Hot-blooded inspector Asuka
Episode 1-『堕天使のラブソング』

第21話 Heart Break

 映美はラジオのチューニングを合わせた。
 昨日早引きしたばかりで悪いような気はしたが、今日は仕事は休みだ。
 いつもなら、そろそろ飛鳥刑事が警察署につくくらいの時間のはずだ。
 ノイズ混じりに飛鳥刑事と佐々木刑事が話をしているのが聞こえた。
『しかし、ずいぶんといろんなことがあったんだな』
 佐々木刑事の声だ、何があったんだろう。
『俺もびっくりしましたよ。部屋に入ったらいきなり目の前の倒れてましたからね』
 飛鳥刑事だ。何が倒れていたんだろう。話の途中から聞くと何を話しているのかわかりにくい。
『昨日の夜はどこにいたんですか?連絡がつかなかったって言ってましたけど。まぁ、予想はつきますけど』
 飛鳥刑事が言った。そういえば、昨夜は佐々木刑事はいなかった。
『多分その予想通りさ。この金のない時に、部屋に入れられないとか言い出して、俺の部屋でってのもなんだってんで結局ホテルに行ってさ』
 何の話をしているのか分かった映美は思わず赤面する。まさか、乙女が聞き耳たてているとは思いもしないのだろう。
『やぁ、飛鳥君、佐々木君。おはよう。夕べは連絡つかなかったな。どこに行ってたんだね』
 森中警視だ。様子は分からないが,後半の問いは佐々木刑事に向けられたものだろう。さらに森中警視は付け加える。
『彼女かね』
 森中警視はストレートである。
『分かりますか?すいませんね、ルシファーが出るなんて予想外だったんで』
『いや、時間外なんだから当然だ。連絡がついても、無理に来いというつもりはもともとなかった』
 佐々木刑事は救われたような顔をした。もちろん映美には分からないが。
『そういえば、飛鳥。小百合が戻ってきたって話。西山村署の方にもしといたほうがいいんじゃないのか?』
 佐々木刑事が言った。
 小百合。映美もその名前に聞き覚えがあった。自分が一度予告状に書いた名前だ。ローズマリーが変装した女。本物がいたのだ。
『小百合?誰かね。佐々木君の彼女かね』
 さり気なくさっきの話を引きずっている森中警視。
『いや、西山村市のころに増援で来る予定だったんですけど、ローズマリーに誘拐されて連絡がつかなくなってたんです』
『ああ、そんな話を聞いたことはあるな』
 飛鳥刑事の言葉に頷く森中警視。その言葉に佐々木刑事が割り込む。
『ローズマリーが小百合のふりして警察にもぐりこんでたんですよ』
『それも聞いているよ。そうか。今度は本物なんだろうね』
 森中警視も一連のあらましは知っていたようだ。
『本物……だと思いますけど。今はまだなんとも』
 飛鳥刑事は頼りないことを言う。
『で、今はどうしてるんだ?』
『一応俺の部屋に寝かせてます』
 飛鳥刑事が言った。
『お前にも春が来たか』
 佐々木刑事が変なことを言い出した。
『そんなわけないじゃないですか。とりあえず、俺の隣の部屋が空いてたんでそっちに移ってもらうことにしようかと』
『まぁ、彼女に関してはこれから会議で決めることになるだろう。とりあえず、西山村の木牟田君のところには私から連絡を入れておくよ』
 一連のやり取りを映美は上の空で聞いていた。
 飛鳥刑事の部屋に、あたしの知らない女が泊った。
 別に、深い仲だというわけでもないだろうが、当然のように映美の心にジェラシーが巻き起こった。

 小百合に関しては、次のことが決められた。
 まず、小百合には準備が整いしだい、出勤してもらうこと。
 そして、引っ越しや当面の生活資金として、入れ替わっていたローズマリーに未払いになっていた分の給与、賞与と、誘拐されていた間の基本給、そして警察から手当が少しだけ出ることになった。合わせると結構な額である。
 決められたのはこの二つだ。
 そして、小百合が昔住んでいた警察寮の部屋から、荷物が運ばれてきた。
 小百合の日常生活が再開されたのだ。
 小百合は、自分が本当はさらわれて行方不明になっていたこと、その間に怪盗とともに飛鳥刑事達も聖華市に移っていることなどを飛鳥刑事に教えられた。これを教えておかないと混乱する。
 小百合はすぐに仕事に復帰した。
 本人は憶えてないし飛鳥刑事達も知る由もないのだが、小百合は長いこと幽閉されていたため、体がすっかり弱っていた。そのため、飛鳥刑事は体のことを心配したのだが、最初はあまり体を使わない事務などで体力を戻すようにとの警察側の配慮もあった。
 斯くて、聖華警察署に新しいメンバーが加わることになった。

