Hot-blooded inspector Asuka
Episode 1-『堕天使のラブソング』

第18話 Illusion

 その日の帰り。飛鳥刑事と佐々木刑事は森中警視の家に招かれていた。
「こんなのはな、頭の固い連中には見せられんからな」
 と言いながら、飛鳥刑事達を部屋の中に呼び入れる。
 予想よりもはるかに大きな家だった。とても夫婦二人で住むような家とは思えない。内装も豪華だった。
「警視って、こんなに給料いいんですか?」
 佐々木刑事の問いに高笑いする森中警視。
「いや、さすがにまだこの歳じゃこんな家は建たんよ。この家は親からもらったんだ」
 森中警視はさらっと言う。
「もらった!?」
 驚く飛鳥刑事。安いアパートを借りている飛鳥刑事にとって、こんな立派な邸宅をもらうなどということが信じられない。
「ああ、親父が別荘がわりに立てた家だ」
「裕福な家だったんですねぇ」
 佐々木刑事がうらやましそうに言った。
「親父が商社の社長でな」
 森中警視が大きな扉を開けた。
 書斎だった。
 驚くほどの蔵書が並んでいた。
「うわー、すごいですね……」
 飛鳥刑事は本棚にずらっと並んだ本を見ながら言った。
 並んでいる本の背表紙を見て飛鳥刑事はあれっと思う。
 自衛隊写真年鑑。第2次世界大戦。月刊コンバット。世界の兵器。火器製造マニュアル。
 戦争関連ばかりだ。特に武器の類いの本が多い。国の名前が書かれただけの怪しげなファイルも並んでいる。
 佐々木刑事は本などに興味はないのか、目もくれない。
 飛鳥刑事が何か言おうとしたとき、森中警視が奥のドアを開けた。
「こっちだ」
 部屋に入った飛鳥刑事と佐々木刑事は言葉を失った。
 今までのどことなく品のある雰囲気とは一転した。物々しすぎる。あまりにも。
 部屋の壁一面に、兵器が並んでいた。
 ライフルや、マシンガン、サブマシンガン、バズーカ砲。
 銃器にとどまらず、軍服やミサイルの弾頭なども置かれている。
「あ、あの。これは……」
 すさまじい光景に言葉が出てこない。
「信管は抜いてあるが地雷が置いてある。踏まないように気をつけてくれたまえ」
「そういうものは高いところに置いてくださいよ」
 佐々木刑事が言った。別に危険ではないだろうとは思うが、安心して動けない。地雷と聞いて飛鳥刑事も思わず足下を見る。そんな二人を尻目に、森中警視はテーブルの上に置かれた、どう見ても手榴弾にしかみえない物体を手にとった。
「これがさっき言った、怪盗対策の秘密兵器だ」
「あの、それで怪盗をふっ飛ばすってわけですか?」
 佐々木刑事が恐る恐る訊ねる。森中警視は高笑いで答えた。
「まさか。これには人間をふっ飛ばせるだけの火薬は入ってないよ。ま、中身は使ってのお楽しみだな」
「お楽しみって……。中身を忘れたわけじゃないでしょうね」
「何を入れたのかぐらいは憶えているさ。どれに何を入れたかまでは憶えてないがね」
 佐々木刑事のツッコミに対し、あっけらかんとして答える森中警視。
「なるほど、怖い人だ……」
 飛鳥刑事がぼそっと呟く。いつだかの木下警部の言葉が思い出された。

