Hot-blooded inspector Asuka
Episode 1-『堕天使のラブソング』

第12話 Romance

 デパートでの事件の翌日、柳警部補の懲戒審査が行われた。
 飛鳥刑事も、証人として証言した。
 明らかに故意に発砲している。それも、必要のない状況で。
 弁明の余地はほぼないと見てよい。
 飛鳥刑事はすぐに帰されたが、審査はその後も続けられた。

 木牟田警部が刑事課に入ってきた。
「警部、柳警部補はどうなったんですか?」
 飛鳥刑事の問いに木牟田警部は首を横に振った。
「謹慎で済んだようだが、今度のは前のよりも長いようだ。2ヶ月といっていたな。……今回の事件は、残念な結果になってしまった」
 木牟田警部は沈痛な面持ちで言った。

「正直、驚いたぜ。あんなことが起こったことにも、柳があんなことをしたのにもな」
 佐々木刑事は煙草を持ったまま呟いた。その煙草をすぐに咥えた。煙草の先の火が明るくなり、立ち上っていた煙が消える。
 飛鳥刑事は、次の言葉を少しためらったが、決心をしたように言った。小声だが。
「ルシファーも、恐がっていました」
「ん?」
 飛鳥刑事の言葉に佐々木刑事が聞き返した。肺に溜まっていた煙を一気に吐き出した。
「昨日の夜、ルシファーが俺の部屋に来たんです。恐かった、って言ってましたよ」
「無理もねぇよ。当たらなかったみたいだが撃たれたんだ。5発もな。そんな目に遭えば俺だってびびるさ」
「今度、柳警部補が謹慎が解けて出てきたら、どうすればいいんでしょうか」
「知らねぇよ。……あいつ、もう刑事なんてやってられないさ。謹慎が解けても出てこないと思うぜ」
 飛鳥刑事も煙草を取りだして、火をつけた。佐々木刑事の煙草はいつの間にか灰皿に捨てられている。
「ルシファーも、しばらく出ねぇかも知れねぇな」
 飛鳥刑事はその言葉を虚ろな表情で聞いていた。

 ローズマリーは受話器を置いた。
 そして意地の悪い笑みを口元に浮かべた。
 組織から電話があった。
 ルシファーが警察に撃たれたらしい。当たりはしなかったが。
 ほくそ笑むローズマリー。
 しばらくルシファーは現れないだろう。所詮は小娘だ。銃を向けられてすぐにのこのこ現れるほど肝が座っているとも思えない。
 これで当面、あの小娘の邪魔が入ることはなさそうだ。
 そうとなれば、さっそく仕事にかからなければ。こんな機会を逃す手はない。
 宝石の粉を袋につめ、ポケットに入れる。準備はこれだけだ。
 欲しいものはいくつもある。あの小娘の邪魔を恐れて思うように動けなかったが、その心配はいらない。
 空は夕焼けが夕闇に変わり始めていた。

 西山村署の電話が鳴った。
 木牟田警部が応対に出る。その表情に緊張が走る。
「怪盗だ!ローズマリーが出た!」
 飛鳥刑事、佐々木刑事、そして木牟田警部の3人は車に飛び乗り、現場に直行する。
 後ろからは警官の乗ったパトカーが追従してくる。
 現場は見るからに金のありそうな豪邸だった。
 しかし、現金は一銭も持ち出されなかった。
 ローズマリーはそういう奴だ。現金ではなく、あくまで金目のものを狙う。
 絵画数点と、宝石がいくつか。それが被害だった。
「指輪とネックレスはともかく、絵も盗んでるんだろう?しかも額ごとだ。なぁ、飛鳥、そんなに持てると思うか?」
「そうですね。それは難しいと思います。どれも大きな絵ばかりですし」
「目立つしな。女の力じゃあの額1つが限度だよな。まぁ、ローズマリーはどんな馬鹿力が出るか知らねぇけどよ」
 全てを持ち出せたとは思えない。それならば、絵画は一体どこに消えたのか。

