りのまま腕を回した。
 佐々木刑事は内ポケットの銃を取り出し、ロープを撃った。弾はロープを断ち切った。小百合が落ちた。それをもう片方の手で受け止める。銃を放り投げ、その手で小百合の体を支えた。
 小百合の重さでバランスを崩しそうになる佐々木刑事。しかし、どうにか体勢を立て直した。
 ばき。
 椅子がもたなかった。二人は床に折り重なるようにして落ちた。
「小百合ちゃん、重過ぎ……」
 佐々木刑事の言葉に、小百合は怒って平手を飛ばした。
「じょ、冗談冗談!」
「冗談でも言っていいことと悪いことがありますよっ!!気にしてるんですから!」
 森中警視と木下警部も二人の手により自由になった。
「いや、まいった。ルシファーが入ってきたことに気付く暇もなかったな」
 木下警部が言い訳するように言った。
「せっかく持ってきた道具も使う暇がなかった」
 ぼやく森中警視の目線の先には農薬の散布機のようなものがあった。
「火炎放射器なんて室内で使うもんじゃないですよ」
 あきれて言う佐々木刑事。
「少し改良して低温で燃える燃料が入っているんだ。ワンタッチで消火剤にも切り替わるし。その辺は安心してくれ」
「消火剤って、燃えるのを予測してるじゃないですか。それより、ルシファーが持っていったのは本物の方ですか?」
 その言葉に、かぶりを振る木下警部。しかし、それは否定を意味するものではない。
「いや、わたしはよく見られなかった。テーブルの影になっててな」
 と言うことは、一緒に縛られていた森中警視も見ていないということだろう。
 小百合と目が合った。小百合は困った顔で肩をすくめた。やはり見ていないらしい。
 百聞は一見にしかずだ。金庫の中の財布を取り出す佐々木刑事。中には小銭に混じって小さな巾着袋が入っていた。そして、その中から宝石を取り出す。
「無事みたいだな」
 ほっとしたように木下警部が言った。
「あとは、飛鳥しだいか」
 佐々木刑事は部屋の外に目を向けた。何かあるわけではない。ただ、さっき飛鳥刑事がルシファーを追って飛び出していった扉があるだけだ。ここを出ていった二人がどうなったのかは飛鳥刑事が戻ってくるまで分からない。

 ルシファーは屋根の上に飛び上がった。
「降りてこい、ルシファー!」
 飛鳥刑事が叫んだ。見下ろすと、飛鳥刑事の後ろから警官がついてくる。
 ルシファーはとなりの屋根に飛び移った。そして、下を走る飛鳥刑事に向かって言う。
「降りてもかなわないでしょ?」
「うるさい!」
 ルシファーの挑発を受け、飛鳥刑事の走るペースが上がった。ルシファーはさらに隣の屋根に飛び移る。
「足元、気をつけてね!」
「え?」
 ルシファーに言われて飛鳥刑事は足下を見た。足元には大きな水たまりがあった。しかも、凍っている。その凍った水たまりにまさに足が乗ろうとしていた。
 焦る飛鳥刑事。足は止まらない。
 しかし、飛鳥刑事は少し滑りながらも、転ぶことなく水たまりを乗り越える。
 ほっとしたのもつかの間、飛鳥刑事の足に何かが絡みついた。それに足を取られ、飛鳥刑事は結局転んでしまった。
 後ろを走っていた警官が、バランスを崩してしがみついたのが飛鳥刑事の足だったのだ。
「いてー……」
「だいじょうぶ?」
 飛鳥刑事が顔を上げると、ルシファーが見下ろしていた。
「大きなお世話だっ!」
 いいながら立ち上がろうとする飛鳥刑事。そして、ルシファーに掴み掛かろうと地面を蹴る。
 つる。
 飛鳥刑事は再び道路に投げ出された。
「ちくしょー……」
 涙声で言いながらも、どうにか立ち上がる飛鳥刑事。しかし、足元はふらついている。それでも、おぼつかない足取りでルシファーの後を追ってくる。
