ラブラシス魔界編

37.灼熱の天使

 つい今し方に辟易する戦場の惨状ぶりともはや自分の出番がなく余計なことをすると惨状が悪化すると悟り離脱していったエイダによる状況報告から、そろそろ敵が片付くだろうことも出入り口付近は激戦地帯ではないことも聞いたマイデルが「どう?終わった?」といった風情で外から中を覗き込んだ。
 立っている人数より倒れている人数が多いのは聞いたとおりだったが、倒れているのもただ倒れていると言うより一目見ただけで判るほど致命的な肉体損傷が見受けられる、濁さず言えば惨殺死体が散見されるのを見て、さすがに苦言を呈さざるを得ない。
「むう、ちょっと死人を出し過ぎだのう。まあ、この程度で死ぬような雑魚は生かしておいたところで憂さ晴らしにも使えぬし、聞きたいことも別にないし……生かしておく必要もないか」
 なんか怖いことを暢気な顔で言っていたマイデルだが、不意に険しい顔になった。
「厄介なものを呼び寄せたようだぞ。そこに漂っている火の玉はムンシャ・アフマルが消えた原因だ」
 マイデルの指さす方には確かに親指の先くらいの小さな火の玉が浮いている。くりっとした目であたりをキョロキョロと見回しており、元々の親玉を知らないアミアにはこのサイズだと単眼の化け物とは言えちょっと可愛く見えた。
「こんなのにそんなことできるの?」
「本体は巨大だったのだ。このちびどもも炎を食らって少しずつ成長していくぞ」
「あたしの魔法を食べにきたってこと?」
「そういうことだ。火の精霊たちもいつの間にか張り付かれて力を吸われてたりして困っておった」
 アミアの認識はこれで蚊か蚤か蛭くらいになったが、まだその恐ろしさにぴんと来ない。
「まあ、とっとと倒しちゃえばいいわけね」
「それがそういうわけにもいかんのだ。何せ倒す手段がないのでな」
 このくらいのサイズなら水や冷気の魔法で弱らせたり閉じこめたりすることはできる。だが、存在を消滅させることはできないのだ。あのニャルラトホテプを以てして岩の中に閉じこめるという手段に甘んじるしかないくらいだ。
『安心しな!ムンシャ・アフマルに専門家が来ているからね。連絡を入れればすぐに対策チームを送ってくれるさ!』
 様子を覗きにきたミカールが状況を察知してそう言った。炎の精霊であるミカールがちっこいクトゥグアに一斉に集られて悲鳴を上げたのは言うまでもない。

 ルスランはどうすべきか悩んでいた。化け物に襲われている少女を見殺しには出来ない。しかし、自分に何が出来るのか。そもそも何かしてしまってよいのか。
 襲っている化け物はピコクトゥグア、一見小さく弱そうだが不滅の生ける炎。素手で引き剥がそうとすれば火傷するのは目に見えているし、剣や槍でどうにかできるようにも思えない。
「あああっ……。むずむずくすぐったい!せっかくここまで育ったのにまた縮んじまう……」
 襲われている少女は炎の精霊ミカールである。その柔肌にピコクトゥグア、ミカールが言うところのプチメラキョロ太郎がいくつも張り付き、蛭のようにエネルギーを吸い取っている。ピコクトゥグア以前にミカールもまたその肌は燃えてしまうので服も着られないという燃えさかる炎だ。触れれば大火傷である。
 そもそもミカールは直視に耐えない裸体である。本人に隠す気がまるでなくヒョイヒョイと現れるのだから見えてしまうのは仕方ないとして、手を出すのはさすがに抵抗があった。自分しか助けられない状況なら迷う必要もないが、この場合はむしろエイダやアミアの方がうまいこと何とかしそうな感じである。無理に行くことはないのではないか。
