Episode 1-『堕天使のラブソング』第6話 ささやき
映美は、机を前にして考え込んでいた。両腕を机につき、手で頬を押さえ、口に加えたペンをぴょこぴょこと動かしている。
「予告状か……。予告状なんて書いたことないから、どうかけばいいのかわからないなぁ」
ふと、昨日の瞳の言葉が頭をよぎる。
ラブレター。
そうか、ラブレターを書くように書けばいいのかな。
でも、ラブレターも書いたことないもんなぁ。
書こうとしたことは一度だけあったっけ。
高校時代、あこがれていた先輩。
ラブレターを書こうと思って机には向かったものの、いざ書こうと思うと、何も思い浮かばない。
丸められた便箋が何枚か出ただけだったっけ。
ああ、甘酸っぱい少女時代の思い出……。
「なんて、感傷にひたってる場合じゃないよね。どうしよ」
ふと、我に返る映美。
なんだかんだと考えて、結局、オーソドックスな予告状に落ち着いた。ただ、映美としてはいまいち納得いかない。
「うーん、今回はこれでいいや。次はもっとちゃんとしたの書こう」
「おう、飛鳥。今日は早いじゃないか」
「早いって言っても5分しか違いませんよ」
「お前が5分早く来るってだけで驚きだ」
「なんですか、それ」
「ははは、それより、なんでこんなに早く来たんだ、お前らしくない」
「らしくないって……。実は、昨日、署にタバコとライターおいてきちゃったんですよ」
飛鳥刑事の机の前に来ると、確かに机の上にタバコとライターが置かれている。
「タバコとライターなんて買えばいいじゃないか」
「タバコはともかく、うちの近くにはこんな時間にライター売っている店、ないんですよ」
タバコに火をつけ、ほっとした顔をする飛鳥刑事。
灰皿を探し、ふと、机に目を向けると、机のすみに見慣れない封筒が置いてある。
女性の字で『刑事さんへ』と書かれていた。
「ん?なんだこれ」
封筒を破り、中の便箋を取り出す。
『今夜、K美術館の「薔薇と少女」という彫刻をいただきます。怪盗ルシファー』
と、安そうな便箋に書かれていた。
「!……先輩!予告状です!」
佐々木刑事も横から覗き込む。
「ルシファーか!警察署の中においていくとは、ずいぶんとナメたまねをしてくれるな」
「こうしちゃいられませんよ!対策を練らないと!」
すぐさま警察は動き始めた。
K美術館では、昼過ぎから厳重な警備体制が敷かれた。夜という予告だが、昼間のうちに侵入するかもしれない。一度、美術館の中を一通り確認したあと、館内に10人以上の警官が配置された。
そして、ターゲットとなった彫刻「薔薇と少女」の周りには木牟田警部、柳警部補、飛鳥刑事、佐々木刑事の4人が集まり、周囲に気を配っていた。
もっとも、勝負は夜だ。
終業のチャイムがなり、残業のない者は一斉に帰り支度を始めた。
映美も残業はない。もうすぐ来る夜のことを考えるとわくわくして、ついつい顔の筋肉がゆるんでくる。
「なーに?映美、いやにごきげんじゃない」
「えっ、そうかな」
渚と瞳が寄ってきた。
「ね、今日パスコで春夏物の売りつくしセールがあるんだよ。今から見に行かない?」
「閉店間際まで粘れば食料品売り場で安く買い物できるし」
「あ、ごめーん、今日は早く帰らなきゃいけないの。ごめんね」
映美はそう言い残すと足早に帰っていった。
「あ……」
「ね、渚。最近の映美の様子、変だよね」
「うん。そういえばこの間も彼氏ができたみたいな感じだった!」
「そうそう!ラブレターの話してたらぼーっとしてたよね!」
「書いたのかな」
「書いたのね」
勝手な推測を始める二人。
「じゃ、今日ごきげんなのはそのせいかな」
渚の言葉にはっとする瞳。その目が大きく見開かれる。
「ど、どうしたの?」
渚は瞳の様子に気づき、恐る恐る訊ねる。
「まさか……、映美……デート!?」
「ええっ!」
「だって今、今日は早く帰らなきゃいけないっていってたじゃない。それに、ごきげんだったとなると、それ以外に何があるの?」
