Episode 1-『堕天使のラブソング』第14話 Crime
ドアをノックする音がする。
飛鳥刑事はその音で目を覚ました。
寝ぼけた目をゆっくりと開く。天井が見えた。殺風景な白い天井。見慣れない天井だ。
ここはどこだ。
動こうとすると左肩に痛みが疾った。
そうか、思い出した。
昨夜、ルシファーを追っていた時に、ルシファーを襲おうとした何者かに斬りつけられたのだ。切っ先が左肩に浅く刺さった。それで、その傷の手当てのため警察病院に向かったのだ。手術のための麻酔のせいか、記憶が曖昧になっているようだ。
再びノックの音がした。
「入るぞ、いいか?」
返事がなくて焦れていたのか、間髪を入れず佐々木刑事の声がした。
「先輩ですか?いいですよ」
飛鳥刑事が答えると、ドアが開いて佐々木刑事が入ってきた。蜜柑の入った籠を持っている。
「見舞いに来たぜ。傷の具合はどうだ?」
佐々木刑事は籠をベッドの横の台に置き、手近な椅子に腰かけた。手はすでに煙草を探っている。
「大したことはないみたいですね。ただ、縫合はしました。感染症がないかどうか様子を見て、そうすればもう退院できるそうです」
「しかし、刀を持ってる奴に向かって行くとは、見上げたクソ度胸だな」
佐々木刑事は煙草を吹かした。病室が紫煙に煙る。
「それより、俺を斬った奴は、何者なんです?」
「Bloody Justiceさ。どうも一人や二人じゃねぇみたいだな。裏で誰かが手引きしているらしい。あと一歩で吐くんじゃねぇのか?」
飛鳥刑事はBloody Justiceと聞いて、顔をしかめた。
「そうですか……。あいつだけで終わりじゃなかったんですね」
「まぁ、解決も時間の問題だ。お前が出てくるのが早いか、親玉が捕まるのが早いか。勝負だな」
「親玉は残しておいてくださいよ」
「リベンジか?」
言って佐々木刑事は楽しそうな顔をする。
「そう言う意味じゃないですけど」
あいつ……、ルシファーのためにも、俺の手で捕まえたい。飛鳥刑事はそう思った。
「ん?誰か俺の前に見舞いに来た奴がいるのか?」
突然佐々木刑事が言った。
「え?」
佐々木刑事の見ている方を見ると、小さな花束が花瓶に入れられていた。その花瓶の下には手紙が置かれている。
佐々木刑事が手紙を持ってきてくれた。
封筒は真っ白い封筒で、宛て名も何も書かれていない。
中には便箋が一枚だけ入っていた。まん中に、あまり大きくない字でこう書かれていた。
『早くよくなってね』
差出人の名前は書かれていなかったが、字の形で誰か分かった。飛鳥刑事は便箋を封筒に仕舞った。
「誰だ?」
佐々木刑事が煙草を消しながら言った。黙ったままの飛鳥刑事をしばらく無言で見ていた。立ち上がり、ドアの方に歩き出す。そして、ぼそっと言った。
「ルシファーだろ?」
あわてて飛び起きる飛鳥刑事。傷が痛んだ。
「ちち違いますよ!」
佐々木刑事は振り返りもせず、ふん、と鼻で笑った。部屋を出る間際、やはり振り向きもせずにぼそっと言った。
「お前、本当に態度に出るな」
佐々木刑事はドアを閉めた。飛鳥刑事は遠ざかって行く足音を聞きながら、ルシファーが花瓶に生けていった花を見つめた。
川口は言葉を失った。
留置場に連れて来られた伊藤の顔は腫れあがっていた。一瞬では、誰かわからないほどに。足元もふらついている。
隣の房に伊藤は入れられた。
佐々木刑事が川口の房の前で足を止めた。
「黙っているからこうなるんだ」
目も合わせずに言う佐々木刑事。
「伊藤は何も言おうとしねぇ。何も言わねぇ以上、こっちとしてもこうするしかねぇんだ」
