Hot-blooded inspector Asuka
Episode 1-『堕天使のラブソング』

第15話 聖なる都市へ

「えぇっ、辞めちゃうの!?」
 渚が叫んだ。
「うん。いろいろあってね……」
 寂しそうな顔で言う映美に、渚と瞳が捲し立ててきた。
「なんで辞めちゃうの?」
「もしかして、結婚退職?」
「じゃあ、瞳が言っていた彼氏とゴールインなのね!?」
 二人は勝手に想像をふくらませていく。
「あの……そう言うわけじゃないんだけど」
 映美は控え目に声をかけた。
「じゃぁ、逆なの?彼氏とうまくいかなくなって、居たたまれなくなって……」
「だめよ、映美!気を強くもって!生きていればまた新しい彼氏もできるわ!」
 渚は映美が何をしようとしていると思っているのだろうか。
「いや、そういう事情じゃなくて。なんか、もっとあたしに合った仕事を見つけたいなーとか思ってね」
 本当の事情を言うこともできず、ありきたりな理由をでっち上げる映美。
「でも、もう会えないのねー!」
 泣き出す瞳。別れには弱いらしい。
「引っ越すったってそんなに遠くないし、遊びに来ればいいじゃない」
「でも、彼氏とはまだ続いてるのね」
 渚が蒸し返すようなことを言った。瞳が顔を上げる。
「そういえば……!」
「な、なに?」
 映美は少し引きながら反応する。
「まだ、映美の彼氏の顔、見たことなかった!」
「瞳ったら、そんなこといいじゃないの。人の彼氏なんか」
「だって!私、まだ新しい彼氏できないんだもん!」
「だからって何も人の彼氏を見ようとしなくても」
「映美、今度合わせてくれない?映美の彼氏にさ」
「そ、それはちょっと……」
「けちー!」
 そんなこんなで、この二人とは、えらい大騒ぎの、寂しさを微塵も感じさせない別れとなった。

 半年近く住んだアパートともついにお別れである。短いようで、長かった。楽しいことも辛いこともあった。わずか半年の間だったが、いろいろなことがありすぎて、5年もいたような錯覚さえ受ける。
 荷物はすでに新しい住所のほうに届けてしまったので、もう手荷物しかない。部屋には何もなかった。そのなにもない部屋のまん中で、膝を抱えて座り込む映美。
 何の音もしない。時計も既に持っていってしまった。
 何を考えるでもなく、ただ座っている。仕事に出かけていた旦那が帰ってきたらしい隣の部屋のドアが閉まる音にはっとした。
 こんなところで、あたしは何をしているんだろう。
「まだ、ふんぎりがつかないのかな……」
 自分に問いかけてみる。
 最後に、部屋の中を見渡してみる。さっきまで西日が差し込んでいた部屋の中は、いつのまにか薄暗くなっている。
 狭くて大変だ、とか思っていたアパートも、何もなくなってしまうと妙に広く感じた。一人で座っていると、寂しさが込み上げてくる。堪え切れずに立ちあがり、部屋をあとにした。
 部屋を出て、見上げた空は茜色に染まっていた。秋の夕暮れ。映美の心に、一抹の寂しさを植えつけた。

 飛鳥刑事は愛車のエンジンをかけた。買った時からおんぼろの、がただらけの中古車。それでも、もう2年近く乗っている。今までにこの車の修理にかかった金で新しい中古車が買えそうだ。
 しかし、ここの所は調子がよかった。たまにがたがた言うこともあるが、ひどくはない。
 署の近くの駐車場に車を停めた。駐車場から署までは、近くはないが、遠くもない。
 今日は妙に騒がしい。見ると、署の周りに人が集まっていた。
「何かあったんですか?」
 近くにいた人に聞いた。白髪混じりのやせぎすの男。地域住民課の、確か川崎とか言う人だったか。
「何かあったどころじゃないよ、見ての通りだ」
「え?」
 飛鳥刑事はわけが分からず、辺りを見回した。
 まわりに集まっている人は、一様に署の壁を見上げていた。飛鳥刑事もそれに倣う。
 署の壁には、『注意一瞬事故一生−交通安全推進月間−』というたれ幕が半年以上前から掛けられている。はずだった。今日は、違った。
 同じたれ幕の、恐らくは裏だろう。そこに、大きな字でこう書かれていた。
『10月27日はルシファーデー、聖華市役所から市長愛用の高級ゴルフクラブセットをいただきまーす』
 それを見た飛鳥刑事は、5分ほど硬直することになった。

