Episode 1-『堕天使のラブソング』第23話 空の上の名前
朝が来た。いつものように目覚ましの音で目を覚ます飛鳥刑事。
眠い目をこすりながら、簡単な朝食の準備を始めた。フライパンに油をひいて火に掛ける。
フライパンが温まるのを待つ間に卵を用意する。冷蔵庫を開けた飛鳥刑事は、変な卵が混ざっていることに気がついた。
目が霞んでいるのではっきりとは見えないが、まるでウズラの卵のようにどす黒い班のある卵があった。
慌てて目を擦り、目をこらす飛鳥刑事。
卵に、字が書いてあった。
『今夜、D町の芦屋邸のトルマリンの自由の女神をいただきまーす。前のことは気にしないでね。怪盗ルシファー』
「うわああぁぁぁ!」
慌てて卵を取り落としそうになる飛鳥刑事。
気がつくと、フライパンから白い煙が立ち上っていた。
「小百合ちゃん。行くよー」
飛鳥刑事はドア越しに声をかけた。ドアの向こうから返事が帰ってきた。
「はあーい!」
どたどたどた、という足音が聞こえる。そしてドアが開いた。
小百合の方に特に用事がなければ、毎朝飛鳥刑事が小百合を署まで送っている。
小百合は警察官なので当然免許を持ってはいるのだが、車を持っていないのだ。
飛鳥刑事の車も、買った時には既に距離計が10万kmを指していたようなポンコツなのだが、ないよりはましだ。
しかし、近ごろは特に調子が悪く、そろそろ買い替え時もせまっているようだった。走っていると時折がたがたと妙な音がする。次回の車検は通らないかもしれない。
そんな車に小百合を乗せるのは恥ずかしいような気もするが、かと言って歩かせるわけにもいかない。
小百合も、飛鳥刑事に送ってもらえるのが嬉しいといっている。ただ、この言葉にどんな意味が込められているのかを飛鳥刑事は考えたことはなかった。
警察署についた。署の近くの駐車場に車を停める飛鳥刑事。
車から降りた小百合は、同じく車から降りてきた飛鳥刑事が妙なものをもっていることに気がついた。
「なんですか?それ」
飛鳥刑事の手には卵が握られていた。
「で、これが久々のルシファーからの予告状だな……っておい」
佐々木刑事は、予告状といって差し出された卵を見て表情を凍りつかせた。
「今日は卵かよ。変なものに書いたなぁ、ルシファーのやつも。卵に気づかなかったらどうする気だったんだよ」
佐々木刑事は卵に書かれた小さな文字を読みながら言った。
「いや、いつも水曜はハムエッグですから。知ってたんじゃないですか?」
「お前の私生活、ルシファーにゃ筒抜けだもんなぁ」
佐々木刑事は卵を机に置いた。ころころと転がっていく。慌てて飛鳥刑事が押さえた。
その横で小百合が拗ねたような顔をしたことに二人は気づかなかった。
「おはよう。おや、今日は西川君も一緒か」
木下警部が入ってきた。
「あ、警部。久々にルシファーから予告状が来たらしいですよ」
飛鳥刑事がいきなり差し出してきた卵に怪訝な顔をした木下警部も、その表面に文字が書かれていることに気付いて納得した。
「今日は、また一段と変なものに書いてあるな」
「洗面器に書かれてたこともありましたよ。なあ、飛鳥」
木下警部の言葉を受けて佐々木刑事が昔を蒸し返すようなことを言う。
今でもその洗面器を使っている飛鳥刑事が頷いた。
「それは今日の昼飯のおかずかね」
いつの間に来たのか、森中警視が覗きこんでいた。
「いや、予告状です」
「しかし、予告状というのは普通、紙じゃないのかね。これは予告卵だ」
訳のわからないことを言いながら森中警視も予告状に目を通す。
「とりあえず、D町の芦屋邸に行ってみようじゃないか。小百合君、これを冷蔵庫に入れておいてくれたまえ。暖かい部屋の中では腐って食えなくなる」
森中警視が卵を小百合に差しだしながら言った。
「警視。もしかして食う気じゃないですよね」
佐々木刑事が恐る恐る訊く。
「別に食えん卵じゃないだろう。食べ物は粗末にしちゃいかん。行くぞ」
歩きだした森中警視の背中を見ながら佐々木刑事が言った。
「育ちがいいのか悪いのか……。やっぱ分かんねぇなぁ、あの人は」
芦屋邸に到着した。