 ルシファーは再び屋根に飛び乗った。飛鳥刑事はまだ追ってくる。屋根の上から飛鳥刑事に声をかけるルシファー。
「ちょっと、鼻血が出てるわよ」
「え?」
 飛鳥刑事は鼻の下を擦った。手にべっとりと血がついてきた。
「うわああぁぁ!」
「ティッシュあげようか?」
 心配そうな顔で言うルシファー。
「す、すまない」
 ルシファーはポシェットからポケットティッシュを出そうとした。手が塞がっている。ポシェットのある方の手に『青い隕石』を握ったままだ。
 『青い隕石』をポシェットに入れようとした。
「あれ?」
 『青い隕石』は手に貼り付いたまま離れない。よく見ると、輝きがない。
「な、何これ……」
 顔を近づけてまじまじと見る。何やら甘い香りがした。……これは。
 飴玉を削ったものだった。駄菓子屋で売っている10円の飴玉、ソーダ味。しかも、最後の仕上げとして、つやを出すために……。
「きゃああぁぁぁ!」
 誰かがなめた飴玉だった。いくら慌てていたとはいえ、こんなものに騙されると言うのも情けない話だ。
 手を振り回すルシファー。しかし手袋に貼りついたままだ。慌てて左手で引っ剥がす。すると、今度は左手にくっついた。今度は振るとどこかにふっ飛んだ。
「な、何だ!?何があった!?」
 ルシファーの悲鳴に驚いた飛鳥刑事が下から声をかけてきた。
「あ、あ、飴玉ぁ」
 ルシファーの答えに困惑する飛鳥刑事。
「飴玉?何だそりゃ?そんなことよりティ、ティッシュ……」
 ぽす、と音がしてポケットティッシュが落ちてきた。『あなたの町の郵便局』という広告の入ったティッシュだった。
 ティッシュで血を拭って、鼻に残りを丸めて突っ込み、ようやく人心地付く飛鳥刑事。
「血と言えば、お前、血液型A型か?」
「えっ……」
 いきなりの飛鳥刑事の言葉に驚くルシファー。
「この間、美術館でローズマリーに斬られただろう?」
「えっ?」
 ルシファーはさらに驚く。見ていたのだろうか。
「お前、ナイフなんか使わないだろ?」
「で、でも。何であたしが斬られたこと、知ってるの!?」
「入口の近くに血が落ちてた。お前の血じゃないのか?」
 そうだ。帰ったあと、頬から血が流れた跡があるのを鏡で見た。
「同じ血液型の髪の毛も見つかった。お前の髪の毛だってすぐに分かった。……ちょっと心配してたんだ」
 飛鳥刑事が心配してくれた。それを知って少しうれしくなるルシファー。それと同時に、少し後ろめたくもなる。
「ありがとう……。あの飛行船でローズマリーがすごく怒って、斬りかかってきたの。殺してやるって、言われた……。怖かった……」
 あの時の恐怖が甦ってきた。
「それなら何でまたのこのこ出てきたりするんだよ!しかもローズマリーの狙いそうなものに手を出して……」
 呆れたようにいう飛鳥刑事。ルシファーには、その言葉が自分を気づかってのものだということがひしひしと感じられた。
「狙いそうなものじゃないわ、狙っているものよ。……ここはあたしの街だもの。あたしが子供のころから育った街だもの。あんな、他所からきたような怪盗に大きな顔をさせたくないの」
 そう言うと、ルシファーは飛鳥刑事に背中を向け、屋根から屋根へと渡っていった。
「あ、ま、待て!逃げていいとは言ってないぞ!」
 飛鳥刑事はルシファーを追って走り出す。その後ろから、警官達が追いついてきた。

 K氏邸に警官が一人、足を引きずりながら戻ってきた。
「どうだ?」
 佐々木刑事が警官に訊いた。敬礼して答える警官。
「ルシファーは現在追跡中であります!私は負傷し帰還しました!」
