Hot-blooded inspector Asuka
Episode 1-『堕天使のラブソング』

第11話 狂気

 今日は珍しく、めざましより先に目が覚めた。
 飛鳥刑事は目覚ましのスイッチを切り、大きく一つ伸びをする。
 布団から這い出してフライパンを火にかけ、冷蔵庫からハムと卵を取りだした。今日は水曜だ。水曜の朝はハムエッグと決めている。
 インスタントコーヒーをたてる。砂糖を入れようと角砂糖の箱を取りだした。
 砂糖の箱を開けたが、砂糖は入っていなかった。代わりに紙が入っている。
『今日の夜、パスコで開かれている書道展の金賞の作品をいただきまーす。お砂糖は戸棚の中よ。怪盗ルシファー』
「うわあああぁぁ!」
 飛鳥刑事にとって、ルシファーからの予告状はコーヒーよりも効く目覚ましだった。

 西山村警察ではさっそく対策会議が執り行われた。
「あいかわらずせこいものを盗むなぁ。金賞作品ったってよ、所詮は素人の手習いだろ。そんなもの盗んでどうするんだか」
 だるそうに佐々木刑事が言った。
「でも、どんなものでも、盗まれると予告が来た以上は守り抜かないといけませんよ」
「そのとおりだ。警察の名誉のためにもな」
 飛鳥刑事の言葉に木牟田警部が賛同した。
「とにかく、今から現場に行きましょう。どういう状況か分からないことには対策も立てられませんし」
 佐々木刑事が言った。上司の木牟田警部もその言葉に頷いた。怪盗のことに関してはこの二人に絶対の信頼を寄せている。
 さっそく刑事3人がパスコに向かうことになった。
 部屋を出ると、そこに柳警部補がいた。
「何か用かね?」
 木牟田警部はあからさまにうざったそうな顔をした。
「あの、怪盗が出るんですよね?」
 柳警部補は息巻いて尋ねた。
「予告状は来たが」
「ぜひっ!ぜひ私にもう一度機会を!」
「しかしだね」
 渋る木牟田警部。
 その時、佐々木刑事が口をはさんできた。
「いいんじゃないですか?今回は盗まれてもたいした被害じゃないんですし」
「たいした被害じゃないってのはちょっとなんだが、まぁ、君が言うならいいだろう」
 木牟田警部は柳警部補の同行を許可した。
「ありがとうございます!今度こそ、前回の失態を帳消しにしてみせますので!」
「頼むよ……。失敗は、これが最後だと思ってくれ」
 木牟田警部の言葉をうけて柳警部補の表情がやや硬くなる。だが、やる気はあるらしく目は爛々と輝いている。
「いいんですか?先輩」
 歩きだした木牟田警部と勇んで歩きだした柳警部補の背中を見ながら飛鳥刑事が言った。
「いい機会さ。これ以上うろちょろされると目ざわりだしさ、このへんでルシファーに引導を渡してもらおうぜ」
「ちょ、ちょっと」
 佐々木刑事の言葉にあわてる飛鳥刑事。
「おっと、急げ。置いていかれるぞ」
 駆け出した佐々木刑事のあとを追って飛鳥刑事も走った。

 パスコが見えてきた。駅前の広場に面した絶好地に建てられたデパートだ。
 屋上の上にはアドバルーンが出ている。『わが家の達筆展開催中』とかかれた帯が見えた。
 パスコといえば、ローズマリーとルシファーの最初の真っ向勝負の舞台となったところである。
 もっとも、今回はローズマリーは来そうにない。ローズマリーは高いものしか狙わない。何の価値もなさそうな素人の書など狙うわけがない。
 会場はかつての事件と同じ最上階の展示会場だ。
 ただ、前回と違うのは、展示されている書の数が多いため、回廊状にパネルでしきられていることだ。
 これは、警備が難しくなる恐れがある。ただの泥棒ならいざ知らず、相手は身軽なルシファーである。こんな仕切りなどあっさりと飛び越えられるだろう。
 談義の結果、ターゲットとなっている金賞の作品はデパートの閉店とともに1階に移され、そこで警備にあたることになった。
 大まかな作戦は出来上がった。あとは、夜までにその作戦を練り込んでいく。

