Episode 1-『堕天使のラブソング』第16話 戒厳令発令中
夜の静寂を静寂を破るパトカーのサイレンの音。
先陣を切って現れた覆面パトカーから、飛鳥刑事と佐々木刑事が駆け出してきた。
「どこだ、どこにいるんだ!?」
まわりにたかっていたやじうまが一斉に同じ方向を指差した。
その方向に走り出す飛鳥刑事。
佐々木刑事は車に飛び乗ってやはり同じ方向へと走らせる。
走る飛鳥刑事の耳にクラクションの音が聞こえた。短く三回。佐々木刑事の合図だ。
その方向へ走る。
車が停まっていた。車の横には佐々木刑事が立っている。そして、そのヘッドライトに照らされたローズマリーの姿。
半ば追い詰めたも同然の状況だった。相手が普通の犯人ならば。しかし、相手は怪盗ローズマリー。油断はできない。油断していなくても出し抜かれるのだ。
「あーあ、せっかく新しい街に来たってのに。何一つ変わってないねぇ。ルシファーはいる、あんたらはいる。狙える宝が増えたってだけじゃないか」
ローズマリーは不機嫌そうに言った。
佐々木刑事がそれに答える。
「そうでもねぇぜ。一つ教えてやるよ。もうすぐここの警察にその腕を本庁からも買われているっていう名うての警視さんが送り込まれてくるらしいぜ。お前らへの対策になぁ」
これは今日明かされたことだった。本庁から通知が来たのだ。
県警のほうから一人の警視が緊急で配属される、という通知だった。その通知にかかれていた名前を見て、息をのむ木下警部。そこに書かれている人物がどんな人物なのか、下っ端の飛鳥刑事や佐々木刑事はいまいちピンとこない。しかし、木下警部の難しい顔を見ても、その配属されてくる警部がただならぬ人物であることは容易に推測できた。
「何だい、お前らってのは。もしかしてあたいとルシファーを一緒にしてるんじゃないだろうね。あんなへぼ怪盗とあたいをいっしょにしないでもらいたいね」
ローズマリーの不機嫌な顔がさらに機嫌悪そうにしかめられる。
「ま、今夜捕まっちまえばその警視さんとも会うことはねぇ」
「ふん、あたいを捕まえられる人間なんていないさ。でなきゃ怪盗なんてやってないよ。あんたらにも、その警視さんでも無理だね」
「無理なもんか!」
飛鳥刑事が飛び掛かった。難なく躱すローズマリー。その勢いを活かして飛鳥刑事の腹めがけて蹴りを繰り出す。しかし、飛鳥刑事もそれに気づいたのか、それとも読んでいたのか、蹴りを腕で受け止めた。
後方に飛び退くローズマリーに突進する佐々木刑事。掴み掛かろうとする佐々木刑事の腕をローズマリーが払った。そして、蹴りを繰り出す。躱しながら足払いをかける佐々木刑事。軽く跳んでその足払いを躱したローズマリーは、そのまま佐々木刑事の胸元めがけ飛び蹴りを放つ。佐々木刑事はよけきれずにふっ飛ばされた。
ローズマリーは、飛鳥刑事の攻撃を警戒し、着地と同時に身構えた。だが、飛鳥刑事の位置を確認できない。
その時、ローズマリーは背後から襟を絞められた。飛鳥刑事だ。
蹴倒された佐々木刑事も立ち上がり、ローズマリーに突進してくる。手には手錠。
その佐々木刑事に再び蹴りを叩き込む。そして、飛鳥刑事の腹にひじを打ち込む。力はゆるまない。もう一発。少し力がゆるんだ。さらに一発。今度は前の二発よりも強く。低い呻き声を上げながら飛鳥刑事が頽れた。
佐々木刑事は無防備に飛び込んだ自分の迂闊さを呪いながら、あたりを見回す。ローズマリーはそこに立っていた。自分の停めた車のヘッドライトの中にシルエットとして浮かび上がっている。その影が、揺らいだ。煌めく光彩。意識が遠のいて行く。これはローズマリーの催眠術……。
倒れた二人の刑事達を尻目に、ローズマリーは車のヘッドライトを背に歩き出した。その姿は、一歩ごとに夜の闇に沈んでいった。
「てこずってるようだな」
報告を受けた木下警部が言った。
「ええ、まぁ。いつものことですけど」
佐々木刑事は悪びれた様子も無い。