「あっ……」
「こうしちゃいられないわ。急ぎましょ」
駆け出す瞳。
「ど、どこに行くの、瞳?」
「決まってるでしょ!つけるのよ!映美の彼氏の顔、ばっちりこの目で見ちゃうんだから!」
映美は仕事用のスーツから外出用のジャケットに着替えた。その下には漆黒のタイツを着ているのだが、上に服を着ると、それは足の部分しか見えずにただの黒いストッキングのようになる。
盗みに使う小道具を大きめのナップサックに詰める。どれも一見しただけではそれとは分からないようにカムフラージュされている。
「よし、と」
準備は整った。あとは美術館に行って、ターゲットを盗むだけだ。
「あっ、出てきた!」
「しっ!」
物陰に隠れて見張っていた渚と瞳。そして、映美が出てきた。
「うわっ、黒で決めてる。こりゃぁ、彼氏もたまらないなぁ」
「うん、すごく色っぽい。やるじゃん映美!」
二人は聞こえないように小声になる。
「やっぱり、デートね。そうでなきゃ、ああまでしないよ。映美の彼氏なんだから、素敵な人なんだろうなぁ。ああもう、楽しみ♪」
テンションの高い瞳。
「しっ!気づかれたら元も子もないのよ」
最初は乗り気でなかった渚からも、しっかりと結果を見届けたいという意気込みが伝わってくる。
映美が角を曲がった。渚と瞳は急いでその角まで走る。
そして、映美が曲がった道を覗きこんだ。しかし、そこにも映美の姿はなかった。
「あ、あれ?」
「今、確かにここを曲がったよね?」
「うん。もう見えなくなるほど急いでなかったし。おかしいなぁ」
「とにかく、次の角までいってみよう!」
次の角まで走っていく二人、そして、覗きこむが映美の姿はない。
「曲がったとこ、間違えちゃったのかな……?」
「ねぇ、二人とも、こんなところで何してるの?」
渚と瞳は飛び上がりそうなほど驚いた。後ろから映美が話しかけてきたのだ。
「あ、あ、あ、あ、あの、なに、ほら、その」
「ちょっと、ねぇ。あははははっ」
焦って言葉がでない瞳と笑ってごまかす渚。
実は、映美は誰かがあとからついてくる気配を感じ、角を曲がったところで塀の裏に隠れたのだ。そして、追ってきたのが二人だと気づき、話しかけた。
渚と瞳は笑ってごまかし、いそいそと去っていった。
「なあに?……変なの」
映美は首を傾げた。
美術館の閉館の時間が来た。とはいえ、今日は昼間から休館になり、警察以外は出入りできなくなっている。
日が傾いていくに従い、辺りの緊張が高まる。もう、夜だ。いつルシファーが来てもおかしくはない。
「見回り、終わりました!異常はありません!」
言葉どおり、見回りを終えた小百合が来た。
「うむ、西川君、ご苦労」
木牟田警部は時計を見た。7時12分。いつもならこの時間、美術館はすべての照明が落とされている。だが、今晩はこの照明が落とされることはない。夜が明けるか、あるいはルシファーが現われるまで。
「しかし、これだけ警戒してんだ、ルシファーのやつもそうそう簡単にゃ近づけやしねえな」
佐々木刑事がいった。
「あいつ、くるかな」
「来ますよ。絶対に……」
飛鳥刑事は彫刻を見つめながらいった。
小百合もその彫刻を覗きこむ。赤みがかった石でできた、30センチくらいの薔薇の花を手に持った少女の像。ちょうど、その薔薇の部分が際だって赤くなるようになっている。
そんなに高い値段がつきそうでもないけどね。ルシファーのやつ、何だってこんなの盗もうとするんだろうね。ま、今回はローズマリー様は静観させていただくとしましょうかね。こんなもの盗んだところでローズマリーの名にケチがつくだけさ。
心のなかではそう思うが、口では別なことをいう。
「うわー、かわいいですねー。わたし、ほしいなぁ」
佐々木刑事が笑った。
「おいおい、今日はそれを護るんだからな。持ってったりするなよ」
「いいじゃないですか、先輩。いうだけでしょうから」
