Hot-blooded inspector Asuka
Episode 1-『堕天使のラブソング』

第8話 小百合の正体

 ドアをノックするものがいた。
「鍵はかかっちゃいないよ。入りな」
 時間は夜10時を回っている。こんな時間に訪ねて来る者などそうはいない。
 扉を明けて入ってきたのは夜の闇を切り取ったような黒服の男。玄関にいきなり腰をおろす。
「よぉ。ローズマリー。今回はいいものらしいな」
「まぁね。ほら、ごらんよ」
 ローズマリーは棚に置かれた小さな箱を持ってきた。そして、ふたを男の目の前で開ける。
「『砂漠の夕日』ってんだ。どうだい」
「名前なんかどうでもいいさ。でかいな。なるほど、こいつはいいものだ」
「どうでもいいって、このネームバリューが高値を呼ぶんじゃないか」
「ま、その辺はそっち担当がやることだ。それと、前回のやつ、まだ捌けねぇんだ。ちょっと待ってくれよな」
「そうかい。まぁいいさ」
「その代わり、こいつを持ってきた」
 ナイロンの袋の中に、七色に輝く粉が入っていた。宝石の粉だ。
「研磨工場で出たクズだ。それだけ集めるの、苦労したんだぜ」
「すまないねぇ。大事に使わせてもらうよ」
 宝石の粉を指でつまみあげ、袋のなかにゆっくりと落とす。きらきらと光の粒が舞い落ちていく。
「なに、売れる宝石を粉にされるよりは安いもんだ。そんな手間ならな」
「これだけ手間と金がかかって、相手を眠らせるだけっていうのも芸がないとは思うけどさ」
「芸がない、か。俺たちとしちゃ、ちゃんと仕事がうまくいってくれれば文句はねぇけどな」
 男は立ち上がり、背中を向けた。
「そうかい。でもあたいは気にするタチなんでねぇ。せめて、稲城幸太郎が生きてればよかったんだけど」
「誰だ、その稲城幸太郎ってのは」
 男は振り返って訊ねた。
「知らないのかい?ちょっと古いけど、西洋魔術じゃ一時期は右に出るものはいないと言われたマジシャンでね。あたいの催眠術はその人の編み出したものさ。ガキのころ読んだ本に出てたんだ。それを試したくてね。近所の金持ちの家から宝石を持ちだして友達にかけたことが始まりさ」
「昔っから手癖の悪い女だったんだな」
 男は笑った。ローズマリーもつられて苦笑する。
「邪魔したな」
「あ、ちょっと」
「なんだ?」
「明日、総理大臣が視察に来るってんであたいが警備させられることになっちまったけど、あんたんとこの組織で殺し屋を送ったりしてないだろうね」
「残念だが、送っちまうんだな、これが」
 驚くローズマリー。
「ちょっと、洒落にならないじゃないか。下手したらあたいが捕まえちまうかもしれないよ」
「安心しな、お前みたいなエセ婦警に捕まるようなやつじゃないさ。そうだな、お前に教えておけば、何かあった時はお前が警察の邪魔をしてくれるよな」
「こういうことは自信ないねぇ」
 ローズマリーは肩をそびやかした。
「殺し方や時間、場所なんかは殺し屋任せだから詳しいことは言えねぇが、とにかく、ホテルにつくまでのどこかでやるはずだ。俺はホテルが臭いと思う」
 ローズマリーは一つ溜め息をついた。
「殺しなんて無粋な真似の片棒担がされるとはねぇ。あーあ、あたいもとことん落ちちまったもんだ」
「ポリ公どもと混じってるからだ。とっとと足を洗えよ。友達減るぞ」
 ローズマリーはふっ、と呆れて笑った。
「もともと友達なんていやしないよ」
 言ってから、少し寂しそうな顔をした。

 部屋のなかはタバコの煙が漂っている。
 飛鳥刑事と佐々木刑事が灰皿を囲んで駄弁っていた。
 窓の外はいい天気である。
「あーあ、小百合もいねぇし、こんないい天気に男二人で駄弁ってるのも虚しいよなぁ」
 小百合は今、総理大臣の視察の警護のために駆り出されている。飛鳥刑事と佐々木刑事も明日は警護にあたることになっている。
 小さな市なので、総理大臣などと言う大物が来るのは滅多にないことなので、他の課からも応援が回っている。警察の気の入れようも凄い。