「ねぇ、映美。今日の帰りにパスコによらない?今日セールがあるのよ」
 誘ってきたのは渚だ。
「うん。なんだか書道展とかもやってるんだよね」
 今夜の仕事の下見もしたいので、さり気なくそちらのほうに話題をふる映美だが。
「そんなのどうでもいいよ」
 瞳はにべもない。
「夏物最終処分だって。全品半額なの。もう行くしかないわよね」
 渚は珍しく気合いが入っている。
「売れ残りだからあまりいいのないかもしれないけど、行ってみる価値はあるわ」
「うん。行こう行こう」
 映美は話に乗った。

 終業のベルとともに駆け出す3人。
「ね、ねぇ。何も走ることないんじゃない?」
 映美は先頭を走る渚に言った。
「何言ってるのよ。一秒の差が大きいのよ、こういうのは。私たちみたいなOLがこの時間には一斉に開放されるわけなんだし。あ、タクシー!」
 渚はタクシーを止めた。
「ちょっと、タクシーまで使うの!?」
 瞳はあきれている。バーゲンで安くなる分とタクシー代、元は取れるのだろうか。
「渚って、こういうのになると気合い入るよね。おばさんみたい」
 瞳はぼそぼそと言った。その瞳も、耳年増な話ばかりして、渚にはおばさんみたいと言われていたりする。どっちもどっちと言ったところだ。
 道路もそろそろ込みはじめる時間だ。しかし、タクシーはどうにかその混雑の前にパスコにつくことができた。
 パスコの1階で売りつくしセールは開かれていた。
 瞳と渚は二人で服の柄について、一枚ずつ批評の論議を戦わせている。
 さすがに、そのパワーに気圧された映美はちょっと離れたところで服を見ていた。
 その時、見覚えのある人影が目にはいった。
 木牟田警部。その横にいるのは柳とか言うスケベそうなおじさん。
 映美は服を見るフリをしながら聞き耳を立てた。
「じゃ、このカートに隠すのかね」
「そうです。この上から服を山積みにすればルシファーも気づかないでしょう」
「そうだな。じゃ、飛鳥君と佐々木君には少し離れたところにダミーを置いて、そのあたりから警戒してもらおうか」
 映美はくすっと笑った。警察もかなり手を尽くしているようだが、全部筒抜けになっている。
 服の下に埋められると、取るのも結構大変だ。それに見合った道具を用意しないといけない。
 こっちも、作戦を立てようっと。
 その時、飛鳥刑事と佐々木刑事が歩いてくるのが見えた。
 あわてて背中を向ける。
「こっちは異常ないっす」
 佐々木刑事が言った。どことなくやる気がなさそうだ。
「作戦、決まりました?」
 飛鳥刑事が言った。ということは、さっきの作戦は柳と言うおじさんが決めたということになるのか。
「ここにカートを置いて、服の中に埋めてしまおうという作戦だそうだ。どうかね」
「どうせなら、カートをいくつか置いたほうがいいですね」
 ただでさえ厄介なのに、カートが増えると、さらに大変になる。映美は考えこんだ。
「ねぇ、気に入ったやつ、ある?」
 いきなり瞳に話しかけられた。
「え?あ、これなんかいいかな」
 映美は目の前にあった服を手に取った。
「そうねぇ。まぁ映美には似合うかも。あたしって、顔が派手でしょ?だから着るものも選ぶのよねぇ」
「じゃ、あたしの顔って地味ってこと?」
 ジト目で瞳を見る映美。
「じゃなくってさ、映美は何を着ても似合うじゃない。……私、化粧濃すぎるのかな。でも素顔じゃ人前出られないし」
 そこに、渚も来た。両手に抱えるほどの服を持っている。
「渚、そんなに買うの?」
「それはこっちがいいたいわ。この値段で買えるのに、たったのそれだけ?」
「でも、お金あんまり持ってきてないし」
「あーあ、だめねぇ。バーゲンのチラシを見かけたらいつもよりお金を多めに持ってくるのが基本よ!」
「それはあんたの場合でしょ?そんなに情熱かけてられないわ」
 瞳はあきれている。
「そんなに買って、今月生活できるの?」
「当然。この日のために買い控えして待ってたんだから!」
「あたしにはそこまでできない……。ね、そろそろいいんじゃない?」
 映美は二人を促した。
「そうね。もうこんだけ買えば満足」
 渚が言った。満足で当然である。
「私もこれでいいわ」
「ねぇ、せっかくだし、書道展も見て行かない?」
「いいよ、そんな趣味ないもの」
 すげなく瞳に断られ、結局、映美は書道展の会場には行けずじまいだった。

