Episode 1-『堕天使のラブソング』第20話 プレゼント
女は目を覚ました。
いつもの景色と違う。見慣れない部屋だった。いつもは殺風景な部屋で、目を覚ますと前に粗末な食事を載せたトレーが必ず置かれていた。眠る時はいつもコンクリートの冷たい壁にもたれて毛布にくるまって眠っていたはずだ。
しかし、今日は違った。木の天井。そして暖かい布団。
夢だろうか。それとも今までのことが長い夢だったのか。
体を起こそうとした。
「お目覚めみたいだね」
どこからか声がした。声のほうを見ると、人影があった。
思い出した。
女の名は西川小百合。
西山村警察に配属される予定の婦警だった。
蔵橋警察署に配属されて間もない彼女だったが、西山村市での怪盗による連続盗難事件の対策として、西山村市への増員要請が蔵橋警察署に来た。そして、その増員として送られることになったのが小百合だった。
小百合はわずかな荷物を手に蔵橋市をでた。そして、西山村市でアパートを探していた。蔵橋警察署にいた頃は警察寮を使っていたが、あまりに汚い部屋なのですぐに嫌気がさしてしまったのだ。
そんなときだった。
後ろから声をかけられ、振り返った。目の前で光り輝く粉が舞い落ちていた。
気がついた時にはこの女がいた。腕を縄で縛られていた。足も。
叫ぼうとしたが、さるぐつわもかまされていた。
「騒ぐんじゃないよ」
女がいった。
「西川小百合さんだね?西山村警察署に配属予定の」
女がいった。小百合は頷いた。目の前で女が満足そうに頷いた。その後の記憶はない。次に目が覚めたのは、あのコンクリートの部屋だった。
自分が監禁されていることを知った。
なにもない部屋で、与えられた食事を食べ、何もない時を過ごし、眠った。
変化と言えば眠るごとに見る夢くらいのものだった。
そんな中、眠れない夜があった。
開かないドアの横にうずくまっていた。
唐突にドアが開いた。
食事を運んできたのだ。食事を運んできた男は小百合が毛布の中で眠っていると思いこんでいるようだ。
小百合は隙を見て男を突き飛ばして部屋から逃げた。後ろで男が倒れたままの状態で叫んだ。誰もこなかった。
誰にも遭わず、エレベータにたどり着いた。ボタンを押した。後ろから男が追ってきたのが見えた。エレベータのドアが開いた。飛び乗る。そして、ドアを閉めるボタンを何度も押す。男は手を伸ばしてドアの閉まるのを止めようとしたが、間に合わなかった。
小百合が飛び乗ったエレベータは来客用エレベータだった。止まることなく最上階まで昇った。。
エレベータのドアが開くと、駐車場だった。駐車場の隅にスロープが見えた。小百合はスロープへ走り、駆け登った。
駐車場には地下なので灯がついていたが、ここは真っ暗だった。今、夜なのだ。
小百合はあたりを見渡した。機械のようなものが月明かりでぼんやりと浮かび上がっている。
足元をとられないように慎重に歩く。
外に出た。道路。そして、まわりにはなにもない平野。自分が出たばかりの建物を振り返った。『川村自動車整備』と言う看板が見えた。
その後、小百合は走った。道路は避けて、なにもない平原をひたすら走った。追跡しにくくするためだ。
しかし、あたりには民家も何もなかった。自分がちゃんとまっすぐに走っているのかも分からなかった。
やがて、ヘリコプターのプロペラの音がし、小百合をヘリのライトが照らした。
小百合は再び捕らえられた。
数回逃げ出した。食事を運んでくる人間が二人に増えた。それでも、その二人を撒いて逃げた。部屋が変わり二重扉になった。食事を与えに来た男を殴り倒し、もう一人を絞めあげて気絶させ、鍵を奪った。部屋を出ることはできたが、廊下で捕まった。
今度は、手に鎖をつけられた。足で踏んで体重を掛け続け一月、根元から外れた。最後には手足を鎖で繋がれた。引っ張っても、手や足が痛むだけだ。
逃げられない。
しかし、小百合は諦めなかった。必ず生きてここから出てみせる。そして、この組織に報いてやるのだ……。
その思いを抱いたまま、月日は流れた。
そして、昨日。この女が現れた。髪がのびていたが、自分をさらった女だいうのがすぐに分かった。忘れるものか。
小百合は女を睨みつけた。女の持っている袋から何かきらきらと輝くものが流れ出るのを見た。記憶はそこまでだった。
