Hot-blooded inspector Asuka
Episode 1-『堕天使のラブソング』

第24話 恐怖

 画面には飛行船が写し出されていた。
 警察署が交通安全のキャンペーンに飛ばしたはずの飛行船。
 今はルシファーの予告状兼挑戦状として、聖華市の上空に漂っている。ローズマリーの本名を添えて。
 話題性があまりも高かった。今世間を騒がせているルシファーの予告状。しかも、そのライバルであるローズマリーへの挑戦状。そして、ローズマリーの本名。これだけのネタを、マスコミが放っておくはずはない。
 ワイドショーのレポーターが捲し立てている。
「今、聖華放送の屋上からお伝えしています。今、話に出ました飛行船ですが、あそこに、ご覧頂けるでしょうか」
 画面には、レポーターの肩ごしに飛行船が映っている。画面が段々とズームになって、飛行船が大写しになる。側面に書かれた文字がはっきりと見える。
「あの飛行船に書かれた文字をご覧頂けるでしょうか。肉眼だと不鮮明ながら読むことができるのですが。『ローズマリーこと仙道椛子に告ぐ。B美術館のダイヤをいただきにまいります。怪盗ルシファー』と書かれております。では、予告のあったB美術館のほうではどのような動きがありましたでしょうか。村田さーん」
 画面が変わり、先程のレポーターとは違う人が写る。
「えー、B美術館前よりお伝えいたします、村田です。ご覧ください、この現場の混乱ぶりを!」
 レポーターの後ろには警官達が右往左往している様が写し出された。

 美術館にはマスコミが既に集まっていた。テレビ記者らしい人が、自分の局のカメラに向かってめいめいに喋っている。新聞や雑誌の記者も、めいめいに喚き立てている。ここで聞いていると、その声が入り交じって何を言っているのかは分からない。
「俺達よりも早く来るとはね。マスコミの皆さんもご苦労だこと」
 佐々木刑事がだるそうに言いながら、タバコを咥え、火をつけた。
「マスコミも、情報が早いですね」
「情報も何も、あんなに目立つやり方をすりゃあなぁ。池で手を叩くと寄ってくる鯉みたいなもんだろ。もう本能みたいなもんだ」
 飛鳥刑事の言葉に、佐々木刑事が茶々を入れた。
「しかし、今回の予告は曖昧ですね。時間も、それどころか日付さえも明らかじゃない……」
 飛鳥刑事が呟いた。
「こいつはローズマリーへの挑戦だ。ローズマリーが来るのを待つつもりじゃないのか?」
「それなら、ローズマリーがいつここに来るか分からないと、ルシファーがいつ来るかも分からないって言うことですか?」
「そうなるな……」
 佐々木刑事はくわえていたタバコを吐き出し、靴で踏み消した。
「まぁ、ローズマリーのことだ。ここまでやられて黙ってもいられねぇさ。すぐに来る。今日は俺達も早く帰れそうだな」

 ローズマリーはテレビの画面に鋭い目を向けていた。
 テレビでは思ったとおり、ほとんどの放送局がルシファーの飛ばした飛行船について報道している。ごく一部の放送局が子供向けの教育番組やアニメを流しているだけだ。
 現実から目を逸らしても仕方がない。直視しなくては。その憎しみを、すべて奴にぶつけるのだ。
 ちょうどワイドショーの時間と重なった局の画面の中では、スタジオのキャスターや評論家が話しあっていた。
「怪盗ルシファーですが、今までもこのように予告状を出してきたようですね」
 キャスターの言葉に、評論家が捲し立てるように答えた。
「今までは警察の方に直接送りつけてくるというケースが多かったようです。まあ、その点を考えますと、今回の予告に使われた飛行船も警察署の物らしいですし、その点セオリー通りといえるでしょう」
 そこで、画面があの飛行船の映像になる。それを見たローズマリーの目つきが一段と鋭くなる。射るような視線をテレビに向けたまま舌打ちするローズマリー。
「ただ、聞いた話では、ルシファーの予告状はいつも日時を指定してくるということですが。今回はそのような情報はないですね」
 アシスタントの女子アナが評論家に訊ねた。
「スペースの問題じゃないですか?」
 評論家の先手を打ってのタレントのとぼけた発言に女子アナが複雑な笑みを浮かべた。
「まぁ、それはあるでしょう。恐らく、ルシファーがこのような方法をとったというのは、ローズマリーの名前を広めるための手段だったとも思えます」
「で、この名前なんですが」
 評論家の言葉を受けて、キャスターがしぜんに話題をシフトさせる。ローズマリーの表情がぴくりと動いた。
「せんどうかばこと読めるのですが、読み方はこれでいいのでしょうか」
 ローズマリーの表情も今度は動かない。これに関してはもう諦めている。
「うーん、どうでしょう。かばこというのはどうも……」
「この、木偏に花というのはもみじという字なんですが。もみじこというのもへんですしねぇ」
「はぁ、もみじですか……」
 タレントが意外そうな顔をした。
「まぁ、かばこというのはさすがにどうかと。あまりにもばかばかしすぎますしね」
 女子アナの言葉にローズマリーの表情が歪んだ。腹を立てたローズマリーはテレビのスイッチを切る。そのまま、アパートを出た。
 向かうは、B美術館。
 乗ってやろうじゃないか、その挑発。
 これで痛い目にあうのはあんたの方だよ、ルシファー……!