 6時半。閉店時間は8時。あと1時間半である。
 映美は、着替えてもう一度パスコに来ていた。
 書道展の会場にも忘れずに足を運ぶ。
 その前には飛鳥刑事と佐々木刑事がいた。煙草をくわえて、ぶつぶつと二人で駄弁っている。
「なぁ、面白いか?この企画さぁ」
「まぁ、俺はそんなには……」
「はっきりいえよ、つまんねぇってさ」
 なんの話をしているのだろう。映美は聞き耳を立てた。
「いや、書いている人はこうやって展示されてうれしいでしょうけど」
 この書道展の話のようだ。
「でもよ、さっきから、見にきてるやつってあんまりいねぇぜ。じいさんばあさんがゆっくり見ていくだけで、あとは黙って通り過ぎていくだけじゃねぇか。こんな企画やっても集客力なんかねぇって」
「まぁ、バーゲン会場のほうが賑わってましたしね」
「こんなミミズののたうち回っているようなの、見ててもぜんっぜん面白くねぇ。こんなのなら世界のミミズ展示会でもやったほうが物好きが集まるだろ」
「やめてくださいよ、気色悪い」
「なぁ、そこのねぇちゃん」
 映美はいきなり声をかけられ、びくっとした。
「さっきから、ずっと見てるけど、面白いか?」
「そういうこと、見ず知らずの人に言わないでくださいよ」
 飛鳥刑事はあわてて佐々木刑事を遮った。
「い、いえ、あんまりよくわかんないんですけど……」
 映美は言葉を濁して逃げた。
「今のは相当な暇人だな」
 佐々木刑事の一言は映美の耳までは届かなかった。
 少し離れたところで映美は呟いた。
「見ず知らずの人、か。部屋に入れてもらったこともあるんだけどなぁ」
 ちなみに、入れてもらったわけではなく、こっそりと入っただけなのは言うまでもない。

 今まで流行歌が流れていたスピーカから蛍の光が流れ出した。閉店の時間が近いのだ。
 食料品売り場から、5割引の肉や魚を袋にぎっしりとつめこんだ主婦が上がってきた。これが最後の客のようだ。
 事務所に待機していた警官が、店内をくまなく調べ、客や不審な人物がいないことを確認して、シャッターが閉められた。
 最上階にあった金賞の作品が1階に運ばれた。書は掛け軸になっているので、たたんでしまえば実に運びやすい。そして、隠すのにも苦労しない。
 予定通り、バーゲン品を入れるカートが用意され、手近にあった服を片っ端から放りこんだ。その中の一つに金賞の書が隠されている。
「柳の考えた作戦にしちゃ、上出来だな。こりゃ、やすやすとは見つからないぜ」
 一応、ダミーはいくつか用意されていた。
 まず、最上階の、もともと金賞の書がかけられていた場所に佐々木刑事の書が代わりにかけられた。でたらめなのだが、力強い筆づかいではある。素人目にはこれがど素人によるまるっきりの偽物であることは分かりっこない。ルシファーに書道の心得があるとも思えないので、適当に用意したのだ。ただ、万が一ルシファーに書が解るとしたら、たちまち見抜かれてしまうだろう。これは、ルシファーが書を理解できないことを祈るしかない。
 それから、1階には警官を何人か立たせ、そのまん中には意味ありげなケースが置かれている。
 中は実は空である。警官たちは、いかにもその空の箱を守っているようなフリをしているのだ。
 この場所は本物の書が隠されているカートまではやや遠いが、それでも一直線に向かえる場所になっている。
 そして、飛鳥刑事と佐々木刑事は、カートに近い物陰に身を隠していた。
「見回り、終わりました!」
 警官が続々と帰ってきた。そして、一様に警察とデパート関係者以外はいないことを報告した。
「準備は万端だ。あとは、こちらの知恵が勝つか、あちらの知恵が勝つかの勝負だ」
 木牟田警部の言葉に、身を引き締める一同。
 斯くて、デパートの夜が始まった。