佐々木刑事の手には血がついていた。伊藤の血であることは状況から分かる。
「だがな、お前が何か言えば、伊藤はこれ以上痛い目にあわないですむ。伊藤を陥れることになるなんて、くだらねぇことは考えるな。伊藤を助けたければ、全部話すことだな」
佐々木刑事はそういうと、そのまま立ち去っていった。
隣の房の様子を窺おうと耳をすます川口。しかし、何も聞こえなかった。伊藤の息づかいさえも。コンクリートの壁は厚すぎた。
横に、何かの気配を感じた。人がいる。
部屋は真っ暗だ。月明かりさえ入ってこない。病院の一室の闇は深く、冷たかった。
微かに遠く街の明かりが差しこんでいるだけだった。その街明かりに、人影らしいものが浮かび上がっている。
「起こしちゃった?ごめんね」
聞き覚えのある声だった。
「今朝、花をくれたんだな。気づかなかった。ありがとう」
今朝、佐々木刑事が腰を降ろした椅子にルシファーも腰を降ろした。
沈黙。堪えかねて飛鳥刑事が言った。
「ごめん。Bloody Justiceは捕まえたと思ったのに」
少し、間を置いてルシファーが答えた。
「謝るのはこっちよ。あたしのために怪我、させちゃったね」
「気にするなよ。こういう仕事だ」
飛鳥刑事はルシファーの方に顔をむけた。シルエットとしてしか見えない。
「ありがとう……」
闇の中で影だけのルシファーが涙をぬぐったのが見えた。
「私、もうだめなの。怖くて……」
肩が震えているのが見えた。天井の方に向き直り、飛鳥刑事が呟く。聞こえるか、聞こえないかという声で。
「日が昇るまでなら、いてもいいぞ」
「うん……」
ルシファーの返事も、か細い声だった。
二人はそれきり、押し黙った。
どのくらい時間がたったのかわからない。ふいに、飛鳥刑事が口を開いた。
「ルシファー。Bloody Justiceは必ず俺が捕まえる。それまではじっとしていたほうがいい」
「ありがとう。でも……」
次の言葉を黙って待つ飛鳥刑事。
「あたし、もう、この街にいられない。怖くて……。あたしね、帰ることにしたの」
「帰る?どこに?」
「あたしと飛鳥刑事が、始めて会った時のこと、憶えてる?」
「そうか、聖華市か。聖華市に帰るんだな」
「うん」
ルシファーは何かを言いかけて、ためらった。
「なんだ?」
「ねぇ、あたしが聖華市で怪盗として現れたら、追いかけてきてくれる?」
「ああ」
飛鳥刑事は小さな声で付け加えた。
「もちろんさ」
それきり、二人は言葉を交わさなかった。
気がつくと、夜が明けていた。
いつの間にか眠ってしまったらしい。横を見ると、すでにルシファーの姿はなかった。
ジリリリリリリ……。
賊は警報装置のベルの音を尻目に、余裕の表情でショーケースに並んだ宝石をバッグにつめこむ。
ローズマリーだった。
遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえた。動じない。
すべての宝石を盗り終えるのと同時に、警官がなだれ込んできた。
突進してくる警官たちは、いずれもローズマリーのほうを見据えていた。よって、ローズマリーの催眠術であっさりと眠らされてしまう。
「しゃぁねぇなぁ、こいつらは」
吐き捨てるような声が聞こえた。誰の声かはすぐに分かった。
「警官ももう少し教育したほうがいいよ。面白くないったらありゃしない」
佐々木刑事が入ってきた。
「おや、今日はあんただけかい?」
飛鳥刑事の姿がないので訝しむローズマリー。
「飛鳥はBloody Justiceにやられてね。今病院さ。大したこたぁねぇんだぞ。奴は大袈裟に痛がってるみたいだけど」
「罠じゃないだろうね」