「そうか。以前から聖華市に行くということを言っていたのか」
 木牟田警部が飛鳥刑事からルシファーが聖華市に行くといっていたことを聞き、納得したように頷いた。さすがに、いつ、どこで言われたのかまでは飛鳥刑事の口からは言えなかったが。
 聖華市に連絡を終え、これからについて話している時だった。
 話はすぐに元に戻る。
「君たちは怪盗対策に送りこまれてきたんだからな。後発の増援達と一緒に聖華市に向かい、怪盗を追ってくれ」
「はいっ!」
 うれしそうに返事をする飛鳥刑事と、それを見てにやにやする佐々木刑事。
「うれしそうだな飛鳥。またルシファーが追いかけられるからか?」
「またそういうことを……。先輩は嬉しくないんですか?」
「半々だなぁ。あっちは普段は平和だしな。人手不足だし。さすがに交番の立ち番はねぇが、刑事課以外の仕事もやらされるからな」
 木牟田警部は不安げな顔で言った。
「しかし、ローズマリーはまだこっちに残っているぞ」
「あいつも、絶対に聖華市に行きますよ」
 佐々木刑事が言う。
「なんで、そう言えるのかね?」
「あいつはルシファーにはやられっぱなしですからね。言ってましたよ。やられっぱなしは大嫌いだってね。あいつはヘビみたいにしつこい女です。絶対、聖華市にルシファーを追って行きますよ。それに、聖華市の方が金持ちが多いっす」
 そういって歯を見せて笑う佐々木刑事。
「そうか。ならば、明日にでも聖華署に連絡をとって、君たちの異動を頼んでおこう。元に戻るだけだがね」
 木牟田警部はゆっくりとした口調で言った。

 机の引き出しの中を整理し、必要なものだけを持ち帰ることにした。
 机の中には、ゴミとあまり重要でない書類が雑然と入っていた。その中にまぎれてペンや、鉛筆、カッターナイフなどが出てきた。使おうと思って買ってきたが、使わないまま仕舞い込まれたものも多い。
 飛鳥刑事はあまりに雑然とした自分の引き出しの中を見て、少しうんざりした。しかし、自分のずぼらさの産物だ。誰にも文句は言えない。
 しかたなく、とりあえず引き出しを引っ張り出し、机の上に置いた。
「おい、引き出しの裏に何かくっついてるぞ」
 その様子を椅子に座り、煙草を吸いながらぼーっと見ていた佐々木刑事が言った。
 佐々木刑事は、もともといらないものは片っ端から捨てるので、引き出しの中は片づいていた。と言うよりも必要なものも自分では買わずに飛鳥刑事にたかって借りているので、引き出しにはほとんどなんにも入ってなかった。おかげで身辺整理もあっという間に終わり、早々とくつろいでいる。
「え?」
 引き出しを持ち上げ、下からのぞきこむ飛鳥刑事。確かに何かついている。
 飛鳥刑事は、なにげなくそれを手にとった。佐々木刑事も暇つぶしによってくる。
 引き出しの下にくっついていたものを飛鳥刑事が自分の目の前にかざした。
 小さな機械らしいもの。コードが何本か出ているのが見えた。
 見覚えのあるものだった。
「隠せ!」
 佐々木刑事がくぐもった声で鋭く注意する。
 慌ててそれに従う飛鳥刑事。ポケットに押し込んだ。誰も気づいてない。
 飛鳥刑事の引き出しの裏についていたのは、ルシファーがよく使っていた盗聴器だった。
 最近は見かけなくなったと思ったら、一番効果的なところに仕掛けてあったのだ。まわりに見えないようにしながらポケットから引っ張り出し、注意深く見ると、少し錆が浮いている。かなり長いこと放置されたということがわかる。
「お前、気付けよ」
 佐々木刑事がぼそぼそと耳打ちしてきた。
「そんなこと言っても。こんなところ見ませんし」
 小声で返事をする飛鳥刑事。
「やられたな」
「向こうでは気をつけます」
「はぁ、今までこのへんでぼそぼそ話してたことは全部ルシファーに聞かれていたのか」
 飛鳥刑事は、ルシファーに聞かれると『ある意味で』まずいような話をしてないか、思い出そうとしたが、何を話したのかはほとんど憶えていなかった。