「おはよーございまーす」
 小百合の明るい挨拶に飛鳥刑事と佐々木刑事は振り返った。
「よう、おはよう」
 佐々木刑事が手をあげて笑顔をつくった。飛鳥刑事は何も言わない。
 飛鳥刑事は、同じアパートなので、小百合を署まで来るまで送っている。挨拶もとっくに済んでいるのだ。しかも、小百合に弁当までつくってもらっている。それを見た佐々木刑事が二人を冷やかした。昨日のことだ。
「これ、佐々木刑事に」
 小百合が弁当箱を差し出した。
「へ?」
 間の抜けた顔で間の抜けた声を出す佐々木刑事に小百合が言った。
「飛鳥刑事にだけ作ると佐々木刑事が妬いちゃうもの」
 小百合は悪戯っぽい顔をした。
「まいったな……」
 佐々木刑事は頭を掻いた。
「俺は別に二人の恋路をじゃましたいわけじゃないんだけど。そのへん誤解するなよ」
「なに言ってんですか、もう」
 声をそろえて佐々木刑事に突っ込む飛鳥刑事と小百合だった。

 目覚ましの音で目が覚めた。自分の部屋の目覚ましではない。隣の部屋の目覚ましだ。
 自分の目覚ましの時間を見る。7時半。いい時間だ。まだ鳴る前の目覚ましのスイッチを切る。
 それから大きく伸びをした。
 部屋の中を見渡す。荷物がまだ整理しきれずに積まれている。仕事が終わったらまた昨日の続きをしなければならない。
 起き上がって布団をたたんだ。今ごろ、隣の部屋で飛鳥刑事も同じようなことをしているのだろうか。
 押し入れを開けて、布団を持ちあげた。そのとき。
「うわああぁぁ!」
 隣の部屋から飛鳥刑事の悲鳴が聞こえた。
 バランスを崩して布団の下敷きになった。慌てて布団を払いのけておきあがり、部屋を飛び出した。
「どうしたんですか!?飛鳥刑事!」
 小百合は飛鳥刑事のドアを叩きながら叫んだ。
 なかから鍵が開く音がし、ドアが開いた。
 飛鳥刑事はパジャマのまま出てきた。
「ご、ごめん。これが来てたもんだから、つい」
 飛鳥刑事はルシファーから来た予告状を差し出してきた。そして、慌てて小百合から目をそらす。小百合はそれで、自分がパジャマのままで、胸元が少しはだけていたことに気付いた。真っ赤になりながら慌ててボタンを直す。
 予告状にはこう書かれていた。
『今夜、駅前通りの楽器店からストラディバリウスをいただきます。このあいだはごめんね。怪盗ルシファー』

「ストラディバリウスって何だ?」
 予告状を見た佐々木刑事が真っ先に口にしたのはそれだった。
「さぁ」
 飛鳥刑事が答えた。答えにはなっていないが。
 二人で難しい顔をしているところに現れたのは木下警部だった。
「おはよう。二人でそんな顔しているのは珍しいな」
「あ、おはようございます、警部。ところで、これなんですけど」
 飛鳥刑事は佐々木刑事の手から予告状をもぎ取り木下警部に渡す。
「ルシファーからの予告状か!……ストラディバリウスって何だ?」
 飛鳥刑事は木下警部に訊こうとしたのだが、訊く前から木下警部がそれを知らないことが分かりがっかりした。
 そこに森中警視が現れた。
「あ、警視。ルシファーから予告状が来たんですが、これ、なんだかわかります?」
 木下警部は森中警視に予告状を見せた。
「ん?ストラディバリウスかね。それはバイオリンだよ。最高級の」
 森中警視は知っていた。さすがに育ちがいいだけのことはある。
 ストラディバリウス。イタリアの名匠アントニオ・ストラディバリにより作られたバイオリンで、その音色と芸術的な美しさは多くの人を魅了してきた。そこに希少性も加わり、億の値がつくこともざらという逸品である。
「それにしてもルシファーは、なんでそんなものを知っていたんだ?」
 飛鳥刑事はそれが疑問だった。