 こんな時ネルサイアだったら、「ちょいとごめんよ」とでも言って躊躇いもなく、むしろ嬉々として少女の体を撫で回せるだろう。火傷だってスケベ心で乗り越える。あのくらいの度胸があればとも思うがああはなりたくないし……まあ、ここは自分が出る場面じゃないだろう。そう思っているとやはりミカールに救いの手が差し伸べられることになる。
『ミカールに手出しするのは断じて許さん!エネルギーを吸うなら俺のを吸え!!』
 イーフリートが現れ筋肉を見せつけた。うわあ吸いたくねえと言うのがルスランの感想だったがピコクトゥグアたちには美醜や性別など極めてどうでも良いようで、より熱く暑苦しい方にめがけて移動を始めた。
『うわ、来んな』
 凄まじい掌の返しようでイーフリートが消えた。何をしに出てきたのか理解に苦しむが、それでもミカールから一瞬でもピコクトゥグアたちを引き離すのには成功し、その隙に起きあがったミカールは舞い戻ろうとするピコクトゥグアたちから逃げ回っている。
 そこに救いが現れた。呼び寄せた専門家が来てくれたのである。
『ああっ、メタトロン様!』
 ミカールの視線を辿り目にすることになるイーフリートたちが敬愛する炎の天使の名を呼ばれたそれは、螺旋を描く炎の柱であった。螺旋を描くのをやめると筋のように繋がっていた炎は百程度の火の玉に分かれた。そして……一斉に目を開いた。
 まるでというかまるっきり、ピコよりふた回りか三周りくらい大きくなったクトゥグアの集団である。エイダなどは思わず「ひっ」と声を上げてしまうくらいに。だがしかし、そんなエイダだからこそその僅かな違いに気付く。灼熱の化身たるクトゥグアの視線から感じたのは冷徹にして冷酷な無関心であったのに、メタトロンの眼差しは暖かな慈愛に溢れており、一瞬感じた恐怖が瞬く間に氷解していくのだ。まあ、見た目の怖さは何ともしがたいので完全に恐怖心が消えることもないのだが。
 ピコクトゥグアたちは突如現れた強烈な炎の存在に向かって動き始めた。そして、その慈愛に満ちた眼差しと向き合う。その途端、ピコクトゥグアは動きを止める。そして何かに抗うように震え始めた。
 やがて、虚ろな目になったピコクトゥグアはゆっくりとメタトロンの柱状の並び――ピラーフォーメーション――に加わりそっと目を閉じた。目を開くとその眼差しは慈愛に満ちたメタトロンと同じものになった。この力こそメタトロンがクトゥグアの専門家たる所以なのだ。

 この世界にクトゥグアが出現したのは三千年ほど前になる。それからもちょくちょく出現していたのだが、イーフリートたちですらその存在を知らなかった。それも全て大事になる前に適切に処理されてきたからなのだ。その得体の知れぬ存在の討伐を任されたのがメタトロンであった。
 専門家として、メタトロンがクトゥグアについての情報を開示してくれた。クトゥグアとほぼ変わらないその外見についてを含む自分語りが結構な割合を占めていたが。
 邂逅以来因縁の相手となるメタトロンとクトゥグアだが、なぜメタトロンが相手にすることになったのか。それは相性で選ばれたというのが実際だろうが、当時大天使になりたてだったメタトロンに貧乏くじが回ってきた形である。なお、その頃のメタトロンは当人曰くイケメンのナイスガイだったらしい。
 実際に戦ってみるまでその貧乏くじぶりに気付かなかったが、とんでもない敵であった。危なくなると分裂して逃げてそれが銘々に育って各地に発生する。融合して巨大化する。そしてまた分裂し……のらりくらりと捕らえ所がない。
 このまま世界はクトゥグアに滅ぼされるのではないかとすら思えた。そして激闘の末にメタトロンは大きな犠牲を払う。その姿を失ったのである。大天使だったメタトロンは受肉した体や魔力で構築した仮初の肉体をいくら失おうがその存在が消えることはない。だがこの世界への影響力は依り代がないと大きく落ちる。クトゥグアに肉体を破壊されたメタトロンは急いで適当な依り代を見つけて乗り移った。無意識に選んだその依り代がクトゥグアの小さな分身の一つだったのである。