木下警部は椅子に座ったまま、体を二人のほうに向けた。椅子がきしんで甲高い音を立てる。
「今度配属されてくる森中警視は県警でも恐らく一番の切れ者だろう。森中警視が来れば、状況はかなり変わるだろうな」
その言葉を受けて不機嫌そうな顔をする飛鳥刑事と佐々木刑事。
「私も、彼がどれほどなのかは聞き及ぶところではない。ただ、若干32歳にして警視まで昇りつめただけのことはあるらしい」
木下警部の机の上には、その森中警視らしい人物の写真と、それにクリップで止められた一枚の書類がある。
写真に写っているのは、角張った顔をした、年相応の顔をした男だ。全体的に、人に好かれそうな顔だちである。ただ、その温厚そうな目の奥に宿る眼光の鋭さが写真を通しても伝わってくる。円いレンズの縁なし眼鏡がその目を覆っているおかげで、その目の威圧感も押さえられてはいるが。
「いよいよ、明々後日だ」
木下警部が言った。
明々後日。その日に来るのだ。森中警視は。
次の日の朝。
ここしばらく快晴が続いていた。週末は天気が崩れると天気予報が言っていたが、当てにはならない。
今日も空には雲一つ無い。秋晴れである。今日も清々しい一日になりそうだ。
飛鳥刑事は大きく伸びをした。そして、トイレに入った。今度の部屋はトイレも浴室も、狭いながらも共同ではない。少し奮発したのだ。その分生活は苦しくなったが、年末のボーナスが入れば少しはましになるだろう。
トイレで水を流す音がする。そして。
「うわああぁぁ!」
素っ頓狂な声を上げる飛鳥刑事。
トイレのドアの内側に一枚の紙が貼ってあった。例によって、ルシファーからの予告状だった。
『あさっての夜、M氏所有のジュエルスコーピオンをいただきまーす。今度はいい部屋に住んでるのね。見直しちゃった。怪盗ルシファー』
あさってか。
その日は、森中警視が配属されてくる日だ。
森中警視のお手並み拝見、といきたいところだが、飛鳥刑事はそれどころではない。得体の知れない不安が込み上げてきた。
木下警部は予告状の文面をじっくりと読んだ。
「なるほど。事態は掴めた。ところで……」
飛鳥刑事の方に向き直る。
「いい部屋、とはなんのことかね」
「いや、ぼくが前住んでいたアパートよりいい部屋を借りているんで、そのことを言っているんでしょう」
木下警部は呆れて言った。
「何だね、君と怪盗ルシファーは、予告状で文通でもしているのかね」
「警部、ナイスです」
木下警部の言葉に妙な合いの手を入れる佐々木刑事。あせる飛鳥刑事は言葉が出ない。
「ま、とにかくだ。奇しくも予告状の日と森中警視の配属が重なったわけだ。お手並み拝見、といくかね」
ここで木下警部はいったん言葉を切り、煙草に火をつける。
「私も、明日には今手がけている事件のケリがつくだろう。早ければ今日にでもな。そうしたら怪盗対策の方に回る予定だ。ま、怪盗に関しては情報量からしても君たちのほうが上だからな。あまり私の出る幕はないだろう」
木下警部が落ち着いた顔で言う。
「では、まず手始めにこの狙われているものを調べてくれ。何より、これが分からないことには警備も何もあったもんじゃない」
木下警部の指示で調査が始まった。
おにぎりみたいな形だ、と飛鳥刑事は思った。
角のまるい三角形の金属板。これが今回狙われているジュエルスコーピオンだ。
銀色の光を放つ金属の板。恐らく、銀かプラチナだろう。その上に、サソリが刻まれている。そして、蠍座の形に並んだ宝石。アンタレスにあたる石は、その中でも一際目立つ紅の石。
スタールビーと呼ばれる、ルビーの結晶の中にルチルという成分が入っていて、それがルビーの中でまるですばるの様に輝いて見えるという宝石で、その希少性から、ルビーの中でも特に高値で取り引きされる。もちろん、その見た目の美しさもその高値に貢献している。
まわりを取り囲んでいるのは、ダイアモンドだ。
まさに、宝石の蠍。