「俺のいうことが信用できないのか?」
佐々木刑事が肩を聳やかした。
「あんたが一番信用できないよ」
ローズマリーは苦笑した。
「そりゃ、お言葉だな」
「日ごろの行いが悪いのさ」
今度は、ローズマリーが肩を聳やかした。
「お前ほどじゃない」
ローズマリーは苦笑した。佐々木刑事もつられて笑う。
「さて、戯れ事は終わりにしようじゃないか?あたいもあんたにいつまでも付き合ってられるほど暇じゃないんだ」
ローズマリーは宝石の袋を取り出した。それより一瞬早く佐々木刑事が行動に出た。
白い煙が立ちこめた。それと同時にむせ返るような香料の臭い。
化粧用のパウダースプレーを吹きかけたのだ。
「何するんだい!?」
この煙では催眠術は使えない。ローズマリーは溜め息をつこうとして煙を吸い込み、むせた。
「化粧はもう十分てか?」
佐々木刑事の声が間近でした。先手を打ってローズマリーが蹴りを繰り出す。しかし、それを読んでいた佐々木刑事はあっさりと躱す。
ローズマリーは慌ててその場を離れようとした。その腕を佐々木刑事がつかむ。
その佐々木刑事の腹に蹴りをたたき込むローズマリー。腕はまだ離れない。手を抓ってやった。放した。
だめ押しのローズマリーの蹴りを食らい倒れ込む佐々木刑事。立ち上がり、逃げるローズマリーを追おうとして駆け出す。ローズマリーが催眠術を使わないように、スプレーの煙を撒き散らしながら。
「臭いのきついのも辛いな。俺もコロンの量を減らしたほうがいいか」
臭いでむせながら佐々木刑事は呟いた。
ローズマリーは宝石店を飛び出した。パトカーが何台も停まっていて、それに引きつけられたやじうまが群がっている。ローズマリーが飛び出してきたのを見て、やじうまのほとんどが逃げるように散った。
ローズマリーは手ごろなパトカーを見つけて乗り込もうとした。
その時、パトカーの影から何かが飛び出してきた。
飛鳥刑事か警官だと思った。
だが、すぐに違う、と思う。
「死ねぇ!」
甲高い男の声だった。
バットを持っていた。突然現れた男はそのバットで殴りかかってくる。
ローズマリーはそのバットをひらりと躱した。バットを空振りした男の顔面に蹴りをたたき込む。さらに、そのバットを蹴り飛ばし、足を払う。
男はもんどりうって倒れた。ローズマリーが振り返ると、佐々木刑事が飛び出してきたところだった。
「なんだそいつは?」
佐々木刑事に気づき、男はバットも拾わずに逃げ出した。
「知らないよ!あたいにいきなり殴りかかってきたんだ」
佐々木刑事はローズマリーの前を通り過ぎて行った。
「わりぃな、急用ができちまったみたいだ。今夜のランデヴーはおあずけだ」
「バカ言ってんじゃないよ」
冗談を言って走り去る佐々木刑事を怒鳴りつけたあと、ローズマリーは怒ったような顔で立ち去っていった。
「どうだ?調子は」
佐々木刑事が言った。
「まだ痛みますけどね」
飛鳥刑事が署に出てきた。退院できたのだ。あとは、抜糸のためにしばらくしてから病院に行けばいいことになっている。
「多少の無理ならできそうか?」
「無理?何かあるんですか?」
飛鳥刑事が訊き返した。
「ああ。朗報だぜ、飛鳥。多分、Bloody Justiceのアジトなんじゃないかっていうところを見つけたんだ」
昨夜、佐々木刑事は、ローズマリーを襲った男を追った。男が振り返った時は佐々木刑事の姿はなかった。男は安心して走るのをやめた。しかし、そのあとを佐々木刑事がつけているとは、夢にも思っていなかった。撒いた、と思ったのだ。
その後、男は港にほど近い廃工場に入っていった。中の様子を探ることはできなかったが、おそらく、そこが奴等のアジトである。このアジトの場所を掴むため、犯人を油断させて泳がせたのだ。