小百合は暴れようとした。そして、手がまたしても縛られていることに気付いた。足もだ。
「どういうつもり!」
小百合が叫ぶ。さるぐつわのせいでちゃんと言葉にならない。
「あんたを返そうと思ってね。警察に」
小百合は女を見た。
「あんた、何者なの?」
女には小百合が何を言ったのか分かるようだ。いや、言いたいことが推測できるのだろう。
「あたいはローズマリーさ。知らないはずはないだろ」
小百合ははっとした。怪盗ローズマリー。西山村市に転属になったのは怪盗対策だ。知らないはずはない。
「あんたのおかげで、こっちも楽しませてもらったよ。何をしていたのか教えてやろうか?」
ローズマリーは小百合に、自分が小百合として警察にもぐりこんだこと、そして飛鳥刑事に小百合として恋をし、見破られて去っていったことをすべて話した。
「そんなこと話してどうするつもり?」
小百合が言った。
「どうするつもりでもないさ。あんたの記憶はどうせ消すんだ」
ローズマリーの言葉に小百合の顔が引きつった。
「あんたはあの組織について知りすぎちまったんだとさ。だから、あんたが組織にいた間のことはきれいさっぱり忘れてもらうよ」
小百合はもがいた。しかし、どうしようもない。縄が食い込むだけだ。
「じたばたするんじゃないよ。忘れちまえばすっきりするだろうさ」
ローズマリーは無表情のまま言った。
「いやいや、お世話になりました」
予想はしていたが、映美はこうなってしまうとただ焦るしかない。
この間財布をすった相手がお礼に来たのだ。本人は拾って警察に届けてくれたと思っている。
人のよさそうな顔をした中年の男だった。あまり怖い人からは財布をすりたくないので、結局この人を選んだのだが。
「いえ、あたしは当然のことをしたまでですから」
あまり不自然なことはいえない。言葉を選びながら喋る映美。
「これはほんの気持ちです。お受け取りください」
男が白い封筒をさし出してきた。お礼のお金だろう。予定通り2回断って3回目に受け取ろう。
「いえ、そんな」
「まぁそういわずに」
「でも悪いですし」
「いえいえ、気持ちですから」
「そうですか?じゃ。かえってすいません」
映美は封筒を受け取った。封筒はずっしりと重かった。もちろん、札束ではなく小銭が入っているのだ。かなり律義に一割を計算したのだろう。これだけ細かく気を使う男ならば、確かに財布を拾った相手にお礼を持ってくるくらいは当然なのだろう。
丁寧に頭を下げて男は帰って行った。
ものすごい後ろめたさが映美を襲う。封筒を見ると、紙幣は千円札が一枚だけである。額が多くないのがせめての救いだ。
ふと、客席を見た。映美が男と話をしている間に新しい客が来ていた。全然気付かなかったが。
しかも、選りにもよって飛鳥刑事だった。
ただでさえ、後ろめたい気持ちになっているところである。心臓が止まりそうになった。
貧血で倒れそうになる映美。
それを見た飛鳥刑事が駆け寄ってきた。映美の体を支える。
映美も我に返り、そのことに気付いた。鼓動が激しくなる。顔が熱くなってきた。多分、真っ赤な顔をしているのだろう。
「どうしたの映美!?」
美紀と光子も駆け寄ってきた。
「顔、真っ赤じゃないの」
きっと、みんな分かってしまう。そう思った映美の目が虚ろになった。
「風邪でもひいたんじゃないの?」
「すごい熱じゃない!!だめよ、こんな体で無理しちゃぁ!」
光子が映美の額に手を当てながら言った。顔が熱くなっていたのでそうとったようだ。
「今日はもういいよ、早くかえって休んだほうがいい」
樋口がいった。その言葉を受けて、飛鳥刑事が警察手帳を出しながら言った。
「私でよければ送りましょうか?車をとってきますよ」
それは困る。
「だ、大丈夫です」
映美はそう言うと、奥に向かって歩き出した。緊張のせいで目眩がしている。ふらふらと歩く映美は、本当に風邪をひいているようにしかみえない。
映美は結局樋口に帰された。別に本当に風邪というわけではないので家につくまでにはいつも通りのからだに戻っている。
いくら退屈だからといって、このまま遊びにいくわけにもいかない。
光子や美紀が見舞いに来た時のことも考えて映美は形だけでも布団に入ることにした。
布団に入ったからといって眠れるわけがなかった。まだ、胸の奥が疼いている。