「いいじゃないの、そんなの……」
 盗聴器が拾った声を聞きながら映美は呟いた。
 名前くらいなら楽器に興味がなくてもテレビや本で聞くこともある。映美も学生時代に読んだ小説に出てきたので憶えていたのだ。それがどれほど価値のあるものなのかまでは考えたことはないが。

「ストラディバリウスだって?そんなものがこの街にあるのかい?」
 ローズマリーは受話器の向こうにいる004に聞いた。
「知らねぇよ。今下っ端を送って調べてるけど。でも予告状を出したってことはあるんじゃねぇのか?」
「聞いたことないけどねぇ……。ま、こいつを頂けばずいぶんといいあがりになるだろうさ」
「まぁな。じゃ、せいぜい頑張ってくれ。何かわかったらまた電話する」
 そう言うと、電話は切れた。
「それにしても、ルシファーのやつ、最近高いものばかり狙うじゃないか。これは早く手を打たないと、あたいの仕事にも影響がでる……。冗談じゃないよ。こっちは生活がかかってるんだ」
 ローズマリーは慌てて着替えると外に出た。
 しばらくして、誰もいなくなった部屋に電話のベルがなり響いた。

 日が暮れた。
 予告のあった駅前の楽器店の前に数台の車が停まった。覆面パトカーとパンダカー。
 今まで楽器店を警備していた警官達と入れ替わりに別の警官が警備につく。
「どうだ?」
 入れ替わりで警備についた警官の中に、小百合の姿を見つけた佐々木刑事が話しかけた。
「いよいよ怪盗が出るんですね」
 小百合が答えた。
「もっと緊張しろよ。ずいぶんと楽しそうだぞ」
「だって。怪盗なんてわくわくするじゃないですか」
「するなよ……ま、俺も最初はそうだったような記憶があるけどよ」
 そこに飛鳥刑事が来た。
「先輩。作戦たてるそうです」
「そうか。そうそう、怪盗見たかったら、外よりも中のほうがいいぞ」
 小百合に向かってそう言うと、佐々木刑事は飛鳥刑事に連れられて店内に入っていった。

 店内には簡単なケースに入ったバイオリンがあり、その周りに警官が数人ついていた。
「しかし、ありゃぁ一目であれがストラディバリウスだって分かるぞ。盗んでくれって言ってるようなものじゃないのか?」
 佐々木刑事が警備の様子を見て言った。
「そうですね。他のバイオリンも一緒に並べておきましょう。そうすれば分からなくなります」
「そうだな」
 佐々木刑事と飛鳥刑事が近くの棚からバイオリンを取り出してきた。そして、ケースの中に置いた。
「真ん中に本物を置いておくよりも、端っこに置いといたほうがいいかもしれないな」
 佐々木刑事が言った。飛鳥刑事は頷いて置いたばかりのバイオリンを持ちあげた。佐々木刑事がストラディバリウスに手を伸ばす。
「佐々木君。慎重に扱ってくれよ。ストラディバリウスのバイオリンは一億以上の値がつくこともあるほどだからな」
 森中警視が冗談めかして言った。
「えぇっ、まじっすか、それ」
 佐々木刑事はとてつもない値段に思わず手を引っ込めた。
「飛鳥、お前こっちやれよ」
「そ、そんな。やっぱりこういうのは先輩がやるべきですよ」
 なすり合いが始まった。
「ははは、ストラディバリウスにもピンからキリまであるからな。こんな普通の店に回ってくるのはせいぜい数千万のものだろう」
 森中警視が笑っている。
「数千万って、それでも十分すごいと思うんですが」
 飛鳥刑事は、自分が棚から出した5万円のバイオリンと見比べてもどこが違うのかわからない。どこでそれほどまでの差がつくのだろう。
「ま、よほどのことがない限り壊れたりはせんよ。私はバイオリンの扱いは慣れている。貸してみたまえ」
 佐々木刑事が退くと、森中警視はまるで自分の持ち物であるかのような気軽さでストラディバリウスを手にとった。
「ん?」
 と、森中警視が怪訝そうな顔をする。
「何です?」
「妙だな」
 森中警視はストラディバリウスをまじまじと見る。
「妙って、なにがです?」
 飛鳥刑事が聞いた。森中警視はf孔や中などを見て、きっぱりと言い放った。
「贋物だ」
「えっ」
 店主が逃げようとした。佐々木刑事がその襟を掴んで引っ張ってきた。
「あんた、逃げたらこれが贋物だってこと、知ってたって言ってるようなもんじゃないか」
 呆れた顔で佐々木刑事が言った。確かにその通りである。佐々木刑事なら、嘘がばれたからと言って慌てて逃げるようなことはしない。
「なんで贋物だって分かるんです?」
「確かに、ぱっと見の風合いは古めかしく作ってあるが、よく見ると傷が少ない。これは新品と言っているようなものだ。それにニスの色も妙だ。薄いし年季が入ってない。それに、使われている木材も乾ききっていない。せいぜい作られて20年だな。この木目の幅も妙に広い。イタリアの気候ではこうはならん」
 熱弁をふるう森中警視だが、飛鳥刑事達にはあまりよくわからない。
 その時、外にいた小百合が駆け込んできた。
「ローズマリーが来ました!」
「なにぃ!?」
 ローズマリーと聞いていきりたつ佐々木刑事。小百合はただ不安そうな顔をしている。記憶にはないが、自分をさらった張本人だ。
 悠然とした足取りでローズマリーが現れた。外を警備していた他の警官は眠らせるか何かしたのだろう。
「まだルシファーは現れてないみたいだね。ルシファーには悪いけどストラディバリウスはあたいが頂くよ」
 ローズマリーは声高に言い放った。
「ここにはストラディバリウスはないみたいだぜ」
 佐々木刑事が言った。
「なんだって?どういうことだい、それは」
 ローズマリーが怪訝な顔をした。
「なんだか分からないけど、このストラディバリウスっていうやつは贋物だったらしいぜ」
 ローズマリーは呆気に取られたような顔をした、その時。
「えぇっ、偽物なのぉ!?」
「うわぁ!」
 突然頭の上からルシファーの声がした。焦る飛鳥刑事。
「ばかばかしい。何のために来たんだか。あたいは帰るよ!」
 ローズマリーは踵を返して店の外に向かって歩いて行った。
「逃がさねぇぞ!飛鳥、ルシファーの方は頼んだ!」
 佐々木刑事はローズマリーの後を追って駆け出した。ローズマリーもそれに気付き走り出す。二人は通りに駆け出し、足音も遠ざかっていく。
「偽物だっていいもん、予告を出した以上は盗むからね!」
 その声で、ローズマリーの去った方を注目していた刑事達もバイオリンのほうに向き直った。
 バイオリンは既にマジックハンドに握られていた。飛鳥刑事が取り返そうと飛び掛かるが、虚空を掴んだだけだった。
「や、やられた!」
「逃げるぞ!飛鳥君、至急追跡してくれ!」
 飛鳥刑事は慌ててたちあがり、駆け出した。