 ばたん!
 ローズマリーのアパートのドアが乱暴に閉められた。
 その音がラジオから聞こえてきた。
 ローズマリーが動きだしたようだ。
 ラジオのスイッチを切り、映美は立ち上がった。既に、用意は整っている。映美もあとは美術館に向かうだけだ。
 それにしても、あの字がかばという字だと知った時は、大笑いした。かばこと言う名前は悪い冗談のようだ。
 そうだ、今度ローズマリーに会ったら、椛子さん、と呼んであげようか。映美はそう思いにやついた。あいつ、どんな顔をするだろう。
 映美は歩きながら顔をほころばせた。

 美術館の周りを取り囲んでいたマスコミが突然騒がしくなった。
 ローズマリーだ!
 記者の誰かが言った。その一言で、騒ぎがさらに大きくなった。
「来たか」
 壁に寄りかかってリラックスしていた佐々木刑事も、向き直って身構えた。
 マスコミ連中は、逃げるべきか近寄るべきか決めかねてもぞもぞと蠢いている。時折フラッシュらしい光が閃く。
 勇気のあるレポーターが、ローズマリーにマイクを向けた。
「ルシファーからの予告についてどう思いますか!?」
 マイクを向け近づいてくるレポーターを睨みつけるローズマリー。
「うるさいよ」
 ローズマリーの言葉に怯むことなく、レポーターが矢継ぎ早に質問を浴びせる。
「あの名前は本名なのですか?読み方は……」
 言い終わらぬうちに、レポーターの顔面に蹴りが叩き込まれた。マイクを取り落とし、のけ反ったレポーターの腹に拳がめり込む。今度は前のめりになり、そのままレポーターは地面に突っ伏した。
 それを見たマスコミは、ローズマリーから離れるように動きだした。
 ローズマリーは辺りを睨みつけた。視線を向けられた者は、押し合いながら逃げ出す。
 マスコミの人垣は消えた。ローズマリーの進路を阻むのは、警察だけである。
「御機嫌斜めか?ローズマリー」
 佐々木刑事が冗談めかして言った。しかし、さっきの様子を見ているためか、いつになくローズマリーの行動に気を払っている。
「当たり前だろう。……あんたは椛子って呼ばないのかい?」
 諦めたような声でローズマリーが言う。
「そんな呼びにくい名前で呼べるかよ、ローズマリー。来るなら来やがれ!」
 佐々木刑事が構えた。人差し指でローズマリーを挑発する。
「いい度胸じゃないか。ルシファーを相手にする前にあんたらで肩慣らしだ。鬱憤もたまってるからね、やりすぎるかもしれないよ」
 ローズマリーが鋭い目のまま口元に笑みを浮かべた。
「お手柔らかにな……」
 佐々木刑事の言葉が終わると同時にローズマリーが佐々木刑事に飛び掛かってきた。左のパンチ。佐々木刑事も顔を左にそらす。佐々木刑事の頬をローズマリーの拳が掠った。掠っただけだ。
 そのローズマリーの腹めがけて佐々木刑事が拳を突き出した。しかし、空振った。この動きを読んでいたようだ。ローズマリーはその腕を掴み、捻り上げた。
「う、あたたた!」
 痛みのために声をあげる佐々木刑事。
 飛鳥刑事がローズマリーに飛び掛かった。しかし、ローズマリーは難なく躱す。
「お、おい!今はちょっとよせ!」
 ローズマリーの躱す動きで佐々木刑事の腕がさらに捻じれたらしい。
 佐々木刑事のわめき声に戸惑う飛鳥刑事。そこに、ローズマリーの蹴りが炸裂し、飛鳥刑事はふっ飛ばされて地面に倒れ込んだ。
「動くなあぁぁ!」
 佐々木刑事が喚いた。腕を外そうともがく佐々木刑事。佐々木刑事が体をひねると、目の前のローズマリーのハイヒールがあった。
 佐々木刑事の腕が自由になった。同時に顔面に蹴りが入る。
 佐々木刑事は地面に倒れた。意識はある。しかし頭がくらくらして、まともに起き上がれない。
 飛鳥刑事はどうにか起き上がった。見ると、ローズマリーは美術館に向かって歩き始めている。
「とどめは刺さないよ。あんたらにはルシファーを捕まえてもらわなきゃならないからね……」
 ローズマリーが静かに言ったその時だった。
「ルシファーだ!」
 警官の一人が叫んだ。
 ローズマリーは、刑事達に意識を集中させていたため、ルシファーに気付くのが遅れたのだ。
「何だって!」
 見ると、ルシファーが今、まさに美術館の中に入るところだった。ローズマリーに気を取られて警備の警官達も持ち場を離れていたのだ。
「しまった!」
 飛鳥刑事は美術館に向かって駆けだした。しかし、足元がややふらつきスピードが出ない。前を走るローズマリーの背中が段々離れていった。