映美は溜め息をついた。
あんなに近くに来たのに。なんで気づいてくれないんだろう。
さっき、飛鳥刑事に抱きかかえられた時の感触がまだありありと残っていた。
しかし、その後の、あの他人行儀な態度。飛鳥刑事にとって、映美はまだ知らない人なのだ。
飛鳥刑事はあたしのことを好きだといってくれた。
でも、それはルシファーとしてのあたし。
ルシファーにならないと、あたしのことを振り向いてくれない。
いつまでもこんな関係、続けたくない。つらいもの。
でも、どうしたらいいのだろう。今のあたしには、飛鳥刑事に近づくきっかけがない。ただ、よく顔を合わせるだけの他人だもの。
自分がルシファーだと気づかれずに、飛鳥刑事との関係を深める方法は何も思い浮かばなかった。
もし、あたしが怪盗をやめたら、もう飛鳥刑事とは会うことはできない。会えても、ただの他人だ。よほどの何かがなければ声をかけることもできない。
飛鳥刑事が、あたしがルシファーだってことを知ったら。映美にもルシファーととして接してくれるだろう。でも捕まえないわけにはいかないだろう。そのためにルシファーを追い回しているのだから。
そうなれば、きっと飛鳥刑事もつらい思いをするに違いない。
気付くと、枕が涙で濡れていた。
その濡れた枕を見て、そっと思う。
あたしたちは、会っちゃいけなかったんだ。どうしても、悲しい結末が待っている……。
ローズマリーは組織に渡されたダイアモンドの粉を袋につめた。
そして、虚ろな目のままの小百合に視線を移した。
いざという時に抵抗されないように、予め半分眠った状態にしてあるのだ。
やらなければいけないのか。
ダイアモンドの粉。無色の宝石。
神代から渡された資料には、無色の粉の効果について、こう書かれていた。
無色の宝石の粉を用いた時、人の記憶、思考を変えることができる。
つまり、このダイアモンドの効果は洗脳。無色の宝石の中でも、もっとも輝きの強いダイアモンドは、もっとも効果が大きいのだという。
組織は、小百合の記憶から、秘密結社ストーンに関する全てを消せ、と言ってきたのだ。
つまり、ローズマリーがさらってから、この部屋につれてこられるまでの記憶を書き換えろ、と言うわけだ。
ローズマリーは、袋からダイアモンドの粉をつまみあげた。輝いている。ぱらぱらと落とすと、輝いたまま袋の中に落ちて行く。神秘的なまでの輝きだった。
ローズマリーは小百合のほうを見た。
かつて、自分が演じた女。
飛鳥刑事とほのかに恋をした、短い時間が思い出される。
ローズマリーは、虚ろな目をしたままの小百合をじっと見つめた。
そして小さく頷く。
催眠が始まった。
今日も、飛鳥刑事は来た。
そして、映美に何の関心もなく帰って行った。
映美の寂しさがつのる。
また、飛鳥刑事と話がしたい。楽しい時間を過ごしたい。
会える回数は増えたのに。言葉を交わすことは減ってしまった。
我慢できなくなっていた。たとえ、悲しい結末が待っているのは分かっていても、飛鳥刑事と両思いの、もう一人の自分にならずにはいられなかった。
今日も、大した事件はなかった。ここ数日、怪盗も現れない。
特に、ルシファーはあのダイアモンドの事件以来なんの音沙汰もない。偽物をつかまされたのが悔しかったのだろうか。
そんなことを考えながら、飛鳥刑事は家路を急いだ。
郵便物をチェックする。
封書が一つ来ているだけだった。玄関に投げ出されたように落ちている。
飛鳥刑事は、その封筒を見てあれっと思う。
真っ白だった。差出人も宛て名もない。
これは。
飛鳥刑事は慌てて封筒を破り、中の便箋を広げた。
案の定だった。
ルシファーからの予告状。
『今夜11時に港通りのアンティークショップから置き時計をいただきます。怪盗ルシファー』
「こ、今夜だと!?」
飛鳥刑事は慌てて部屋を飛び出した。そして、今来たばかりの道を大急ぎで引き返した。
夜道を二人乗りで走る自転車があった。
漕ぎ手はローズマリーだった。後ろの荷台には、眠ったままの小百合を乗せている。落ちないように、何ヶ所かをひもで縛っている。
「まったく、こんな、時は、車が、ほしいって、思うね。ふう」
ローズマリーはもう息があがっている。
飛鳥刑事のアパートまでもう少しだ。
小百合を飛鳥刑事のアパートに置いてくるつもりなのだ。