メンバーは飛鳥刑事、佐々木刑事、木下警部、森中警視、そして小百合。小百合は本人のたっての頼みで同行することになった。いずれにせよ、警備が始まると小百合も来ることになるので、警備課の課長に頼んで連れてきたのだ。
玄関のチャイムを鳴らすと、主人の芦屋氏が出てきた。物々しい集団に気圧され気味の芦屋氏に、森中警視が警察手帳を差し出す。
「あ、あの。なにか……?」
芦屋氏はおどおどと聞いてきた。
「こちらに、トルマリンの自由の女神像があるらしいですね」
「ええ。確かに。それが何か?」
不安そうに訊ねる芦屋氏に、木下警部が事情を説明する。
「実は、今朝予告がありまして、ルシファーがその自由の女神を狙ってるんです。それでお伺いしたんですが……。えと、予告状は?」
木下警部が一同を見渡した。
「あ、予告状は今、冷蔵庫の中なんですけど……」
小百合が答えた。佐々木刑事がつっこむ。
「本当に入れたのか」
「命令ですもの」
当然といった顔で小百合が答えた。佐々木刑事は複雑な顔で呟いた。
「……命令ね……」
このやり取りで何がなんだか分からなくなった芦屋氏に、森中警視が詳しい事情を説明した。予告状は森中警視が文面を書き写していた。そのメモを芦屋氏に見せる。
「ところで、この『この前のこと』って何ですか?」
事情を理解した芦屋氏が訊ねてきた。森中警視は一字一句逃さずメモをとったらしい。訊かれた森中警視は困ったような顔をしたが、少し考えてから言った。
「いや、これは私信と言いますかね。うちの刑事が一人、予告状で文通しているらしくて」
森中警視の言葉を聞いて飛鳥刑事の表情が固まった。飛鳥刑事が視線をめぐらすと、佐々木刑事が逃げるように目を逸らした。どうも、言い出しっぺは佐々木刑事らしい。
芦屋氏に邸宅の案内を受け、トルマリンの自由の女神像を見せてもらった。
トルマリン。宝石の一種である。色が多彩なのが特徴で、時にその多彩な色の結晶が融合していることもある。結晶は細長い柱状になる。
トルマリンの自由の女神像は、そのトルマリンを有名な自由の女神像の形に削りだしたもので、赤と黄色の結晶が繋がっていた。大きさは親指ほどだった。
自由の女神像は鍵のかかる戸棚の中にあった。宝石箱に収められている。
「うわー、かわいいー!」
小百合がそれを見てはしゃぎだした。こうなると婦警という感じはしない。
横で目を輝かせながら自由の女神像に見入る小百合を無視して森中警視と木下警部が芦屋氏と話を始めた。
「これは、ここに鍵をかけて納めておけばいいでしょう。金庫に入れておくのが一番安心なんですが」
「金庫ならこちらにあります」
芦屋氏が案内した部屋は狭い部屋だった。
「うーん、これは少し動きにくいかもしれませんな。怪盗も動きにくいでしょうが、何かあった時こちらも動きがとれなくなりそうですなぁ」
森中警視が難しい顔をした。
「戸棚の鍵を金庫に入れておくのはどうですか?それで、自由の女神像は戸棚の中に入れておくと」
飛鳥刑事の提案に森中警視が頷く。
「うん、いいな」
いろいろと話し合い、だんだんと作戦が固まってきた。そんなときだった。
「ちょっと、私は用意があるので外させてもらうよ」
森中警視が唐突に言い出した。そして、呼び止める暇もあたえずに去って行った。
「用意って言うと、また手榴弾でも持ってくるのかな」
佐々木刑事が言った。
あり得る。一同は顔を見合わせた。物騒な言葉に芦屋氏が不安げな表情を浮かべた。
昼下がり。
鼻歌まじりにローズマリーが部屋に帰ってきた。
両手に紙袋を下げていた。買い物帰りだ。
今日はブティックで気に入ったデザインの服を見つけることができたので、機嫌がいいのだ。
早速、買ったばかりの服を紙袋から取り出した。はらりと紙が落ちた。
どうせセールのチラシだろう。そう思って手に取り、ちらっと見ただけでテーブルの上に放り出す。
それがテーブルに落ちる間際、ローズマリーは持っていた服を放り投げ、その紙をチャッチした。
紙にはこう書かれていた。
『今夜、D町の芦屋邸のトルマリンの自由の女神をいただきまーす。狙ってたんでしょ?怪盗ルシファー』
い、いつの間に!