「どうなんだ?そこがお前らのアジトか?」
佐々木刑事の問いに川口は口を閉ざしていた。が、態度が以前と違い落ち着かない様子だ。伊藤が痛めつけられたことと、アジトが知られたことが効いたのだろう。
「黙ってたらわからないだろう?」
飛鳥刑事が静かに言った。明らかに感情を抑えている。だが、目つきは刺すように鋭い。自分を斬った相手だ。川口もそれが分かっている。川口は竦み上がった。見た目よりも臆病な男だ。だからこそ、この男を問い詰めることにしたのだ。佐々木刑事が効果的に恐怖心を与えたのも、この男の口を一刻も早く割らせるためだ。
「手加減はいらないみたいだな」
佐々木刑事が立ち上がった。
「ま、待ってくれ!」
川口が初めて口を開いた。
「そうだよ、あそこがアジトだよ!あそこにはリーダーと、俺達みたいな子分が俺達を入れて12人いるんだ!」
「どういう連中なんだ?」
「俺達は、リーダーに誘われたんだ。人を殺してみたくないか?って言われて。俺達は面白そうだってんで仲間になったんだ。俺の知っている奴は、あそこには伊藤と、石下だけだ!」
「じゃ、そのリーダーって奴に訊けば、なんでこんなことをするのか分かるな?」
「あ、ああ。たぶんな。俺達は誘われてやっただけだ!」
「よく喋ってくれた。でもな、一つ気になることがある」
佐々木刑事は静かに言った。
「お前、人を面白そうだっていうだけで殺すのか?」
佐々木刑事が睨みつけた。
「そ、それは」
言いかけた川口の腹に拳をたたき込んだ。川口は呻きながらうずくまった。
「てめぇみたいな腐った野郎はとっとと地獄に落ちたほうがいいんだ。少年院で済むだけ、幸せだと思え」
佐々木刑事は、吐き捨てるように行くと、取調室の扉を乱暴に開け、乱暴に閉めて行った。
佐々木刑事と飛鳥刑事が署から出てきた。覆面パトカーを出す。木牟田警部に、相手のアジトと思しき場所が分かったので少し様子を見に行かせて欲しい、と頼み込んだのだ。
それを離れた場所から車の運転席で見ていた男が訊いた。黒い国産車だ。
「あれをつけりゃいいんだな?」
「ああ。やっぱり、警察は何かを掴んだようだね」
車が動き出した。
「しかし、お前も物好きだな。サツの手伝いか?」
「私怨があるんだよ、腐るほどね。恨みは絶対晴らすタチでね」
「おお、怖い」
男はローズマリーの言葉に冗談めかして肩を竦めてみせた。
「そうさ、あたいは怖い女だよ。自分でも怖くなるくらいね。さて、どうしてくれようかねぇ」
ローズマリーは楽しそうに笑った。
廃工場の前に覆面パトカーが停まった。
中から三人の若い男が出てくる。
佐々木刑事と飛鳥刑事は車から降りた。
「飛鳥。どうも、様子を見るだけじゃ収まりそうになくなったな」
「こんな真っ正面に車を停めるからですよ。……もしかして、端っからこうするつもりだったんですか?」
「分かってるじゃん。……久しぶりに暴れられるな」
「俺は暴れるのはあまり好きじゃないんですけどね」
「いや、お前は怒らせると怖いタイプだ」
「またまたぁ」
そんなことを言い合っている間にも若い男たちが二人に迫ってくる。
そして、飛び掛かってくる男たち。佐々木刑事の蹴りがその内一人の顔面にあたった。飛鳥刑事は別な男の襟を持ち、一本背負いを仕掛ける。勢いよく突っ込んできた男はそのままアスファルトの地面に頭から落ちた。怯んだ男の腹を佐々木刑事が殴った。その腕を飛鳥刑事が掴み、ねじる。男が悲鳴をあげながら地面に倒れた。その男の頭を佐々木刑事の蹴りが捕らえる。男の体から力が抜けた。