これは、ルシファーだけではない。ローズマリーも黙ってはいないだろう。恐らく、奴も現れるはずだ。飛鳥刑事はそう思った。
M氏の邸宅は、世間一般では豪邸、と言われるような邸宅だった。大きくはないが、きらびやかな内装だ。玄関ホールは吹き抜けになっていて、天井には大きなシャンデリアがぶらさがっている。
しかし、これだけの邸宅も、聖華市に於いてはよくいる裕福な人の家に過ぎない。
もちろん、飛鳥刑事のアパートとは比べるまでもない。それでも、聖華市は街全体が裕福なので、アパートまでも割とつくりがいいのだ。
「はー、それにしてもすごい家ですね」
ため息を漏らす飛鳥刑事。
「俺もこんな家に住みてぇけどな。ま、維持が面倒そうだしなぁ。コストもかかるだろうし」
現実的なことを言う佐々木刑事。
「こら、装飾よりも構造のほうをよく見ないか。ちゃんと対策を立てておかんと、またルシファーに出しぬかれるぞ」
木下警部が言った。確かに、この邸宅を見学に来たわけではなく、対策をたてるために下見に来ているのだ。
「しかし、これだけいろいろあると、ルシファーも逃げ場には困りませんね。特に、あのシャンデリアなんかおあつらえ向きなような」
飛鳥刑事は天井のシャンデリアを見ながら言った。
「そうだなぁ。あのシャンデリアには何かしかけておいたほうがいいな。重さがかかると降りてくるとか。そうすりゃ、ルシファーがあのシャンデリアに登ろうとしてもずり落ちてくる」
「でも、どうやって?」
「う。どうやってと言われてもなぁ。あれをぶら下げている鎖をゴムひもにかえるとか……。だめだな」
めちゃくちゃなアイディアに苦笑する飛鳥刑事。
「それに、狙っているものがあれですよ。ローズマリーも動きそうな気がするんですが」
「ああ、ここにルシファーが出るってのが、あいつの耳に入りゃ、10割の確率で来るな」
佐々木刑事は家主の手の中で、ビロードの貼られたケースに収まって光り輝いている『ジュエルスコーピオン』に目を向けた。星を宿したルビーのアンタレスがまばゆい光を放っている。
電話がなった。受話器を取る。
「俺だ」
低い男の声。
「何の用だい?」
ローズマリーが答える。
「今、警察が動いた。ルシファーが現れるようだ」
ルシファーと聞いてローズマリーの目つきが変わった。
「しかも、今回狙うのはずいぶんと高価なもののようだな。詳しくは知らないが、ジュエルスコーピオンという物らしい」
「聞いたことがあるよ。そうかい、あれを狙ってくるのか。そうと分かりゃ、こうはしていられないね」
「動こうが動くまいが、お前の勝手だがな。気をつけろ、なんでも県警のほうから凄腕の刑事が来るらしい」
「心にとめておくよ。でもさ、わざわざこんな電話かけてきて、動こうが動くまいが勝手ってのはないだろうに」
「ははは、お前はこの手の誘いに乗らないのが嫌いだもんなぁ。なぁ、変な挑発に乗ったりするなよ。お前は危なそうだ」
「そのくらいはわきまえてるよ。あんたと話してると仕事にかける意気込みってのが削がれちまう、切るよ」
相手の返事を待たずに受話器を置く。
しばらく電話機を睨むような目で見つめていたローズマリーの顔に、不意に笑みが浮かぶ。冷酷な笑みだった。
腕利きの刑事か。おもしろい。ルシファーにその相手をさせてみるか。相手の腕前を見させてもらおう……。
既に警備は始まっていた。時はそろそろ夕刻。日が沈めば、いつルシファーが現れてもおかしくない。予告状には、夜としか書かれていなかったのだから。
M氏邸のエントランスホールに、刑事達が集まっていた。飛鳥刑事と佐々木刑事。木下警部。そして、今日の午前中に県警のほうから到着したばかりの森中警視の4人だ。
そこにいるだけで、空気が重苦しく感じられる。
そんな人物だった。森中警視とは。
角張ったいかつい顔に、がっしりした体。それだけでも十分に威圧感がある。それに加えて、時折その眼鏡の奥から放たれる鋭い眼光。取調べの時にはいかんなくその威力を発揮してくれそうだ。
