Episode 1-『堕天使のラブソング』第22話 肉迫
さっきまでは空席もないほどだったのに、この時間になって客足がだんだんと退いてきた。
少し手持ち無沙汰になってきた映美がふと時計を見ると、もうすぐ9時というところだ。
いつも、このくらいの時間には来る客より帰る客のほうが多い。
この店では、モーニングセットは10時までなのだが、9時を過ぎるとモーニングセットの注文も稀である。
映美はテーブルの上に残されたトレーを回収しながら心の中でそっと呟いた。
飛鳥刑事、今日も来なかった。
会わないほうがよかったと言いだしたのは自分の方なのに、いざ会えなくなってみると、どうしても会えることを期待してしまう。
身勝手だというのは分かっている。でも、飛鳥刑事のことがまだ好きなのだ。
会いたい。でも、会えない。
会うのは簡単だろう。怪盗になって、予告状を出す。そして予告の時間にその場所に行くだけだ。
しかし、それはできないことだ。会えば、またあの葛藤に悩まされるだろう。
捕まりたくはない。でも近くにいたい。いっそ、捕まってしまえばいい。でも、そのあとのことを考えるとそれはとてもできない。
そして、それは飛鳥刑事も同じ。
ルシファーを捕まえたい。しかし、捕まえることでルシファーを苦しめることになってしまう。ルシファーを苦しめたくはない。
映美も苦しみたくはない。苦しめたくもない。
だから、怪盗にはなれない。
でも、映美としても飛鳥刑事には会えなくなってしまった。
気づいて欲しかった。しかし、気づかれたことにで、飛鳥刑事はあたしに会いに来なくなった。
どうしたらいいの?
どうしたら……。
「映美?」
唐突に光子に声をかけられて、映美は思わずびくっとした。
「どうしたのよ、映美。最近元気ないじゃないの。何かあったの?」
光子の言葉に慌ててかぶりを振る映美。
「う、ううん、何でもないの。あの、ね。今月ちょっと無駄づかいしちゃって。それで」
映美はでまかせを言ってごまかした。そんな映美の嘘をあっさりと信じてしまう光子。
「なるほどねぇ。私にもあるわ、そんなこと。気がつくと財布が空っぽで、一箱買っておいたミカンで半月乗り切ったこともあったわ。おかげで手が真っ黄色になって……」
光子の苦労話を話半分に聞きながら、映美はまた飛鳥刑事のことを考えていた。
いけない。また、飛鳥刑事のことを考えている。
考えれば考えるほど苦しくなってしまう。
好きなのに。考えることが苦痛になるなんて……。
このままじゃいけない。
忘れなきゃ……。
汽笛を鳴らしながら港に船がついた。
誘導する作業員。滞りなく船が接岸し、中から積み荷が次々と降ろされ始める。
その様子を倉庫の影から見守るものがいた。
ローズマリーだった。
「聖洋丸……、か。いまいちさえない名前だねぇ」
この船に積まれている主な荷は洋盤のレコードの類いだと聞いた。この船には金目のものは積まれてなさそうだった。しかし、そんなことはどうでもいい。頼まれたことだけ確実に終わらせればそれでいい。
そう割り切って、ローズマリーは船に向かって歩き始めた。
この船に積まれているのは、外国のレコードだ。ローズマリーだってそんなものに興味はない。しかし、このレコードにとんでもない宝が混じっているのだ。
組織のほうから依頼があった。この船の積み荷に混ざって密輸されるあるものを盗み出して欲しい、と。
ローズマリーには、その価値が解らない。が、組織が言うには、億の金が動くものらしい。
積み荷を運んでいた作業員は、ローズマリーが船に近づいてきたのを見咎め、声をかけた。もちろん、この女がローズマリーだということをこの作業員が知る由はない。
「ほらほら、作業の邪魔だ。帰った帰った!」
作業員の声を気にした様子もなく、ローズマリーは船に近づいていく。
「なんだ、あんた!」
慌てて作業員は持っていた荷をおろし、ローズマリーに駆け寄った。