 分身は明確な意志も持たず本能で行動する存在だったので意志のみの存在になっていたメタトロンが入り込むにはもってこいだったし、見た目は最悪だが火の属性は一致するし相性はよかった。それに自分自身でクトゥグアと似た存在になってみてその能力も把握できたのである。
 しかし、それにより悟ってしまう。クトゥグアは滅ぼすことなど叶わない存在であると。ついでに、今の自分も何となく不滅になったっぽいと。メタトロンが使えるクトゥグアの能力は熱エネルギーの吸収・放出、熱源への転移、分身製造と制御、そしてその不滅性だ。そして出した分身は例えば水に沈めておけばどんどん衰弱し縮んでいく。しかしそうなると存在の維持に必要な熱エネルギーも減少し縮まなくなる。そして水から出すとそれこそ太陽熱などで少しずつ復活していくのだ。
 絶対零度に閉じこめる実験も行ったが、その存在が消滅することはなかった。これなら真空中でも動きは止められるのだが絶対零度など維持するのは相当な魔力がいる。普通の氷に閉じこめた方が効率がいい。それでも何らかの弾みで外に出てしまえば復活する。こんな敵を倒す方法など思いつかない。
 そして、分身を使った実験の中で気付いてしまった。この分身、出すのは簡単だが出した本人の意思ですら消すことができないのだ。だが、分身を始末する方法があるのは本能的に理解した。
 メタトロンはクトゥグアの能力の大部分を獲得したが全てではない。それは融合したのが末端の分身体だったからだ。クトゥグアには本体クラスと分身クラスがいる。本体と言っても唯一無二の本体ではなく、これもある程度は増えるようだ。本体クラスには意志と分身の支配権がある。その支配権の中で注目すべきは分身との融合吸収だ。各地に送り出してエネルギーを吸収させた分身体を呼び戻して再統合する。そのために分身を送り出しているわけである。
 メタトロンが融合したのは意志がないので入り込みやすかった末端の分身体だったので、その権限を得られなかった。なのでメタトロンには分身を消すことができないのだ。むしろ本体クラスのクトゥグアに呼び出されて取り込まれる立場なのだが、意志のない分身と違いその呼び出しを無視できるし、何なら今や呼び出しから敵であるクトゥグアの居場所を探ってまでいる。尤もある程度近づかないと呼び出しが届かないので最初に大雑把な位置を知るためにパトロールや目撃情報頼みにはなってしまうのはご愛敬だ。
 とにかくそんな感じで増やした分身を減らせず、更にクトゥグアの小さな分身を乗っ取って寝返らせる術を身につけたことでメタトロンも増えまくるのだが、減らし方がないわけでもない。自分で減らせないなら減らせる者にお任せするまで。エネルギーを抜き取った分身をクトゥグアに突撃させ吸収させるのだ。そんな感じでメタトロンはクトゥグアのあしらい方を会得し、自他共に認める専門家になった。
「それって……クトゥグアをゴミ箱扱い?」
『さすがにそれは言葉が悪いね。一応捨てるのは僕の分身であるのだし、ゴミはちょっと。あ、僕も捨てるとか言っちゃってるけど』
 見た目の割に気さくに話してくれる、口もないのによく喋る天使である。
 こんな姿になった当初は絶望し自殺も考えた。何せこの見た目だ、無理もない。クトゥグアに吸収されれば消えるのだから簡単なことに思えた。しかし、実際にやってみれば過酷な現実を知ることになる。