「ほしいんだったらちゃんと値段の交渉しないといかんぞ。柳君、おごってやりなさい」
小百合の一言で緊張がほぐれた。木牟田警部まで変な冗談をいう。
「し、しかし警部。わたしにも妻と子供の生活が」
柳警部補も冗談とも本気ともとれないようなことをいう。
「本気にするな。こんな下らん話をしとる間にもルシファーが来ているかもしれんしな」
「まあ、周りでこうやって集まってるうちはそう簡単にはルシファーも近づけないでしょう。……あれ?」
その時、上から手のようなものが降りてきたのに、飛鳥刑事は気がついた。そして、次の瞬間には彫刻はその手に握られて上へと上がっていく。
それを目で追うと、その先にはルシファーがいた。天井の板が一枚外され、そこから顔をのぞかせている。
手には、マジックハンドが握られている。そのマジックハンドが、彫刻を握っていた。
「うふふ、ダメよ、ちゃんと周りも見ないと。おしゃべりしてると物音も聞こえないぞ。『薔薇と少女』はもらったわ。じゃあね!」
手を振り、そのまま姿を消すルシファー。
「あっちゃー、やっちまった!」
額を押さえ天を仰ぐ佐々木刑事。
「おれはまだ諦めないぞ!」
飛鳥刑事はルシファーの消えた天井の穴に飛びつく。しかし、登れずに足をばたばたさせている。
「やる気だな、飛鳥!手伝うぜ!」
楽しそうな顔で飛鳥刑事の足を持って押し上げる佐々木刑事。
「手伝え!」
「あ、はいっ!」
小百合と佐々木刑事の二人がかりで押し上げると、飛鳥刑事の体はあっさりと天井裏に持ち上がった。
「飛鳥!」
佐々木刑事の声で、飛鳥刑事が穴から顔を出す。
「こいつを持ってけ!」
飛鳥刑事は投げられた懐中電灯を受け取った。
天井裏は、配管などがごちゃごちゃとしている。
懐中電灯で照らしながらでないとまともに歩くこともできない。
懐中電灯であたりを照らすが、ルシファーの姿は見えない。
その時、遠くでカタカタという物音がした。
あそこか!?
障害物競走のコースのような天井裏を大急ぎで駆け抜ける。そして、懐中電灯の光を四方に向け、ルシファーの姿を探した。
頭の上で物音がした。光を向けるとルシファーの姿があった。ルシファーは飛鳥刑事のほうを見、そのままジャンプしてさらに上のパイプに飛び乗る。
「見つけたぞ、ルシファー!降りてこい!」
「こいといわれてくる泥棒はいないわよ、刑事さん」
パイプをするすると登るルシファー。
「待てぇ!」
それを追う飛鳥刑事。
「おい飛鳥、やつはどこだ!?」
佐々木刑事が下から上がってきた。飛鳥刑事が上を向いていることに気付き、その方向を見上げる。その時、風が吹きこんできた。ルシファーが通風口のダクトの連結を外し、その中にもぐりこんだのだ。
「逃がすか!」
追ってそのダクトに頭から入りこむ飛鳥刑事。佐々木刑事もそれに続こうとするが、肩幅の広い佐々木刑事は中で引っかかってしまう。
「くそっ、俺はダメだ!あとは任せたぞ!」
「通風口から出ます!」
天井の上から佐々木刑事の声が聞こえた。
「通風口からは横の壁に出ます。そこから出るつもりでしょう。屋上に行くか、下に降りるのかは分かりませんが」
ここの構造に詳しい館長の説明を受け、佐々木刑事と柳警部補は屋上へ、木牟田警部と小百合は下へと向かう。
通風口はとなりの建物とのわずかなすき間にあいていた。屋上のへりに立ち、下を見下ろす佐々木刑事。
「どうだ?ルシファーはいるか?」
「いました!」
ルシファーは壁のひさし状のでっぱりの上にいた。
ダクトを抜け、外に顔を出す飛鳥刑事。あたりを見回すが、ルシファーの姿はない。正面には1メートル先には隣の建物があり、壁が目の前に迫っている。右も左も壁が続いているだけで何もない。隣の通風口の穴があいてるだけだ。下までは約5メートル。壁を伝って降りられない高さではない。
俺はともかく、奴ならやれそうだ。
しかし、姿はない。さらにあたりをよく見るために前に体を押しだす。