 夜も更けた。警察も屋敷から引き揚げていった。
 屋敷もさっきまでの騒ぎが嘘のように静まり返っていた。
 その屋敷の廊下に忍び歩きの微かな足音がした。
 ローズマリーだった。
 大きな絵画に目をつけたのはいいが、さすがに運びきれず、屋敷の中に隠しておいたのだ。
 小さな倉庫の中にそれは隠されていた。
 薄暗い倉庫の一番奥の壁に手を当てる。そして、そのまま壁を引き裂いた。
 壁は紙だった。一番奥の壁の手前に、周りの壁と同じ色の紙を使ってもう一枚『壁』を作っておいたのだ。その奥に絵が隠してあった。
 ただでさえ真っ暗な倉庫だ。しかも、足元も悪く、この奥の壁にはそう易々と近づけない。
 現に、絵はここにある。警察も、これには気づかなかったようだ。
 外に停めてある軽トラにつんで運ぶつもりだった。この軽トラも近所から掠めてきたものだが、用が済んだら返すつもりだ。こんなものまで盗んでは怪盗の名折れである。足もつきやすいだろう。そもそも、用が済んだらもう要らない。
 重い額の絵を持ちあげた。絵だけ盗んでもいいのだが、運搬の途中に傷つかないとも限らない。額に入れたままなら、よほどのことがない限り傷つくのは額だけである。梱包しなおせば軽いが、そんな手間をかけてはいられない。
 ふらふらとした足つきで絵を運ぶ。
 屋敷は広い。悪趣味なほどに。おかげで、絵を隠した倉庫から屋敷の外まで出るのも一苦労である。
 ようやく庭に出た。庭はそんなに広くない。
 絵を軽トラに積んだ。一息ついて、汗をぬぐった。絵を盗んで倉庫に隠したときの倍ぐらいの距離がある。これを後もう数回やらなくてはいけないのだ。
 屋敷のほうを振り返った。
 人の姿があった。
 門柱に寄りかかるように佐々木刑事が立っていた。
 思わず身構えるローズマリー。
 今度は運ぶだけと思って宝石の粉の袋を持って来ていない。つまり、催眠術は使えないのだ。
「よう、こんな時間までご苦労なこった」
 佐々木刑事もローズマリーに体を向けた。
「何しに来たんだい?」
 辺りは薄暗く、佐々木刑事の表情までは見えない。微かな街灯の光と月の明かりをうけて目だけが鋭く光っている。
「夜這いじゃないことだけは確かだな」
「わざわざあたいが来るのを待っていたのかい?」
「そうだ。早い時間じゃ人通りもある。こんなでかい絵を運びだすのは無理だからな。今頃、家主のオッサンに飛鳥が絵の在処を教えてる頃だろう。あと、署にも連絡を入れる手筈になっている」
 ローズマリーは髪をかき上げて笑った。
「ふん、やるじゃないか。ルシファーの邪魔が入らないと思って余裕で臨んだのがよくなかったみたいだね」
 言いおわるか終わらないかのタイミングでローズマリーは佐々木刑事めがけて飛び蹴りを繰り出す。
 佐々木刑事はそれを紙一重で躱した。
「さすがに、これだけ暗いとやりにくいね」
 佐々木刑事が懐から取り出した手錠を手に、ローズマリーに飛び掛かる。
 その腹を狙ってローズマリーの蹴りが放たれる。それを腕で受ける佐々木刑事。下がった頭めがけて間髪を入れずに飛んでくる再びの蹴りをさらに頭を下げて躱す。そのバネを使ってローズマリーに飛び掛かる佐々木刑事。
 ローズマリーは身を翻して佐々木刑事の突進を躱す。
「今日は催眠術はナシかい?」
 振り返りながら佐々木刑事が言った。
「よくわかったね。まさかあんたらがいるとは思わなかったからね」
 間合いをとる二人。
 横から突然現れた車にローズマリーが気をとられた。その隙をついて距離をつめる佐々木刑事。ローズマリーもそれに気づき、踵落としを繰り出す。
 ローズマリーの踵落としが佐々木刑事の肩に当たった。ローズマリーのハイヒールが脱げた。しかし、佐々木刑事も手錠を取り落としていた。
 脱げたハイヒールを蹴り飛ばす佐々木刑事。そのままローズマリーに飛び掛かる。
「手錠はいらないのかい?それが無いとあたいを捕まえられないんじゃないのかい?」
「腕をひねりあげて押さえつけりゃいい。そのうちパトカーが来るさ」
 屋敷のドアが開けられた音がした。飛鳥刑事が出て来たのだ。
「チッ、邪魔者が一人増えちまった。しょうがない、絵はもう諦めるよ。これだけはもらっとくよ」
 ローズマリーは素早く軽トラに飛び乗った。
 エンジンをかけて、走り出そうとする間に、佐々木刑事がドアを開けてローズマリーを引きずり出した。
 ローズマリーはあわてて佐々木刑事を振り切った。見ると、サイドブレーキを倒したため、軽トラは無人のままゆるい傾斜のついた道を後ろ向きに滑り出していた。
「あーあ、どうするんだい?」
「とりあえず、お前をふん捕まえるのが先決だ」
 飛鳥刑事も軽トラが動いていることに気付き、慌てて追いかける。
「そんなにあたいを捕まえたいのかい?」
 ローズマリーの問いに佐々木刑事は冗談めかして答えた。
「仕事だしな。それに怪盗なんて人間がいるとなれば興味もある。だから捕まえて、牢屋にぶち込んでやるのか、ベッドに引っ張り込んでやるのかは決めてねぇ」
「あたいをベッドに引き込むって?とんだ物好きだね」
 ローズマリーは呆れて言った。体勢を立て直して佐々木刑事を見た。
 その時、遠くからパトカーのサイレンが聞こえて来た。
「おっと、こうしちゃいられないね」
 軽トラのほうに逃げ出すローズマリー。車を止めた飛鳥刑事がそれに気づいて飛び掛かった。ローズマリーはその顎を蹴り上げる。そして、軽トラに飛び乗ってエンジンをかけた。軽トラは急発進し、横の路地に入って行った。塀に擦ったらしく、ガリガリと言う音がした。
 それを見て呟く佐々木刑事。
「あいつ、外車の似合いそうな女だと思ったけど運転は下手みたいだな」