 今までに盗んだ物は、日曜ごとに聖華市の自宅の近くの古い洋館に隠しに行っていた。
 子供のころ、冒険ごっこなどと言って、近所の悪ガキ仲間と一緒に、屋敷の中を歩き回ったので、天井裏などにも詳しい。
 今度は、わざわざ遠出しなくてもここに来ることができる。映美は洋館の屋根裏部屋の小さな窓から街を見下ろした。
 今までに盗んだものはすべてここに集められていた。
 別に、欲しくて盗んだ物ではない。いつかのように返そうか、とも思っていたが、きっかけがないまま、今日まできてしまった。
 ここが知られたら、きっと自分に結びつく何かが出てくるに違いない。昔、ここで遊んでいた、と言うことでも大きなヒントになりうる。
 なんとなく、自分が捕まる瞬間が現実味を帯びてきたような気がした。もし、捕まったら、刑務所に送られるのだろう。それも怖い。しかし、それが、飛鳥刑事の手により行われることのほうが怖かった。
 飛鳥刑事には追いかけ続けて欲しい。でも、捕まりたくはない。どうすればいいのか、自分にもわからなかった。
 映美は鎧戸を閉めた。屋根裏部屋が真っ暗になる。
 怪盗は、まだやめない。
 そして、絶対に逃げ切ってみせる。
 いつか、怪盗をやめる、その日まで。
 決意を新たにする映美。
 しかし、その心には一抹の不安が拭いきれずに残った。

「そうか、お前も行くのか」
 組織の男は、いつものように上がり框に腰かけて、のんびりとした口調で言った。
 ローズマリーはすでに荷物をまとめている。もともと放蕩の身だ。手荷物しかない。それに、大きな荷物は、組織が運んでくれる。運送屋に頼んで、何かあったのでは組織でも困るからだ。
 ローズマリーは顧客として、組織に多大な利益を与える。その見返りとして、組織はローズマリーにできるかぎりのサービスをする。この辺、一般の世界の関係と似ていないわけでもない。
「まぁね。もともと、聖華市にはいつか行く気だったしさ」
「そうか」
 男は煙草に火をつけた。今ではすっかり愛用品になった携帯用灰皿を取り出す。
「聖華市にはな、お前の使う催眠術を編み出したと言われるマジシャンの弟子が住んでるんだ。知っていたか?」
「稲城幸太郎の弟子かい?」
「そうだ。今は奇術団として活動している。稲城奇術団っていうわかりやすい名前でな。ここにちょっと詳しい資料がある」
「あたいのために調べてくれたのかい?」
 男はふーっと煙を吐いた。灰を落とし、ローズマリーの問いに答えた。
「うちはうちでやることがあってな。まぁ、お前もそのうち何か言われるかも知れねぇ。ま、お前のためと言やぁお前のためかもな」
 男が封筒に入った資料を投げてきた。
 荷作りの手を休め、その奇術団の資料を流し読むローズマリー。
「ありがとう、役に立ちそうだよ」
「何か掴んだら俺にもちょっとでいいから教えてくれよ。その資料を作るのには俺も一枚かんでんだ」
「あれ?あんた、聖華市の方も担当なのかい?」
「この県は顧客がいねぇんだよ。それで、俺が全部回ってんだ。広くて大変だよ」
「はー、詳しくは知らなかったけど、あんたも苦労してるんだねぇ」
「そう、性格の悪い顧客もいるしな」
「それ、あたいのことかい?」
「分かってるなら性格直してくれよな」
 男の頭に枕が飛んできた。
「ほら、これを直せってんだよ……」
 ずれたサングラスを直しながら男がぼやいた。