 飛鳥刑事は壁をまさぐってスイッチを探した。大体の場所は分かっているのでそんなに手間取りはしない。
 蛍光燈が何回か明滅して、点灯した。蛍光燈に見慣れた部屋が照らしあげられる。朝放り投げてきた新聞がそのままになっている。今日も寝坊しそうになったのだ。
 足元に郵便物が散らばっていた。どうせ大したものはない。
 聞いたことのない店からの新しい商品を入荷したとか言う案内状。別に欲しいものはない。
 電気料金の引落し領収書。黙っていても口座から勝手に引き落とされる。
 宗教の勧誘。無駄だ。この街はほとんどクリスチャンである。
 市報。やはり一面は怪盗騒ぎである。
 とりあえず、玄関に散らばった郵便物を拾い集め、市報を広げた。
 何やら大きな字で書いてあった。字が大きすぎて読めない。少し顔を離した。
『あさっての夜、K博物館からダイヤモンドの原石をいただきまーす。怪盗ルシファー』
 飛鳥刑事はふう、と溜め息をついた。
「まったく、こっちに来てから怪盗もずいぶん出るようになったなぁ」
 特にローズマリーがよく現れるようになった。ローズマリーはルシファーのように予告は出してこない。出る時はいきなりである。
 今回のルシファーのターゲットはダイヤの原石。モノがどれほどのものかはしらないが、大きなものならばローズマリーも現れるだろう。
 いっぺんに現れられるとまた厄介である。
 しかし、いろいろ考えるのは、ターゲットを見てからだ。

 飛鳥刑事が来た。
 映美の胸が高鳴った。この間と同じ席に腰を降ろした。
 こんなときにまたしても自分しかいない。
 でも、きっと大丈夫だ。この間も何もなかった。
「ご注文は?」
 飛鳥刑事の横には昨日予告状をはさみ込んだ市報があった。いやがうえにも緊張する。
 飛鳥刑事が顔を上げ、こちらを向いた。目が合った。心臓が飛び出しそうだ。
「モーニングセット」
 それだけ言うと、飛鳥刑事は顔を戻した。
「かしこまりましたぁ」
 マニュアル通りの対応。すっかり板についてきた。
 奥に入る。いつも通り、モーニングセットが準備されていた。
「おまたせしましたぁ」
 10秒でおまたせというのもなさそうなものだが、マニュアル通りなのでしかたない。
 飛鳥刑事はこちらを見るでもなく、コーヒーカップを手にとった。
 新しい客が入ってきた。一人は常連でよく来る客。もう一人はよく知らない。始めて見る人かもしれない。
「ここはモーニングセットが安くて早いんだ。ちょっと冷めてるけどさ」
 常連客のほうが言った。友達か同僚を連れてきたようだ。これで常連が一人増えることになるのだろうか。
 映美が応対に出た。注文は二人ともモーニングセット。2つだが、やはり10秒程度でテーブルに出される。
「ほら、早いだろ」
 常連のほうが言った。
 朝は客の回転が早い。仕事前に軽く朝食を摂ろうと言う客が多いから自然とそうなるのだ。
 10分もすると客の8割が入れ代わっている。
 やがて飛鳥刑事も席を立った。
 他の席のトレーを下げていた映美とすれちがった。
 飛鳥刑事は映美のほうを気にするでもなく、無言ですれちがって行った。
 映美は振り向いて、飛鳥刑事の背中を見送った。会計を手早く終わらせ、振り返るでもなく店を出て行く。
 客足も引いてきている。所々あいている席が自分の心を映し出しているような気がして、映美は居たたまれなくなった。

 原石は、思っていたよりも大きなものだった。
 これをちゃんと磨いたら、どれほどの価値のある石になるだろうか。
 磨く前のダイヤモンドはそれなりの値段しかつかない。それに、その磨き方次第で値段も大きく変わる。
 今、目の前にあるのは、多少下手な磨き方でもそこそこの値が付きそうなほど大きなものだった。
「これだけ大きな原石だと、ローズマリーも狙ってくるでしょうね」
「あいつが、原石にも興味があればな」
 佐々木刑事がのんびりした顔で言った。
「まぁ、高いものだってのは間違いなさそうだ。半々ぐらいだと思っておくか」
 木下警部が戻ってきた。館内の案内を受けていたのだ。
「とりあえず、この場所に置いておくのが一番よさそうだな。さすがにモノがモノだけに、最初から一番安全な場所に置いてある。わざわざ動かさなくても大丈夫そうだ」
「じゃ、ここでどう警備するかですね」
 飛鳥刑事は佐々木刑事と森中警視を見た。口を開いたのは佐々木刑事だった。
「いつかみたいに、偽物を置いといて本物はこっちで隠しておくってのはどうです?持っているとか」
 いつかと言っても、この話は西山村市での話だ。しかし、木下警部達も、西山村市で起きた事件のあらましくらいは聞いている。
「しかし、同じ手に何度も引っかかるかね?」
 木下警部の問いに森中警視が割り込んできた。
「やってみるまでは分かりませんよ。裏をかくと言う言葉もありますし。それに、他にも予防線を張っておけばいいんです。私のほうでも準備をしておきます」
 準備と言うのは、恐らくあの手榴弾だろう。あれを使うのか。飛鳥刑事は不安になった。ルシファーに危険はないのだろうか。
「ま、単純な手に引っかかるような連中じゃありませんからね、怪盗は。できるだけのことをしないことには、やられたら悔いが残るだけですよ。作戦をたてる時間はまだ1日ありますよ」
 佐々木刑事は真剣な表情で、それでいてどこか気の抜けたような声で言った。