 ルシファーは狭い路地を走っていた。
 駅前は建物も多いが、屋根伝いに逃げることはできない。高低差がありすぎるのだ。
 すぐ近くに飛鳥刑事が迫っていた。路地に入りこめば入り込むほど、逃げ道が分からなくなる。このあたりの地理はあまり詳しくない。別れ道のたびに迷いながら逃げるルシファー。飛鳥刑事はそのルシファーの背中を追うだけだ。距離が一向に広がらずにルシファーは焦った。
 それに、路地は灯がほとんどない。
 気がつくと、袋小路に追い込まれていた。
 しまった……!
 振り向くと、飛鳥刑事が今まさに飛び掛かってくるところだった。
 どうにかかわした。倒れ込んだ飛鳥刑事の横を駆け抜けて逃げようとするルシファー。だが、飛鳥刑事の足につまずいて転んでしまった。
 飛鳥刑事もそれに気づいた。闇雲に手を伸ばした。手に何かが触れた。掴んだ。掴んだのはルシファーの腕だった。
 腕を掴まれたルシファーは振り払おうとしてもがいた。しかし、飛鳥刑事の力は強かった。とても振り払えそうになった。
 離して。離してよ……。
 心の中で何度も叫ぶルシファー。
 もし、飛鳥刑事に捕まったら、飛鳥刑事に罪を問い詰められたら、そのために刑に服することになったら、あたしはもう立ち直れない。
 捕まりたくない。離して……。
 腕がちぎれそうなほどに引っ張った。しかし、飛鳥刑事の手は離れなかった。
 もう、だめだ。
 ルシファーは、目を閉じた。もう、抵抗する気も起こらなかった。全身の力が抜けた。
 あたしは、どうしたかったんだろう。
 捕まりたくなかった。とくに飛鳥刑事に捕まりたくない。そう、思っていた。
 でも、追いかけて欲しかった。
 最初は、会えるだけで嬉しかった。
 でもいつからか、飛鳥刑事に会える嬉しさに捕まることに対する恐怖が混じり始めた。
 確かに、捕まることは怖かった。それは怪盗と呼ばれる前、初めて盗みを働いた時からだ。
 ただ、飛鳥刑事に捕まりたくない、と思い出したのは、それとは違う感情からだった。
 あの時。あの時からだ。
 月明かりに包まれながら、飛鳥刑事にあたしの思いを伝えた時。
 そしてその答えを受け取った時。
 告白の夜。
 飛鳥刑事を好きだと言った。そして、飛鳥刑事に好きだと言われた。
 怪盗と追いかける刑事という絆に、それ以上に強い絆が添えられた夜。
 しかし、それは、いくつかの迷いを生んだ。
 ルシファーと映美。同じあたしなのに、飛鳥刑事の目には違う二人に写っている。
 そして、愛する人の手により捕らえられ、裁きを受けることに対する恐怖。
 すべては、自分の中に生まれた感情が愛だとはっきり分かった時に生まれた、愛が壊れることに対する恐怖だった。
 そして、恐れていたことが現実になろうとしている。
 捕まったら、あたしと飛鳥刑事の関係はどうなるんだろう。
 もう、怪盗として、あんな風に追いかけられることもない。
 それに。飛鳥刑事だってきっと苦しむ。だって、あたしのことを好きだと言ってくれたんだから……。
 そこまで考え、顔を上げて飛鳥刑事のほうを見上げた。
 気がつくと、飛鳥刑事の手の力が抜けていた。飛鳥刑事の手が震えていた。ルシファーの手が、枝から枯れ葉が落ちるように離れていった。
 飛鳥刑事は感情の無い目でルシファーを見おろしていた。
「飛鳥……刑事?」
 飛鳥刑事の体が、ルシファーの声で我に返ったようにびくっと動いた。そして、全身の力が抜けたように膝が落ちた。
「どうしたの?」
 ルシファーの声に、無言で首を振る飛鳥刑事。不安そうに見守るルシファーの耳に、か細い声が聞こえた。
「……できないよ」
「え?」
「俺にはできない……。君を捕まえるなんて……」
 ルシファーは言葉を失った。
「捕まえれば、君を苦しめることになる。そんなこと、できないよ……」
 言葉に嗚咽が混じった。
 飛鳥刑事を見つめながら、ルシファーは思った。
 飛鳥刑事も苦しんでいたんだ。悩んでいたのはあたしだけじゃなかった……。
 気がつくと唇が動いていた。あの夜と同じように。だが、紡ぎだされる言葉はあの晩とは違った。
「……あたしたち、会っちゃいけなかったのよ」
 ルシファーの言葉に飛鳥刑事は顔を上げた。
「怪盗と刑事なんだもの。一緒にはいられないもの……」
 ルシファーの目から涙が溢れた。
「会わなければ、お互いに好きになることも、そのことで悩むこともなかったのよ」
「そんな……」
 飛鳥刑事はルシファーにかける言葉を探した、しかし、何も思い浮かばなかった。
「盗みなんて、しなければよかった……。怪盗なんて呼ばれて、いい気になって。あなたに告白したことだって。言わなければきっとあなたを苦しめずにすんだのに。全部、あたしが悪いんだ」
「やめてくれ!自分を責めるなよ。そんなこと、言わないでくれ……」
「じゃ、盗みを働いたことも悪くないっていうの?」
 飛鳥刑事に向けた言葉だが、その問いは自分にも向いていた。ルシファーは言いながら思う。言っているのはルシファーじゃない。映美なんだ。こんなことをしないと、好きな人にも声をかけられない自分を、自分がなじっている。
「それは……」
 飛鳥刑事は言葉を詰まらせた。
 沈黙があたりを包んだ。
「あたしが悪いんだ。全部あたしが悪いんだ。あなたは関係なかったんだもの。ローズマリーだって、あたしがいるからここに来たんだもの。あたしが怪盗なんて始めなければ……!」
 ルシファーは居たたまれなくなった。目を瞑り、振り返りもせずに駆け出す。
 駆け出したルシファーの背中を黙って見つめることしか飛鳥刑事にはできなかった。あとには、飛鳥刑事と、ルシファーが腕を掴まれた時に落としたバイオリンだけが残された。