 昨日の仕事の稼ぎを引き取りに組織の男が来た。前の仕事の分の報酬が入った。
 ローズマリーは早速街に繰り出し、ショッピングを楽しむことにした。
 新しい靴を買った。昨晩、ハイヒールを片方無くしたからだ。替えはあるのだが、無くした物と同じ色が無かった。
 その袋を提げたまま喫茶店に入った。紅茶を頼む。
 その時、別な客が入って来た。カップルのようだった。
 女は派手な顔だちの女だった。
 男は知っている顔だった。慌てて目をそらす。
 よりにもよって自分の真後ろの席にその男が腰をおろした。
 ウエイトレスが来て注文をとる。男はコーヒー、女はパフェを頼んだ。
 ローズマリーの所に紅茶が運ばれて来た。しばらくして後ろの席の二人の注文した物も運ばれてくる。
 その間、後ろの二人はペチャペチャと喋り続けた。
 よく喋る男にうんざりしかけた頃、唐突に男が黙った。
 肩ごしに見るとコーヒーのカップに口をつけている。
 言ってやった。
「よく喋る男だねぇ。男のお喋りは見苦しいったらありゃしない」
 後ろの席の男は慌てた。
「あちあちあち!」
 コーヒーをこぼしたらしく騒いでいる。それを尻目に紅茶を啜るローズマリー。
「だぁれ、今の。失礼ね」
 女が言った。
「お前にプライベートで会えるとは思わなかったぜ。ローズマリー」
 男が振り向いて言ってきた。
「それはあたいの科白だよ。庸二さン」
 ローズマリーは笑みを浮かべた。
「ねぇ。知ってる人?」
 女が聞いた。
「まぁな。仕事での付き合いってやつかな」
 佐々木刑事の言葉にローズマリーは苦笑した。確かに、お互い仕事の上での付き合いだ。
「いい服着てるじゃないか。あんたの稼ぎでそんな服が買えるとはね」
「実は、こいつの前の女のプレゼントさ」
 声を落として言う佐々木刑事。
「ねぇ、その人だぁれ?どういう関係?」
 女が突っ込んで来た。佐々木刑事は何か言いかけたが、それより先にローズマリーが口をはさんだ。
「あんた、あたいのことベッドに引き込むとか言ってたっけねぇ」
 ローズマリーの言葉にいきり立つ女。
「なにそれ!その人と私とどっちが大事なのよ!」
「おいおい……」
「あっ、もしかして迷ってるの?何ですぐに答えてくれないのよ!」
 女は怒りだした。なだめる佐々木刑事の説得も空振りに終わり、女は帰ってしまった。
「ちぇっ、お前、気の利かない女だな」
「ふん、あんな女たぶらかして喜んでるからさ」
「妬いてるのか?」
「さぁどうだか」
 ローズマリーは紅茶を飲み干し、会計を済ませて店を出た。