 映美はマスターの樋口と下らない話をしていた。
 樋口は人のよさそうな顔の通り、人のいい男だった。似合わない口髭が何かの冗談のように思える。そんな顔だった。
 この時間は会社の昼休みも終わり、客もまばらである。もう少し経つと、主婦が息抜きに集まってくる。店が込む時間と空く時間は大体決まっていた。もちろん日曜は話が別ではあるが。
 話の内容は本当に他愛のない内容だった。昨日のドラマはどうこうでなんだ、とか、新しくできたケーキショップのうまいケーキはどれだとか。
 同じアルバイトの美紀と光子も加わってくる。
 客が立ち上がった。そういえば客がいるのを忘れていた。こっちも騒いでいたが、客は客で二人で盛り上がっていたのだからあいこだ。客は若い女だった。
 客が会計を終えて店を出ると、光子が今の客の会話を立ち聞きしていて、その内容がなんだかんだという話になった。どうも一目惚れがなんだだの彼氏がなんだのという話をしていたらしい。光子はそういう話には敏感である。どこにでもそういう耳年増がいるものだ。
 話はやがて自分達の彼氏の話になってきた。樋口がいるのもおかまいなしである。樋口も黙って聞いているというわけにもいかなくなった。
 美紀が彼氏とうまくいってないらしい。それで、妻帯者の樋口に仲良くなっていくための秘訣はあるか、などと訊く。樋口ははぐらかすように笑い、喫茶店で若い子ばかり雇うのでかみさんが妬いてしょうがない、と冗談めかして言った。うまくいってないということか。
 話の矛先が映美に向いた。
「ねぇ、映美は彼氏とかいるの?」
 その『とか』には旦那がいるかもしれないと言うニュアンスでも含まれているのだろうか。
「え、そ、その」
 言葉に詰まる映美。こういう時は一方的に決めつけられるのが常のようだ。
「いるのね」
「隅に置けないじゃん」
 その時、ドアにつけられたベルが鳴った。
 客だ。映美は救われたような気分になった。
「いらっしゃいませ……」
 顔を上げた時、どん底にたたき落とされたような気分になった。
 選りにもよって飛鳥刑事が来たのだ。おまけに佐々木刑事もいっしょである。
 気がつくと、美紀と光子が映美のほうを見ていた。しぶしぶ応対に出る映美。それを見て美紀と光子も奥に引っ込んでいった。
「ご注文は?」
「何にする?」
 佐々木刑事が言った。いいながらタバコに火をつける。
「うーん……」
 難しそうな顔で考え込む飛鳥刑事。佐々木刑事の視線が少し気になる。こっちをちらちらと見ているのだ。
 まさか。いや、でも。
 飛鳥刑事は多分大丈夫だろう。飛鳥刑事も気付かない保証はないとはいえ、2回大丈夫だったのだ。でも、佐々木刑事に気付かれないと言う保証はない。
「紅茶でいいや」
 ようやく飛鳥刑事の注文が決まった。
「俺はコーヒー」
「紅茶一つ、コーヒー一つですね。かしこまりましたぁ」
 注文を繰り返しながら映美はほっとした。
 背中を向けて小走りに去っていく映美を見ながら、佐々木刑事がぼそっと言う声が映美の耳に届く。
「なぁ、今のウェイトレスさぁ」
 映美の鼓動が激しくなった。朝に続いて、こうたて続けでは身が持たない。それでも、映美は佐々木刑事の言葉の続きを待った。
「結構かわいいじゃん」
 映美は思いっきりほっとした。全身の力が抜けて、それで緊張していたことに初めて気がついた。
「もう、そういうところしか見てないんですか?」
「いい店だな」
 苦笑する飛鳥刑事に、佐々木刑事は、にやけながら言った。
 映美は奥に入って、注文を告げた。
 まもなく美紀と光子が寄ってきた。
「あー!もう!損したぁ!」
 美紀が言った。
「え?なにが?」
 映美は思わず聞いた。
「だってぇ。よく見たら結構いい男なんだもん!」
「こんなことなら映美に押しつけなければよかった」
 映美はただあきれるしない。
「足も長いし」
 どうも飛鳥刑事のことを言っているのではなさそうだ。
「何か、凛々しい顔してるよね」
 確信をもって絶対に飛鳥刑事ではない。
「伝票は私が持ってくー」
 光子の言葉に映美はほっとした。美紀は逆にいきり立つ。
「あー、ずるいずるいぃ!」
 樋口がカップの乗ったトレーを差し出してきた。
「じゃ、私がこれ持っていくからね!」
 美紀は樋口の出したトレーを素早く手にとった。
「いや、お茶も伝票も注文をとった人が持っていってね……」
 映美は少し樋口を恨んだ。それ以上に美紀と光子は樋口を恨んだことだろう。
 よく聞き耳を立ててみると、飛鳥刑事と佐々木刑事は明日の作戦を練っているようだった。
 まさかその作戦をルシファーに立ち聞きされているとは思わないだろう。しかも、目に見えるところで。
 おかげで警察の手の内が全部分かった。
 また、どこかに盗聴器でも仕掛けておこうかな。
 映美はそう思い、くすっと笑った。また机の裏に仕掛けたら分かるかな。今度はどこに仕掛けよう……。