最初に佐々木刑事に蹴られた男が廃工場に駆け込んだ。
「行くぜ、飛鳥!」
「はい!」
中に躍り込む二人。中には10人の不良がいた。中には武器を持っているのもいる。
二人は銃を出した。銃を見て不良たちもさすがに怯む。それでも、4人が飛び掛かってきた。飛鳥刑事は最初の一撃はあっさりと躱せた。だが、暗い中なので足元にあった鉄骨に気づかず、足が引っかかり、倒れた。
そこに襲いかかってくる不良たち。飛鳥刑事はとっさに銃を構えた。不良たちは動きを止める。いくらいきがっても銃を向けられると怖いのだ。
佐々木刑事は手近にあった細い角材を手に取ると、不良の頭に振り下ろした。べきっ、と音がして角材が折れた。そのささくれ立った先端で不良を突く。突かれてよろめく不良の頭に角材を投げつけた。不良はもんどりうって倒れた。
飛鳥刑事に銃を向けられた不良たちはしばらく固まっていたが、何かに気をとられたらしく、飛鳥刑事から目をそらした。
それと同時に、不良たちは操り人形の糸が切れたように倒れ込んだ。
その方を振り返ろうとした飛鳥刑事に声が届いた。
「こっちを見るんじゃないよ」
聞き覚えのある声に一瞬凍りついたように飛鳥刑事は動きを止めた。佐々木刑事も同様だ。
ローズマリーだ。ローズマリーが催眠術を使ったのだ。全員とはいかないが、全部で4人ほど眠ったようだ。
「なんでお前がこんなところにくるんだ?警察のお手伝いでもしようってのか?」
「あたいもこいつらに襲われただろ?あたいはね、やられてやられっぱなしってのが大っ嫌いなんだ」
「それにつきあわされる俺はなんなんだよ。全くついてない」
よく知らない声だが、誰なのかは予想がついた。前回ローズマリーと一緒に現れて、佐々木刑事に銃を突きつけたあの男だろう。
「お前はローズマリーの旦那か?」
言った佐々木刑事はローズマリーに尻を蹴られた。
「いてっ、何するんだよ」
「くだらないことを言ってんじゃないよ!」
「もし、そうなら苦労が絶えないぜ」
「あんたまで、何を言うんだい。まったく男ってのは!」
などといっている間にも、奥のほうから不良が湧いて出てきた。
「なんだ、ずいぶんいるな。12人じゃなかったのか?」
「連中も勧誘活動でもして仲間を増やしてるんでしょう」
佐々木刑事のぼやきに飛鳥刑事が答えた。
棒を持った不良が突進してきた。不良の腹にローズマリーが飛び蹴りを叩き込んだ。飛鳥刑事が不良の持っている棒を奪う。ローズマリーについてきた黒服の男がその不良の首を絞めあげた。不良がぐったりとする。
飛鳥刑事がいまし方奪った棒を構えて不良の中に突っ込んで行った。何人かの不良が飛鳥刑事に飛びかかってくる。正面から来た不良の肩に飛鳥刑事の振り下ろした棒が命中した。間髪を入れずに横様に棒を薙ぐ。横から飛び掛かろうとした男がその棒の餌食となった。側頭部を叩かれ、その場に伸びた。
しかし、その棒から逃れた不良が飛鳥刑事を掴み倒してきた。肩から地面に倒れ込む飛鳥刑事。
この間斬られた傷が痛んだ。傷が開いたかもしれない。
飛鳥刑事の顔面に拳が飛んだ。口の中に血の味が広がった。
不良はさらに拳を振り上げた、同時に不良の後頭部に佐々木刑事の蹴りが入る。前のめりになった不良の頭に、今度はローズマリーの蹴りが前から入った。
佐々木刑事は飛鳥刑事を抱え起こした。
「どうだ、傷は痛むか?」
「痛むけど、別に気になりませんね」
「その意気だ」
その間にも、ローズマリーと黒服の男が不良の中に突っ込み、暴れ回っている。ナイフを持って襲いかかってきた不良に、黒服の男が発砲した。肩を押さえてうずくまる男。銃声を聞いて何人かの不良が驚き、尻尾を巻いて逃げ出した。