 美術館の入口付近の警官は意外なほどに少なかった。ダイヤの周囲に集められているのか。それとも、外で騒いでいたローズマリーのほうへ行ってしまったのか。
「来たぞ!ルシファーだ!」
 残っていた警官が叫んだ。
「ローズマリーもいるぞ!」
 後ろからローズマリーも追ってきたようだ。ルシファーはちょっと振り向いてみた。確かにいる。ルシファーのほうを睨むような目で見ている。
 こんばんわ、椛子さん。
 そう言ってやろう。ルシファーは石像を足がかりに吹き抜けの上の階に飛び上がった。
 警官達は、飛び上がったルシファーを見送ると、残ったローズマリーに飛び掛かる。そして、ローズマリーのカウンターを受けて情けないほどあっさりと床に伸びた。
 ローズマリーは足を止めてルシファーを見上げている。
 ローズマリーの目を見た。こんばんわ、椛子さん。
 言えなかった。
 無表情だった。目だけが怒りに満ちた視線をルシファーに投げかけている。ルシファーはこんな目で見られたことはなかった。しかし、どういう時にこういう目をするのかは分かる。
 ローズマリーは何も言わない。ただ無言でルシファーを睨みつけている。ルシファーはまるで蛇ににらまれた蛙のように動けなくなった。
 刑事達が館内に駆け込んできた。ローズマリーの目が逸れた。その隙に逃げるルシファー。
 それに気付き、ローズマリーがその姿を目で追う。
「逃げるな!」
 飛鳥刑事がルシファーに向かって叫んだ。その声に振り向いたのはルシファーではなくローズマリーだった。その手に袋が握られている。
 目をそらす余裕はなかった。慌てて足を止めるのが精一杯だった。佐々木刑事も同様だ。
 二人の刑事の目が虚ろになった。
「あんたらはルシファーのことだけ捕まえればいいんだ。いいかい?」
 二人が頷くと、ローズマリーは満足そうな笑みを浮かべた。そして、ぱちんと指を鳴らした。
 二人の目の焦点があった。
「ルシファーは!?」
「まずい、急げ!」
 二人はローズマリーの前を駆け抜けて行った。ローズマリーが目の前にいることにまるで気づかないように。
「ふふふ、そのままダイヤの場所に案内してもらおうか……」
 ローズマリーはゆっくりと歩きだした。

 ダイヤは奥の部屋にあった。
 ケースに入れられ、そのケースの周りには森中警視と木下警部が立っている。
 部屋の外が騒がしくなったので、怪盗が来たことが分かった。
 警備にあたってる他の警官達にも緊張が走る。
 そのとき、部屋の中に黒い影が飛び込んできた。
 ルシファーだ!誰もが思った。
 入口の影で待機していた小百合が、部屋の入口の扉を閉めた。
 この扉には鍵はかからない。しかし、部屋にはこの扉の他に出口はない。そのため、この部屋を選んだのだ。ここを塞いでしまえば逃げることはできない。袋の鼠だ。
 ドアを閉め終わり、部屋の中央に目を向けた小百合は、ケースの前で複雑な表情をしている森中警視と木下警部に気付いた。
 黒い影は、ルシファーの姿を模した風船だった。
 風船はしゅうしゅうと音を立てながら段々と空気が抜けてしぼんで行く。
 しまった!
 一同、そう思う。
 唖然と見つめる警官達。
 妙な匂いがする。
「う、い、いかん、吸うな!」
 森中警視が叫んだ。しかし、既に周りの警官達はガスを吸いこんでむせている。
 そして、警官達を突然の睡魔が襲う。
 今の風船の中に入っていたガスが、催眠ガスだったようだ。
 警官達は次々と床に倒れていった。