しかも、なぜあたいがそれを狙っていることを知っているのか?
そう考えかけたが、自分が高いものは片っ端から狙っているので、高いものを狙っている言っておけばとりあえずあっているということに気がつく。
なるほど、挑戦状かい。
あじな真似をしてくれるじゃないか。
おもしろい。
やってやろうじゃないか!
ローズマリーは立ち上がった。
ローズマリーが部屋を飛び出した。
それを物陰で見ていたものがいることにローズマリーは気づかない。
映美だった。
イヤホンで、芦屋邸にしかけておいた盗聴器の音を聴きながら、ローズマリーのアパートの様子を窺っていたのだ。
ローズマリーが買い物をしている時からずっと後をつけていた。その時、こっそりと近づき、あの予告状をローズマリーの荷物に忍ばせたのだ。
ローズマリーが歩調も荒く去って行くのを見届けた映美は、ポケットから作ったばかりの合鍵を使ってローズマリーの部屋を開けた。
この間はあまりゆっくりと部屋を調べられなかったので、このチャンスを活かしてもっとローズマリーについて調べるのだ。
念のため、鍵をかける。窓の上を見あげると、この間残しておいた機械がそのまま残っている。盗聴した時の様子と併せて考えても気づかれた様子はない。映美は機械を外し、ポケットにしまった。
とりあえず、どこから調べよう。部屋を見渡す映美の視線が、盗聴器をかけた写真立てで止まった。
家族の肖像。埃を落とさないように映美はそれを手にとった。
写真立ての裏を開ける。写真の裏に鉛筆で文字が書かれていた。
『椛子7才の誕生日、マリンパークにて』
椛子。これがローズマリーの名前なのだろう。
「これ、なんて言う字だろう……」
映美はぼそっと呟く。とりあえず、写真を元どおりに戻し、名前をメモする映美。
映美はさらに棚を見渡した。しかし、特に目につくものはない。
次はカラーボックスだ。
カラーボックスの引き出しを開けた。入っていたのは下着だった。高そうな下着だが、興味はないのですぐに閉めた。
その下の引き出しに入っている封筒に映美は気がついた。
封筒に入っていたのは黄ばんだ古い新聞紙だった。
慎重に新聞紙を広げる映美。10年以上前の新聞だった。
こんなものを大切にとってあるということは、何かが書かれているのだ。
新聞を見渡す映美の目に、小さな写真がとまった。
中年男性の小さな写真。小さな写真でわかりにくかったが、見覚えのある男だった。今、見たばかりの家族の肖像に写っていた父親。少し顔が老けているが、ローズマリーの父親だった。
記事の見出しを見た映美は顔をしかめた。自殺。そのに文字が映美の目に飛び込んできた。
記事によると、ローズマリーの父親の名前は仙道樹一郎。借金を苦に駅のホームから通過する列車の前に吸い込まれるように飛び込んだという。
その2年前に、妻が病死してから酒浸りになり、仕事もせずに飲み歩いていたらしい。そして、そんな生活を続けるうちに借金が膨らんでいったのだ。
彼の子供、つまりローズマリーのことは何一つ書かれていなかった。
ローズマリーに、こんな過去があったんだ……。
映美は少しローズマリーに同情を覚えた。
しかし、今のローズマリーのことを思うと、同情もふっ飛ぶ。あの性悪はこんなところから来ていたのか。
とにかく、読み方はともかくローズマリーの本名が分かったのだ。仙道椛子。これは予想以上に大きな収穫だった。
夜が訪れた。ルシファーが来る。時の流れと共に緊張も高まっていく。
沈黙の中に、時計の音だけが響いていた。それがいやがうえにも緊張を煽る。
突如、外が騒がしくなった。
一同身構える。来たか!?