 吸収されて意識が暗転したのも束の間、近くを漂っていた分身に憑依して再覚醒したのだ。それなら自分の分身を全て消してからクトゥグアに身を投じればいいのではないかと思うだろうが、その考えに至る前に投身を繰り返すことで自分の息のかかってないクトゥグアの分身にも憑依して蘇ってしまっているので改めて試すまでもない。本体クラスのクトゥグアの周囲に分身がいないことなどないのだから。本体クラスの周りにいる分身を全て寝返らせるのも試したが、やってるうちに確実に自分が優勢になって本体クトゥグアに逃げられるか、強力なクトゥグアを呼び寄せられ吸い込まれて別な分身を依り代に復活してしまうので無駄だった。
 まあ、見た目はアレだが自分自身もとんでもない存在になったことは理解した。それなら便利に使い倒すまで。そう割り切ったメタトロンは破竹の大進撃を始めた。滅びない上に体の数もほぼ無限。戦いから雑用まで大活躍だ。セラフィムといえばメタトロンの戦闘隊形の一つ・サークルフォーメーションである炎の車輪というイメージが定着するくらいである。
 クトゥグアも倒すことはできないが嫌がらせで弱らせたり追い払ったりはできる。戦術の一つを紹介すると、チェーンフォーメーションという数珠繋ぎの陣形でクトゥグアに接続し、先頭の分身がクトゥグアからエネルギーを吸いバケツリレー方式で最後尾までエネルギーを届ける。気付かれて先頭の分身から順に取り込まれても、エネルギーをため込んだ最後尾が無事ならこちらはノーダメージに等しい。吸うだけ吸ったらそのままとんずら。それを四方八方から一斉に仕掛けるのだ。その戦い方は見た目から串刺しとよく言われるが、実際には何も刺さってないのは言うまでもない。
 こうやってクトゥグアからかすめ取ったり、山火事の消化などで獲得し余ったエネルギーはサラマンドラやイーフリートたちにお裾分けされるので炎の精霊たちもメタトロンに懐いているというわけである。
 普段は問題になるほど大きなクトゥグアに育つ前にメタトロンのパトロール分身が発見、討伐チームが派遣されて駆除と言う流れなので精霊たちはクトゥグアは初見だった。フレイムファントムという強大でイレギュラーな存在がいたからこそクトゥグアが短時間で成長してしまいあんな事態になったのだ。
 なお、ニャルラトホテプともクトゥグアと戦う者同士ということで面識はあった。とは言え共闘するような関係ではなく、どちらかというと獲物を取り合うライバルだと思われている節がある。メタトロンとしては欲しければくれてやると言いたいところなので、ニャルラトホテプが出てきたら後は押しつけて帰ることにしていた。どうみても勝てなさそうな化け物と取り合いをする必要性をまるで感じないのだ。なお、見た目がクトゥグアそのものどころかこの体は元々クトゥグアというメタトロンではあるが、ニャルラトホテプからはちゃんと別物として扱われているようだ。見た目より中身が重要なのだろう。
 そもそも、メタトロンにとってニャルラトホテプはいきなり出てきて獲物をかすめ取って用が済んだら消えるよくわからない存在という認識で、これまでに名乗られたことさえなく、今エイダから質問されることで初めて名前を知ったとか。なおクトゥグアの名はニャルラトホテプが「クトゥグアは私の獲物ですよ!」のような科白を吐くのでそれで知ったのであった。
「禁術クラスの炎の魔法を使うと一発でクトゥグアが巨大化しかねないから気をつけてね」
 メタトロンはそう言って話を締めくくった。
「大丈夫ですよ、天使様。そもそも禁術なんて使える人居ないでしょう、なにせ禁術ですもの。プロミネンスとかフレアとかでしょう?魔力が足りなくて使えません」
 アミアはそう言って笑ったが、ついうっかり禁術をぶっ放したエイダのことを言うべきか、知っている人や精霊はちょっと悩むのだった。
「魔力が足りていれば使えるような口振りね」
 マリーナがぼそっと言う。
「あ」
 アミアはやばいと言わんばかりの顔をした。魔力次第で使えるらしい。そもそも、呼称を知っているだけで大概である。