 作戦はうまくいったようだ。部屋の中が静かになった。
 ルシファーは口にガスマスクをつけてドアを開けた。
 警官達は一様に床に倒れていた。ルシファーは満足そうに頷いた。そして、ダイヤのあるケースに近づき手を伸ばす。
 ケースに手が触れた瞬間、ルシファーは何者かに腕を掴まれた。
 慌てて腕を振り払おうともがくが、相手の力は強い。とても振りほどけそうにない。
 相手が立ち上がった。誰かは分からない。ガスマスクをつけている。ルシファーの使っているような簡単なものではない。戦争映画で見るような大仰な物だった。
 突然そんな物をつけた人物に腕を掴まれれば、誰だって驚く。それはルシファーも例外ではない。思わず悲鳴を上げるルシファー。
「油断したな、ルシファー!」
 太い声がした。森中警視の声だ。森中警視がポケットから手錠を出した。
 ルシファーは、とっさに自由な方の腕で森中警視のガスマスクの口の部分を横に引っ張った。
 森中警視の首がねじれ、動きが止まった。しかし、腕は離れない。さらに力を込めるルシファー。すると、森中警視のガスマスクがすぽっととれて床に落ちた。
 首が自由になった森中警視はルシファーに向き直った。そして、改めて手錠を構えなおす。そして、手錠をルシファーの腕に押し当てた。
 がしゃ、と音がしてルシファーの腕に手錠がかかった。もう片方を自分の腕にはめる。森中警視はルシファーの顔を見てにやりと笑い、そのまま床に突っ伏した。催眠ガスが効いてきたようだ。
 ルシファーは森中警視のポケットに手を突っ込んでまさぐる。そして、手錠の鍵を見つけると、自分のほうの手錠を外した。そして、近くの警官の腕に手錠を掛けなおした。
 ルシファーは額に浮かんだ冷や汗を拭い、一息つく。
 
 その時、部屋のドアが乱暴に開けられた。音に驚き振り向くルシファー。
 飛鳥刑事と佐々木刑事が部屋にたどりついたのだ。
「いたぞ!」
 二人がルシファーの方につっこんできた。躱すルシファー。二人はそのまま地面に倒れ込んだ。慌てておきあがろうとするが、起き上がることはできなかった。ここまで走ってきたために息が弾んでいた二人は催眠ガスを肺に一杯吸い込んだのだろう。
 ルシファーは再び額に浮かんだ冷や汗を拭った。そして、ケースを開けて、ダイヤをポシェットに収めた。その代わりに、森中警視の手錠の鍵をケースの中に入れる。
 あとは帰るだけだ。しかし、素直に帰れるとは思っていない。ローズマリーがどこかで待ち受けているはずだ。