「そうか。……なんか、少し軍人くさい言い回しだな、今の。森中警視のがうつったんじゃないか?」
 そう言われて警官は自分の言葉について検証し始めた。
 後ろで、天井からぶらさがっている小百合を縛っていたロープを調べていた鑑識課員が大声を出した。
「ここに弾痕らしいものが!」
「気のせいじゃないのか?」
 佐々木刑事はいつもの癖でつい誤魔化そうとする。
「しかし、ここに間違いなく……」
「適当に調べておいてくれ」
 そこに、別室で待機していたK氏が出てきた。
「宝石を護っていただいたそうですね!ありがとうございます、ありがとうございますうぅ!」
 佐々木刑事の手を握ったまま、K氏は喜びのあまり泣き出してしまった。
「はぁ、何か知らないけど忙しいなぁ」
 佐々木刑事はさっきからくわえたまま火もつけられずにいるタバコを舌先で動かした。

 闇夜に、甲高い女性の悲鳴が響いた。
 聞き覚えのある声だった。
 ローズマリーは足を止めた。今の声はルシファーの声だ。何が起こったのかはどうでもいい。ルシファーが近くにいる。
 声のした方に駆けだすローズマリー。その目に屋根の上を跳躍するルシファーの姿がうつった。
 下に警察がいるのだろう。牽制するようにゆっくりと屋根の上を移動している。こちらに向かってきているようだ。
 来る。バカな奴だ。
 ローズマリーは手近な石を拾い、手近な場所につまれていた段ボールの陰に身を隠した。
 ルシファーは、路地に降りようとしている。隣の建物が高いからか。それとも路地を使って警察を撒く気なのか。
 ルシファーが飛び降りた。ローズマリーは手に持った石をルシファーめがけて投げた。着地したルシファーもそれに気がついたのだろう。躱そうと体をひねった。
 石ははずれた。しかし、ルシファーはアスファルトの路地に身を投げだすように倒れた。
 ローズマリーが近づいても、ルシファーは逃げない。倒れたまま、這うようにして後退るだけだ。
 冷たい笑みを浮かべるローズマリー。どうやらルシファーは今ので足を挫いたようだ。
「ふん、この様子だと、放っておいても逃げられやしないね……。あたいが手を下すまでもなく、警察が捕まえてくれるだろう。いいざまだね、ルシファー……。あーっはっはっはっは!」
 悔しそうな顔でローズマリーを睨みつけるルシファー。それを尻目にローズマリーは高笑いと共に去って行った。
 その高笑いを聞きつけたのか、警官達が駆けてくる足音がした。
 路地の前の道路を警官が歩いているのが見えた。路地の方に目を向ける。
 もうダメだ。逃げられない。
 こんな捕まり方はイヤだ。
 捕まえてくれなかったね……、飛鳥刑事……。
 目をつぶり、覚悟を決めるルシファー。その時、どこかで何か物音がした。恐らく、猫か何かがゴミでも漁っていたのだろう。
 路地の前で、どっちに逃げた、などとぼそぼそと言いあっていた警官は、一斉にその方に顔を向け、そのまま走っていってしまった。
 それと同時に、ルシファーに光が当たった。その光の方を見ると窓があった。さっきまで厚手のカーテンで遮られていた部屋の中の灯が、カーテンが開けられてこぼれ出たのだ。
 部屋の中の人影が、窓を開けて身を乗り出した。
 ルシファーは、左足の痛みを堪えながら立ち上がり、人影を押しのけて部屋に飛び込んだ。
「わぁ!」
「大きな声出さないで!」
 言いながらルシファーは窓とカーテンを閉め、その場にへたり込んだ。
「な、なに?」
 見ると、気の弱そうな若い男だった。ルシファーの姿を見て、ただおろおろしている。
 ルシファーは這うように部屋の隅に移動した。その様子を見て、男が恐る恐る声をかけてきた。