しかし、そんな外見とは裏腹に、内面は穏やかだった。落ち着いた物腰で、礼儀正しい人物であった。警視という自分の階級を鼻にかけたようなところが微塵もない。
聖華署に現れた森中警視が、木下警部にまず言ったことはこうだった。
「私は本庁より派遣された一刑事に過ぎません。私はここではあくまでも刑事です。提案などの助言はするでしょうが、最終的な決断は刑事部長であるあなたに任せます」
そういう男だった。おごらず、あくまで謙虚な態度。
それゆえに、かえって気を使ってしまうものである。近くに居づらい。
それに、木下警部が聞いた話によると、ある意味で怖い人だ、とのことである。どういう意味で怖いのかは訊けなかったらしいが。
佐々木刑事は飛鳥刑事と見回りをかねて警備の確認をする、といってエントランスホールをあとにした。
エントランスホールのドアを閉めて、佐々木刑事が一息ついた。
「何か、肩こっちまったよ」
肩を回しながら佐々木刑事がぶつぶつと言った。
「ちょっと怖い感じの人ですね」
飛鳥刑事が言った。飛鳥刑事はあの手の顔がちょっと苦手なのだ。中学校のころ、あの手の顔の教師に説教された思い出がある。
「まぁ、怖いのは構わねぇんだけどさ。凶悪な面なら見慣れてるし。でもよ、そういうのとはちょっと違うんだよなぁ。何て言うか、オーラみてぇのがでてんだよ」
「オーラですか」
苦笑する飛鳥刑事。
「これから、いつもあの人と仕事するのかね。怪盗の相手する前にばてちまうかも」
エントランスホールから続いている廊下を歩く二人。この廊下は、途中から左右にドアがなくなる。右が食堂ホール、左が寝室になっているらしい。
そのつきあたりに、ドアがある。
飛鳥刑事はドアをノックした。そして自分の名前を言う。すると、中から鍵が開けられた。
「今のところ異常ありません!」
警官が敬礼した。無言で頷く佐々木刑事。
この部屋は書斎になっている。天井に蛍光燈の照明がある。採光は全くない。壁全てに天井の高さまでの本棚が並んでいて、窓さえもない。天井は一枚板で、真ん中に蛍光燈がつけられているだけだ。この部屋に侵入できるルートは、正面のドアしかない。
そして、書斎の机上にはケースに入った『ジュエルスコーピオン』が置かれていた。
「引き出しの中に入れればいいと思うんですけど。なんでこんな目立つように置くんでしょうね」
飛鳥刑事がそのケースを眺めながら言った。
「何か、策があるみたいなこと言ってたな、森中さんは」
佐々木刑事がだるそうに言った。
「触るなとも言ってたぜ」
そういいながら、ケースをじっと見る佐々木刑事。アクリルの、ただのケースにしかみえない。ただ、机に固定されているようだ。しかし、蓋は上に乗せただけだというのは先程これを設置した時に見ている。
触るな、と言うことはこのケースに何か仕掛けがあるのだろう。しかしこんなケースのどこになんの仕掛けがしてあるのか、佐々木刑事には全く分からなかった。
時計は8時を過ぎたところだ。先程、鳩時計の鳩が8回鳴いた。
「そろそろ来ますかね」
飛鳥刑事が誰に言うでもなく呟いた。
「早く来てくれねぇと、俺達がいつまでも帰れねぇよ」
佐々木刑事がのんきなことを言う。
その頃、ルシファーは天井裏を伝って配電室の前に降りたところだった。
堂々と配電室のドアを開けるルシファー。
中には警官が二人いて、いきなり現れたルシファーに少しとまどったが、すぐに飛び掛かってきた。ルシファーは簡単にそれを躱す。
次の瞬間、二人の警官はそのままワイヤーで縛られ、床に落ちた。ルシファーにすれちがいざまにワイヤーで縛られたのだ。目にも止まらぬ早業である。
何かを喚きかけた警官の口にさるぐつわを噛ます。
「ごめんね、しばらくそうしてて。二人で喧嘩しちゃだめよ。それじゃ無理かな。きゃははは」