「どうせアドウェンに仕込まれたのだろう。あいつめ……」
 ぼやくマイデル。アドウェンの魂を記憶ごと受け継いでいるエイダは真相を知っている。
「おじいちゃんじゃなくて他の先生です」
「あいつの他にも禁術を気軽に教えるような奴がいたのか。類は友を呼ぶと言うか、全く……」
 アドウェンは使えそうなエイダにいざと言うときには使えと言う思いでこっそりと禁術を教えたのだが、その先生は違う。どうせ使えはしないと洒落で教えられたのだった。使えるようになったら洒落にならないのだが……まあその可能性はほぼないから教えたのだろう。なお、エイダなら頑張れば使えるが出番は多分ないだろう。問題なのはその気になればアミアが禁術を行使しうる魔力を確保する方法があるということだが、内緒だ。
 それはともかく、ミカールたちもクトゥグアとの戦闘を労われてメタトロンからエネルギーを分け与えられた。おかげですっかり元の大人ボディに戻っている。同じ全裸女でもこうなればいたたまれなさがぐっと減るのはなぜだろう。
 エネルギーを与えるためにメタトロンも本体クラスの大きいのがやってきていた。天高く聳えるピラーフォーメーションの頂点に巨大な炎の目玉が浮かび地上を遍く見下ろしている。その姿は確かに神々しくもあるが、やっぱりなんかちょっと怖い。
 炎の精霊の本拠地であるこの一帯では関わりの深いメタトロンもなじみ深い存在らしく、人々はありがたそうに拝んでおり怖がる様子はない。それは騒乱は収束し平穏が戻ったことを示す光景だった。
 このなんともヤバ気な光景が部外者にちゃんとそう見えるかどうかはさておいて。

 連邦の地下組織ムハイミン=アルマリカは連邦内においては全滅した。
 グライムスによって叩きのめされた武闘派メンバーは、腕っ節はあるが大した情報を持っていない。ルスランに斬り伏せられたり殴り潰されたり、アミアに焼き払われた有象無象に至ってはこの辺の住人なら誰でも知っている組織の基本理念程度の知識しか持たないような雑用係である。これでもその理念に共感したからこそ、金で雇われただけのバイト構成員と違って解雇もされなければ自分から逃げ出しもせず、それでも公国に連れて行くほどの価値が有るでもなく、ここでの待機となっていた。
 その程度なので生かしておけないほどの悪党でもないが生かしておく必要もない。大怪我で済んでいるものは捕縛したが、すぐに治療せねば命が危ない者についてはせめてこれ以上苦しまぬよう死者と共に荼毘に付された。
「せっかくかき集めた残党だったがお主としては役不足だったのう。思ったより安かったとはいえまあまあな船賃だったのだぞ。これでは元が取れぬではないか」
 ムハイミン=アルマリカの不甲斐なさにマイデル老師がご立腹である。
「まあまあ、そう言わんといてやってくださいや。旦那が動いたから連中も焦って下手を打ちまくったんですし」
 ルスランすら怖くて口を挟めないご立腹のマイデルに気軽に話しかけたのはゴードンだった。ムハイミン=アルマリカの事情も知り尽くしているので、グライムスが動いたことで連中が焦って動いた様についてもしっかりと話を仕入れていた。
「その所為で儂等が前倒しで動く羽目になった上、訳の分からん化け物の喧嘩に巻き込まれたがな……」
 フレイムファントムはともかく、クトゥグアは放っておいてもいずれ専門家のメタトロンが事態に気付いて文字通り火消しをしてくれただろう。関わらずに済んだかも知れない。あるいはもう少し早く駆けつけられればフレイムファントムを相手にするだけで済んでいた。タイミングが悪かった。
「結局宝珠は奪われてたものねえ……。そういえば、サラマンドラはまだ現れていないのよね?」
 マリーナはウンディーネに問いかける。サラマンドラが解き放たれればウンディーネならその力を感じ取れるはずだ。