 そもそも、視察とは言うが、実際は怪盗戦線の陣中見舞といってもいい。警察を叱咤激励に来ているのである。気合いが入るのも無理はない。
「そういいますけど、仕事中ですよ」
「だからますます虚しいんじゃねぇか。この色気のない世界に二人で閉じ込められてるようなもんだ。まぁ、柳がいないだけましだ」
 もっとも、佐々木刑事には、総理大臣などまるで興味はない。
「柳警部補も護衛の手伝いですよね」
 柳警部補は相変わらずである。別な人がつくはずのこの任務をまた買ってでた。
「小百合もかわいそうに。無茶なことばかり言われてるんだろうな」
「いや、柳警部補は小百合ちゃんには優しいみたいですよ。下心みえみえですね」
「しゃーねぇなぁ、あのスケベは。てめぇの顔、鏡で見たことがあるのかよ」
 佐々木刑事の悪態に苦笑する飛鳥刑事。ごまかしついでにタバコをくわえる。
 飛鳥刑事はタバコの煙をはいた。それは輪になってゆっくりと天井のほうに上がって行く。満足げな顔でそれを見送る。
 佐々木刑事はふーっと煙の輪を吹いた。輪はみるみる消し飛んだ。
「ああっ、なにするんですか」
「こんなものでかっかすんなよ。また作りゃいいじゃんか」
 そこに巡査が入ってきて、郵便物を置いて行った。佐々木刑事はのんびりとその郵便物を確認する。
「おい、飛鳥。手紙が来てるぜ」
「え?俺に?」
 ほとんどの郵便物が課宛てに届くので、個人宛と言うことはほとんどない。
「ほれ。おっ、何だ、女の字だな。ラブレターかぁ!?」
 佐々木刑事は飛鳥刑事を茶化した。
「まさかぁ……!?この字は……」
 飛鳥刑事は、封筒に書かれた字を見て、何かに気づいたような顔をした。
「知り合いか?」
 佐々木刑事は最後の煙を吐き出すと、タバコを灰皿に押しつけた。
「ルシファーですよ」
「なに!?」
 慌てた佐々木刑事は灰皿をたたき落としてしまう。ひっくり返った灰皿から吸い殻と灰がぶちまけられた。
「あちゃー……ま、いいか」
 飛鳥刑事が封筒を破り、中から便箋を取り出した。それを佐々木刑事が取り上げて広げる。
「俺に来たんですよ!」
「いいじゃねぇか。ラブレターだったら返すよ」
「な、何言ってんですか!」
 耳まで赤くなる飛鳥刑事。
「おい、これはどういうことだ」
 飛鳥刑事の方に文面が向けられた。飛びつくように見る。
「何ですか?次は何を……何だこれは」
 佐々木刑事の手から予告状をとり、まじまじと見詰める。
 予告状にはこう書かれていた。
『これから、西川小百合婦警をいただきにいきまーす。ふたりとも来てね。怪盗ルシファー』
「まさか、小百合を拉致する気じゃねぇだろうな」
 のんびりとした顔で怖いことをさらっと言う佐々木刑事。だが、内心は穏やかではないようだ。眼光が鋭い。
「まさか!何のために!?なんでルシファーがそんなことをしなきゃならないんですか!?」
 飛鳥刑事の方は、目に見えて穏やかではない。
「わからねぇ。それに拉致かどうかも分かりゃしねぇ。行ってみるしかねぇな」
 駆け出す二人。飛び出した廊下で木牟田警部とすれちがった。
「お、おい、どこに行くんだね!?」
 飛鳥刑事は予告状を木牟田警部に渡した。
「ここに書いてある通りです!」
「なになに……。こりゃ、大変だ。おい、私も行く!」
 木牟田警部も慌てて二人を追った。

 車に飛び乗る三人。
 車は派手な音を立てて急発進する。
 サイレンを鳴らしながら疾走する覆面車はほどなく、ホテルに到着した。佐々木刑事の荒い運転もこういう時は威力をいかんなく発揮する。
 車から下りた三人はあたりを見回す。
 まだ、総理大臣が到着していないらしく、先に来ている数人の警官が待機しているだけだ。
「まだ来てねぇな」
「途中で悪いことになってなければいいんですけど」
 言いながら考える飛鳥刑事。
 どうして、ルシファーは小百合を狙うんだ。
 大体、ルシファーは小百合に何をするつもりだ?