 新聞を広げたローズマリーは、記事の一つに目を止め、ほくそ笑んだ。
 ルシファーが現れる。しかも、狙っているのは大きなダイヤ原石。
「おや、またルシファーが出るみたいだね……。それにしても、最近はあたいの狙ってるものばかり手を出してるじゃないか」
 だんだん不機嫌な顔になってくるローズマリー。しかし、その表情が急に再び笑みに満たされた。企みに満ちた笑み。
「これは、ちょっと懲らしめてあげないといけないねぇ……」
 ローズマリーは棚から赤い粉の瓶を取り出した。宝石の粉だ。ルビーを始めとして、モルガナイト、赤のトルマリン、赤色トパーズ(トパーズと言うと黄色というイメージがあるが、トパーズには黄色のほかに無色のもの、青いもの、それに加え赤やピンクのものもある)など、赤い宝石を砕いたものが入っている。
「さて、どんなものか試させてもらおうか……」

 K博物館での警備が始まった。日は傾きかかっている。
「夜までルシファーは現れないだろうが、ローズマリーがいつ現れるかは分からん。一刻たりとも気を抜くなよ」
 警備にあたる警官達に森中警視が檄を飛ばした。それを受け、一斉に散っていく警官達。それぞれの持ち場につく。
「ローズマリー、来るかな」
 佐々木刑事が言った。
「来るんじゃないですか?これだけ大きなダイアモンドがあるんですから」
「しかし、ダイアモンドったって原石だしなぁ。何か、ダイアモンドって感じじゃないよな」
 ケースに収められた原石を見ながらぼそぼそ言う佐々木刑事。
「でも、これをちゃんと加工すればあのダイアモンドになるんですよ」
「まぁ、そりゃそうだけど。ローズマリーって加工前のものまで狙ってくるのか?」
「うーん……」
 考え込む二人。
 ローズマリーが盗品の流通を任せている組織が宝石の研磨工場まで持っているということは、警察でもさすがに知る由もない。ローズマリーがどうやって盗品を捌いているのかさえも分からないのだから。
 原石を盗んでも、磨いてさえしまえば、その宝石がどの原石を磨いたものかなんていうのはほとんど分からない。そういう意味では、原石を盗んだほうが足がつきにくいのだ。
「まぁ、来たら来たでなんとかすりゃいいさ」
 割り切って考える佐々木刑事。
「まぁ、そうですけどね」
 飛鳥刑事も言い切られると何も言えない。
 そうこうしている間にも、日が暮れ、夜が訪れた。