残ったのは3人。ローズマリーのハイヒールの爪先がそのうち一人の腹を捉えた。うずくまる不良の頭に黒服の男の蹴りが決まる。その場に倒れ込み動かなくなる不良。
一人の不良が、奇声をあげながらローズマリーに飛び掛かった。手には刀を持っている。
ローズマリーは虚を衝かれ、硬直した。黒服の男が殴りかかろうとするが、間に合いそうもない。
その時、銃声が響く。不良が刀を取り落とした。手を押さえてうずくまる。
飛鳥刑事が銃を構えていた、銃口からは煙が上がっている。
「一般人相手だし、サツがいるからチャカは出さずにいるってのに……。どっちが悪党だか分かりゃしねぇぜ」
ローズマリーに付いてきた男が薄ら笑いを浮かべながら言った。
逆上したローズマリーはヒステリックな声をあげながら男の脇腹を蹴りつけた。倒れ込んだ男をこれでもかと言わんばかりに蹴る。十数発蹴って、やっと落ち着いたようだ。
ローズマリーが、最後の不良に目を向けると、もうすでに佐々木刑事に胸倉をつかまれていた。そちらに歩み寄り、平手で叩いた。佐々木刑事は、不良の腹にひざ蹴りを食らわせ、放り投げた。その方向には、黒服の男がいた。黒服の男に回し蹴りを叩き込まれた不良は、よろめきながら飛鳥刑事のほうに倒れ込もうとした。次の瞬間、不良の体は宙を舞っていた。飛鳥刑事が背負い投げで投げ飛ばしたのだ。横に積まれていた空の塗料の缶の山に頭から突っ込んだ。
不良はいなくなった。何人か逃げたが、残った何人かは、一様に地面に倒れて呻いていた。中には意識を失っているものもいる。
「今日はスカッとしたよ。まだ、親玉がいるんだろ?頑張りなよ」
「ま、待て!」
帰ろうとするローズマリーと黒服の男を呼びとめようとする飛鳥刑事。ローズマリーはその声に手だけ振って答えた。
「放っておけ、飛鳥」
「で、でも」
「俺達はBloody Justiceをとっ捕まえに来たんだ。浮気はいけねぇぜ」
佐々木刑事はニッ、と笑った。とても、いつかローズマリーを追う途中にBloody Justiceに切り替えた男の科白とは思えない。
廃工場の奥に向かった。どこか遠くでドアの開く音が聞こえた。そちらに目をやると、非常口の看板がちかちかと点滅していて、その下のドアが開かれていた。いくつかの人影が動いていた。
「逃げる気だな?追うぞ!」
駆け出す二人。
廃工場の裏手は港に通じていた。鋸の歯のような波が月明かりを受けてぎらぎらと光っていた。
そして、月明かりにいくつかの人影が照らし出されていた。
車があった。人影は車に飛び乗ろうとしている。ばたばた、というドアの閉まる音がした。ヘッドライトがつき、エンジンがかけられた。
佐々木刑事は銃を構えて撃った。
走り出そうとした車はがくがくと揺れ、停まった。タイヤを撃ちぬいたのだ。
乗っていた連中が慌てて駆け出してきた。しかし、この足止めはあまりにも大きかった。すぐに飛鳥刑事が飛び掛かり、一人に手錠を掛ける。それを見た別な男が飛鳥刑事に掴み掛かってきた。その手を躱した飛鳥刑事は男の襟を掴み、勢いを活かして投げ飛ばす。海に落ちた。秋ももう半ばだ。この季節の水は冷たい。
二人が逃げようとした。その二人を佐々木刑事が追った。すでに全速力で走っている佐々木刑事にこれから走ろうとする者が敵うわけはない。片方があっさりと捕まり、地面に組み伏せられた。佐々木刑事は男の頭をコンクリートに2回叩きつけた。男が気絶した。
立ち上がり、最後の一人を追う佐々木刑事。飛鳥刑事もそれに続く。相手は足が遅い。やせぎすな、矮小な男だった。長い髪だ。