 そんなことをして何の得になるって言うんだ?
 わからない。
 とにかく、小百合の無事の祈るしかない。
 その時、車がホテルの庭に現われた。総理大臣の乗った車と、警備の車だ。
 横に集まっていた新聞記者たちが一斉にフラッシュをたく。テレビカメラも回っている。
 総理大臣が車から降りた。警備の警官たちが取り囲んでいる。小百合の姿もある。とりあえずほっとする飛鳥刑事。
 佐々木刑事がすぐに小百合を呼びに行った。
「な、何だ、佐々木。なぜお前がここにいるんだ?」
 訝しげに訊ねる柳警部補。しかし、木牟田警部に気がつき、何か起こったと理解した。
「小百合、ちょっとこい。こういうわけだ」
 差し出された予告状に目を向ける小百合と柳警部補。二人の顔色がみるみる変わる。
「ど、どういうことかね、これは」
「さぁ?とにかく、小百合をこのまま警備にあたらせるのは危険ですよ。一人くらいぬけても、そんなに変わりませんよね?」
「あ、ああ。あとは、私に任せて西川君は帰りたまえ」
「はい……」
 小百合は思った。
 なんだい、ルシファーのやつ。何のつもりだい?
 あたいをいただくって?どういうことだい、それは。
「ルシファーがお前に何をする気かは分からねぇ。ただ、予告状が来たのは確かなんだ。急いで車に乗れ」
 そのあいだにも総理大臣は柳警部補から事情をきいてホテルに急ぐ。
 その時だった。
 ルシファーの黒い影が木の上から降りてきたのは。

 車に乗りこもうとした小百合に、ルシファーが体当たりをした。
 警官たちは途端に色めき立った。総理大臣は警官に周りを固められる。
 警官たちは、相手がルシファーだということにはまだ気づかない。暗殺者だと思っている。
 やがて、その姿がルシファーであることに気付く。誰かが叫んだ。「ルシファーだ!」と。
 周りを囲んでいるマスコミが一斉にカメラを向けた。目の前でルシファーが婦警を襲っているのだ。
 小百合ははじき飛ばされ倒れ込んだ。そこにつかみ掛かるルシファー。
 小百合は、その腕を掴み、捻った。
 苦痛に顔を歪めるルシファー。その隙に体勢を立て直す小百合。
 ルシファーは小百合の手を振りほどく。
 そこに飛びかかる飛鳥刑事と佐々木刑事。
 ルシファーはそれを跳躍で躱し、そのまま小百合に飛びかかる。
 それを見切っていた小百合は横に身を躱し、ルシファーの背後をとる。そのまま腕を取ろうとするが、ルシファーに気づかれて逃げられてしまう。その背中めがけ、飛び蹴りを放つ小百合。まともにくらったルシファーは前のめりに倒れ、地面に体を打ちつけた。
「小百合ちゃんて、結構強いんですね」
 驚いたような顔で言う飛鳥刑事。
「ああ。こいつはまるで……」
 そこまで言いかけた佐々木刑事は、渋い顔で押し黙った。
 あの動き。まるであの晩の……。

 うつぶせの状態から大きく宙に舞いあがるルシファー。空中で一回転し、体勢を立て直すと、小百合の方に向き直り、再び突進した。
 迎え撃つ小百合の回し蹴りをかがんでかわすルシファー。そのまま再び跳躍し小百合の背後を取った。
 この小百合の戦い方。間違いない。あの晩のローズマリーと同じだ。
 ルシファーは小百合の三つ編みを掴んだ。
 ローズマリーの髪はこんなに長くはない。ならば、この頭はカツラだろう。