騒がしくなった外が静かになった。そして、ドアを開ける音。こつこつと言う足音。
ルシファーじゃない。これは……。
現れたのはやはりローズマリーだった。
「お前も来たのか」
佐々木刑事が言った。
「冗談じゃないよ、まったく。見ておくれよ、これを」
ローズマリーが紙を放ってきた。佐々木刑事が拾い上げて、声を出して読む。
「こいつは、挑戦状か。お前もなめられたものだな」
「まったくさ。で、後悔させてやろうと思ってね。悪いけど、自由の女神像はあたいが先に頂くよ」
「どっちにも渡さないぞ!」
飛鳥刑事が叫びながらローズマリーに飛びかかった。
その飛鳥刑事の横っ面めがけてローズマリーの蹴りが来る。飛鳥刑事はそれを身を屈めてかわした。そのバネを活かしてローズマリーに躍りかかる飛鳥刑事。
ローズマリーはどうにかそれを避けたが、飛鳥刑事の肩に弾かれてよろめいた。そこに佐々木刑事が飛び掛かる。腕を掴んだ。佐々木刑事は手錠を構えた。その瞬間、腹にひざ蹴りが入り、佐々木刑事はうずくまった。
飛鳥刑事が体勢を立て直して飛び掛かってきた。腰を落として足払いを仕掛けるローズマリー。飛鳥刑事はそれを軽く跳躍してかわす。
「やるじゃないか。いつの間にそんなに腕をあげたんだい?」
ローズマリーは飛び退きながら言った。
「俺が鍛えてやったのさ」
苦しそうな声で佐々木刑事が言った。まだうずくまったままで、顔だけをあげている。だが、その顔には僅かに笑みが浮かんでいる。
「飛鳥君、どきたまえ!」
森中警視の声が響いた。飛鳥刑事が言われたとおりに横に退いた。
森中警視を見て、ローズマリーは唖然とした。バズーカ砲をローズマリーのほうに向けている。
「ちょ、ちょ、ちょっと!なにをする気だい!」
慌ててローズマリーは逃げ出した。その背中めがけて森中警視はバズーカ砲をぶっぱなす。
どおおぉぉん!
音に驚いたローズマリーは廊下の端で身を屈めた。そのすぐそばを森中警視のぶっ放したモノが通り抜けて行った。
突き当たりの壁に弾が当たった。ベチャ、という音がして壁にそれが貼りついた。そこから、森中警視のバズーカまで鎖が繋がっている。
「何ですか、あれは」
佐々木刑事が森中警視に訊いた。
「いつか失敗した強力接着剤だ。今度は成功のようだな」
「でも、はずれちゃ意味がないですよ」
「まったくだ」
ローズマリーは慌てて逃げ出した。
「冗談じゃない、こんな物で狙われてたまるかい!その残りはルシファーにでもくれてやりな!」
ローズマリーは壁に繋がった鎖を見て吐き捨てるようにいい、角に姿を消した。
「しかし、一発しかない。残りはないんだがな」
森中警視が呟いた。
「ますます、はずれちゃ意味がないですね」
逃げ去ったローズマリーを追うでもなく佐々木刑事が言った。
玄関から飛び出したローズマリーは、後ろを振り返り、誰もいないことを確認して額の汗を拭った。
「どうしたの?」
突然頭の上から振ってきた声にローズマリーは驚いた。慌てて声のした方を見上げる。
ルシファーがそこにいた。
「首尾はどう?」
ルシファーがにやにやしながら言った。
「その顔は分かって言ってるね?まったく!……もしかして、あたいのことを囮に使おうとか思ったんじゃないだろうね」
ローズマリーはルシファーを睨みつけながら言った。
「そんなこと思わないけど。じゃ、あたしもそろそろ行こうかなぁ。これで、もしあたしが自由の女神を盗めたら、あたしのほうが上手って事よね?」
「馬鹿にするんじゃないよ!あんた、何がしたいんだい?あたいを怒らせて得になることなんてありゃしないよ?」
ローズマリーの声のトーンが下がった。かなり本気で怒っているようだ。
「いつまでもそんなところにいるからよ。早く帰ったら?」