などといいながら、ルシファーは配電盤に歩み寄り、ブレーカーを落とした。
「ん?今何か聞こえなかったか?」
佐々木刑事が言った。
玄関ホールは、微かな時計の針の音が聞こえるだけで、他には何の物音もない。それだけに、何かあるとよく聞こえるのだ。
「はい、聞こえました。何か、男の呻き声のような声が」
「なんだ、まさか亡者の呻きとか言わないよな」
「まさか。そんなはずはないですよ。止めてくださいよ」
亡者の呻きといわれてびびる飛鳥刑事。
「わかんねぇぞ。ここ、結構古い屋敷みたいだしさ。不意に明かりが消えてあたりが暗くなって、生暖かい風が……」
「止めてくださいよぉ、俺、そういうの弱いんですよぉ」
顔が引きつる飛鳥刑事。
「佐々木君。バカなことを言っている場合じゃないぞ」
木下警部の言葉が終わるか終わらないかというところで唐突にあたりが暗くなった。
「うわあああぁぁぁぁ!」
飛鳥刑事の悲鳴。
「バカ、こいつはルシファーだ!お出ましだぞ!」
佐々木刑事の言葉に我に返る飛鳥刑事。
だが、あたりは闇と静寂。何の気配もない。他の刑事の息づかいが聞こえる。そして、時計の針の音。心なしか、エコーがかかって幾重にも聞こえるような気がする。
ルシファーがターゲットを奪うには、この玄関ホールを通らねばならない。そうすれば、この静けさだ。足音なり、衣擦れの音なりがするだろう。気付かれずに通り抜けるのは不可能に近い。
それは、明かりが消えた時の様に唐突に、かつ、徐々に始まった。
じりりりりりりり。
目覚まし時計の音。
そう認識すると同時に、その目覚まし時計の音が増えた。一つ。また一つ。
場所は天井裏らしい。目覚まし時計の音は確実に増えている。
「な、なんだこれ!うるせぇ!」
佐々木刑事の叫び声がした。目覚まし時計の音にかき消されそうだ。これではルシファーが横を通り抜けても全く気付かないではないか。
盲滅法でドアのほうにかけ出す飛鳥刑事。壁にぶち当たる。それでも、手探りでドアを見つけた。開けられていた。
目覚ましが鳴り始めていた。
ターゲットにたどり着くには、あの刑事達が張っているエントランスホールをどうしても通過しなくてはならない。天井裏には、トイレからしか出入りできないので、天井裏を利用することはできない。
しかし、それを逆に利用してやることにした。天井裏に目覚まし時計を仕掛けておく。数はほんの10個ほど。しかし、トイレから天井裏に行き、天井裏を這っていかないと、この目覚ましは止められない。
このけたたましい目覚ましの音にまぎれて、エントランスホールを一気に駆け抜ける。
ルシファーは、赤外線ゴーグルをかけた。ゴーグルを通してみる邸宅内は、とても真っ暗とは思えない。
エントランスホールに入った。刑事達は上を見上げている。その横を堂々と駆け抜けるルシファー。ドアを開ける。当然、物音がするはずだが、この騒がしさでは気付こうはずもない。
廊下を余裕で駆け抜ける。途中、警官が立っていたが、こちらには全く気付かない。
ドアが見えた。ふと、足を止めるルシファー。足元に何か、糸のようなものが見えた。いや、糸ではない。赤外線レーザーのセンサーだ。
赤外線ゴーグルをかけていなければ気付かないところだった。その、見えざる光線を飛び越える。
ドアを開けた。警官が二人立っている。しかし、目覚ましの音のせいでこちらには気付かない。ルシファーの後ろでドアが閉まった。
片方の警官に近づき、素早くワイヤーで縛り、さるぐつわを噛ました。微かに上がった呻き声に気づいたもう一人の警官も、なにもできないままにワイヤーであっさりと縛りあげられる。
ルシファーは、ケースを取ろうとした。しかし、机に固定されているらしく、外すことができない。しかし、蓋はあっさりと外れた。
『ジュエルスコーピオン』を手に、満足そうに頷くルシファー。
そして、部屋を出ようとした。しかし、ドアが開かない。押しても、引いても。ノブを逆に回して見る。開かない。鍵のつまみを回してみる。開かない。