 ルシファーは部屋を出た。ローズマリーの姿は見当たらない。慎重にあたりをうかがいながら歩を進めるルシファー。
 美術館のホールにローズマリーはいた。ホールの中央でルシファーを待ち構えていた。ルシファーが現れたのを見たローズマリーは口元に笑みを浮かべた。
「おや、無事だったんだね、ルシファー。残念だ」
 ローズマリーはルシファーを睨みつけている。
「ダイヤはあたしが頂いたわ。予告通りにね」
 ルシファーは口元に笑みを浮かべた。しかし目は笑っていない。ローズマリーの雰囲気は只事ではない。気を許せない。
 暫し無言で睨み合う二人。先に口を開いたのはローズマリーだった。
「あんた……。よくもあんな真似をしてくれたね。ただじゃおかないよ」
 感情を押し殺した声だった。
「油断しすぎたのよ。あたしに本名を知られたのが運の尽きよ!」
 ルシファーは再び口元に笑みを浮かべた。やはり目は笑っていない。ローズマリーは厳しい表情のままだ。
「確かに、油断しすぎたのかもしれないね……。でも、運が尽きたのはあんたの方だよ……」
 そう言うと、ローズマリーは懐からナイフを取り出した。そして、冷たい笑みを浮かべる。
 ルシファーの顔が青ざめたのを見て、ローズマリーの目が嬉しそうに細められた。
 これだ。この小娘のこの顔が見たかったんだ。できればもっと早く……。
「確かに、あんたは悪魔だ。……かわいい顔をした、ね。ここは聖なる都市、聖華市だ。悪魔が生き長らえられるはずがない。あんたは神からも見放される。……天罰を受ける前に、あたいが殺してあげる……。死にな!」
 ローズマリーがナイフで切りかかってきた。身をのけ反らせて躱すルシファー。その頬に鋭い痛みが疾り、頭巾が裂けた。
 ルシファーは飛び退いた。背中に冷たい汗が浮かんだ。
 間髪を入れずにローズマリーがさらにつっこんでくる。
 ひゅっ。
 ローズマリーのナイフが風を斬って高く唸った。ルシファーの髪が数本、微かな風に弄ばれながら床に舞い落ちた。
 さらに下がるルシファーの背に壁が触れた。それと同時にルシファーは身を横に躱す。一瞬前までルシファーの躰が触れていた壁の絵にローズマリーのナイフが突き刺さっている。
 ローズマリーは絵からナイフを引き抜いた。そして振り向くとルシファーが美術館の出入り口に向かって駆けだしたところだった。
 ローズマリーは舌打ちをし、ルシファーの背中を追って駆けだした。
 ルシファーの目に出入り口が見えてきた。外に出ればローズマリーから逃げられる。マスコミと警察の包囲はあるかもしれないが、そんなのは目ではない。
 とにかく、ローズマリーから逃げなくては……。
 無我夢中で疾るルシファー。後ろからローズマリーの追ってくる足音が聞こえてくる。
 美術館の出入り口にルシファーがたどり着こうとしていた。それをひたすら追うローズマリーとの距離も確実に離れている。ルシファーの手が出入り口のドアに向かって伸ばされたその刹那、ルシファーのからだは宙に投げ出されていた。
 それを見てほくそ笑むローズマリー。
 何が起こったのかわからないまま、ルシファーはドアに激突し、床に叩きつけられた。そして、あまりの床の冷たさに飛び上がるように身を起こした。いや、冷たいのは床じゃない。……水?
 床には水が撒かれていた。入ってきた時はこんなところに水はなかった。ローズマリーが撒いたんだ。そう思い、振り向くとローズマリーが目の前に迫っていた。
 足元に倒れるルシファーを見て笑みを浮かべるローズマリー。ハイヒールの踵でルシファーを蹴りつけた。
 躱そうとしたルシファーだが、足がすべり思うように動けない。
 ローズマリーはルシファーを立て続けに蹴った。ルシファーは床に倒れ込んだ。
 ルシファーが動かなくなったのを見て、ローズマリーはナイフを振り上げた。
「観念しな……。おとなしく死んだ方が苦しまないよ……」
 満面の笑みを浮かべるローズマリー。そして、ルシファーめがけて振り下ろそうとした刹那。ルシファーの手が動いたのが見えた。そして、ローズマリーの目に痛みが疾る。
 ルシファーが手で床の水を飛ばしたのだ。水が目に入り怯むローズマリー。両足を掴まれた。そして、思いっきり引っ張られる。ローズマリーは足を取られて尻餅をついた。ナイフを持つ手に衝撃が疾る。ルシファーが仰向けのまま蹴り上げたのだ。ナイフが宙で弧を描き、床に落ちた。
 ナイフを諦めてルシファーに目を戻すと、ルシファーはドアを開けて外に飛び出すところだった。
 ローズマリーは舌打ちし、立ち上がった。ナイフを拾い、ルシファーを追う。ルシファーが開けたドアが閉まりかけていた。ローズマリーはドアに駆けだした。一瞬、体が宙に浮いた気がした。気がつくと、身が投げだされていた。
 しまった!
 自分の撒いた水に足を取られたのだ。
 ごん。
 床に投げ出されたローズマリーの脳天を、閉まるドアが打ち、鈍い音を立てた。