 正面の門には警備の警官が立っていた。
「まったく、寒いだろうに。ご苦労だねぇ」
 物陰から様子を窺ったローズマリーがため息混じりに呟いた。
 その息も白い。こんな中立たされる警官と言うのも辛い立場だ。
「ま、あの様子だとまだルシファーは現れてないみたいだね。先に宝石を頂いておこうか。あの小娘を懲らしめてあげるのはそれからだ。じゃ、まず手始めに……」
 ローズマリーはポケットから宝石の粉の入った袋を取り出した。
 そして、大胆にも警備の警官の前に歩み出た。
 いきなり現れた人影にとまどった警官達だったが、相手がローズマリーだということに気付き、突進してきた。
 二人の警官はそれぞれの視界の中央にローズマリーを捉えていた。そのローズマリーの手には袋が握られている。そして、その袋から紅の煌めきが零れ出た。月と街灯の明りを受けて光の粒子が瞬きながら流れ落ちている。
 警官二人の動きは止まっていた。ローズマリーの手のひらに落ちていく光の粒子から目を離せない。
 ローズマリーは手のひらに落ちた宝石の粉を袋に戻し、指を鳴らした。その音に反応して警官達の体がびくっと震えた。警官達は得体の知れない恐怖にわななき、脱兎の如く逃げ出した。
 それを見てほくそ笑むローズマリー。
「なるほど、効果は上々だね」
 赤。この色はこの催眠術に於いて興奮や恐怖を与える色だ。
 そのことが今の警官達の反応で確かめられた。
「ルシファー……。楽しみだよ。お前のかわいらしい顔が恐怖に歪むのが……」
 ローズマリーは言葉どおりの楽しそうな笑みを満面に浮かべた。