ルシファーの言葉に苦々しい表情を浮かべるローズマリー。ルシファーを一睨みすると、踵を返して歩きだした。
ルシファーが屋根から降りてきて、立ち去ろうとするローズマリーの背中に向かって言った。
「おやすみー、仙道さん!」
その言葉を聞いてはっとしたように振り向くローズマリー。
しかし、ルシファーの姿は既になかった。
ローズマリーが戻ってくる気配はない。
「いいのか?追わなくて」
木下警部が佐々木刑事に訊いた。
「わざわざ来たんだ。これくらいで帰ったりしませんよ。あいつはまた現れます。ルシファーが来るのを隠れて待っているかもしれませんし。とりあえず、まだルシファーが来ないうちはここを離れられませんよ」
「そうか」
木下警部はそれ以上何も言おうとしない。
あたりに沈黙が訪れた。
聞こえるのは時計の針の音だけだ。
再び、妙な緊張が辺りを包む。
「うわああぁぁぁ!」
突然、悲鳴が上がった。金庫のある部屋だ。
駆け出そうとする飛鳥刑事を佐々木刑事が制した。
「まだ動くな。狙われるものがあるのはここだ。他のところで何があってもここに来ていない以上なにもできやしない」
飛鳥刑事は小さく頷いた。
そして、正面のドアを見据える。
そこにルシファーが立っていた。
「来たか」
木下警部が言った。しかし、誰も動こうとはしない。
にらみ合い。
不意にルシファーが動いた。一同、ルシファーの挙動に注視する。
突如閃光が起こった。
「しまった!」
目が眩んだ。見えない。すぐ近くで物音がした。ルシファーか!?盲滅法で飛びつこうとする飛鳥刑事。しかし、手が空振る。また物音がした。再度飛びつく。今度は手応えがあった。
「きゃあ!」
捕まえたか!?とも思ったが、声が違う。小百合の声だった。
「ご、ごめん!」
再び物音がした。この音は戸棚が開いた音か!?
やられた!……いや、まだだ!
ルシファーは刑事達が自分を見ているのを確認し、ふところから小道具を取り出した。
目をつぶり、その小道具のふたを開けた。
瞼越しに見てもかなり強い光が出たことが分かった。目を開けると、刑事達は全員目が眩んだらしく、目を開けられずにおたおたしている。
ルシファーはポケットからビー玉を取り出し放り投げた。じゅうたんの上に落ちてくぐもった音を立てる。すると、刑事達はその音につられて一斉に動きだした。
ビー玉をもう一つ投げた。つられた刑事達は戸棚からどんどん離れていく。
刑事たちの足音が近付いてきたことで、少し距離をとろうと歩き始めた小百合が壁にぶつかった。その音を聴き付けて、飛鳥刑事が小百合に飛び掛かった。小百合が悲鳴をあげた。
その隙に、ピックを取り出し、戸棚の鍵を開ける。
佐々木刑事がそれに気づいた。
そろそろ刑事達の目も見えるようになってくるはずだ。急がなければ。ルシファーは戸棚を開けた。佐々木刑事が突進してきた。躱す。
戸棚の扉が開いた。が、佐々木刑事がまたつっこんできた。後ろに跳んで躱すルシファー。
突然、戸棚の中から何かが飛び出してきた。佐々木刑事の横っ面にそれが当たった。佐々木刑事はひっくり返った。
よく見ると、ボクシングのグローブだった。重りが入っていたらしい。直撃を受けた佐々木刑事は完全に伸びている。
佐々木刑事の突進を躱さなければ、自分にあたっていただろう。危なかった。
戸棚の中を覗きこむルシファー。さっきのグローブを飛ばした仕掛けらしい物が見えた。自由の女神像はない。
そんなはずはない。この中に隠すといっていたはずだ。
そう考えたルシファーははっとした。
そうか。確かにこの戸棚の中に隠してあったんだ。
ローズマリーは帰らなかった。
ルシファーは確かにローズマリーの名字を呼んだ。
なんであいつがあたいの名前を知っているんだ?