 警官たちは、屋上や地下、従業員通路などはもちろん、トイレや天井裏までチェックした。
 しかしただ一ヶ所、見落とした場所があったのだ。いや、そこは見ろというほうが無理であり、かつ、まさか人がそこに身を潜めているとは想像さえつかない場所である。
「そろそろいいかな」
 ルシファーは、腕時計を見ながら言った。
 顔を上げると、西山村市の夜景が広がっていた。駅前広場の中でも一段と高い場所。風が吹き、ルシファーのいる場所がゆっくりと揺れた。
 ルシファーはアドバルーンの上にいた。そして、帯を伝って下に降りた。
 暗くなってからならば、アドバルーンの上にいてもまるで目立たない。まして、ルシファーは黒ずくめである。夜の闇にあっさりとまぎれて、気づかれることはまずない。
 屋上のドアには鍵がかかっていたが、この鍵は一度開けたことがある。ドアはあの時見たままであり、交換などしていないことがすぐに分かった。
 あっさりと鍵を開けて侵入する。通路を降りて、展示会場を見る。
 警官が何人か見張りをしているが、ここにターゲットがないことは分かっている。
 ルシファーは警官の前に躍り出た。からかってやることにしたのだ。
 突然現れたルシファーに、警官たちは慌てた。とは言えここには盗まれるものはない。ルシファーをつかまえることだけに集中できる。
 ルシファーは順路通りに駆けて行く。カルガモのひなのようにその背中を追いかける警官たち。
 ルシファーが角を曲がり視界から消えた。警官たちはそのまま突っ走っていく。その通り過ぎたパネルの後ろからルシファーが現れた。曲がりぎわ、素早くパネルを飛び越えて裏側に身を隠したのだ。
 警官たちは直線にさしかかった。ルシファーは速い。もう見えなくなってしまった。
「みんなぁ、こっちこっちぃ!」
 突然後ろから声がした。一斉に振り向く警官たち。そこにはルシファーがいた。一斉にきびすを返してルシファーに突撃する。
 逃げるルシファー。追う警官たち。
「こっちこっち!」
 また後ろから現れた。そして、角に消える。
 警官たちは顔を見合わせた。小さく頷きあう。
 今度は、二手に別れて挟み撃ちにする作戦に出た。
 ルシファーをおって順路通りに行くチームと、逆に回るチームに別れた。
 順路を回る警官はルシファーの姿を見つけた。
 さすがに、追いつきそうにない。しかし、ルシファーは唐突に足を止めた。
 一斉に飛び掛かる警官たち。しかし、ルシファーは大きく飛び跳ね、パネルの向こうに消えた。そのとき。
 どかどか。
 いくつもの鈍い音が響いた。
 反対側から来た警官たちも、同じようにルシファーを見つけて飛び掛かってきたのだ。そして、衝突。
 ルシファーはその横に余裕の顔で降り立ち、涼しい顔で展示会場を後にした。