『そうですわね、宝珠の封印はまだ解かれていないはずよ』
 一度封印を解いた上でサラマンドラだけ何らかの方法で閉じこめている可能性はあるが、魔族の協力者が居ようがそれは難しいだろう。
「水の宝珠はその場で封印を解いてたのに、どうしてかしら。サラマンドラが出てくると厄介だからかしらね」
『それって、私が厄介じゃない雑魚って言ってる?』
 ウンディーネは安定の悲観思考であった。
「言ってないわ。ほら、最初の時はウンディーネが厄介だったから方針を切り替えたとか」
『……それならいいけど』
 実際のところは慌てて宝珠を奪う作戦を決行し想定外のトラブルにまで見舞われたことで、封印を解くには準備も人手も時間も足りてないだけでだったがまあ知らぬが仏であろう。ムハイミン・アルマリカの内情に多少は通じるイーフリートが言う。
『もう六司祭は全員国外に逃れてますからな。何かするならラブラシスで合流してからでしょう』
「ラブラシスにはサラマンドラに縁の人物っていないわよね。周りに頼れる人が誰も居ない所で封印を解こうなんてさすが狡猾ね」
 たまたまである。精霊は繋がりのある人間などの居場所に顕現できる。たとえばウンディーネであれば巫女であるマリーナや加護を与えたエイダがそうだ。ウンディーネは消極的なのであまりそういう相手を作れない。ましてや気性が荒いのが揃っているフォーデラスト人になど腰が引けて接触できない。ラブラシスの神殿で祀られていた頃は王国に用があるならシルフの所に飛べばよかったので特に困らなかったが、今はかつてラブラシスにいた繋がりのある人物がみんないなくなってしまったのでラブラシスにすら飛べない。
 サラマンドラも理由は違えどあまり人間と繋がりを持とうとしないタイプなので似たようなものだろう。ラブラシスで解き放たれてもその場で孤軍奮闘か地元の有志と協力で何とかできなければ撤退先はウンディーネの所か手下たちのいるところ、つまりどちらにせよここしかない。こっちに来てしまえば再びラブラシスに向かう手段がなくなるので最終手段になるだろう。
 一応ウンディーネを助けに呼ぶという手はあるが、敵のそばに呼び出されるなどウンディーネがビビって泣いて固辞するのが目に見えている。サラマンドラだって可愛い妹を泣かすのは本意ではないのだ。呼ぶとすればイーフリートのような子分の上位陣だろうか。彼らの付き添いならウンディーネだって渋々でも同行できる。もっとも、たとえ不完全であろうがサタンを相手にするには戦力が足りないので撤退を選びそうだ。
 何にせよ、火の宝珠の封印はまだ解かれていない。グライムスとムハイミン・アルマリカの面々は魔竜船の乗降の際にすれ違ったはずなので、少なくとも往復分の期間は猶予がある。余裕を持っていられるだろう。
 そして、向こうに余裕を持たれてしまうようにこちらは魔竜船の次の便まで身動きがとれない――魔法転送、別名人間大砲が使える3名を除いて。その3名は選択を迫られた。転送で帰り次の事態に備えるか、グライムス一行に同行するのか。前衛部隊になる彼らなしで魔法使いだけでは戦いにくい。ましてやあちらで待っているのはここに残っていたような雑魚ではないのだ。先行してもグライムスの到着を待たざるを得ないことが想定された。ならば最初から同行してもよい。
 エイダは即決でグライムスたちとの合流を選んだ。当分、できれば金輪際人間大砲は勘弁だ。それ以外の選択肢があるならそれを選びたい。魔竜船の運賃は自腹だと言われても全く心は揺らがなかった。
 マリーナもグライムスに合流だ。人間大砲転送も苦ではなくむしろ爽快に思えるので忌避する理由はない。理由はそこではない。魔竜船に乗船するまではまだまだ数日猶予がある。その間を活かして旧友に会ったり観光を楽しんだりしたいのである。せっかくの遠出なのだから。