 公園のトイレで変装を解いた映美は、急ぎ足でアパートの部屋に戻ると、額に浮かんだ汗を拭った。しかし、体は寒さで震えていた。
 水に濡れた体で木枯らしの吹き荒さぶ中歩いてきたのだ。無理もなかった。
 部屋のドアに鍵をかけ、そのまま浴室に向かう。
 途中、洗面所の鏡を見た。ローズマリーに斬られた傷から血が流れ出ていた。思ったほど深い傷ではなさそうだ。既に血は止まっている。
 ローズマリーのことを思い出し、映美は顔を曇らせた。
 シャワーを浴びながら、映美は思う。
 ローズマリーの怒り様は半端ではなかった。これからも、ルシファーを殺すつもりで臨んでくるだろう。
 嫌だ。
 死にたくはない。
 逃げたい。
 しかし、ここまで来て逃げるわけにはいかない。
 逃げても、ローズマリーは追ってくる。そんな気がした。
 それならば、戦うしかない。ローズマリーが諦めるまで。
 ……。
 怖い……。
 怖いよ……。

 美術館では、形式的な鑑識活動が行われていた。
 指揮をとる森中警視はいつになく気合いが入っていた。手錠を掛けられたのだから無理からぬことだ。
「どうせ、大した痕跡なんか残ってないんだ、適当でいいぞ」
 森中警視に煽り立てられて懸命に作業を続ける鑑識課員に佐々木刑事がだるそうに言った。
「いえ、仕事ですから」
 鑑識課員はそう言うと、仕事に戻った。
 出入り口付近の通路だった。不審な水が撒かれていて、さらに踏み散らした痕もあるので、特にその周辺が念入りに調べられている。
「はー。さすがやる気があるねー。俺は何かだめだ。寝起きってのはやる気がみなぎらないよなぁ」
 佐々木刑事は大きなあくびをした。
「刑事。その水の出所がわかりました。女性用トイレの手洗い場の濡れ具合が時間的に一致します」
 女性用トイレから鑑識課員が声をかけてきた。
「あ、そう。ちょっと見てくるか。ついでに用を足して……」
 佐々木刑事はぶつぶつ言いながら歩いていった。寝不足の所に来て催眠ガスをかがされたのだ。さらに、半端なところでたたき起こされている。そのせいか、足元が若干ふらついている。
 飛鳥刑事はその様子を見送ると、そんなことには無関心と言わんがばかりに黙々と作業を続ける鑑識課員に声をかけた。
「何かわかりました?」
 鑑識課員は顔を上げた。
「まぁ、2種類の足跡がありますねぇ。ルシファーとローズマリーのものと見ていいでしょう。どちらもここで足を滑らせているようです」
「え?でも、そのどちらかが撒いたんじゃないんですか?この水は」
 鑑識課員は目をまた床に戻した。
「ええ。ですから、撒いた本人もここで滑ってるわけですよ。おかしな話ですけどね。あ、そうそう。どうやら二人はこの辺でもみ合ったみたいですね。どちらかが怪我をしてます」
「え?」
 飛鳥刑事は鑑識課員の指差すところを、目を凝らして見る。そして、乾きかけた水の跡に混ざったものを見て呟いた。
「血だ……」
 頷く鑑識課員。
「ちょっと来てください!」
 別の鑑識課員が声をあげた。飛鳥刑事が駆け寄った。
「ここに血痕があります。まだ新しいようです」
 床には、一つだけ小さな血痕が残っていた。真紅の血痕。鑑識課員が言うように、落ちてから時間が経っていない。
 先程報告のあった刃物らしい物で傷つけられた絵画。そして血痕。どちらの怪盗にも、今までにそんなことはなかった。
 血痕は、この刃物で傷つけられた者が流した血だろう。どちらがどちらを傷つけたのかは分からない。どちらにしても、今までに刃物で人に斬りかかるなどということはなかったはずだ。
 ここで、いったい何があったのか。
 飛鳥刑事はその血を見つめながら、ルシファーのことを案じずにはいられなかった。

 眠れなかった。
 目を閉じても、胸の奥が冷たく疼くばかり。
 闇が、不安な気持ちを掻き立てるばかり。
 風の音が、あらぬ幻を見せるばかり。
 怖い。
 目を開ければ、そこには自分一人だけ。
 微かな月明かりに照らされるのは冷たい壁と天井だけ。
 孤独が恐怖を募らせるだけ。
 怖い。
 再び目を閉じる。闇に怯えながら。
 映美は恐怖を堪える。助けを求めながら。
 守ってほしい。無理だとは思いながら。
 夜は更けていく。孤独に震えるだけの映美を残して……。
 あいたい。
 この恐怖を拭い去ってほしい。
 あいたい。
 でも、それはできない。苦しめるだけ。
 あいたい。
 飛鳥刑事……。
 助けて……。

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