何をしても開かない。あたりを見回すが、出られそうなところはない。
密室。
閉じ込められた。
ルシファーは恐怖した。何が起こったのかわからない。さっき、開けて入ってきたはずのドアが開かない。
徐々に、目覚まし時計の音が止み出し、あたりが静寂に包まれる。縛られた警官の呻き声が、それこそ亡者の呻きのように聞こえる。
突然、そのドアのほうから物音がした。ルシファーは思わず身を竦める。
「あ、開きません!」
飛鳥刑事の声だ。
それと同時に照明が灯った。誰かが配電室に行って落とされたブレーカーを戻したのだろう。
「どきたまえ」
聞きなれぬ声が聞こえた。森中警視だ。
「ルシファー。諦めたまえ。このドアは『ジュエルスコーピオン』を取ると自動的にロックされるように細工がされている。このロックは、『ジュエルスコーピオン』をケースに戻さないと解除されない」
「ええええっ!それじゃ、どうやって盗むのよぉ!」
素っ頓狂な声で素っ頓狂なことを言うルシファー。
「盗めないように、なっているのだ」
当たり前のことを言う森中警視。
「じゃ、戻せば開くってわけね」
「そうだ。そうしてもらわないと、私たちにもこのドアを開けることはできん」
「なによぉ、もう!諦めるしかないんじゃないの!分かったわよぉ!」
ルシファーはふくれながら『ジュエルスコーピオン』を元に戻した。後ろでかち、という音がした。そして、ドアが開けられ、刑事達が入ってくる。
飛鳥刑事、木下警部。そして、恐らくさっきの声の見慣れない青年。佐々木刑事の姿は見えない。ブレーカーを戻したのは佐々木刑事だろう。
「観念したまえ」
見慣れない青年、森中警視が言った。
その後ろから佐々木刑事が走ってきた。入り口は完全に固められた。刑事達がそこから動かなければ、逃げ道は全くない。
ルシファーと刑事達のにらみ合いが続いた。
「こうしてても埒があかねぇ。飛鳥、いけ!」
佐々木刑事に促されて飛鳥刑事が駆け出した。飛鳥刑事が抜けたくらいでは入り口の守りは崩れない。
飛鳥刑事一人いなすのは容易いことだ。しかし、この部屋からは出られない。
もう、逃げられない。
覚悟を決めた。
どうせ捕まるなら、あなたに捕まりたい。
心の中で呟き、向かってくる飛鳥刑事に目を向けた。
その時。
「あはははははは!」
笑い声だ。女の笑い声。聞き覚えのある声。
飛鳥刑事も足を止め、振り返った。
「お前は……!」
言いかけた木下警部がそのまま崩れるように倒れ込んだ。森中警視も倒れる。森中警視は倒れる間際に、ポケットに手を突っ込んだ。何をしたのかは分からない。
その向こうにはローズマリーがいた。宝石の袋を構えていた。
「これが盗れないって?だからあんたはへぼ怪盗だっていうんだよ。頭を使うんだね。そうすりゃ、とれるだろうさ」
ローズマリーはルシファーを挑発するように言った。
「じゃ、お前にはこいつがとれるっていうのか?」
それに答えたのはルシファーではなく佐々木刑事だった。とっさに目をそらしたので催眠術にかからなかったようだ。
「とれるさ。目を覚ました時には、あたいも、その『ジュエルスコーピオン』も消えてるはずだよ」
ローズマリーは佐々木刑事に飛び蹴りを放った。素早く躱す佐々木刑事。反撃の機会を窺う佐々木刑事に向かい宝石の袋を構えるローズマリー。
慌てて目をそらす佐々木刑事に蹴りを繰り出す。その蹴りを腕で受け止める佐々木刑事。
そこに飛鳥刑事が飛び掛かった。あっさりと躱したローズマリーは、そのまま飛鳥刑事の腹にひざ蹴りを叩き込んだ。
短い呻き声を挙げて倒れ込む飛鳥刑事。だが、意識は失わなかった。起き上がろうとする。その飛鳥刑事の側頭部にローズマリーの蹴りが入った。
ローズマリーは佐々木刑事に向き直った。その時。
「ああっ!」
ローズマリーの眼前を黒い影が過り、その手から宝石の袋が奪いとられた。
ルシファーだ。