「あんまり出ると落ちちゃうよ」
真上から声がした。驚きのあまり、手がすべる。下は5メートルの絶壁だ。油汗がふき出る。
上を見ようと首をひねるが見えない。飛鳥刑事は闇雲にもがく。そのとき、上から何かが落ちてきたような感じがした。
「うわあああぁぁ、ま、またかよ!」
ルシファーは目の前にいた。通風孔に雨水が入らないよう突き出したひさしに手をかけてぶらさがっている。ちょうど目の高さにルシファーの目がある。15センチも離れていない。
「きゃはは、あせってる。その状態じゃ手も足も出ないでしょ。うりうり」
空いている左手で飛鳥刑事の顔を引っ張るルシファー。
「だあぁぁ!おまえはあぁぁ!いちいち俺の顔で遊ぶなああぁぁ!」
「だってー。面白いんだもーん」
と言ってルシファーは飛鳥刑事の顔に息を吹き掛ける。
「バカにするなあぁ!つかまえてやる!」
手を出そうともがく飛鳥刑事。
「うわ、ちょっと……。この状態でそれはまずいって」
「何がだ!」
ルシファーはさらに顔を近づけてきた。そして、耳元で小声でいう。
「何がって、あたしとキスしたいの?」
「な……」
「またバカにされてるな、飛鳥のやつ」
上から見下ろしていた佐々木刑事は、下で飛鳥刑事がわめいているのを聞いた。この間網に引っかかっていたときは顔をいじられたといっていた。また顔でもつつかれているんだろ。
如何にせん、この暗さにあのルシファーの黒づくめである。だいたいどの辺にいるのかは分かるが、詳しい動きまでは見えてこない。
「おーい、ルシファー!飛鳥をいじめるんじゃねぇぞ!」
「どうにかしてくださいよー」
下から飛鳥刑事の声がした。
「何かされたのか?」
「目の前にいるんですけど、手が出せないんですよ!」
「バカヤロー!通風口からだろ?前に出りゃ手ぇぐらい出るだろ!」
「前がつかえてるんです!」
「なんだぁそりゃあ」
「ちょっと、大きい声ださないでよ!唾が飛ぶじゃないの!きたないなぁ」
「いいだろ!いやなら顔を離せ!」
ルシファーは悪戯っぽいを笑み浮かべた。
「あらいいの?せっかくあたしみたいなかわいい女の子とキスできるチャンスなのよ?」
「バ、バ、バカ、そんなことしてなんになるんだよ!」
完全に動揺している飛鳥刑事。
「あーん、もう腕が疲れちゃった。残念。なんてね、きゃは。じゃあね、またあおうね」
ルシファーは、ひさしにロープを引っかけ、そのロープを伝って降りていった。
「待て!バカにしやがって!」
飛鳥刑事も身を乗り出し、そのロープを伝って降り始めた。
ロープはぎっ、という音を立てた。ルシファーが地面に降り立ち、狭い隙間を駆けていく。飛鳥刑事もそれにつづく。
ふいにルシファーが立ち止まり、こちらを振り返った。そして、また走り出す。
着地のときに足でも痛めたのか、ルシファーの走りはいつになく遅い。もうすぐ前の通りに出る。それまでに追いつくかもしれない。追いつきそうだ。追いつく。
飛鳥刑事は手を伸ばす。ルシファーの後ろ髪が指先にふれた。
飛鳥刑事は全身のバネを使ってルシファーに飛びついた。
「下だ!下に逃げた!」
のぞきこんだ柳警部補は、ルシファーがロープを伝って降りたのを見た。
「追え!追え!追えー!」
わめく柳警部補を無視し、佐々木刑事はすぐに下に向かう。
「まぁ、どうせ間にあわねぇな。ゆっくり急がせてもらうか」
来た。
小百合は通りから路地をのぞいていた。ルシファーが降りてきて路地をこちらに向かって走ってくる。
壁の影に身を隠す小百合。足音が近づいてくる。まだだ。もう少し。今だ!
ルシファーに体当たりを食らわせてやる!小百合は路地に躍り出た。
捕まえた!
「きゃぁ!」
地面に倒れ込む飛鳥刑事。しかし、ルシファー諸共だ。
素早く腕をひねりあげる。そして、ポケットから手錠を出し、その腕に手錠をかける。そして、もう一方を自分の腕に。
やった。やった!