ドアをノックすれば、飛鳥刑事が出てくるだろう。そして、出てきたところを眠らせ、小百合を置いて帰るつもりだ。
飛鳥刑事のアパートの前についた。
しかし、灯はついてない。
「あれ?おかしいねぇ。もう帰ってるはずなんだけど。警察を出たのは確認したんだけどねぇ」
そこまで言ってローズマリーははっとした。
「まさか、他に女でも……」
誰の他なのだろう。
とりあえず、ここまで来て、ただ引き返すわけにもいかない。飛鳥刑事が来るまで待とう。ただ、その前に不在の確認くらいはしないといけない。
ドアをノックする。返事はない。いないのだろうか。念のためドアのノブを回して見る。
ドアが開いた。
しかし、中には飛鳥刑事の気配はない。
「なんだい、鍵もかけないで。不用心だね。泥棒に入られたらどうするんだい」
そういうローズマリーも泥棒である。
ただ、とにかくこれで、面倒なことを考えなくても小百合を置いていける。
ローズマリーは小百合を担ぎ上げ、部屋の中に運びこんだ。
港通りのアンティークショップ『タイムカプセル』。なんとなく安直なネーミングのその店には、ここ二、三日来客がなかった。ただ、売っているものの単価が高いのでこんな状態でも儲かっているのである。
そんな状態なので、店主もうとうとと眠りかかっていた。
勢いよく入口が開いた。騒々しい物音にびくっとする店主。
「な、何だね。もっと静かに入ってきてくれよ」
「すいません、警察です」
警察と聞いて店主も目が覚めたようだ。
「け、警察ですか?何ですか?」
突然警察が来たので驚いている。警察が押しかけてくるような心当たりがない驚き方だった。
「実は、これから怪盗ルシファーがここに現れると予告がありました。まもなく警官も駆けつけるでしょう。急で申し訳ないんですが、警備させていただきます」
飛鳥刑事は慌てて駆け出したが、途中で署に電話をかけて応援を呼んでおいたのだ。
「は、はあ」
店主も落ち着かない顔をしている。
遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。近づいている。
「予告状には置き時計を狙っているとのことですが、置き時計はどれでしょう」
店主は難しい顔をした。
「置き時計といっても、数が多くて」
飛鳥刑事は店を見渡した。確かに、置き時計といえるものが少なくとも10はある。
「怪盗が狙いそうな時計はどれですか」
これだけあると、どれを守っていいのかわからない。とりあえず目星をつけておきたい。
「とりあえず、一番高価なのはこれですが……。そんなにすごくいいものでもないですよ」
店主が示したのは陶器でできた飾り時計であった。確かに高そうだが、ルシファーが盗み出すには重過ぎるような気がする。
「他に、何かいわれのあるようなものっていありますか?」
「うーん、どれもそこそこに古い時計なんですが……。特にこれといったものはないですよ。どれもそこそこ、と言ったところで」
結局どれを盗もうというのかは絞りこめそうにない。
そんなことをしている間にパトカーが到着した。
警官が駆け込んできた。森中警視も混じっている。物々しい雰囲気に店主もうろたえている。
「佐々木君にも連絡をしようと思ったが、連絡がつかなかった。一応時間を改めて連絡をするように頼んできたが、あまり期待できないな」
森中警視が言った。
「で、予告状はどれだ?」
飛鳥刑事がポケットに突っ込んでおいた予告状を取り出した。
無言で森中警視が覗きこむ。飛鳥刑事は森中警視に見えるように広げながら自分でも改めてよく見返してみて、ふと気がついた。
今回は用件しか書いてない。いつもならば、何か一言あるはずだ。
思えば、予告がこんな急なのも初めてだ。どんなに遅くても、その日の朝にはいつも届いていた。
飛鳥刑事の思考は森中警視の割り込みで中断した。
「で、どの時計が狙われているのか、分かるのかね?」
かぶりを振る飛鳥刑事。
「うむ。では、置き時計をすべて一ヶ所に集めておいたほうがいい。その方が守りやすい。恐らく、ルシファーが狙っているのは一つだ。あえてばらばらにおいておく必要もないだろう」
森中警視の指示で、置き時計が一ヶ所に集められた。
やがて、予告の11時が近づいてくる。