「おっ、飛鳥!バイオリンを取り返したのか。やるじゃねぇか!」
 佐々木刑事が駆け寄ってきた。
「ええ、まぁ」
 飛鳥刑事の気のない返事に佐々木刑事は訝しげな顔をした。そんな佐々木刑事には構わず、飛鳥刑事は木下警部にバイオリンを手渡した。
「よくやったな」
 木下警部はそれだけ言うと、店長の方に向き直った。
 店長も、これを売る気はなかったので、偽物をでっち上げたことに関しては罪は問われないようだ。だから、連行されずにここで話を聞かれているのだ。
「そっちはどうでした?」
 相変わらず元気のない顔の飛鳥刑事が佐々木刑事に聞いた。飛鳥刑事が平静を装おうとしているのが見てとれた。それが分かっているから、佐々木刑事もあまり気にせずに話を始めた。
「見ての通りさ。ローズマリーに追っついたことは追っついたんだけどな」
「それで飛び掛かったら掴んだ場所があいつのバストでよ。引っかかれた上に股ぐら蹴り上げてきやがった。そんで『レディの胸を掴むなんてとんでもない男だね』とか言いやがったからよ、『パットの入った胸なんか掴んでも嬉しくない』って言ったら脳天に踵落としが」
「やだぁ」
 どこから聞いていたのか、気がつくと小百合が横で笑っていた。
「それでしばらく伸びてたんだ。まだ頭の芯がずきずきする」
 佐々木刑事の話が終わらないうちに、飛鳥刑事はどこかに歩いていってしまった。
「飛鳥刑事?どうしたの?」
 小百合が声をかけようとした。佐々木刑事が小百合の肩を掴んでとめる。
「なにがあったかは知らねぇが、ああいう時はほっといてやるのが一番だ。下手に気にすると傷口を広げちまう。そのうちもとに戻るさ」
「そうなんですか?」
「この辺は男も女も同じさ。百戦錬磨の俺が言うんだから間違いねぇさ。ま、振られることのほうがちょっち多いけどな」
 佐々木刑事の本気とも冗談ともつかぬ言葉を聞きながら、小百合は飛鳥刑事の背中を見つめた。