「お世話になりました」
 飛鳥刑事が言った。西山村署も、今日が最後の勤務になった。5日後から聖華署に戻ることになる。
「君たちがいなくなると、また寂しくなるな。元気のある若い刑事がいなくなってしまう」
 言葉どおり寂しそうな顔で木牟田警部が言った。
「そんなことはないでしょう、若い人は一杯いるじゃないですか」
「若いだけだ。みんな目が死んでいるよ」
 かなりきついことをさらっと言う木牟田警部。この人はこういう人だ。
「それから、だ」
「はい?」
「もし、西川君が戻ってきたら、聖華署のほうに回すように手配する」
 まだ見つからない西川小百合婦警。ローズマリーが、そのうち返すといていたのだから、まだ生きていると思いたい。生きているはずだ。しかし、ローズマリーは何も言ってこない。不安だけが残る。
「ローズマリーは人を殺めるような野暮なマネはしないさ」
 佐々木刑事も、自分に言い聞かせるように呟いた。まだ見ぬ小百合の無事を信じたいのだ。
 時計のチャイムがなり、飛鳥刑事達の最後の勤務が終わる。
「朗報を、期待しているよ」
 木牟田警部の言葉に励まされながら、西山村署をあとにする二人。
 その背中を見送りながら、木牟田警部が呟いた。
「私には分かる。あいつらは、何かやってくれるはずだ。でかいことを……」

 部屋にコーヒーのいい香りが漂っている。
 映美は、カップを手にテレビをつけた。
 今日の朝食はコーヒーとトーストだ。トーストの乗った皿を横においてベッドに腰をかけた。
 テレビからは朝のワイドショーが流れていた。
 仕事は今探しているところである。よって起き出したのも遅い。
 どこかの田舎で大きなカボチャが獲れたなどと言うレポートがのんびりと進んでいる。
 映美はコーヒーの香りを満喫しながら、カップに口をつけた。
 テレビの画面ではスタジオが映し出され、次の話題に移ったところだった。
「えー、先日、ルシファーが聖華市の市役所に現れると予告し話題になりましたが、それを受けてローズマリーのほうも聖華市に出現したようです」
 映美はカップを口につけたまま、動きを止めた。
 画面が切り替わり、どこかの宝石店らしい店の前に立っているレポーターの姿が映し出される。レポーターはよどみなくレポートを始めた。多少演技じみた口調で、怪盗が現れた時の様子を再現するレポーター。店の入り口に向かって歩いて行く。
「怪盗ローズマリーは、この入り口から侵入し、中で警備していた警備員を眠らせ、犯行に及んだのです」
「あっつうううぅぅ!」
 レポーターの言葉を放心気味に聞いていた映美は、カップのコーヒーを太ももにこぼし、悲鳴をあげた。
 テレビの中では、レポーターがまだ現場の状況を伝えていた。