 突然起こった騒々しい物音。飛鳥刑事を始めとする警備にあたっていた警官達に緊張が走る。
 駆け込んできたのは二人の警官だった。
 怯えていた。その怯え方は尋常ではない。ただならぬことが起こったようだ。
「な、なんだ。幽霊でも出たのか?」
 佐々木刑事が警官達に訊いた。警官達は言葉さえも失っていた。何を訊いてもただ隅のほうで震えているだけだ。
「ま、まさか。幽霊なんているわけないじゃないですか。そんな、非現実的な」
「しかし、この怯え方はただ事じゃねぇぞ」
「そんな、幽霊なんて……」
 飛鳥刑事は既に真っ青な顔をしている。基本的に幽霊などが飛鳥刑事は大嫌いである。信じたくもない。
 さらに何か言いかけた飛鳥刑事を佐々木刑事が制した。
「な、なんですか?」
「しっ……」
 佐々木刑事が口の前に指を当てて、黙れと合図を送った。あたりが静寂に包まれる。微かな物音がその静寂の中に響いていた。足音。固い靴底が床にあたる音だ。
「来たな」
 巡回の警官ではない。巡回の警官は二人組で巡回している。この足音は一人分しかない。
 ルシファーはよほどのことがない限り物音もなく駆け抜ける。こんなに堂々と足音を立て、悠然と歩いてくることはない。
「ローズマリー!」
 飛鳥刑事と佐々木刑事が同時に言った。
 その言葉に答えるように、ローズマリーが姿を現した。
「御名答……」
 ローズマリーは悠然とした態度で部屋の中に入ってきた。
「動くな!」
 この森中警視の言葉はローズマリーに対してのものではない。森中警視の手には手榴弾が握られていた。
 さすがに手榴弾など見せられてはローズマリーも落ち着いてはいられない。
「な、なんだいそれは!」
 ローズマリーが言い終わる頃には既に森中警視はピンを抜いて投球フォームに入っていた。大きく振りかぶり、ローズマリめがけて手榴弾を投げつける。
 ローズマリーは慌てて避けようとするが、間に合わない。鈍い音がして手榴弾が弾けた。
「な、なんだいこれはっ!」
 ローズマリーは粘つく何かに絡みつかれている。
「何ですか、あれは」
 飛鳥刑事が森中警視に訊いた。
「強力な接着剤だ。これで相手の動きを封じるわけだ」
 森中警視の言葉に首をかしげる木下警部。
「動いてますが……」
 スライム状の物質を浴びたローズマリーは気味の悪さに暴れ回っている。
「失敗だ。うーん、薬品の調合比率でも間違えたかな……」
 森中警視は頭を掻いた。
「失敗でもどうでもいいから、これをどうにかしておくれよぉ!」
 ローズマリーは顔を上げて森中警視を怒鳴った。頭の上に乗っていたスライム状の物質がずり落ちた。それが襟に引っかかって服の中に滑り込んでいった。
 背中をなでるような冷たい感触にローズマリーはこの世のものとは思えない悲鳴をあげた。
「どうにかしろったって、うるさくて近づけねぇよ!」
 耳を押さえながら佐々木刑事が言った。
「あー!」
 ローズマリーが驚いたような叫び声を上げた。
「今度は何だよ」
 佐々木刑事が訊くと、ローズマリーがダイヤモンドの原石のケースのほうを指差した。
 ローズマリーの指差す方に一斉に視線が向く。
 ケースの上に、黒い影があった。
 ルシファーだ。ルシファーが天井からロープを伝って降りてきて、今まさにケースの中の原石を持ち去ろうとしていた。
 警官達が一斉に駆け寄る。しかし、時既に遅し。ルシファーは、ウィンクしながら舌を出し、ロープにつけられたボタンを押す。ロープはすごい速さで巻き上げられ、ルシファーの姿は目にもとまらぬ速さで天井裏に消えた。
「ああっ!」
 ローズマリーが再び声をあげた。今度は目の前でターゲットを奪われた悔しさだ。
「飛鳥!追え!」
 佐々木刑事が飛鳥刑事に向かっていった。
「え、でも」
「いいから行け!」
 躊躇する飛鳥刑事を促す。飛鳥刑事はそれを受けてルシファーを追い、外に駆け出した。
「あんたらは追わないのかい?」
 ローズマリーの問いに佐々木刑事が答えた。
「お前を置いていけないさ。俺は据え膳食わぬという野暮な男じゃない」
「使い方が違うんじゃないか?その言葉は」
 ローズマリーはあきれて言った。
「宝石を取られたってのに、その追っ手が一人とはおかしすぎるね」
 ローズマリーは宝石の袋を掲げた。腕からはスライム状の物体がぶらさがっている。
 袋から赤い煌めきが零れ出す。佐々木刑事は素早く目をそらした。
「うわあぁ!」
 後ろで声が上がった。木下警部だ。振り返ると木下警部が怯えたような顔でローズマリーを見据えている。
「何をしたんだ!?」
 森中警視がローズマリーに訊いた。ローズマリーはそれには答えない。
「警部さン。ルシファーが持っていった宝石は本物かい?答えないと……」
「ち、違う!あれは偽物だ!」
 あっさりと本当のことを口にする木下警部。
「け、警部!」
 佐々木刑事が叫ぶが、木下警部は反応しない。
「本物はどこだい?」
「飛鳥君が持っているんだ!」
「どうしたんですか、警部!」
 ローズマリーの問いに逡巡なく答える木下警部に佐々木刑事が再度声をかける。しかし、やはり反応はない。
「一つ教えてあげよう。あたいは変わったんだ。今までのあたいだと思っていると痛い目にあうよ」
 ローズマリーは静かに笑みを浮かべている。
「何をやらかした!?」
 今度は佐々木刑事がローズマリーに問う。
「この赤い粉は心に興奮あるいは恐怖を呼び起こす……。警部さンは恐怖のあまり全部喋っちまったのさ」
 悠然ときびすを返し歩き出すローズマリーに突進する佐々木刑事と森中警視。
 ローズマリーは振り返りざまに腕からぶらさがっていたスライム状の物質を佐々木刑事に投げつけた。佐々木刑事の顔にスライム状の物質が貼りついた。
 さらに、そこにローズマリーの蹴りが炸裂した。まともに食らった佐々木刑事はふっ飛ばされ、後ろから来た森中警視諸共ひっくり返った。
 それを尻目にローズマリーは嘲笑とともに去っていった。