 店を出てしばらく歩いた。
「喫茶店の勘定はちゃんと払うんだな」
 後ろから声をかけられた。
 相手は分かっている。振り向きもせずに答えた。
「当たり前だよ。こんなせこいところでケチって警察に追い回されるなんて馬鹿馬鹿しいじゃないか」
 佐々木刑事が横に並んだ。
「前々から聞こうと思ってたんだけどさ、お前、髪伸ばしてるのか?」
「そうだよ。……あんたも暇なんだね。あたいなんかに付き纏ってさ」
「俺のデートの相手を追い返したのは誰だよ。その代役、やってもらうぜ」
「街中でデートなんてあたいの趣味じゃないね」
「いきなりホテルに連れこまれる方が好みかい?」
 ハンドバッグで佐々木刑事の顔面を引っぱたいた。
「あんた、よく人前でそういう科白が言えるねぇ!」
「なに赤くなってんだよ。その気があるのか?」
 ローズマリーは身構えた。佐々木刑事は降参のポーズをした。
「冗談だよ」
「全く!今までに会った男の中でも一番最低の男だね!あんたは!」
「それはお誉めの言葉かな?」
 ローズマリーは憮然として言った。
「そんなわけないじゃないか。ついてくるんじゃないよ」
 佐々木刑事は肩をそびやかして振り向きながら呟いた。
「脈あり、か?」
 コーヒーの空き缶が飛んできて、佐々木刑事の後頭部を直撃した。