「何やってるの?」
後ろから声をかけられた。
声のほうを振り返ると、ルシファーが立っていた。
呆然とする飛鳥刑事。
「ちょ、ちょっと、何ですか?」
手錠をかけられたのは小百合だった。ルシファーは飛鳥刑事が飛びかかるのと同時に真上に跳躍し、そのまま壁の間に手を突っ張り、飛鳥刑事をやり過ごしたのだ。わざとゆっくり走ったのも、ここで飛鳥刑事をやり過ごして反対方向に逃げるためだ。
「バカねー……。相手をよく見てから手錠かけなさいよ」
ルシファーがあきれた顔で見ている。はっとした飛鳥刑事はすぐに飛びかかろうとする。
「きゃあ!」
腕を引っ張られた小百合が声をあげた。
「あっ、ご、ごめん」
腕が小百合の腕と手錠でつながっているので追うことができない。
その横を、ルシファーは余裕の顔で歩いて通り過ぎていった。
通りに出ると、ルシファーがまだそこにいた。
「ありゃ、もうちょい急いでたら間に合ったかな?」
とりあえず、今から全力疾走する佐々木刑事。それに気づいて逃げるルシファー。
「チッ、逃げられたか」
諦めのいい佐々木刑事。そして、横で手錠でつながっている小百合と飛鳥刑事に気がつく。
「何だ、ルシファーにかけられたのか?」
「え?ええ、まあ。な、そうだよな」
「そ、そうです。ひどいでしょ」
飛鳥刑事が間違って手錠をかけたのは、ルシファーの仕業にされた。
「昨日はごめん」
翌日、小百合と顔を合わせた飛鳥刑事はあたりに人がいないのを確認して、頭を掻きながら謝った。
「気にしてませんよ。わたしだって、体当たりしてやろうと思って飛びだしたんですもん。タイミングが悪かったら飛鳥刑事に体当たりしてたかも」
クスクスと笑う小百合。
「でも、よく見てれば手錠までは……」
いいながら、その続きを必死に考える飛鳥刑事。あまり、こういうことがなかったので、どう言って謝ればいいのかすぐに出てこない。
「いいんですって。だって、あんなことがないと、手なんか握ってくれないでしょ?」
「え?」
「なんでもないですぅ」
いたずらっぽい笑みを浮かべて、小百合は走っていった。
「今、……なんて言ったんだろう?」
考えるのに夢中だった飛鳥刑事の耳には小百合の言葉が届いていなかったようだ。
「ねぇ、昨日はどこに行ってたの?」
「えっ、あ、ちょっとね」
渚と瞳に聞かれ、言葉を濁す映美。
「映美、後ろからいきなり来たからびっくりしちゃった」
「あたしも渚と瞳が後ろからついてくるなんて思わなかったし」
「でも、あんな時間にどこに出かけたの?おしゃれしちゃってさ」
「え、えーと、どこだろ」
本当のことをいうわけにもいかないが、いい答えが思い浮かばない。しどろもどろになる映美。
その、挙動不審な様子に確信を持つ二人。
「あーっ、やっぱりデートだったんだ!」
「ねぇねぇ、どんな人、カッコいい人?それとも優しい人とか?」
「キスとかしたの!?」
キスといわれてびくっとする映美。キスはしてないが、キスがらみで飛鳥刑事をからかったのは確かだ。その動揺ぶりをこの二人が見逃すわけはない。
「あ。ああっ!キスしたんだ!」
「キスしたの?キスしたの?」
ものすごい剣幕だが、デートだったといえばごまかせそうな気がした。それに、映美にしても、昨日の夜のことは、デートみたいなものだと思っている節がないわけではない。
「え、えっとね。キスは、その、されそうになったけどダメだった」
「きゃぁー、本当?」
「あーん、もったいない!ねぇ、映美はキス初めてなの?」
「ちょ、ちょっと、落ち着いてよ二人とも……」
昨夜の行動についてはごまかせたが、これからが大変になったということに、映美は今気がついた。
退社の時間だ。映美は荷物をまとめ、帰路につく。
渚と瞳はそれを確かめると、小声で話しだした。
「映美の彼氏ってどんな人なんだろ。知りたいなぁ」
興味津々の渚。
「きのうは映美に気づかれちゃったけど、キスまでしそうになったとなったら、調べないわけにはいかないわ」
闘志を燃やす瞳。
「たとえ、映美がどんな手段でまこうとしても、私たちはくじけない!」
「なにそれ?」
瞳のテンションは高い。渚は置いてけぼりだ。
「絶対に映美の彼氏をこの目で見てみせるわ!映美が隠せば隠すほど張り合いが出る!上等よ、やってやろうじゃないの!」
士気が上がったところで、渚がぼそっと呟いた。