「どうだ、聖華市は」
 ローズマリーから宝石を受け取った組織の男が訊いた。いつものように、上がり框に腰をかけて携帯用灰皿を手に煙草を咥えている。
「いい街じゃないか。こういう街には宝が山ほどある。宝石も、美術品も、骨董品も、腐るほどね。……ちょっと前に行った新興の高級住宅地はだめだったよ。家に金をかけすぎて、調度品さえ金がかけられなくてね。宝なんかなかった。ここは古い街だ。しかも、美術品好きが揃っている。この街で盗みを働くのが楽しみだよ」
「もう働いてるじゃねぇか」
 ローズマリーの言葉に男がすかさず宝石の詰った麻の袋を掲げ、突っ込んだ。
「今回は準備運動みたいなもんさ。あるのが分かっているところに行って、あるのが分かっているものを盗んでも、仕事めいていて面白くない。予期せぬものに出会えることこそ、この仕事の醍醐味さ」
「はぁ、何かしらねぇが、またわがままが増えたんじゃないのか?醍醐味なんて言ってよぉ。稼げりゃいいじゃねぇか」
 煙草を吹かし、煙を吐く男を見て、あからさまに不快そうな顔をしながらローズマリーが言った。
「分かってないねぇ。あんた、営業だろ?営業にいってさ、何か、棚ぼたみたいに仕事が舞い込んできたとか、ないのかい?」
 ローズマリーの言葉に、男は肩を聳やかす。
「あいにく、俺は顧客開発担当が見つけてきた顧客のごきげんを見て回ってるだけさ。顧客の稼ぎが多いか少ないか、そのくらいしか変化がねぇよ」
「つまらない男だねぇ、あんたは」
 冷めた目で男を見やるローズマリー。
「ま、こんなつまらねぇ男だから、つまらねぇ仕事が割り当てられたのさ」
 携帯用灰皿に煙草を押しつけ蓋をすると、男はポケットにそれを押し込んだ。まだ座り込んだままくつろいでいる。
「いいから、もうお帰り。あんたと話してると新しい街に来たって感じがしないよ。慣れすぎちまった。その顔も、その声もね」
「つれないな」
 立ち上がりながら、男が冗談めかして言った。
「いつもとおなじさ。あーあ、せっかく心機一転って時に、なんにも変わってないっていう現実を見せられたような気がするよ」
 ぼやくローズマリーを尻目に、男は部屋を出ていった。

 聖華署は半年ぶりだった。顔ぶれは飛鳥刑事達が西山村署に転向した時と変わっていなかった。
「木下警部、お久しぶりです」
 さっそく木下警部にあいさつをする飛鳥刑事と佐々木刑事。
「聞きましたよ、ローズマリーが出たそうじゃないですか」
 佐々木刑事はローズマリーのことが気になるらしい。
「ああ、参ったよ。話には聞いていたが、とんでもない奴だな。ローズマリーってのは。警官8人があっという間に眠らされてしまった。どうにかならないのかね、あの催眠術は」
 しばらくローズマリーの話で盛り上がる。催眠術は粉が混じるときき目がなくなる、とか、催眠術がだめでも拳法を使ってくる、とか。
「でも、怪盗も付き合ってみると面白い連中ですよ。一回、プライベートで口説いたこともありました。振られましたけどね」
「先輩。そんなことしてたんですか?」
 飛鳥刑事は呆れたように言った。
「お前だって、ルシファーとは結構仲いいじゃないか」
 佐々木刑事の言葉に心底あせる飛鳥刑事。
「ななな何を言い出すんですか!もう!」
 佐々木刑事が、飛鳥刑事とルシファーの仲がどれほどかを知らないのと同じくらいに、飛鳥刑事も佐々木刑事がどこまで知っているのかわからない。告白を受けたなんて知ったらなんというだろうか。
 そんな二人を見て快活に笑う木下警部。
「ははははは。まぁ、怪盗のことは二人に任せておけばよさそうだな。西山村の木牟田の旦那が言ってたよ。任せておいて問題ないってな。ただ……」
 木下警部はそこで言葉を切った。
「ただ、何です?」
 聞き返す飛鳥刑事に、顔を上げて答えた。
「ただ、県警はそうは見ていないようだ。今、何か動いているようだな」
 何が起ころうとしているのかはわからない。それは木下警部も同じであるようだ。
 わずかな不安が飛鳥刑事の中にわき上がった。