 柳警部補の発砲事件が起きて、2週間後。
 ルシファーが久しぶりに現れた。
 例によって飛鳥刑事のもとに届けられた予告状に従い、昼過ぎから警備が固められた。
 場所は西山村クイーンズパレス。西山村市でも指折りの高級ホテルだ。狙われたのはその2403号室に泊まっていた宿泊客の持っていた絵画。
 宿泊客は取り引きのために日本を訪れていた海外の画商だった。
 狙われているのは、持ってきた数点の絵のうち、ユトリロの描いた小さな絵だった。
 25階建のホテルの24階。最上階はサルーンになっているので、客室では最上階にあたる。スイートルームである。
 当然、築15年の木造ぼろアパート住まいの飛鳥刑事と薄汚い警察の独身寮住まいの佐々木刑事はこんな豪華な部屋に入ったことなどほとんどない。自然と、落ち着かなくなる。
 二人は10分おきに煙草を吸うと言って灰皿のあるエレベーターホールまで出向いた。タバコを吸うと言って出てきた以上、どちらかが吸わないと居づらいので来るたびに交互に煙草を吸う。
 そんなわけで、いつになく早く煙草の箱が空になっていた。
 飛鳥刑事はそれに気づかず、箱を振って煙草を出そうとする。
 確かに煙草の入っているらしいがさがさと言う音はしている。しかし、肝心の煙草が出てこない。
 箱を逆さにして振る。煙草の葉の粉がぱらぱらとこぼれ出た。さらに振ってみる。何かが確かに入っていた。出てきた物は、小さな機械だった。見覚えはある。
 昔、ルシファーが現れる直前によく見つかった物だ。
 盗聴器。
「おい、それ……。ルシファーの盗聴器じゃないのか?」
 佐々木刑事が複雑な表情で見ている。
「お前、その煙草、ずっと持ってたよな。作戦会議のときも」
 やはり複雑な表情で頷く飛鳥刑事。
「あちゃー、全部筒抜けかよ!」
 あわてて部屋に駆け戻る二人。
 騒々しくドアを開ける。
 不安げに座っていた画商が驚き身をすくめた。しかし、入ってきたのが刑事だと分かり、すぐに安心した表情になる。
「警部。まずいですよ。作戦会議から何からなにまでルシファーには筒抜けだったみたいです」
 佐々木刑事が厳しい表情で告げた。
 警部の表情が強ばる。
「それは、どういうことだ?」
「すいません、俺の煙草の箱に盗聴器が隠されていたんです。気付きませんでした」
 木牟田警部はしばらく考えてから言った。
「まぁ、こっちだって向こうの出方を知って作戦を立てたわけではない。さっき立てた作戦はナシだ」
「出たとこ勝負、ですか?」
 佐々木刑事の言葉に木牟田警部は頷いた。
「そういったところだな。他の警官たちはさっきの作戦通り動いてもらう。ただ、我々はルシファーの裏をかくように動こう。むしろ、やりやすくなったと考えよう」
 その言葉が終わるか終わらないか、という時だった。
 開け放たれたままだったドアの外で激しい閃光と爆裂音がした。
 条件反射的にその方に目をやる刑事たち。
 ドアの外は煙に包まれていた。うっすらと、煙を吐き出す球状の物体が見える。そこからは今なお煙が吹きだし、部屋の中にまで入ってきている。
 飛鳥刑事は気づいた。全員の注意が絵から逸れてしまっていることに。
 慌てて絵に駆け寄ろうとする。その一歩目を踏み切るのと、ルシファーが天井裏から降りてきたのは、奇しくも同時であった。
 飛鳥刑事の目の前で逆さ釣りになったルシファーが絵を掴んだ。飛鳥刑事はそのルシファーに飛び掛かった。
 ドサッ。鈍い音がした。そして、確かな感触。
 捕まえた!そう思った瞬間だった。飛鳥刑事の体が宙に舞い上がった。
 ルシファーの足には強力なバネが取りつけられていた。
 飛び降りた勢いで伸びたバネはすぐに縮む。そのバネの伸び切った一瞬の間に絵を掴んで再び天井裏に戻る。
 マジックハンドを使ってもよかったが、モノが絵画であったので、少しマジックハンドではとりにくいと判断したのだ。
 そうすることにより、廊下の発煙装置に気をとられた刑事たちには、その一瞬の虚をついて絵が消失したとしか思えない状況が出来上がるはずだった。飛鳥刑事がそれに気づき、絵の方を振り向かなければ。
 ルシファーにしがみついている飛鳥刑事はルシファー共々天井裏に引き上げられたのだ。いわば、ルシファーをルアー代わりにつり上げられた魚である。
「うわあぁぁぁ!」
「きゃあぁぁぁ!」
 飛鳥刑事とルシファーは同時に絶叫した。理由はそれぞれ違うのだが。
 その声に気づき、部屋にいた者は一斉にその方向に注目した。しかし、そこには、絵も、ルシファーの姿も、飛鳥刑事の姿もなかった。