 三つ編みを引っ張るルシファー。
「いたたたた!」
 留め具のせいで多少抵抗があったが、小百合の髪は簡単にはずれた。
 飛鳥刑事と佐々木刑事は呆然と見ている。
 ルシファーは小百合の眼鏡をたたき落とした。
 そこに現われた顔は、多少化粧で見た目が変わってはいるが、ローズマリーのものだった。
「やっぱり、ローズマリーだったのね」
 ローズマリーを睨みつけるルシファー。諦めたような顔であたりを見渡すローズマリー。
「小百合が、ローズマリーだと?」
「そんな……」
 ローズマリーと聞いて、マスコミが興奮する。ルシファーとローズマリーの直接対決だ。絶好の話題である。
 あたりに激しいフラッシュの光が巻き起こった。
「あたしの用はこれだけよ」
 ルシファーはそう言い残し、そのまま去って行った。
「逃がすな、追え!」
 木牟田警部の怒号が飛ぶ。
 それを受けて警官が何人か追っていった。しかし、相手はあのルシファーだ。到底追い付るとも思いにくい。
 ルシファーの姿が物陰に消えた。それを追った警官たちの足音が微かに聞こえるだけになる。
 一同、ローズマリーのほうを見る。
 先刻まで婦警として、ともに仕事をしてきた仲間が、怪盗ローズマリーだった。
 警官たちの驚きは隠しようもない。
 特に仲のよかった飛鳥刑事と佐々木刑事は信じられない、といった顔で見ている。
 その佐々木刑事がローズマリーに歩み寄った。
「ローズマリー。やるじゃないか。全然気づかなかったぜ」
 言い放ち、冷静な目で見つめる佐々木刑事。
「気づかなかったあんたらが悪いのさ」
 もう小百合の声ではない。ローズマリーの声だ。
 マスコミ連中はあいかわらずフラッシュを焚き続ける。その光が、雷光さながらにローズマリーの姿を浮かび上がらせている。
「小百合……。お前……」
「友貴さン。あたいは小百合じゃないよ」
「俺を、騙していたのか?騙していたんだな!?」
 無情な喧騒の中に飛鳥刑事の悲痛な叫び声が轟いた。
 怒りをあらわにする飛鳥刑事の目を見て、ローズマリーの表情がわずかに曇った。暫し、無言で見つめあう二人。
「ふん、騙される方が悪いのさ。そんなんじゃあたいを捕まえるなんて無理だね!」
 ローズマリーは顔を背けた。そのまま飛鳥刑事に背を向け、歩きだす。あたりを囲んでいた人垣が、おののいたように道を開ける。
 その背中に向かって叫ぶ飛鳥刑事。
「小百合……なんで……。信じていたんだぞ!?」
 立ち止まり、振り返るローズマリー。冷たい眼差しを飛鳥刑事に向け、言い放つ。
「言っただろ。あたいは小百合じゃない。本物の西川小百合はこっちで預かってる。そのうち返すよ」
「くっそおおぉ!」
 飛鳥刑事はローズマリーに飛びかかった。しかしあっさりと躱されてしまう。
「ちくしょう!」
 再び飛びかかる飛鳥刑事。
「仕方ないね」
 ローズマリーは飛鳥刑事の腹にひざ蹴りをくらわせた。
 屈み込む飛鳥刑事。
 代わりに佐々木刑事が前に立ちはだかった。
 拳を繰り出すローズマリー。佐々木刑事はその拳を片手で受け止める。
 そのまま、ローズマリーの腕をとり、ねじり上げる佐々木刑事。
 蹴りを放ち、それを振り切るローズマリー。さらに、佐々木刑事の側頭部に回し蹴りを食らわせる。
「ぐっ」