ローズマリーが振り返った。手には小さな袋を持っている。その袋から、きらきらと輝く粉がこぼれ落ちていくのが見えた。
作業員の記憶はここまでだった。
ローズマリーは、作業員を片っ端から眠らせ、悠然と船の中に入りこんだ。
貨物船らしく、広い船倉だ。
箱がびっしりと並んでいる。
この中から、目的の物の入った箱を探さなくてはならない。ローズマリーはポケットからメモを取り出した。あまり有名でないフォークシンガーの名前が書かれている。
段ボール箱の側面にマジックで書かれた名前をチェックしていく。外人の名前は読みにくい。そう思いながら、名前を見比べていく。
見ているうちに、メモの文字の羅列と同じ並びの名前が書かれた箱を見つけた。これだ。目的の物の入っているだろう箱が見つかった。
箱の封印が一度解かれ、再び封がされていることがすぐに分かった。間違いないだろう。この中のレコードに細工をしたのだ。
あとは、この箱の中のどのレコードが目的の物かということである。それは解らないので、1枚ずつ見ていかなければならないのだろう。
ジャケットからレコードを出して調べる。何もおかしな点はない。
そのレコードを放り投げて次のレコードを調べる。
20枚ほど調べたあたりから、だんだんうんざりしてきた。全部で80枚も入っている。
なんであたいがこんなことしなきゃいけないんだい。まったく。
ぶつぶつと愚痴りながらも一枚ずつレコードを調べるローズマリー。そのイライラが頂点に達しかけた時、目的の物は見つかった。
レコードの穴にセロファンが重ねて貼ってあった。その真ん中に目的の物が挟まれている。
マイクロフィルム。
この小さなフィルムに何が写っているのかはローズマリーは聞かされていない。分かるのは、ここまでカムフラージュして日本に持ち込まれなければならないということと、ストーンがローズマリーに頼んでまで手に入れたがっているということだけである。
とにかく、これを持って帰れば依頼は終わりだ。
レコードからセロファンを剥ぎ取り、マイクロフィルムをセロファンごと小袋に放り込んで、ポケットに押し込んだ。
本当なら、ここでもう一稼ぎしたいところだが、こんな船に掛け目の物が積まれているとも思えない。
一通り船を歩き回り、調べてみたが、やはり金目の物は全然見当たらなかった。せいぜい、船室にある船員の持ち物くらいだろう。
ローズマリーだって、そんなみみっちいまねはしたくない。怪盗の名に傷がつく。ただでさえ、こんなレコードなんてセコいものを漁らされているのだ。
盗まれた相手だって、警察に言えるようなものではないだろう。今回の事件のことは黙殺するに違いない。
頼まれ事とはいえ、つまらない仕事だ。こんなときはとっとと帰るに限る。
12時の鐘がなった。
映美の勤務時間も終わりだ。着替えて、裏口から出た。
冷たい風が吹き抜けて行った。映美はその風に急かされるように歩きだした。
しかし、足取りが重い。何をしたいとも思わない。映美はそんな自分に溜め息をついた。
クリスマスが近いので、通りも賑々しく飾られ、陽気なクリスマスソングが到る所で流れている。いつになく肩を並べて歩く若い男女が多く感じる。
映美はそんな浮かれた楽しげな街を歩くのが堪えられなくなり、路地に入っていった。
路地に入った途端に、あたりが静かになった。寒さの所為か、いつになく人通りもない。大通りの賑やかさを考えると、ここはあまりにも寂しすぎた。その所為もあるのだろう。
この路地を抜けると海に出る。ふと、映美は海が見たくなった。
路地をとぼとぼと歩いているうちに、海沿いの道に出た。
吹きつけてくる風が特に冷たい。そのせいか、人影はなかった。
映美は海岸の手すりに寄りかかりぼんやりと海を見つめていた。
夏に見る青い海とは全然違う。色も暗く、波も荒々しい。
なんで、海を見たくなったのか分かった気がした。海を見ながら、ふと思う。まるで、自分の心を見ているようだ。