 ルシファーの予告の日が来た。
 ルシファーからの予告状には時刻を現す言葉がなかったので、日がかわる直前あたりから、警備がつけられた。午後になり、木下警部に率いられて飛鳥刑事と佐々木刑事も現れた。今のところ何の異常もない。また、夜現れると見ていいだろう。
「今日はルシファーデーらしいな。なんなんだか」
 佐々木刑事が苦笑した。
「さぁ。それにしても、すごい部屋ですね、ここ」
 桑原市長の執務室はまさに、成金趣味と言っていいほど悪趣味な内装だった。
 税金でこれだけのものを作ったとあっては、市民が怒り出しそうなものだが、それがないのが聖華市なのか。
「なんでも、前やっていた事業で一財産当てたらしくてな。それでこれだけのものを自腹で買えたらしい」
 そこまで言って木下警部はトーンを落とす。
「ま、本当に自腹を切ったのかどうかは知らんがな」
 そこに現れる桑原市長。木下警部は一瞬気まずそうな顔をし、すぐに平静な顔を作る。
「これはこれは、桑原市長」
 何事もなかったように挨拶をする木下警部。
「まったく。怪盗め、何を考えているのかわからないね」
 桑原市長が言った。
 飛鳥刑事は、一目見ただけで桑原市長が気に入らなくなった。いかにも狡そうな顔をしている。小柄で小太り、頭は口裂け女が見たら一目散に逃げ出しそうなほど、ポマードでてかてかと光っている。そして、これ見よがしに高そうな葉巻を咥えている。
 どうして、こんな奴を市長にしたんだろう。
 飛鳥刑事は選挙というものが分からなくなった。
「なんで、ゴルフセットなんか狙うんだね、怪盗は。この部屋には、見ての通り高価な品が山ほどあるというのに。ほら見てみなさい。これなんかはマイセンの……」
 調度品の自慢をし始める桑原市長。
「ルシファーは高いものを狙ってるわけじゃないんだ」
 機嫌悪く呟く飛鳥刑事。
「今度ローズマリーに会ったら教えてやるか、ここはいい稼ぎ場所だってな」
「何てことを言うんですか、先輩」
 とんでもないことを言い出す佐々木刑事を飛鳥刑事が諌めた。
「いいじゃねぇか。自慢するのが好きみたいだしな。ローズマリーに盗まれたとなりゃ、大騒ぎになって全国に自慢できるだろ」
 意地の悪い笑みを浮かべる佐々木刑事。
「気にいらねぇおっさんだよ、選挙の前からな。俺が行った初めての選挙が市長選だったんだけどよ、演説聞いて、絶対に入れるか、とか思ったね。何でこの野郎が市長になったのか、今でも腑に落ちねぇ」
 まだ調度品の自慢を続ける桑原市長に鋭い視線を向ける佐々木刑事。
「いっそのこと、ルシファーに懲らしめてもらおうか?今回は」
 佐々木刑事が笑みを浮かべた。この表情を見る限り、刑事ではなく悪党のような気がしないでもない。
「何てことを言うんですか。そりゃ、盗まれてルシファーは逃がしてしまうでしょうけど」
 飛鳥刑事の言葉にも、なんとなく今回はわざと逃がすようなニュアンスが含まれ出す。
 その時。
 天井からフックのついたロープが降りてきた。ゴルフバッグの肩ひもにフックが引っかかる。
「来たぞ!」
 佐々木刑事が叫んだ。
 するすると上に上がって行くゴルフバッグに突進する飛鳥刑事。
 一呼吸おいて、飛びつく。空振る。絶妙のタイミングである。
「何をやってるんだぁぁ!」
 叫ぶ桑原市長。半分涙声である。
「追え、追え、追えぇぇぇ!」
「市長、指示を出すのは私ですよ」
 木下警部が言った。落ちついている。
「たたた頼む、早くとっ捕まえてくれ!」
「捕まえろといっても、今まで捕まえたことがないので」
 木下警部の言葉の途中でも割り込んで喚く市長。
「あれは自腹を切って買ったんだ!頼む!取り返してくれ!」
「あれはですか」
 木下警部が突っ込む。しかし桑原市長は自分が口を滑らせたことにも気づいていない。
 飛鳥刑事と佐々木刑事も、いつもなら即、自主的に行動を起こすのだが、今日は木下警部の指示をじっと待っている。
「怪盗のことは、私はよくわからん。任せた」
 それが指示である。まるっきりやる気のない木下警部。
「よーし、俺は下に回る。飛鳥、上を頼む」
 佐々木刑事が言う。
「はい」
 気の入っていない返事をし、部屋から駆け出す飛鳥刑事。