 佐々木刑事の腹に止めの蹴りをたたき込むローズマリー。佐々木刑事はそのまま倒れた。
「今日はあたいの勝ちだね」
 悠然と去ろうとするローズマリー。だが。
「お、お前……」
 後ろで上がった声に気づき、振り返る。飛鳥刑事が起き上がっていた。
「なんだい、気絶しなかったのかい」
 痛みのために、立つこともままならない飛鳥刑事。苦痛にゆがんだ顔のまま、ローズマリーの背中に叫んだ。
「消えろ!俺の前に二度と現われるな!」
「そうはいかないね。大体、あんたらがあたいの仕事の邪魔をしに来るんだろ?会いたくなければこなければいいのさ」
 ローズマリーはポケットから袋を取り出した。
「ついでだ、いいことを教えてあげよう。そこで固まってる総理大臣は暗殺されるよ」
「何だと?」
 腰を抜かしたまま動けない総理大臣は、その言葉にさらに驚き、恐怖に顔を引きつらせた。周りのマスコミ連中も騒ぎだす。
 宝石の粉を袋から取り出しさらさらと落とす。光る宝石の粉が再び袋の中に吸い込まれていく。
 飛鳥刑事は目を閉じ、顔を背けた。
 ローズマリーの一挙一動に注目していたその場の人間は、警官も、総理大臣も、マスコミの記者たちもそのまま倒れ込んでしまった。
 ローズマリーは飛鳥刑事に背を向け、ゆっくりと歩き出した。そして振り返りもせずに言う。
「じゃあね。またいつか」
「冗談じゃない!」
 飛鳥刑事の怒声に、ローズマリーは振り返り、呟いた。
「短かったけど、楽しかったよ……」
「……」
 低い呟きは、飛鳥刑事の耳にも届いた。
 黙ってその背中を見送る飛鳥刑事。
「う、うう……ってぇ。くそ、ローズマリーめ!おい、飛鳥。ローズマリーはどうした、逃げたのか?」
 佐々木刑事が意識を戻し、頭を振りながら起き上がった時だった。
 ぽしゅ。
 微かな音が飛鳥刑事たちの耳に届いた。
「おい、何だ、今の音は」
 見ると、総理大臣の背中に赤い染みができていた。
 サイレンサー付きの銃で総理大臣が撃たれたのだ。
「な、なにぃ!おい、飛鳥!救急車と応援を呼べ!あと、こいつら片っ端から起こせ!……野郎、あそこか!」
 ホテルの屋上から非常階段を降りていく人影を見つけた佐々木刑事は、すぐに駆け出した。
 飛鳥刑事はよろけながらパトカーに急ぎ、無線で署に連絡をとった。

 暗殺者は、仕事を終えて悠然と帰るところだった。
 ローズマリーと警官がもめていたのはスコープで見た。そして、ローズマリーの催眠術で全員が眠らされ、ターゲットも眠った。
 ありがたい話だ。この様子なら、そう何発もぶち込まないでも、たとえ急所を外れても失血死する。
 念のため、2発撃ち込んでやった。心臓の近くに1発、頭に1発。
 ちゃんとあたったかどうかは分からない。普通ならば弾があたれば倒れるものだが、もともと倒れているのでその辺はいまいちよくわからない。
 もっとも、撃たれた上に野ざらしではあの高齢の総理大臣に堪え切れようか。
 スコープから目を離す。そして、慣れた手つきで銃からスコープやサイレンサーを外し、ケースに納めた。
 そして、非常階段を降りる。
 まさかその時、刑事が目を覚まし目撃されたとは、露ほども思ってはいない。
 非常階段を降りきったところで、向こうから走って来る者があることに、ようやく気がついた。
 やばい、さっきのデカだ!