体が冷えてきたので、ゆっくりと歩きだす。埠頭が見えてきた。船が何隻か見える。この寒い中、糸を垂らしている釣り人もいる。
見える景色はコンクリートの埠頭と倉庫。そして冬の黒ずんだ海だ。寒々とした景色だった。
この倉庫の間の狭い道を通っていくと映美のアパートはすぐだ。
その倉庫の近くには作業中らしく荷物が積まれていた。
その荷物の横をなにげなく通り抜けようとした映美は、思わず悲鳴を上げそうになった。
荷物の影に作業員らしい男が倒れていた。
映美は慌てて作業員の肩を掴んで揺すってみた。作業員は短く呻き声をあげた。眠っているだけのようだ。
しかし、こんなところで、ましてやこの寒空の下眠っているというのはよほどのことだ。
まさか。
映美は船に駆け寄った。埠頭に数人の作業員が倒れていた。
思ったとおりだ。眠っている。これはローズマリーの手口だ。
誰かを呼ぼうとあたりを見回すが、誰もいない。さっきの釣り人にはここは死角になっている。
その時、船内から足音が近づいていることに気付いた。悠然とした歩き方だった。映美は慌てて船から離れた。ローズマリーがまだいたようだ。
映美は倉庫の近くまで駆け戻り、積まれていた荷物の影に身を隠した。
警察を呼びに行くか?それとも、ローズマリーが盗んできた物を奪うのか?悩む映美。しかし、この服装では盗みを働くのはどうだろうか。
ローズマリーが船から出てきた。警察を呼びに行くのは間に合わない。ならば、ローズマリーの盗んだ物を奪おう。服装のことは構ってはいられない。
しかし、ローズマリーは特に何かを持っている様子はない。盗んだ物は小さな物なのだろう。ポケットに収まってしまう程度の物だ。
ローズマリーが、どのポケットに入れたのかはさすがに分からない。何を盗んだのかさえも分からないのだから。どこに持っているのか分からないのでは、奪いようがない。
荷物の影で、ローズマリーが近くを通る気配を感じながら、映美は焦れた。ローズマリーが何かを盗んだらしいというのが分かっているのに、なにもできない。
ローズマリーは荷物の影にいる映美には気づかずに路地に入って行った。
映美はどうすることもできず、ただローズマリーの後を尾けるだけだった。
大通りに出た。相変わらず、騒がしい。
だからこそ、少し離れたところを尾ける映美にローズマリーは気づかない。
さっきは歩くのも居たたまれなかった雑踏も、今は平気だった。
にぎやかな街を、寄り道をしながら歩くローズマリー。普通に歩けば10分とかからない道を1時間近くかけて歩くローズマリーの手には、ぶら下げられた買い物の袋が一つずつ増えていった。とても、何かを盗んだあととは思えない。しかし、何も盗まないのにあんな船に、催眠術まで使って乗り込むとも思えない。
映美は、辛抱強く尾行を続けた。やがて、一軒のアパートにたどり着いた。ローズマリーはここに住んでいるのだ。
あまり大きくない、古びたアパートだった。あれだけ買い物をして、遊び歩いているのに、こんなボロアパートに住んでいるというのは予想外だった。もっと高級なマンションを借りているのかと思ったのだ。
この場所を警察に知らせるべきか……?映美は悩んだ。
いや、まだやめておこう。警察に知らせたところで、ローズマリーに逃げられるだけだ。
それに、ローズマリーがどんな人間なのかも興味があった。住んでいる場所が分かれば、ローズマリーについて、いろいろ調べられるだろう。警察に言えば、むやみに踏み込もうと押しかけるだけだ。それで、捕まえられるとは限らない。
ふと思い立ち、ローズマリーの入った部屋のポストの名札を見た。しかし、映美はそれを見てがっかりした。違う、これはローズマリーの本名じゃない。
名札には『西川小百合』と書かれていたのだ。
とにかく、住んでいる場所は分かった。これは大きな収穫だ。映美は家路を急いだ。
ルシファーが現れなくなって2週間近く経つ。