「足、怪我してるの?」
 ルシファーは何も言わない。
「こ、困ったな……。ぼく、貧乏で薬もないし。いたいでしょう?」
「よけいなお世話よ!それより、大声を出さないでよっ!見つかったらただじゃおかないから!……ちょっと、聞いてんの!?あんた!」
 ルシファーは、不安のためか半ば叫ぶように言った。
「君のほうが大きい声、出してるよ……」
 大声にのけ反りながら男が言った。
「あ……」
 ルシファーは思わず口をつぐんだ。しばらく、無言で見つめあう二人。ルシファーは堪えられなくなって男から目を逸らした。
「でも、こんなところじゃすぐに見つかっちゃよ?この部屋、隠れるところなんてないし」
 男が、恐る恐る声をかけてきた。さっきより少し小さな声で。
 言われて、ルシファーは少し落ち着いてあたりを見回した。確かに、なにもない部屋だ。掃除が行き届いているが、そのためにかえって部屋が殺風景にみえる。
 部屋にあるのは机と小さな本棚だけ。その本棚にも本はほとんど入っていない。代わりに茶碗などの生活用品が並んでいる。あと、目につくものと言えば、入口のドアと押し入れのふすまくらい。
「そこの押し入れは?」
 言われて、男は押し入れを開けた。上の段には布団が、下の段には段ボールが置かれていて、衣類がつまっているのが見えた。
 ルシファーは溜め息をついた。
「大変な生活してるのね。飛鳥刑事よりひどいみたい」
 それはルシファーの素直な感想だった。男は頭を掻きながら、押し入れを閉めた。
 部屋にゴミがあまり散らかっていないのは、ゴミがでるほど恵まれた生活ではないということらしい。こんなひどい生活をしているところにいきなり飛び込んでしまって、悪いことをしたような気がしてきた。
「あ、そうだ。ちょっと、こっち来てみて」
 男は机と本棚の間を示した。ルシファーは素直にその場所に移動する。その間、男は押し入れの奥に頭を突っ込んで何かをごそごそやっていたが、戻ってきてルシファーの前に立った。
 そして、手を高くあげる。
「ワン、ツー、スリー!」
 かけ声とともに、ぽん、という何かの弾けるような音がして、ルシファーの上に何かが降り懸かってきた。
「きゃっ」
 目を開けると、ルシファーはバラの花の中に埋もれていた。
「なに……これ?」
 きょとんとした顔でバラの花の山を見つめるルシファー。
「手品。ぼく、こんなことしかできないけど、隠れるにはちょうどいいでしょ?」
 無邪気に笑う男。その笑顔を見ているうちに、ルシファーも少しずつ落ちついてきた。
 バラのいい匂いがする。どれも萎れかかった花だった。
 その時、ノックの音がした。
「すいませーん」
 飛鳥刑事の声だ。ルシファーの鼓動が高まる。目をつぶるルシファー。
 男がドアを開けた。ちょうど、視角になっていてここには音しか聞こえない。と言うことは、向こうにもみえないということだ。
「こんばんわ、警察です。この辺にルシファーが逃げたはずなんですが、見ませんでした?」
「なんです、それ」
 きょとんと答える男。
「知らないみたいですね。怪盗なんですけど」
「すいません、ぼく、テレビも新聞もないんで、そういう話はわからなくて」
「そうですか」
 部屋を見回す飛鳥刑事。確かに、テレビはない。新聞をとれる経済状態でもなさそうだ。
 その中に、真っ赤なバラの山が見えた。
「何です、あのバラは」
 その言葉を聞いてルシファーは身をすくめた。治まりかかっていた動悸がまた激しくなる。
 ちょっとちょっと。早く追っ払ってよぉ。
 ルシファーはどうすることもできず、ただバラの花の洪水に埋もれながら焦れる。