佐々木刑事がその長い髪を掴むと同時に、飛鳥刑事が男に飛び掛かった。
佐々木刑事の掴んだ男の髪は、妙に手応えがなかった。気がつくと、髪の毛だけが佐々木刑事の手に絡みついてぶらさがっている。
飛鳥刑事は自分が押え込んだ男の顔を見て、驚愕の声をあげた。
よく見知った男だった。
「や……なぎ?」
柳警部補だった。眼鏡を外していたが、柳警部補だった。
佐々木刑事も、柳を見下ろし、複雑な表情を浮かべた。
「あんた、何やってんだよ」
冷たく言った。
遠くからパトカーがのサイレンが聞こえてきた。ローズマリーが通報したのだろうか。
「私は……。私は刑事として泥棒を許せなかったんだ!」
柳が吼える様に言った。
「てめぇに刑事を名乗る資格はねぇ!」
佐々木刑事が叫んだ。そして、手錠を掛ける。
廃工場から警官が出てきた。こちらに気づいて駆け寄ってくる。
「様子を見に行くと言わなかったかね?様子を見たにしてはずいぶんと派手にやらかしてくれたようだが」
木牟田警部が後ろから歩いてきて言った。
「ローズマリーが横入りしてきて大騒ぎになったんですよ。なぁ、飛鳥」
「ええ、まぁ」
全ての責任をローズマリーに押しつける刑事二人。本人がいたらなんと言うだろうか。
「それより」
佐々木刑事は足元でうなだれる柳に目を落とした。木牟田警部もその姿を見、息をのむ。
手錠を掛けられた柳を見て、警官たちもためらったが、まもなく連行された。
柳は、怪盗を憎んでいた。しかし、怪盗を捕らえるのはもはや無理だと思ったのだ。失態の数々。確実に怪盗の事件から手を引かされる。
ならば、どんな手段をとってでも、怪盗に報復せねば。
長いことをかけて築き上げてきた信頼も地位も、全てが怪盗の手により崩れ去ろうとしていたのだ。
もう、失うものはない。そう思い、この一連の事件を起こしたのだ。
泥棒の出現の情報は、警察無線を傍受して得ていた。警察関係者なので、警察無線の電波について、多少は知識があったのだ。
そして、警察よりも早く泥棒を見つけ、襲う。それが、Bloody Justiceの手口だった。この名前は、不良の一人が考え出したものだと言う。やくざ者のフリをしたら、不良はあっさりと信用して荷担したらしい。
「柳の野郎も、あんなことができる根性があるなら、もう少し仕事のほうにその根性を注げばいいのにな。ネズミみてぇにちょこまかしやがって」
佐々木刑事が苦々しげに言った。
取調室では柳の取調べが行われていた。もう観念したらしく、質問に素直に答えているという。
柳の取調べは飛鳥刑事達の2係から1係に委ねられていた。2係は窃盗中心の係なのだ。窃盗犯がからんでいたので2係も協力する形になってはいたが、首謀者が捕まったので、2係は手を引いたのだ。特に、2係の柳を取調べようとする時、何かしらの余計な感情が調査に及ぶことも考えられる。
「信用を失ったからって、あんなに簡単に犯罪に走れるのか?人間て言うのは」
佐々木刑事の言葉に飛鳥刑事が答えた。
「何もかも失って、どうしようもなくなったから、こういう結果になったんじゃないでしょうか。失うものがあれば、人はそれを守ろうとしますから」
「自暴自棄か……。人はこんなに簡単にそんな状態にまで追い詰められちまうのか。殺そうとしても易々と死なねぇくらい体は強いのに、心ってもんは脆いもんだな」
佐々木刑事はそう呟くと、窓の外の空を見上げた。
秋雨前線の影響で空にはどんよりとした雲がかかっていた。一条の光もささない、そんな天気だった。
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