飛鳥刑事に元気がないのは無理からぬことだ。しかし、佐々木刑事は、飛鳥刑事が落ち込んだのは、あのストラディバリ事件以来だということに気付いていた。
あの晩、何があったのかは分からない。
しかし、何かがあったのだ。それは間違いない。
飛鳥刑事が落ち込み、ルシファーが現れなくなるような何かが。
「飛鳥刑事ー♪」
小百合が入ってきた。飛鳥刑事の顔に僅かに明るさが取り戻される。無理して明るく振る舞っている。小百合は気づいていないだろうが。それとも、小百合も気づいていて、こうしてたまに元気づけに来ているのか。
佐々木刑事は飛鳥刑事から目を逸らした。
俺には関係のないことだ。俺がどうしたって解決できるような問題じゃない。どうにかできるとしたら、あいつくらいだろう。
ルシファー。
時間が解決してくれないのならば、ルシファーが再び現れるのを待つしかないだろう。
その時、電話のベルが鳴り響いた。木下警部が受話器をとった。二言三言、言葉をかわし、受話器を置く。
「港にローズマリーが出たらしい。船の作業員が眠らされたといっていた。何が盗まれたのかは分からないようだが、一応行ってみよう」
飛鳥刑事も無言で立ち上がった。
佐々木刑事は歩きだしながら、低く呟く。
「何も変わらないのは、こいつだけか……」
日が傾き掛けている。窓から西日がさしこんできた。
テレビを見ながら、今夜の夕食について考えていると、ドアがノックされた。
「入りな。開いてるよ」
入ってきたのは思ったとおり004だった。
「首尾はどうだ?」
004は玄関先で立ったままローズマリーに訊いた。
「これでいいんだろう?」
盗んだばかりのマイクロフィルムを、セロファンに包まれた状態のまま004に渡した。
「さすがだな。こりゃ、総裁も喜ぶぜ」
「いいかげん教えてくれてもいいだろ?そいつに何が写ってるんだい?」
ローズマリーが訊いたが、004は肩を聳やかすだけだった。
「悪いな、俺も何が写ってるのかまでは聞いてねぇんだ。俺にまで内緒となると、相当ヤバいものだな」
「そうかい。じゃ、知らないほうがいいんだね」
ローズマリーは憮然とした顔で言った。
「そうだろうな。ま、今回の仕事は警察もそんなに動かないだろう。こいつを密輸した方も警察にバレるとタダじゃすまねぇみたいだし」
004は、言いながら帰ろうとする。
「何だい、今日はずいぶんと慌ただしいね。忙しいのかい?」
ローズマリーは訝しんだ。いつもならここで一服して、馬鹿話の一つもしてから帰るのに。
「別に忙しいわけじゃねぇけどさ。こいつを運ぶのもちょっと物入りでな。俺にも見張りがついてるんだよ」
それはつまり、持ち逃げしようとすると消される、ということだろう。
ローズマリーは、自分の盗んだ物がとんでもないものだということに改めて知らされた気がした。
組織からの依頼を受けるということがどんなことか、分かったような気がしてきた。しかし、断ることはできない。
もはや、後戻りはできない。なるようにしかならない。あたいは言われたとおりのことをするしかない。それが、どんな意味があるのかなんて考える必要はない。
そう思えば、気も楽だろう。だが、ローズマリーの心はいまいち晴れなかった。
映美はここ数日、仕事が終わっても遊びにもいかず、ラジオに聞き入っていた。
チャンネルは警察の盗聴。
聞きながらじっと待っていた。
そして、待ち続けた瞬間が訪れようとしている。
年末ということもあってか、このところ刑事課2係にかかってくる電話も多い。盗難事件が相次いでいるのだ。
停めて置いた自転車が盗まれた、と言うもの。空き巣に入られた、と言うもの。スーパー強盗というのもあった。しかし、どれも映美の待っている通報ではない。
ラジオから電話ののベルの音が聞こえてきた。今日だけでも3回目だ。
少し、間を置いて声がする。木下警部の声だ。
「聖華会館通りの宝飾店にローズマリーが現れた。今からなら間に合うかもしれん。行くぞ!」