 無線で連絡が入った。最上階の展示会場にルシファーが現れた、と。
 1階の空気も一瞬にして緊張した雰囲気に包まれた。
 しばらく、沈黙が続いたのち、再び無線連絡が入る。
 ルシファーに逃げられた、と。
 そして、ルシファーは下に向かった、と。
 無線での報告が終わると、あたりは無気味なほどの沈黙に包まれた。
 腕時計の秒針の音がいやによく聞こえる。
 その、微かな秒針の音にまぎれて、足音が聞こえてきた。ルシファーだ。ルシファーしかいない。
 階段からルシファーの黒い影が、のんびりと降りてきた。隠れる様子もない。
 警官たちはじっと待った。近づくまで。
 ルシファーが足を止めた。
 ルシファーの目はダミーである空のケースに向けられている。
 もちろん、ルシファーにはそれがダミーであり、本物はその奥にさり気なく置かれたカートのどれかに隠されていることも分かっている。
 警官はまだ動こうとしない。
 緊張はほぼ極限であった。
 静かなにらみ合いがしばらく続いた。
 先に動いたのはルシファーのほうだった。素早く腰のポシェットを開けて中から小さなボタンのついたリモコンを取りだした。そして、警官たちにそれがリモコンであることを理解する時間さえも与えずにスイッチが押された。
 ぼん!
 カートに積まれた服が、四散した。
 2度目に来たとき、安売りの服を見定めるフリをしながら裏側に簡単な仕掛けをしておいた。何枚かの服の裏側に高圧縮空気入りの金属のカプセルを取りつけたのだ。それが、リモコン一つで一気に弾ける。一瞬にして膨張した空気の圧力でまわりの服は飛び散ることになる。うまいことカプセルが服の山の下のほうにこないとちゃんと効果が現れないのだが、思いの外うまくいったようだ。
 飛び散った服が、投網のように警官たちに絡みついた。動きの鈍った警官たちの間を素早く動いてカートに近づく。
 3つのカートの中で、巻き物らしいものがあるのはただ一つ。
 ルシファーはその一つの巻き物を手にした。
 そして、してやったりと言う顔をする。
 その瞬間、物陰から飛鳥刑事と佐々木刑事が同時に飛び出してきた。
 佐々木刑事は先回りして階段を塞ぐ。
 飛鳥刑事はルシファーに躍りかかった。
 ルシファーは飛鳥刑事の突進をあっさりと跳躍でかわした。が、着地の瞬間、床に散らばった服を踏みつけ、足を滑らせてバランスを崩した。
 しまった!
 顔を上げる。それが精一杯だ。
 飛鳥刑事は目の前に迫っていた。
 もう逃げられない。
 ルシファーは観念した。
 が、ルシファーの目の前で飛鳥刑事は、服に足を取られて派手にひっくり返った。顔面を床に強かに叩きつけたようだ。のたうち回っている。
 ほっとしつつ、急いで体勢を立て直して逃げるルシファー。
 逃げ道は、裏口か階段かエレベータだが、おそらくエレベータは警察の手により止められているはずだ。裏口も鍵がかけられているうえ、警官が立っている。
 迷わず階段に向かって走るルシファー。見ると、佐々木刑事は防火用のシャッターをおろそうとしていた。
 佐々木刑事の手がシャッターにかかった。がらがらとシャッターが音を立てながら降りてくる。
 ルシファーはかまわず突進した。
 ルシファーが来る前にシャッターを閉めようと力を振り絞る佐々木刑事。
 シャッターが降りた。
 が、その寸前にルシファーはシャッターの下を潜り抜けていた。
「ああっ!やられた!畜生!飛鳥、こいつあげるの手伝え!」
 シャッターのむこうから佐々木刑事の声がしている。かなり時間が稼げそうだ。
 ルシファーは階段を一気に駆け上がった。
 その途中、手に浮いた汗を服になすりつけながらため息混じりにつぶやいた。
「危なかったぁ……」

 シャッターを開けて潜り抜けた飛鳥刑事と佐々木刑事は、階段を駆け登っていった。
 2階。3階。4階。最上階。そして屋上。
 飛鳥刑事は月明かりを頼りに屋上を見回す。人影らしいものは見当たらない。
「どこだ!どこに隠れている!」
 叫ぶ飛鳥刑事。
「まだ逃げてはいねぇはずだ。よく見ろ!」
 佐々木刑事もあたりを調べている。
 その二人の想像もしなかった方からルシファーの声がした。
「どこを探してるの?あたしはここよ!」
 上!?
 見上げる二人。
 その目には、町明かりに滲んだ星空と、まだ満月にはなっていない月、そして、それをバックにたゆたうアドバルーン。
 そのアドバルーンの上でルシファーが手を振っていた。
「おい、どうする?」
 佐々木刑事が飛鳥刑事に言った。飛鳥刑事はすでに動きだしていた。
 アドバルーンの帯にしがみついて登りだす飛鳥刑事。
「ばか、よせ!お前じゃ無理だ!」
 後ろからばたばたと足音がした。木牟田警部と柳警部補、ならびに数名の警官が屋上に登ってきたのだ。同時に下の道路にも裏口から出た警官が次々と現れ、デパートを包囲した。
 飛鳥刑事は登りにくい帯に悪戦苦闘している。まだ2メートルも登っていない。
「飛鳥君、危険過ぎる!戻りたまえ!」
 木牟田警部が叫んだ。その声を遮るように小さな爆発音のような音がした。
 それと同時に、結わえつけられていたはずのアドバルーンは少しずつ上に向かって登っていった。
 それに気づき、飛鳥刑事は慌てた。急いでおりなければ。
 しかし、その必要はなかった。
 ルシファーが上で帯を切り離したのだ。
 帯とともに屋上に落ちる飛鳥刑事。
「やりすぎだぜ、飛鳥。それより、こうなったらもう追いかけられねぇ」
「いや、車で追えば間に合うはずです。急ぎましょう!」
 風は強くない。このスピードなら車で十分追跡できる。
 佐々木刑事は頷いた。
 飛鳥刑事と佐々木刑事は走り出し、階段を駆けおりはじめた。
 その時だった。