佐々木刑事はこなかった。家に戻らなかったのだろう。何をしているのかは予想がつく。あの佐々木刑事のことだ。女だろう。
時計のチャイムがなった。11時になったのだ。
来る。緊張が高まった。その時。
正面の入口のガラス戸が開かれた。ルシファーは堂々と正面から現れた。
警官達が一斉に入口に殺到した。ルシファーが入ってきた様子はない。押し合い圧し合いながら警官達が店の外に飛び出し、どこかへと走り去っていった。
「お、おいおい……」
飛鳥刑事の止めるのも聞かなかった。というか、止めに入った時には既に走り出していて気付かなかったのだろう。
「まったく、簡単に誘い出されおって!」
森中警視が忌々しげに言った。
「2対1か……。数はこっちのほうが多いが分は悪いな……」
飛鳥刑事がそう言った時、再びルシファーが入口を開けて入ってきた。
ゆっくりとした足取りだった。まるで、二人がそこから動かないことが分かっていたるのように。
刑事達とルシファーは無言のまま対峙した。数秒間、時が止まったようにじっと様子を窺いあう。
不意にルシファーの姿が消失した。
森中警視は虚を衝かれあたりを見渡す。飛鳥刑事はその姿を辛うじて捉えていた。真上に顔をむける。ルシファーが頭上を越えていく。
ルシファーの手にはマジックハンドが握られていた。慣れた手つきで柄を伸ばし、その先端で置かれた時計の中でも、小さめの時計を捉える。
飛鳥刑事はルシファーの方に駆け出していた。しかし、ルシファーもそれに気づいていた。逃げる。森中警視を大きな跳躍でかわして、出口へと向かう。
森中警視はルシファーの動きに翻弄され半ば硬直していた。飛鳥刑事は森中警視の横を駆け抜け、ルシファーを追った。
ルシファーが店を出た、さっきの警官達とは逆の方向に逃げていく。
飛鳥刑事はひたすら走る。ルシファーは港通りを走っていた。
自分の車に飛び乗り、エンジンをかける。アクセルを踏んで飛ばす。
ルシファーの背中がだんだん近づいてきた。ルシファーがこちらを振り返った。そして、横の塀に飛び上がり、そのまま既に店じまいしたふとん店の屋根の上に立った。
飛鳥刑事は車から飛び降りた。
ルシファーは飛鳥刑事のほうを見下ろしている。暫し、無言で見つめあう。沈黙を破ったのは飛鳥刑事の方だった。
「今日は……どうしたんだ?」
ルシファーは何も言わない。
「こんなに急な予告状なんて初めてだ。予告状だってお前らしくない。何かあったのか?」
ルシファーはやはり何も言わない。その表情もここからでは読み取ることができない。
「本当にどうしたんだよ!」
飛鳥刑事の問いに、ルシファーがようやく口を開いた。しかし、飛鳥刑事の問いへの答えではなかった。
「ごめんね」
問いへの答えなのかもしれなかった。心なしか、声が震えているような気がした。ルシファーの反応に飛鳥刑事は言葉に詰まった。
「また、会おうね」
そう言い残し、ルシファーはいつものように屋根伝いに遠ざかっていった。
森中警視に怪盗に逃げられたことを伝えると『分かった、もう今日はいい』と帰るように促された。
もう夜半を過ぎていた。風呂に行くにももう遅すぎる。今日はこのまま寝ることにした。
飛鳥刑事はアパートのドアの鍵を開けようとして、鍵を掛けずに飛び出したことに気がついた。
ノブを回してみる。案の定、開いた。まぁいい。どうせ盗まれるようなものはない。給料前なので、泥棒が入ったとしてもがっかりするだけだ。
いつも通り、電灯をつける。そして、はっと息をのんだ。
人が倒れていた。女だ。
慌てて抱え起こす。女が小さく唸った。息はあるようだ。落ち着いてよく見ると、腕と足に縄の跡があった。
「おい!」
飛鳥刑事は女を揺すった。
女の目がうっすらと開いた。焦点のあわない目で飛鳥刑事のほうを見た。
「大丈夫か?」
飛鳥刑事の呼びかけに、女は小声で呟いた。
「……飛鳥刑事……」
「え?」
見知らぬ女にいきなり名を呼ばれて戸惑う飛鳥刑事。
その間にも女は正気を取り戻しつつあった。そして。
「あ、飛鳥刑事。ルシファーは!?」
さらに面食らう飛鳥刑事。
「私、ルシファーに襲われて……」
呆気に取られていた飛鳥刑事だが、一つ思い当たることがあった。
「小百合?」
「はい?」
飛鳥刑事の呼びかけに女が答えた。
この女が、小百合なのだ。
「どこまで憶えてるんだ?」