 天井裏の闇の中で、ルシファーと飛鳥刑事は宙吊りになっていた。
「放しなさいよ!いつまで抱きついてるのよ!ドスケベ!」
 下に聞こえないように小声でささやくルシファー。
「放せるかっ!俺が落ちるじゃないか!」
「いいじゃないの、落ちるくらい!」
「よくないっ!」
 飛鳥刑事は大きな声である。
「あたしは逆さ吊りなのよ、頭に血が上るじゃないの!」
「俺は自力でしがみついてるんだぞ!」
「だから、放しなさいって言ってるのよ!」
 ルシファーの声もだんだん大きくなっている。飛鳥刑事が大きな声を出した後でもあり、破れかぶれである。
 しかも辺りは真っ暗だ。ルシファーの気も動転してきている。
「どうにかしてよ、この状況!変な気になるじゃないの!」
「なんだよ、変な気って」
「え、あの、その……。変なこと言わせないでよぉ」
「自分で言ったんだろう!」
 ルシファーは顔が熱くなった。多分真っ赤な顔をしているだろう。辺りが真っ暗なおかげでそのことを飛鳥刑事に悟られずにすむ。もっとも、明るければそれどころの騒ぎではないのだろうが。
「とととととにかく放してよ!」
 どもりまくるルシファー。
「だから放したら落ちるだろう!」
「あー、もう!分かったわよ!」
 ルシファーは足をもぞもぞと動かした。足をバネに固定していた金具がはずれた。
 どすん。
 ルシファーと飛鳥刑事は折り重なって落ちた。

 佐々木刑事と木牟田警部は消えた飛鳥刑事と絵の元の場所を唖然と見ていた。
「あっちゃー、やられた!」
「それより、飛鳥君はどこに行った?」
 辺りを見回す佐々木刑事。すぐに天井の板が一枚外れていることに気付く。
「見てください、警部。あそこからルシファーは何らかの方法で絵を盗んだんでしょう。で、飛鳥のやつはその絵を押さえようとして、絵諸共天井裏に……ってな感じでしょうね」
 頷く木牟田警部。
「佐々木君、イスを使って登れるかね?」
「無理ですね」
 木牟田警部は少し考えた。
「よし、私の肩を踏み台にすればどうだ?」
「それなら届くでしょう」
 早速、木牟田警部がイスを持ってきた。
 イスの上に立つ佐々木刑事。そして、そのイスから木牟田警部の肩に足を掛け天井に手を掛けた。
 佐々木刑事の上半身が天井裏に入った。その時。
 どすん、という鈍い音がした。
「うわっ!?」
 佐々木刑事が素っ頓狂な声を上げて落ちてきた。その下敷きになる木牟田警部。
「おいおい、何だい、頼むよ」
 立ち上がり、埃を払う木牟田警部。
「いや、すんません。いきなり目の前に何か落っこちてきて……」
 と言っている佐々木刑事の目の前に、黒い影が降りてきた。
「ル、ルシファー!」
 ルシファーは佐々木刑事にあいている方の手を振って駆け出して行った。
 佐々木刑事は後を追おうとする。
 その上に、飛鳥刑事が降ってきた。
「あ、先輩、すいません」
 飛鳥刑事の下敷きになって倒れている佐々木刑事。
「順番的に、今度はお前の上に木牟田警部が落ちてくるぞ」
 この状況においても冗談を言う佐々木刑事。
「馬鹿なことを言ってないで、ルシファーを追うんだ!」
 駆け出す木牟田警部。
 その横を飛鳥刑事が追い抜いて行った。その少しあとを佐々木刑事が追う。
 ルシファーが階段を駆け登った。刑事たちもその後を追う。
 体格のいい木牟田警部は、歳の所為もあって階段の中ほどで息が切れてきた。
「ふー、あとは若い二人に任せるか……」