「ぼく、手品やってるんですけど、それで使うんです」
「あー!」
 飛鳥刑事が突然大きな声を出した。びくっとするルシファー。
「どこかであったような気がすると思ったら、いつかローズマリーにノートを盗まれたとか言う。確か、羽丘源一郎さんでしたよね」
 ルシファーをかくまってくれている男は羽丘源一郎と言うらしい。
「あ、あの時の刑事さんでしたか。すいません、よく憶えてなくて」
「いや、こちらこそ、盗まれたまんまでなにもできなくて申し訳ない」
「そんな。ぼくの運が悪かったんですよ」
「警察の名誉にかけて、ノートは絶対取り返してみせます!いや、できれば、取り返したいと思います。あんまり期待しないでくださいね。夜分すいませんでした」
 頼りない言葉を残して飛鳥刑事は去って行った。
「ちょっとぉ、玄関先で話し込まないでよぉ。どきどきしちゃうじゃないのぉ」
 ルシファーは泣きそうな声で言った。
「ごめんごめん、つい」
「ねぇ、ローズマリーに何かとられたの?」
「うん、ローズマリーっていうのは、よく知らないけど。ぼくの作ったトリックが書いてあったノートが盗まれちゃったんだ。憶えているトリックは少しだし、奇術団も追い出されちゃったからお金もなくて、タネも用意できなくなっちゃった」
「かわいそう……」
「え?あ、ごめん。こんな話してもしょうがないよね」
 黙り込む二人。
「さっき、ごめんね。勝手に部屋に飛び込んで、怒鳴っちゃったりして」
 飛鳥刑事も行ってしまうと、さっきまでの自分がとてつもなく失礼だったような気がしててきた。
「別にいいよ。びっくりはしたけど。それにしても、怪盗だって。怖いね」
 ルシファーはそれを聞いて思いっきり力が抜けた。
「怪盗って、あたしのことよ。知らなかったの?」
 言われて羽丘は心底驚いたような顔をした。
「えぇっ!?な、何か盗る気なの?」
 羽丘の驚き様を見てルシファーは思わず吹き出した。
「何も盗らないわよ。あたしはね、何か盗る時には予告を出してから盗ることにしてるの」
「そ、そうだよね。何もとるものないもんね……」
 男はほっとしながら言った。
「本当に、知らないの?あたしのこと。空から降りた悪魔ルシファーって、結構騒がれてるんだけど」
「聞いたことはあるような気がするんだけど。ごめんね」
 なぜか謝る羽丘。ルシファーはつい吹き出してしまう。
「でも、悪魔だったなんて。クリスマスだから天使が降りてきたのかと思ったのに」
 羽丘の言葉に吹き出すルシファー。
「面白い人ね、あなた。でも、やっぱりあたしは悪魔なのよ。クリスマスにこんな目に遭っちゃうんだもの」
 ルシファーはくじいた足を動かしてみた。だいぶ痛みも引いてきた。どうにか歩いて帰れそうだが、警察に見つかったときは逃げられそうにない。
「悪いけど、服貸してくれない?この格好じゃ帰れないから。絶対に返すから」
「いいけど、サイズが大きいんじゃないかな」
「そんなこといいよ」
 ルシファーは押し入れの段ボールから、あまり男っぽくない服を選んでタイツの上から着た。ちょっと汗臭い匂いがした。
「ありがとう、洗って返してあげる」
 ルシファーは照れ臭そうに頭を掻いている男に手を振って、サンダルを突っかけて玄関を出た。
 冷たい夜風がルシファーをなぶるように吹き抜けていったが、ルシファーにはあまり冷たく感じなかった。羽丘の貸してくれた服のおかげなのか、ルシファーの体の中からわき上がってくる不思議なあたたかさのためなのか、自分でも分からなかった。

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