その声を聞いて、映美も立ち上がった。
この時を待っていたのだ。
映美はこの間知ったばかりのローズマリーのアパートの前に立っていた。
念のためドアの取っ手を回して押してみるが、ドアは開かない。鍵がかかっている。
持ってきたポシェットから道具を取り出す。細めのピック。
ローズマリーの部屋のドアの取っ手鍵穴にピックを押し込み、かちゃかちゃと動かす。そうすると1分ほどで鍵が開いた。
ドアを開けて部屋に入る映美。
見渡してみると、部屋の中は思ったよりこざっぱりとしていた。女の住んでいる部屋とは思えないくらいに殺風景だ。
いくつかのカラーボックスと、衣装ケース。テレビ、冷蔵庫。小物が並んだ棚。
部屋を見渡してみて、真っ先に思ったのは、最低限の物しかない、ということだった。
映美はドアの鍵をかけ、部屋に上がりこんだ。
もう一度、部屋の中を見渡す。どこがいいだろう。そして、目をつけた棚に近づいた。
宝石の粉の入った袋が置いてあるのに気づく。催眠術に使う物だ。乳鉢もある。これで宝石を粉にするのか。
何か、粉に混ぜてやろうか。コショウとか。
そう思ったが、思いとどまった。
そんなことをすれば、誰かがこの部屋に入ったことに気付かれてしまう。今日のところは、入ったことを知られてはいけない。
ローズマリがここに住んでいるかぎり、そういう悪戯はいつでもできる。まだ、それをするのは得策ではない。
棚を見渡し、埃を被った写真立てに目をつけた。埃を被っているということは、動かすことは滅多にないと言うことだ。
写真立てに入っていた写真に写っていたのは、楽しそうに笑う家族の写真だった。遊園地でとられた写真だ。
微笑む母親。その横で、父親に肩車されている幼ない少女。
見覚えのある顔だった。あどけない顔をしているが、ローズマリーだ。面影が残っている。
ローズマリーもこんな頃があったんだ。そう、映美は思う。
この写真に写っている少女が、あのローズマリーだとはとても思えないくらい、純真な顔をしていた。
何が、彼女を変えたのだろうか。
写真を見つめているうちに、映美は田舎にいる両親のことを思い出した。
この街には、生まれた時からずっと住んでいた。父はしがないサラリーマンだった。何の不自由もなく、かと言って特に裕福ということもなく、平凡な生活を送っていた。
しかし、その平凡ながら静かな生活も唐突に終わった。2年前、映美の父の勤めていた会社が倒産してしまった。
映美の父は悩んだ末に、田舎に帰って農家である実家の手伝いをすることにした。母も、父について行った。
高校に通っていた映美は、一人この街に残った。そして、仕送りと、校則では禁止されていたアルバイトで生計をたてた。
大学にも行きたかったが、行けなくなってしまった。
映美が働き始めると、仕送りをもらう方から送る方になった。会社を辞めると言った時は両親もずいぶんと心配してくれた。身勝手な自分を気づかってくれているのが痛いほどわかった。
不意に、両親に会いたくなった。
でも、会えない。会うわけにはいかない。
今、自分は怪盗だ。両親にあわせる顔がない。
しかし、怪盗はやめられない。
そうだ。ローズマリーに、この街で好き勝手にはさせらない。自分の生まれ育った街だ。それを、こんなどこからか流れて来たような女に荒らされては黙っていられない。ましてや、自分のまいた種といってもいいのだ。
映美は写真立ての裏に盗聴器を隠した。映美にとって、ローズマリーの数少ない情報となってくれるだろう。それも、これ以上はないと言うほどの確実な情報だ。
盗聴器は仕掛けた。
あとはローズマリーが戻ってくる前に帰らなくてはならない。
映美は窓を開けると、窓の上の天井に小さな機械を仕掛けた。そして、その機械からワイヤーを引っ張り出すと、窓の鍵の取っ手に引っかけ、機械のスイッチを入れた。