「えっと、ルシファーから私をいただくっていう予告状が来たって言われて、パトカーに乗ろうとしたら襲われて……。ここ、どこですか?」
「俺の部屋だよ」
「え、なんで私、飛鳥刑事の部屋にいるんですか?こんな時間に……。あ、敬語。やめろって言われてましたっけ。つい出ちゃう」
そんな小百合を見て、飛鳥刑事は微笑んだ。
テーブルの上に紙が置かれていることに気がついた。
『プレゼントだよ』と書かれていた。
あいつめ。
ローズマリーは窓の外を見ていた。風が冷たかった。
ローズマリーは小百合のことを思い返していた。
組織からは、小百合の記憶を消せ、としか言われてなかった。小百合の記憶の上に、どんな記憶を植えつけろ、と言う指示はなかった。
ローズマリーは、小百合を見つめているうちに、またあの日々を思い起こした。
飛鳥刑事と楽しい時を過ごした日々。
その時の名前は、西川小百合。今、目の前にいる女のものだ。
そして、ふと思う。
あの、楽しい日々は小百合の日々だった。自分が、小百合の名を語り、小百合から奪った小百合が過ごすはずだった楽しい日々。ならば。
返してやろうじゃないか。あの日々を。
ローズマリーは袋からダイアモンドの粉を取り出し、小百合の目の前でぱらぱらと落とした。
「いいかい。お前は西川小百合、婦警だ。そうだろ。お前は西山村市に転属になった。そして、アパートを探して歩いていた。そして、アパートは見つかった」
小百合はゆっくりと頷いている。今、小百合のこの虚ろな目にはローズマリーの言葉どおりの景色が見えているはずだ。
新聞記事のスクラップを取り出した。自分の起こした事件の記事をファイルしたものだ。ぱらぱらとめくる。いつだか、偽物をつかまされたトパーズの事件のときの記事に、宝石を守った刑事として、飛鳥刑事と佐々木刑事が新聞の1面に大きな写真で載ったことがある。その写真を、小百合に見せた。
「そこで合ったのが飛鳥刑事と佐々木刑事だ」
写真を指差しながら教えた。
木牟田警部や、何でもあのローズマリーも大暴れしたBloody Justiceの事件で捕まったとか言う柳という頭の薄い男は写真がなかった。ただ、別にどうでもよかった。
ローズマリーは、小百合として飛鳥刑事や佐々木刑事と過ごした日々のことを一つずつ小百合に教えた。
小百合にはローズマリーから聞いた話が自分の思い出になるのだ。
配属されて、最初の仕事のあと、佐々木刑事にルシファーに妬いているとか言われて怒ったこと。佐々木刑事の下品なギャグに飛鳥刑事と息を揃えてつっこんだこと。船の事件で、積み荷にコカインが混じっていてびっくりしたこと。ルシファーを捕まえようとした飛鳥刑事が屋根から落ちて泣きそうなほどどきどきしたこと。
次々と思い出が過ってきた。よく、こんなに憶えていたもんだ。ローズマリーは思う。
美術館の事件で、飛鳥刑事に手錠を掛けられたこと。飛鳥刑事に、敬語はやめてくれ、と言われたこと。砂漠の夕日の事件。そして。
「ルシファーから予告状が来たんだ。お前をいただくってね。それで、パトカーに乗れって佐々木刑事に言われて、乗ろうとした時さ。ルシファーに突き飛ばされて……」
ローズマリーはここで言葉を切った。この後、ルシファーともみ合った結果、変装をはがれてしまった。
「お前は気を失った。それまでだよ」
小百合が頷いた。これで、小百合の一番新しい記憶はあの日にルシファーにつき飛ばされたということになった。西山村署に転属になってアパートを探している時からの記憶が、そっくりすり変わったはずだ。
「それから……」
ローズマリーは目を細めながら言った。
「お前は、飛鳥刑事が好きだ。大好きだ」
小百合が頷いた。それを確認して、ローズマリーは指をぱちん、とならした。小百合の目が閉じて、眠りに落ちた。『ルシファーに襲われ気絶』したのだ。
あとは、飛鳥刑事の部屋に転がしてくるだけだ。それからのことはあたいは知らない。
回想にふけっていたローズマリーは、不意に吹き抜けた冷たい風に身を震わせた。そして、窓を閉めようとした。
閉める直前、心の中で呟く。
あたいの分まで頑張りなよ……。仕事も、恋もね。ルシファーなんかに負けたら許さないからね……。
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