 慌ててかけだす暗殺者。全力で車に急ぐ。鍵のかかっていないドアを開け、素早くエンジンをかけ、発車する。
 しかし、刑事が車の後ろにしがみついていた。広い道路に出て、後ろにいる刑事を振り落とそうとハンドルを切るが、刑事はあいかわらず取りついたままだ。
 銃を取り出し、構える刑事。
「ちっ」
 暗殺者も拳銃をポケットからだし、刑事めがけて撃つ。リアウインドウが派手に飛び散った。弾は刑事に当たりはしなかったようだが、さすがに車からは落ちた。
 ほっと一息つく暗殺者だが、今度は前方からパトカーが来たことに気付き、慌ててハンドルを切る。
 そして、アクセルを力一杯踏む。エンジンが激しくうなり、一気にスピードが上がる。はずだった。
 がくんがくんがたがた。
 突然、車体が大きく揺れ、スピードが落ちはじめた。車がわずかに傾いている。パンクだ。
 パンクだと!?
 見ると、さっき振り落とした刑事が、銃から上がる煙を吹いたところだった。そして、こちらを見てにやっ、と笑う。
 見る間に、パトカーに包囲され、暗殺者はそのまま逮捕された。

 総理大臣は一命をとりとめた。
 犯人の撃った弾は一発は外れ、もう一発は心臓の近くにあたっていた。
 しかし、急所からは微妙に外れていたうえ、飛鳥刑事による適切な応急処置のおかげもあって、大事に至ることはなかった。
 そして犯人は、飛鳥刑事の連絡を受けた応援が追いつめ、佐々木刑事の手により捕らえられた。
 まさに、この二人は大手柄である。
「いやー、総理もすぐに退院できるようだし、今回は君たちに頭があがらんな」
「そんな、やめてくださいよ。ガラじゃないっす」
 さすがの佐々木刑事もそこまで手放しで誉められては照れる。
「あのー、柳警部補の姿が見えないのですが、どうしたんです?」
 飛鳥刑事が木牟田警部に訊ねた。
「柳君は、自分からこの仕事を買ってでたのに、こんなことになってなぁ。飛鳥君がいなかったら総理は危なかっただろうし、犯人を捕らえたのも後から来た佐々木君だ。そんな訳で、責任をとって、半月程欠勤するだろう」
 それを聞いて、にやける佐々木刑事。
 木牟田警部が上機嫌で去ったあと、佐々木刑事がはしゃぎだした。
「おいおい、聞いたか。俺たちは大手柄、柳は大ポカでさようならだってよ」
 苦笑する飛鳥刑事。
「さようならって、クビになったわけじゃないんですから」
「うーん。総理大臣があのまま死んでいたら柳はクビだったのか。惜しいことしたな」
「ちょ、ちょっと」
 とんでもないことを言い出す佐々木刑事を必死に制する飛鳥刑事。
「まぁ、総理大臣が無事だからこそ、こんなジョークも言えるってもんだ」
「悪いジョークにも程がありますよ!聞かれたらどうするんですか、もう」
 笑いあう二人。しかし、それも長くは持たない。
 やはり、小百合の一件が頭に引っかかっているのだ。
 佐々木刑事は思う。
 飛鳥の奴、小百合と仲良かったからな。
 飛鳥の心中も複雑ってわけだ。
 ただの後輩としか見てねぇ俺なんかより、心の傷もでかいよな。
 その話題を出すべきか悩む佐々木刑事。だが、そんな心配をよそに、飛鳥刑事のほうからその話題を切り出してきた。
「先輩。小百合のことですけど……」
「お、おう」
「ローズマリーの奴、本物の小百合はこっちで預かってるって言ってましたよね」
「ああ」
「無事なんでしょうか?」
「さぁな。ただ、返すって言ってるんだから、無事なんじゃないのか?」
 飛鳥刑事はテーブルに置かれた自分の手を見つめ、呟くようにいう。
「ローズマリーの奴、何だっていってこんな事を……。俺たちをからかって楽しんでいたんでしょうか……?」