開けられたから窓から飛び出し、窓を素早く閉める。5秒ほど待つと、さっきの機械のワイヤーが機械の中に巻きこまれ、その勢いで窓に鍵がかかる。もう、映美が侵入したということは気づきようがない。天井に残された小さな機械に気づかれなければ。小さな機械だ。そう易々とは気づくまい。
映美は窓に鍵がかかったのを確認して、アパートをあとにした。
数分後、ローズマリーが戻ってきたが、映美が忍びこんだことに全く気づかなかった。
映美は部屋に帰るなり、ラジオのスイッチを入れた。ラジオからは警察の様子が聞こえてきた。飛鳥刑事の机の周りには人がいないらしい。遠くでざわざわ言う声が聞こえるだけだ。
今、ローズマリーが現れたのだから、その現場を調べているのだ。いなくて当然である。
映美が聞きたいのはこのチャンネルではない。チャンネルのつまみを回して、目的のチャンネルに合わせる。
聞き覚えのあるテレビコマーシャルのフレーズが聞こえてきた。
帰ってきている。そして、テレビを見ながらくつろいでいるのだ。
しばらく聞き入っていると、突然声が上がった。
『ああーっ!』
ローズマリーの声だ。間違いない。映美は満足そうに笑みを浮かべて頷いた。しかし、何が起こったのだろうか。
『あー、あー……。真っ黒になっちまったよぉ。もったいない……』
どうやら、鍋を火に掛けたまま忘れてしまったようだ。
映美は思わず吹き出した。
とにかく、盗聴器は成功だった。あとは、これでどうローズマリーを追い詰めるかだった。
夜が更けてきた。
その闇の中を駆けるものがいた。
ルシファーだった。いつもの黒い服を着こんでいる。これを着るのは久しぶりだった。
しかし、この季節にこのタイトな服はちょっと寒い。しかし、動きやすさを考えると、あまり厚着をすることもできない。
風の冷たさも、走っていれば忘れられる。体が温まってくる。汗をかくとあとで体が冷えるので、汗をかかない程度に走る。人通りのない路地を選んで走っていると、思ったよりもすぐにローズマリーのアパートの前に来た。やはりこれが近道のようだ。
今回は、ローズマリーの部屋ではない。それは危険が多すぎる。
このアパートの管理人の部屋に目をつけた。
目的は、合鍵を作るためだ。
管理人は高齢である。それは調べてある。だから、忍び込んでも気づかれにくいだろう。
とりあえず、窓やドアの鍵を調べる。どれもしっかりと閉めてある。
ルシファーは2階に上がった。2階には一つ空き部屋があるのだ。
空き部屋も鍵がかかっていた。しかし、空き部屋なら、鍵を開ける物音がしても中で気付く人間もいないだろう。
昼間、ローズマリーの部屋の鍵を開けたのと同じ要領で部屋の鍵を開けた。今度は暗いので多少手間取ったが、どうせ勘と手先が頼りの作業だ。
部屋に入り、中から鍵をかけるルシファー。
さらに部屋の流しの下の板を外す。ここの下が1階の天井裏になっている。
物音を立てないように天井裏の梁の上を歩く。目星をつけて、天井板を外すと、案の定管理人の部屋の真上だった。
物音がしないようにロープを伝って天井から降りる。
部屋の壁に、鍵が並んでいた。御丁寧にも部屋別に一本ずつ鍵を置いてある。
ローズマリーの部屋番号の鍵を手にとった。ポケットから粘土を取り出し、鍵の型をとった。あとは、この型を元に鍵を作るだけだ。
これでローズマリーの合鍵ができる。合鍵はこれで2本目だった。もう一本は飛鳥刑事の部屋のもの。同じような方法で作ったのだ。
ルシファーは、痕跡を消しながら来た道を引き返した。
じりりりりり。
目覚ましがなった。飛鳥刑事は布団から這い出した。そして、立ち上がって棚に置いてある目覚まし時計に向かって歩きだす。しかし、目は開いていない。
目覚まし時計の頭を軽く叩いた。騒がしいベルの音が止む。飛鳥刑事はあくびをしながら伸びをし、そこでようやく目を開いた。
寒い朝だった。
部屋の中を見回す。別に、変わったことはない。
俺は、何を期待してるんだ……?