まさか、本当にあたいの本名を知っているんじゃ……。
冗談じゃない。
もしそうなら、ばらされる前になんとかしなければ……。
目がようやく見えるようになってきた。
部屋の中を見回す。目の前に小百合がいた。その近くに森中警視。部屋の反対側に木下警部。佐々木刑事は……。床に倒れている。何があったんだろう。
ルシファーの姿はない。
森中警視が佐々木刑事に駆け寄った。
佐々木刑事を一瞥し、戸棚に目を向ける。開いている。
「いてててて……」
佐々木刑事が起き上がった。辺りを見回し、状況を確認する佐々木刑事。
「佐々木君、もしかして私の仕掛けた罠に引っかかったのか?」
森中警視が言った。
「なんか、そうみたいっす」
佐々木刑事が首を振りながら言った。
「グローブは?」
森中警視に言われ、佐々木刑事が周りを見渡す。しかし、ない。
どうやら、ルシファーが持っていったようだ。そうでなければ佐々木刑事の近くに転がっていなくてはおかしい。
「やられたか!」
森中警視が忌々しげに言った。
玄関で、ルシファーはさっき拾ってきたグローブの中を探っていた。
砲丸投げに使う砲丸のような物が一つ出てきた。そして、宝石箱も。
このグローブの中に自由の女神像が隠してあったのだ。箱を開けると、そこに確かにトルマリンの自由の女神像が入っていた。
満足げに頷いて、宝石箱をポシェットに収めるルシファー。砲丸とグローブを玄関口に放り投げ、悠然と芦屋邸をあとにした。
道路に出たとき、突然横で大きな音がした。驚いてその音のほうを見るルシファー。
ブリキのゴミ箱が転がっていた。大きな音はそれだった。そのゴミ箱を転がしたのは、その横で仁王立ちになったローズマリー。
ローズマリーは既に袋を構えていた。そして、ぱらぱらと宝石の粉を落とした。月明かりを受けて宝石の粉がきらきらと輝く。
ルシファーは遠のいていく意識の中で自分の迂闊さを呪った。
目に前にルシファーが虚ろな目でしゃがみこんでいた。
手のひらに落ちた宝石の粉を袋に戻した。水晶とダイアモンドの粉だった。人の記憶を操る催眠術。
「ルシファー。お前はあたいの名前を知っているのかい?」
ローズマリーの言葉に無言で頷くルシファー。
ローズマリーの表情が険しくなった。睨みつけるような目でルシファーを見る。そして訊いた。
「言ってごらん、あたいの本当の名前を」
弱々しい声でルシファーが答える。
「せんどう……」
「続きは!?」
「……わからない」
それを聞いて、ほっとした顔をするローズマリー。
「いいかい、その仙道ってのも忘れるんだ。あたいはその名前はとっくに捨てたんだからね」
ルシファーが頷いた。満足そうな顔で微笑むと、ローズマリーはぱちんと指を鳴らした。
ルシファーが体をビクンと震わせた。
そして、目の前にローズマリーがたっていることに気がつき、慌てて飛び退く。
「な、何を……」
ルシファーが言った。
「何もしてないさ。今日は見逃してやるよ。帰りな」
その時、玄関の扉が開いて刑事達が飛び出してきた。
ルシファーもローズマリーも素早くその場から逃げ出した。
「見ろ、ローズマリーもいるじゃないか。あいつ、やっぱりルシファーが出るところを狙ってたみたいだな。よし、俺はローズマリーを追う。飛鳥はルシファーのほうを頼む」
佐々木刑事が言った。頷く飛鳥刑事。
それを聞きながらローズマリーは思う。
しまった。さっきルシファーから自由の女神像を奪っちまえばよかった。
後ろから飛鳥刑事が追ってくる。
しかし、声をかける気にもならなかった。
さっき、ローズマリーは何をしたのだろう。何か、催眠術をかけられたのは分かる。しかし、何をされたのかは分からない。
ふと、ポシェットの中が気になった。盗られたのかもしれない。
屋根の影に隠れてポシェットの中身を確認する。しかし、自由の女神像はそこにあった。