 風が吹いた。冷たい風に髪が踊っている。
 屋根の上にルシファーはいた。
「原石を返せ!」
 飛鳥刑事が叫んだ。
「返せといわれて返す泥棒はいないわよ!」
 ルシファーの澄んだ声が響いた。
 再び風が吹いた。その風に乗るようにルシファーが跳躍した。飛鳥刑事はその後を追った。
 屋根伝いに逃げるルシファーを、入り組んだ路地に沿って追う飛鳥刑事。自ずと距離が開いてくる。ついに、その姿が見えなくなった。
「ルシファー……」
 見えなくなった影に向かって飛鳥刑事が呟いた。
「その石は……」
 飛鳥刑事はしばらくルシファーのきえた方を見据えていたが、やがてきびすを返す。歩き出した飛鳥刑事は、一度振り返って呟く。
「これでよかったんだ」
 歩く博物館の門までの道のりがやけに長く感じられた。
 その間、ふと考える飛鳥刑事。
 俺は、ルシファーを捕まえたいんだろうか。
 ルシファーは捕まえたい。俺の手で捕まえたい。
 でも、それはルシファーを刑務所に送るということだ。
 刑務所では苦しい懲役が待っている。
 そんな思いをあいつにさせるために、俺はルシファーを追っているのか。
 ……よそう。こんなこと、考えても何にもならない。
 博物館の門をくぐった刹那、腹に衝撃を受けた。うずくまる飛鳥刑事。
 顔を上げるとローズマリーが立っていた。
「宝石はもらうよ」
 そういい、ローズマリーは飛鳥刑事の後頭部に肘を叩き込んだ。
 飛鳥刑事が目を覚ますと、いつの間にか博物館の建物の中にいた。はっとしてポケットを探る飛鳥刑事。ポケットに入れておいたはずの原石はなくなっていた。

 映美はベッドの中で溜め息をついた。
 もう少し、飛鳥刑事との追いかけっこを楽しめばよかった。
 飛鳥刑事があたしのことを見てくれるのはあたしが怪盗のときだけだ。
 好きだって言ってくれたのに。
 普段のあたしのことが分からない。目の前にいても、言葉を交わしても気づいてくれない。
 気付かれたらあの喫茶店にいられない。この街にいることさえできなくなるかもしれない。
 気づいて欲しいのだろうか。気づいて欲しくないんだろうか。
 分からない。
 あたしはどうしたらいいの?
 映美の心に葛藤が首をもたげてきた。知らず知らずのうちに涙があふれた。
 やめよう。
 深く考えると、きっと何もかも怖くなる。
 あたしはただ、怪盗として盗みを働くだけだ。
 そう、憎きライバル、ローズマリーに一泡吹かせるために。
 飛鳥刑事は好きだ。でも、これはきっと叶わない恋だ。
 そうだ。飛鳥刑事を好きなのは映美じゃない。ルシファーの方なんだ。
 ルシファーはこれからも現れ続ける。ローズマリーに一泡吹かせるために。そして、大好きな飛鳥刑事に会うために。
 でも、それはきっと映美には関係ないことなんだ。
 きっとそうなんだ……。

 ルシファーが、自分の盗んだ物が偽物であることを知るのは、翌日、新聞に『K博物館のダイヤ、ローズマリーに奪われる!』と言う記事が載ってからのことだった。

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