「知っていたなら早く言っておくれよ」
 ローズマリーは不機嫌そうに言った。
「言おうとしたけどよぉ。お前に電話かけただろ?あのあと、5分くらい経った頃に調べさせてた下っ端から連絡があってな。アメリカの業者が作った『モデル』だってよ。ま、平たくいやぁ贋物だ」
 004はいつものように上がり框に腰かけて煙草を吹かしている。
「贋物だってのは聞いたよ」
「お前もあと5分も待ってりゃな」
 愛用の携帯灰皿にタバコを押しつけながら004が言った。
「そう言われてもねぇ。ルシファーのやつに盗られるのはごめんだからね。最近、高いものばかり狙ってくるじゃないか」
 ローズマリーはうんざりと言った顔で言った。
「あたいは生活がかかってるんだ。あいつはどうだか知らないけどさ」
「贅沢せずに慎ましく生活してる分には、多少横取りされてもいいんじゃないのか?」
「よく言うよ。あたいの上前からさっ引いてるくせにさ」
「そういうな。そっちだってこっちが捌いてやってるから生活できるんだろう?」
 ローズマリーは苦笑した。
「ま、持ちつ持たれつってやつだからしょうがないけどさ。ところで、わざわざ出向いてきたってことは、こんな馬鹿話だけが用件じゃないんだろ?」
 004はサングラスを直した。本題に入る時の004の癖だった。

「いらっしゃいませー」
 飛鳥刑事が来た。今日は映美の手は開いていない。美紀が応対に出る。
 注文はいつも通りのモーニングセット。10秒で運ばれてくる。目の前に置かれたトーストを掴み、かじりつく。
 いつもと同じだった。映美が応対した時と同じ。
 それを見て、映美は思う。
 あたしも、他の子も同じなんだな……。
 それに、あんなことがあったあとなのに、顔を合わせなければならない。
 ちょっと前までは飛鳥刑事に会うことがとても楽しみだったのに。
 もう、飛鳥刑事の顔を見るのさえ辛くなってしまった。
 そう思いながら、恐る恐る飛鳥刑事のほうを見た。
 目が合った。5秒ほど、見つめあった。
 飛鳥刑事はすぐに目をそらし、何もなかったようにコーヒーカップを手にとった。
 からんからん。来客だ。入口の側の席に座った。映美は注文を取りに行った。
 戻る時、飛鳥刑事とすれちがった。
 映美の耳に、飛鳥刑事のわずかな呟きが聞こえた。
 驚いて振り返った。飛鳥刑事は振り返りもしない。
 映美には、確かに聞こえていた。『ごめん』と言う言葉が。
 それ以来、飛鳥刑事はその店に来なくなった。


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