しかし、それが安堵につながらなかった。
ますます、何をされたのかわからない。かえって恐怖心が強まってきた。
「ルシファー!」
飛鳥刑事が叫んだ。見下ろすルシファー。
「お前、どうしてまた現れる気になったんだ!?」
飛鳥刑事が訊いてきた。ルシファーは少しためらったが、答えた。飛鳥刑事には知ってほしかった。自分の決意を。
「ローズマリーがいるもの。あいつがこの街にいる以上、怪盗をやめることはできないの」
「ローズマリー……?」
「あいつにこの街で好き勝手にはさせられない。ここはあたしの街だもの。よそ者のあいつなんかに踏みにじられたくはない」
飛鳥刑事は何も言わなかった。ルシファーは飛鳥刑事に背中を向け、隣の屋根に移った。
飛鳥刑事は追ってはこなかった。
佐々木刑事を振り切ったローズマリーは、自分のアパートの部屋で人心地ついていた。
自由の女神像をルシファーに盗られたのは残念だった。しかも、奪い取れる状況を作っておきながらみすみす逃してしまったのは、我ながら間抜けとしか言いようがない。
あれは、ルシファーが名字を知っていたことに気を取られたからだ。
それにしても、あいつはどこであたいの名字を知ったんだろう。
これは、気をつけなきゃいけないね。
場合によっては、組織に頼んで消してもらわないといけないか……。
映美も部屋に戻って一息ついていた。
何だろう。何かを忘れているような気がする。何を忘れているんだろう。
映美は机の引きだしからメモ帳を出して広げた。
予定表のページを開く。特に明日の予定はない。備忘録にも目を通す。最後のページに、何か見慣れない文字が書いてあった。
仙道椛子。人の名前のようだ。しかし、誰のことかは思い出せない。それに、『椛』という字。こんな字は知らない。なんと読むのだろう。
その字面を穴があくほどまじまじと見詰める映美。
知り合いのような気がする。
最近このメモをとったのは……。
そこまで考えて映美は思い出した。
そうか、ローズマリーだ。仙道椛子はローズマリーの本名だったっけ。こんな大事な事、何で忘れていたんだろう。
しかし、『椛』がどうしても読めない。辞書をひいて調べようかと考える映美。しかし、やめた。ローズマリーのためにそんな手間を掛ける気にはならない。
それよりも、この名前、どうしよう。
そうだ、これをどこか目立つところに書いておこう。そうすれば、世間にローズマリーの本名が知れる。ローズマリーでもタダでは済まないはずだ。その手段を考えることにした。
聖華警察署の前に、飛行船が用意された。
その風船部分に、大きな文字で『呑むなら乗るな、乗るなら呑むな』と書かれている。年末年始のの忘新年会で、毎年のように出る酒飲み運転に対するキャンペーンである。
この飛行船、実は、以前オープンしたブティックの宣伝用に使われた飛行船の払い下げなので、書かれている内容が気恥ずかしいようなファンシーなデザインである。
「よーし、準備はできたか?」
責任者らしい男がいった。
「OKです!」
警官の一人が答えた。
「飛ばすぞ!」
その号令の下、繋がれていたロープが解かれた。ロープの拘束を逃れ、ふわりと浮かび上がる飛行船。
飛行船を舫いでいたロープと共に、何かが舞い落ちた。
警官が、それを拾い上げた。『呑』という字の書かれた布だった。
舞い上がる飛行船から、まるでビラがばらまかれるように布がはがれ落ちていった。表面に書かれていた『呑むなら乗るな、乗るなら呑むな』の文字が。
「おい。おいおい!これは何だこれはぁ!」
交通課の面々はもはや錯乱状態と言ってもよかった。
自分達はとんでもない物を飛ばしてしまったのだ。
佐々木刑事はぼんやりと外を眺めていた。眼下では交通課が飛行船を飛ばして飲酒運転はやめようねと訴えかけるキャンペーンの最後の準備をしていた。