「でも、そんな事している暇があったら、自分の彼氏を探したほうがいいんじゃない?」
「それは言わない約束よ」
「そんな約束したっけ……?」
辺りを沈黙が包んだ。
二人は張り込み中だ。だが、刑事の二人組ではない。瞳と渚の二人組だ。
「今日は外に出ないわね」
「ねー、帰ろうよ。今日は映美、普通だったから何もないよ」
二人は映美の家の前に張り込んでいた。会社帰りのスーツ姿のままである。
「うーん、言われてみれば……。はー、やっぱあたしってダメね。注意力が足りないわ」
「こんな事で自分を責めなくてもいいじゃない」
「ううん、だめだめ。こんな事じゃ映美の彼氏を見ることなんかできないわ。ねぇ、渚。探偵学でも勉強しようか?」
あきれ返る渚。
「なんでそこまで情熱を注ぐかな。やっぱり自分の彼氏を探した方が」
「言わないで!半年も付き合ってた男にふられたばっかりなんだから!」
「あ、もしかしてその腹いせなの?映美の彼氏みるのって。まさか、映美の彼氏を奪う気じゃ……」
「そんなことしないわよ。でも、いい男を見て、次の彼氏の参考にするの!」
「それにあたしも付き合うの?」
「いいじゃないの」
その時、後ろから男に声をかけられた。
「君たち、こんなところで何をやってるんだ?」
「きゃああああぁぁぁぁ!」
痴漢にでも襲われたような声を出す瞳。
「うわ、な、何だ!?」
「だ、誰?あなた」
渚も少し脅えている。
「いや、誰ってことはないけど、こんな時間に女性二人なんて不用心だから」
「痴漢ね!?痴漢なんでしょ!そうでなきゃ見知らぬレディーに声なんかかけないもの!」
瞳は、男を痴漢と決め付けてしまった。
「ちか……。しょーがないなぁ」
突然悲鳴がした。若い女性の悲鳴。
窓の外だ。近い。というより、部屋のすぐ前のようだ。
映美は窓を開ける。そして、外を見ると見覚えのある二人がいた。渚と瞳だ。そして、痴漢という言葉が耳に入る。
渚と瞳が誰かに襲われている!?
映美は慌てて外に駆け出した。
通りに出ると、渚と瞳がその誰かに謝っていた。相手は背中を向けているので分からない。
どうやら、別に襲われていたわけではないようだ。ちょっと安心した映美。
「ちょっと、人の家の前で何やってるの?」
映美が話しかけると、二人はばつが悪げな顔をした。
「いや、あのね、ここを通りがかったら、いきなり声かけられたんでびっくりして悲鳴あげちゃったんだけど」
「なんか、警察の人だったらしくて。女二人で歩いているのは不用心だから気をつけるように声をかけただけだったんだ」
なんで二人が映美のアパートの前にいるのかを聞かれるとまずいので、その話題にならないように必死になる二人。
のんびりとした動きで男が振り向いた。
その顔を見て心臓が止まりそうになる映美。
飛鳥刑事だった。
「警察のかたが、何か用ですか?」
不自然にならないように気をつけて話す映美だが、質問自体が不自然であることに気付いていない。
しかし、仕事中でない飛鳥刑事も、そんなわずかな違和感に気づくほど鋭くない。
「いや、用ってことはなくて、通り道なだけだけど」
「いつも通るんですか?」
「いや、今日はたまたま。車はパンクするし、薬局にもよったし」
先日の事件で張り切り過ぎて、あちこちが筋肉痛になっていたのだ。特に、首がひどい。それで、膏薬を買ってきたのだ。
「そうですか……。ところで、なんでこんなところにいるの?」
今度は渚と瞳に対する質問。来たかー、と言わんばかりの二人。
「あたしたちも、たまたまよね、たまたま」
「うん。そうなのよ」
「たまたまって、そこに隠れたようにみえたけど……」
二人は飛鳥刑事の指摘に凍りつく。
「なにしようとしてたのよ」
じとーっとした目で二人を見下ろす映美。
「ちょっと来なさいよ。何をしてたか白状させてあげるから!」
映美は苦笑しながら言った。
「とにかく、夜道は気をつけるんだぞ。俺みたいのに声をかけられるなよ」
飛鳥刑事はそのまま帰ってしまった。ちょっとほっとした映美。
結局、渚と瞳はそのまま映美の家に泊まり込み、一晩中おしゃべりに花を咲かせた。
ただ、映美は飛鳥刑事が自分の家の前を通り、自分の顔を見て、話までしたのが気になって二人とのおしゃべりもどことなく上の空になっていた。
Prev Page top Next
Title KIEF top