 サルーンでくつろいでいた客は、突然現れた黒尽くめの人影に驚き騒ぎ出した。
 誰かが、怪盗ルシファーだ、と言った。その声でますます騒ぎが大きくなる。
 そのサルーンを横切っていくルシファー。飛鳥刑事と佐々木刑事もそのあとを追う。
 ルシファーは屋上への階段を駆け登った。刑事二人もそれに続く。
 階段を登りきり、ドアを開ける飛鳥刑事。ルシファーが立っているのが見えた。
 後ろでばたん、という音がした。ドアの音だ。構わずルシファーに突進する。
 が。
 目の前にあったのはルシファーの姿ではなく、黒いゴミ袋を被せられた立て看板だった。ゴミ袋を引き裂くと、『お手洗いはこちらです』と書かれて矢印が出ていた。
 しまった!
 その時、後ろからドアを叩くドンドンと言う音が聞こえた。
 飛鳥刑事は振り返った。
 ドアの前にはルシファーが立っていた。ドアの前には洗剤を入れる一斗缶が置かれ、開かないようになっていた。
「ごめんねぇ」
 ドアの向こうの佐々木刑事に向かってルシファーが言った。
「お前か、このドア閉めたのは!何のつもりだ!?」
「逃げるに決まってるでしょ」
「どうやって!?ここは25階建のビルだぞ!?」
「飛び降りるの!」
「なにぃ!?」
 まだ佐々木刑事は喚いているが、ルシファーは相手をするのをやめた。
 強い風が吹いた。まだ初秋とはいえ、この時間の風は冷たい。
 見ると飛鳥刑事がこちらに走ってくるところだった。ルシファーは塔屋の上に飛び乗り、飛鳥刑事を見下ろした。
「ねぇ。この間は泊めてくれてありがとう」
「へ、変なこと言うなよ!」
「さっきのお返しよ。……ねぇ、もうあたしのこと、撃ったりするような人、いないよね」
「多分な。でも怪盗なんかやってるうちはわからないよ」
 飛鳥刑事は静かに言った。
「でも……」
 ルシファーは何かを言いかけ、それきり黙ってしまった。視線だけを交える。
「あたし……、怪盗、やめられない。ごめんね」
「ルシファー!お前は、なんで怪盗をやっているんだ?」
 飛鳥刑事が問う。
 ルシファーは首を振った。
「私にも、わからないの。理由が多すぎて、どれが本当に怪盗を続けている理由なのか」
 強い風が吹いた。ドアの向こうの佐々木刑事は諦めたのか静かだ。諦めのいい佐々木刑事のことだ。もう階段を降りて木牟田警部に報告でもしているのだろう。
「俺も、わからないんだ。なんでお前のことをこんなに追い回しているのか。理由が多すぎるのかもしれない。理由なんか無いのかもしれない」
 それ以上、二人とも何も言おうとしなかった。
 ただ、黙ったまま見つめあう。
 月にかかっていた雲が流れ、青白い月光が辺りに降り注いだ。
 長い沈黙を打ち破ったのはルシファーだった。
「あたし、もしかしたらあなたのことが好きなのかもしれない」
 その言葉のあとを追うように、ルシファーの頬を涙が伝った。
 胸が高鳴っている。世界が夢なのか現なのか判らないほどに自分の意識が遠くに感じられた。それでも、言葉だけが紡ぎ出される。
「わからないの、こんな気持ち、初めてだから。あなたの声が聞けるだけでうれしかった。あなたの姿が見られるだけでもうれしかった。きっと、あたしはあなたのことが好きなんだ」
 最後の方は声が震えて言葉にならなかった。
 短い沈黙。飛鳥刑事の返事は短かった。ただ一言。
「俺もだ」
 月が隠れた。辺りが急に暗くなった。
「これからもあたしのこと、追いかけてくれる?」
「もちろんさ。いままで通り、予告状は俺に出せよ!」
「うん!」
 ルシファーが身を屈め、次に立ち上がったときにはその背中に小型のハンググライダーがあった。
 そのまま、飛び立つ。
 飛鳥刑事の上を三角形の影が過って行く。
 わずかな雲があるだけの満点の星空を背に滑空するルシファーを見上げる飛鳥刑事の顔に一滴の雫が落ちた。
 飛鳥刑事はその雫が何かに気づいていた。

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