無駄なことやってるよなぁ、などと思いながら、タバコを咥え火をつける。
いい天気だ。風もあまり強くはない。散歩でもしたい気分だ。で、女の一人もひっかけて。
目の前を飛行船が過ろうとしていた。
「なぁ、飛鳥」
佐々木刑事は後ろで書類を読むでもなく見つめている飛鳥刑事に声をかけた。
「何です、先輩」
気のない返事が返ってきた。
「見ろよ、交通課の飛行船。最近の交通課はいろんなことをやってるんだな」
飛鳥刑事が窓際に寄ってきた。飛行船から何かがはらはらと落ちた。
「おおおおお!?」
素っ頓狂な声を上げたのは佐々木刑事だ。飛鳥刑事は唖然としている。
「何だ!?」
木下警部と森中警視も窓に駆け寄ってきた。そして、揃って息をのむ。
「ルシファーのやつ、今日はいつになく派手だなぁ!」
飛行船の、はがれ落ちた布の下にあったのはルシファーからの予告状だった。
『ローズマリーこと仙道椛子に告ぐ。B美術館のダイヤをいただきにまいります。怪盗ルシファー』
「ローズマリーへの挑戦状だぜ。……あれ、何て読むんだ?」
「あれは、かばかな?」
佐々木刑事の疑問に答えたのは森中警視だった。
「かば!?って事は、ローズマリーって、せんどうかばこ……。かばこぉ!?あの顔でかばこ……。げ、幻滅ぅ……」
頭を抱えながら喚く佐々木刑事。
「かばこ……ぷっ」
飛鳥刑事は思わず吹き出した。
電話が鳴った。
受話器を取ると、まだ耳も当てないうちから騒々しい声が聞こえてきた。
「おいおいおいおい、えらいことになってるぞ!」
004だ。しかし、何があったというのだ。
「どうしたって言うんだい?落ち付きなよ」
ローズマリーはあきれながら言った。
「落ち着けるか!お前、聖華市の上空に何が飛んでるのか見てないのか!?」
「上空?」
「いいから、外に出て目ン玉ひんむいてよく見ろ!」
電話が切れた。
外に出て、空を見あげた。特に何も見えない。
商店街の方に足を延ばしてみた。
何もないじゃないか。
そう思った瞬間、ローズマリーの足元を大きな影が落ちた。
空を見あげた。飛行船だ。一目見てそう思った。
文字が書いてある。
書かれている字面を見て、ローズマリーは戦慄した。
恐れていたことが起きた。
十数年、ひた隠しにしてきた本当の名前。それが、今大勢の人の前に晒されている。しかも、隠れ蓑であるローズマリーという名前と並んで。
かばこという名前。幼い頃はこの名前のせいでよくいじめられた。高校にはいかなかった。いや、行けなかった。この名前のせいで。
名乗らずに生きていける裏街道に身を委ねたのはこのためだった。
親は憎くなかった。自分達の名前が、樹一郎と紅子なので、木の葉が紅に染まるもみじを二人の子の名前にした。それだけのことだ。この名前を笑い物にした世間が憎かった。
周りでくぐもった笑いがおこっていた。それに混じって、時折かばこという言葉が聞こえた。
笑っているのか。あたいの名前を笑っているのか。
ローズマリーは踵を返し、家路を急いだ。
自分一人の空間に帰ると、さっきまでのことは悪夢だったかのような錯覚を覚えた。
テレビをつけた。あの飛行船が映った。消した。
やはり、現実なのだ。
あの飛行船はルシファーの仕業か……。
やはり、あいつは悪魔だったようだ。あたいにとっても。世間はあいつに最高の呼び名をつけてくれたのだ。
悪魔が、この聖なる街で生き長らえられるはずがない。しかし、神の裁きを待つつもりはない。
あたいが、神にかわって悪魔を裁いてやろう。
もう、手加減なんかするものか。奴に地獄の苦しみを味わわせてやろう。
ローズマリーは怒りに満ちた表情で呟いた。
「ルシファー……。あたいを怒らせたことを死ぬほど後悔するがいい……」
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