 アドバルーンがゆっくりと飛んで行った。それにはルシファーがつかまっている。いつの間にか、ベルトのようなものでアドバルーンにつかまるところを作ってあった。
 柳警部補はそれを唖然と見つめていた。
 もう、追いかけられない。
 これで逃したら、私は怪盗に関わる事件に一切関れない。
 すなわち、汚名返上の機会はもうない。
 今まで、与えられた仕事はそつなくこなし、地味ながら確実に上りつめてきた柳警部補にとって、この失敗に対するショックは大きかった。あまりにも。
 だめだ。もうだめだ。
 柳警部補を絶望感が襲った。
 もともと、怪盗に関わったのがいけなかったのか。
 ノースフィリッツランド大臣夫人の事件でローズマリーの催眠術にかかり、情報を引き出されてからというもの、怪盗に関わるごとに大きな失敗を繰り返している。
 今まで私を信頼してくれていた上司も近ごろは信頼などしていない。態度で分かる。今日の木牟田警部だってそうだ。
 こうなったのも、すべて怪盗共のせいだ。
 怪盗め。
 怪盗め!
 柳警部補は怒りと憎しみに身を震わせた。そして、無意識のうちに、手が動いていた。

 ドン!
 突如、背後で轟音が轟いた。
 あわてて振り返る飛鳥刑事と佐々木刑事。
 ドンドン!
 しばらくは状況が飲み込めなかった。
 それでも音が銃声だということに気付く。
 木牟田警部が柳警部補の腕をつかんだ。
 ドンドン!
 柳警部補が拳銃を撃っている。今は小さく見えるほど遠くなってしまったルシファーのつかまっているアドバルーンに向けて。
 ドン!
 5回目の銃声がした。木牟田警部に腕を押さえられているので狙いなど定められないが、それでもかまわず発砲した。
 かちかちと、撃鉄が空撃ちする音がした。弾が切れたのだ。
 柳警部補は、そのあと、しばらく体を震わせていたが、そのまま崩れるように膝を落とした。興奮のために激しくなった息に混じって声がしはじめ、やがてその声が号泣にかわった。
「シャレにならねぇよ」
 掃き捨てるように佐々木刑事が言った。
 飛鳥刑事はその様子を唖然とした顔で見守るしかなかった。

 柳警部補はそのまま署に送られ、署長室に呼び出された。
 中で何を言われたのかはわからないが、いいことではないことは、呼ばれた時点で分かりきっていた。
 案の定、蒼白な顔で所長室から出てきた柳警部補。
 柳警部補はそのまま立ち止まることもなく、虚ろな表情のまま署を後にした。

 飛鳥刑事は、事件の後、すぐに帰途についた。あんなことがあった後だけに、気分が晴れない。
 布団にもぐりこんでも寝つけなかった。
 目を閉じても、眠くならない。
 何度、目を閉じ、また開けただろう。
 気がつくと、目の前に人影があった。
 あわてて飛び起きる飛鳥刑事。
 こんな時間に、どこからともなく来る人間など、誰かを確認するまでもない。
「ル、ルシファー!?」
 ルシファーは、無言で頷いた。
 そのまま、壁際まで下がり、そこに座り込んだ。
 しばらく、沈黙が続いた。
「なんだよ……」
 飛鳥刑事はルシファーに言った。
 暫しの沈黙。
 ルシファーは座ったまま呟いた。
「さっき、恐かった……」
 無理もない。突然撃たれたのだから。
「一人でいられないの。恐くて……」
 声が震えていた。
「ねぇ、今夜だけ、ここにいてもいい?」
 飛鳥刑事は溜め息をつき、言った。
「今夜だけだぞ」
「……ごめんね」
 飛鳥刑事は再び溜め息をつき、布団にもぐりこんだ。
 ルシファーのしゃくりあげる声が微かに聞こえた。
 飛鳥刑事はルシファーに背を向けて目を閉じた。

 目覚ましの音が鳴った。いつの間にか眠り込んでいたらしい。
 飛鳥刑事が目を覚ますと、ルシファーの姿はなかった。
 昨夜のことは夢だったのか。
 そう思ったが、昨夜、ルシファーが座っていた場所に一枚の紙が落ちていた。
 短く、小さな字でこうあった。
『ありがとう』

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