「過ぎたことをくよくよ考えてんじゃねーよ。お前らしくもない」
 佐々木刑事は大きく一つ息をつき、立ち上がった。

「なーにが、捕まるような奴じゃねぇ、よ。せっかくあたいが全員眠らせて、仕事をやりやすくしておいたってのに、殺り損ねるわ、とっつかまるわでいいとこ何一つないじゃないか」
 ローズマリーは、この間もらえなかった報酬を持ってきた組織の男に向かって言った。
「こっちも買いかぶりすぎてたみたいでなぁ。まったく、情けねぇ。こっちもあいつの口は封じとかなきゃならねぇからな。余計な仕事が一つ増えやがった」
 ローズマリーはグラスに水を注いで、飲み干した。
「まったく、あんたんとこの組織、だんだん力が落ちてきてるんじゃないのかい?」
「そうでもねぇよ。どちらかっていうと、今着実に勢力を伸ばしつつあるんだ。そのおかげで、些細なことに気を使ってられねぇんだ」
 ローズマリーは呆れた。
「総理大臣の暗殺が些細なことかい?」
「それは些細じゃねぇけどさ。それに関する人選ってやつよ」
「人選が大事なんじゃないのかい?」
「そいつは今回のことで身にしみて思い知らされたよ」
 男はポケットからタバコを取り出した。
「灰皿はないよ。だからって、そこに灰だの吸い殻だの落とされても困るけど」
 ローズマリーはジト目で男を見ながら言った。
「俺、ここんとこ携帯用の灰皿持ち歩いてるんだ」
「あんたにしちゃ、気が回るじゃないか」
「レディの前でのエチケットってやつさ。街も汚しちゃいけねぇ」
「だったら、タバコやめたらどうだい」
 呆れ笑いのローズマリー。
 その携帯用の灰皿をポケットからだし、男はタバコを吹かしだした。
 その煙を見つめているうちに、昨日までの自分が思い出された。
 あいつらも、こうやってタバコを吸っていたっけねぇ。
 あんなことがなければ、まだ婦警の小百合として、警察署であの二人とバカな話で盛り上がっていただろう。
 あれはあれで楽しい時間だった。
 それを打ち砕いた、ルシファー。
 あいつはあたいから、何もかもを奪うつもりなのか。
 甘く見ていたけどそろそろ本気でかからないといけないかもしれないね。
「そんな怖い顔をするなよ。そんなにタバコが嫌いなのか?」
 声をかけられ我に返るローズマリー。
「え?あ、そんなんじゃないよ。……思い出しちまってね」
「なにを?」
「昨日まで、警官やってただろ。そのことをさ」
「いい機会じゃねぇか。あんなところに未練を持つなよ」
「そうは言うけどさぁ……」
 溜め息をつき、腰をおろすローズマリー。
「ん?何だ、お前。恋煩いか?デカに惚れた泥棒は悲しい思いをするぜ」
「バ、バ、バカ!何を言うんだい!」
 真っ赤になりながら、ローズマリーはテーブルの上のつまようじのケースを男に投げつけた。
「う、うわ。じょ、冗談だよ。全く……。何だよ、その顔は。図星かよ。デカなんかやめとけって」
「いいからもうお帰り!まったく、男ってのはこれだから……」
 追い立てられるように出て行く男。その背中に罵声を浴びせていたローズマリーだが、男がドアを閉めると、ローズマリーの胸に孤独感が巻き起こった。
 あーあ、つまんないったらありゃぁしない。
 しかし、何より腹が立つのはあの小娘だね。
 今度あったらただじゃすまないよ。
 ひどい目に遭わせてやる。
 みてなさい、ルシファー……!
 虚空を睨みつけるローズマリーの瞳が鋭く輝いた。

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