 市役所の屋上に出た。
 風が吹いた。夜の風は冷たい。冬が近いことを思い知らされる。
「なぁに、久しぶりに会えるっていうのに、やる気ないんだから」
 頭の上から声がした。
 塔屋の上を見上げると、ルシファーがそこに立っていた。風に髪がなびいている。月明かりを受けてその髪がきらきらと輝いた。
「選んだターゲットが悪かったみたいだな。持ち主があんな奴じゃやる気でないよ」
「同感!あたしはやる気出たけどね」
 ルシファーが声を立てて笑った。
 飛鳥刑事は、ルシファーがゴルフセットの入ったバッグを持っていないことに気付く。
「おい、ゴルフバッグはどこだ!?」
「重いから、置いて来ちゃった。天井裏に置きっぱなしよ」
「盗むんじゃないのか?」
「欲しくて盗んでるんじゃないもん」
「じゃ、なんで盗むなんて言ったんだよ!」
 飛鳥刑事は呆れて言った。
「それはね。あなたに会えるから♪なんてね」
「おおおおお前なぁ!」
 言われて耳まで赤くなる飛鳥刑事。
「きゃははは」
 ルシファーが降りてきた。飛鳥刑事が飛び掛かってきた。軽く躱す。
「来てくれたんだね」
 飛鳥刑事の背中に向かって言った。
「約束しただろ?これからもお前を追い回すって」
「そうね……。うふふふふ」
「何だよ」
 笑い出したルシファーに飛鳥刑事が言った。
「何か、飛鳥刑事って、そういう科白が似合わない顔してる」
 そう言われて、飛鳥刑事は顔を伏せて頭を掻いた。
「そうかなぁ」
 屋上の端の手すりの上にルシファーは飛び上がった。
「でも、うれしいな。……ひとりぼっちで寂しかったの。また会おうね」
 そう言うと、ルシファーは手すりの向こうに飛び降りた。ここは5階建の市役所の屋上である。
 慌てて手すりに駆け寄り、下を見下ろす飛鳥刑事。ルシファーの姿はない。
 耳をすますと、からからという滑車の音が聞こえた。顔を上げると、隣の建物の屋上の手すりにロープが渡してあり、そのロープを滑車を使って渡るルシファーが見えた。
「ルシファー!降りてこい!」
 下で佐々木刑事が叫んだ。
「やーよ!だいたいどうやって降りろっていうのよ!死んじゃうでしょ!」
 隣のビルの屋上にルシファーが移動した。それを見て、一斉に隣のビルに押し入る警官達。
 やがて、その警官達も屋上に現れ、右往左往し始めるが、ルシファーの姿は既にない。
 そのビルの中が、徹底的に捜索された。
 しかし、一晩かけてもルシファーは見つからず、その日の捜査は打ち切られた。
 警察は撤収し、あとにはただ桑原市長が喚いているばかりであった。

 昨夜の事件について、会議が開かれた。大した内容ではなかった。ルシファーの動きを振り返り、今後の対策に役立てよう、と言った程度の内容だった。
 その会議もひけ、廊下を歩く飛鳥刑事と佐々木刑事。
 飛鳥刑事が小声で言った。
「ルシファーのやつ、ゴルフセットを天井裏に置いてきたって言ってましたよ」
 佐々木刑事は表情一つ変えずにのんびりと言った。
「黙っとけ。返してやる必要はねぇ。これであのオヤジもちったぁ堪えてくれるといいんだがな」
 それを聞いた飛鳥刑事は、やれやれ、と言った顔で頭を掻いた。

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