予告状なんか、来るわけないじゃないか。
でも。
まだ、やめるとは言っていない。
まだ……。
アルバイトを終えた映美は、そのまま無線の専門店に向かった。
携帯用の小型受信器を買った。もちろん、その辺の電機店で売っているようなAM放送しか聞けないようなちゃちなものではない。
店を出るなり、映美はその受信器のスイッチを入れ、イヤホンを耳につけた。
昨日のようにテレビの音が聞こえてきた。
映美は口元に笑みを浮かべながら頷いた。
これがあれば、いつでもローズマリーの様子が分かる。今までのように部屋でラジオに張りついていなくてもいい。
ローズマリーのアパートは商店街の割と近くだ。商店街で買い物をしながらでもローズマリーを監視していられる。
そう思いながら歩いていると、足はいつの間にか商店街に向いていた。
ものはついでと言わんばかりに買い物を始めた。その間もーローズマリーはテレビをぼーっと見ているようだ。ローズマリーも意外とつまらない生活をしているようだ。
スーパーで買い物をして、家路についた。
その時、ローズマリーの方に動きがあった。ドアをノックする音がする。
ローズマリーに来客。どんな人だろうか。スーパーの紙袋を置いて道路の脇のベンチに腰をかけた。
『入りな』
ローズマリーの声だ。ドアの開く音。
『よう』
短い挨拶とともに誰かが入ってきた。その声を聞いて映美はショックを受けた。
おとこー!
そんな。ローズマリーに男がいたなんて。しかも、あんなに親しげな……。あんな性悪女に!
街中だということも忘れてイヤホンからの音に聞き入る映美。
『またやったらしいな。それにしても、宝飾店か。いつだったか、こういう仕事は仕事めいて面白くないって言ってなかったか?』
『面白くはないけどさ。買い物する気で出掛けたんだけどね、あの店に行ったら、宝石があたいに盗んでくれって言ってるような気がしてね。気まぐれさ』
『ついに幻聴が聞こえるようになったか?』
』
『そんなわけないだろ?』
『とにかく、こいつは例のブツの件の報酬だ』
どうやら、ローズマリーの恋人と言うわけではないようだ。映美は少しほっとした。しかし、この男は何者なのだろうか。
例のブツとか、報酬とか、何やら胡散臭い話をしている。
『こんなに出るのかい!?』
ローズマリーが驚いている。報酬もかなりの額が出たのだろう。
『ああ。まぁ、あれのおかげでこっちは億の金を動かせるかもしれないって言うことだしな。それを考えりゃこれでも安い方なんだろう。また頼むって総裁も言ってたぜ』
億の金が何たらというところで映美の思考は止まった。ローズマリーのすごさが分かったような気がした。自分が相手にしているのはとんでもない女なのではないだろうか。
少し、怖くなった。それ以上に闘志がわいてきた。
『それにしても、ルシファーはここの所静かだね』
自分の話題が出た。映美ははっとする。
『あいつのことはうちでもさっぱりさ。何を考えているのか分かりゃしねぇ。こっちもいろいろやってるんだけどな』
『やっぱり、こういうことは警察のほうが頼りになるかねぇ。とにかく、このまま行方を暗まされたんじゃこっちだって冗談じゃないよ。あいつにはさんざんな目に遭わされたんだ。やられたら倍にして返すのがあたいの流儀だ。たとえ相手が地獄にいてもね』
映美はローズマリーの言葉を宣戦布告ととった。
やってやる。
向こうがその気なら、こっちだってその気でかかるまでだ。
映美は決意も新たに勢いよく立ち上がり、早足で歩きだした。それを見ていた老人が、映美に声をかけてきた。
『お姉ちゃん、忘れ物だよ!』
映美は慌てて置き去りにしてきたスーパーの紙袋を抱えあげた。
決意を新たにするなりの幸先の悪いスタートであった。
Prev Page top Next
Title KIEF top