「ナイスだ!今日は見逃してやるから、そいつを持ってとっとと帰れ!」
佐々木刑事が言った。
「こら!何言ってんだい!捕まえるんだよ!」
「お前に言われたかねぇや」
佐々木刑事はローズマリーに突進した。ローズマリーはその顔面めがけて蹴りを繰り出す。それをダッキングで躱す佐々木刑事。
「今日は白か」
佐々木刑事がぼそっと言った。何のことか理解したローズマリーは耳まで赤くなった。
「な、な、ど、どこを見てるんだよ!もー、男ってのはぁ!」
我を忘れたローズマリーは闇雲に佐々木刑事に突っ込んでいく。こうなると佐々木刑事のペースである。
ローズマリーの攻撃を全部紙一重で躱す。
「落ち着けよ。よくは見えてねぇって。色だけだっての」
完全におちょくっている佐々木刑事。ローズマリーは横の本棚から本を取ると、佐々木刑事めがけて投げつけた。
立て続けに飛んでくる本を避けるのが精一杯の佐々木刑事。
「そんなにムキになるなよ。見られて減るもんじゃあるま……」
いい終わる前に、佐々木刑事の顔面に、ハードカバーの背表紙が当たった。
「ってー……」
佐々木刑事が、のけ反った首を元に戻すと、ローズマリーの拳が目の前に迫っていた。
顔面にパンチを食らい、再びのけ反った佐々木刑事の腹に蹴りを叩き込むローズマリー。倒れ込んだところに、横っ面に止めの回し蹴りを食らわした。佐々木刑事は動かなくなった。
「はー、まったく!」
ローズマリーはぶつぶつ言いながらスカートのすそを直すと、のびたままの佐々木刑事を引きずり、入り口の開かれたドアを押さえるように横たえた。
そして、つかつかと早足で机に近づき、ケースを開けて『ジュエルスコーピオン』を手にとった。ドアが開いていれば、鍵はかかりようがない。
いつもなら悠然と立ち去るところだが、今日は早足で立ち去った。
廊下も早足で歩く。
廊下には、赤外線のセンサーがある。それをローズマリーは知らない。
このセンサー引っかかると何が起こるのか。
ローズマリーは、何も知らずに歩いている。赤外線のセンサーが、ローズマリーを感知した。
上で物音がしたのに気付き、天井を見あげるローズマリー。
そのローズマリーの目の前に、金属製の円形の物体が迫ってきていた。
がん。
この仕掛けは、森中警視の遊び心の現れだった。
ローズマリーの上に落ちてきたのは、直径1メートルの金ダライだった。
顔面に金ダライの直撃を受けてあおむけにひっくり返るローズマリー。
「こんな仕掛けだったのかぁ」
ルシファーが横に立っていた。そして、ローズマリーのほうをにやにやしながら見ている。
さっき、森中警視がポケットに手を突っ込んだのは、刑事達が駆けつけた時に切っておいたセンサーのスイッチをリモコンでオンにしたのだ。
センサーに何かがかかると、天井から金ダライが落ちてくるという仕掛けだったのだ。
「何かのコントみたい」
ルシファーがおかしそうに言う。
自分の情けない状況に気付き、はっとするローズマリー。
しかも、ひっくり返った時に取り落とした『ジュエルスコーピオン』をルシファーに拾われた。
「あああっ!返せぇ!」
金ダライを払いのけ、慌てておきあがるローズマリー。ルシファーは大きく飛び退いた。
「逃がさないよ!」
ルシファーを追うローズマリーの頭にさらに金ダライが落ちて来た。もんどりうって倒れ込んだローズマリーの上に、最後の金ダライが落ちる。
「ぐぇっ」
ローズマリーは蛙が潰されたような声をあげた。
現場検証が進んでいた。
その様子を見守る飛鳥刑事達。
「結局盗まれちゃいましたね」
飛鳥刑事が言った。
「ところでさ」
佐々木刑事が怪訝な顔で呟く。
その目は、廊下に3つ並んだ大きな金ダライに向いている。
「あのタライ、なんだ?」
その後ろでは森中警視が涼しい顔をしていた。
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