 マイデルは暇ではない。とっとと帰って溜まった仕事を片付けねば次に何か起きた時に気になってすかっと暴れられない。後顧の憂いを取り除くためにも速やかに帰る必要があるのだ。
 そんなわけで、マイデルは人間大砲魔法で吹っ飛んで帰り、他はここに残った。マリーナとグライムスはこの辺りの知人を訪ねて回ることにし、ルスランたち若者たちもそれに同行することになった。理由は単純、有名人に会えるチャンスだからである。
 手始めにムンシャ・アフマルの向こうサッバール=マルジュに住む火の巫女キョセムを訪ねることにした。更に良い情報がある。次に訪ねる予定だった人物であるサンガがムハイミン・アルマリカの暴挙を阻むべく一団を率いてムンシャ・アフマルを目指していたらしい。結局間に合わず騒動が沈静化したので引き返そうとしていたようだが火の精霊の伝言でキョセムのところで落ち合えることになっている。
「砂漠の移動はやっぱりタクシーよね!」
「ええ……?もしかしてあのタクシー……?」
 アミアの発言に嫌そうにエイダが呻いた。その理由は何も知らないルスランにもすぐに明らかになる。
「乗り物なのか、これ……」
 ルスランが絶句したのはもちろん砂漠名物大蛇タクシーである。
「この辺に観光に来たなら一度は乗ってみたいサンドサーペントタクシーですぜ」
「一度は乗りたくなるかも知れないが二度目は勘弁って感じだな……」
 ゴードンの紹介につっこむルスランの言葉にエイダが無言で大きく何度も頷いた。そんなエイダも決してこの発言に全面同意はしていない。二度目は勘弁と言うのは同意だが、そもそも一度目だって乗りたくない派である。
「6人ならエルダー2頭で3人ずつかな。一番安いのはエルダー1普通1で5人とひとりだけど」
 エルダーサンドサーペントは普通のサンドサーペントの倍の長さ倍の太さで料金も倍。だが普通の人なら5人まで乗れるのでお得だ。それでも前回はマイデルとマリーナの剛胆コンビが奮発してでもそれを回避して普通サイズを選んだくらいに迫力がある。
 そんな大迫力のエルダーサーペントを2頭、迷いなくレンタルしさっさと手続きをしてしまうゴードン。乗るのは確定した。そうなると次に問題になるのはグループ分けである。
「男3人と女3人なんだからが男と女で分けるのが無難なところよねえ」
 マリーナの提案がごもっともだが、納得しなさそうな奴がやっぱり納得しない。
「もう旅行に突入してるんでしょう?それならそんな色気のない分け方はナシでしょうや。若い娘はあっしがエスコートしますんで」
「エイダをあんたみたいな下心人間に近付けてなるものですか。あたしがそばにいてやるからそれで満足なさいな」
 アミアのアイコンタクトでグライムスがゴードンの首根っこを押さえて引きずって行った。メンバー分けも大多数意見を鑑みるでもなく決定してしまったが、グライムス組はつき合いも長いようで気心も知れてそうだし、残りも王国組という感じで妥当な分け方と言えた。ルスランも女二人と一緒なのは役得だと頑張って思うことにする。
 そして、このグループ分けはサンドサーペントに慣れてる組と慣れてない組でも分かれていた。初体験で乗り方がわからないルスランと、一回乗ってもまだまだ慣れないエイダ、マリーナがもたつく。というか、一回乗って慣れたつもりでいる者でもたじろがせる迫力をエルダーサンドサーペントは持っていた。そしてエイダに至っては初回でもう次は勘弁と思っているのだ。慣れるというのとは逆の心持ちである。
 ルスランはなんだかんだ言って流石の胆力でさらっと跨がって見せた。マリーナも王国気質にも染まった年の功で気力を振り絞り、えいやっと飛び乗った。もうエイダだけである。行くしかなかった。
 砂漠の旅が始まる。願わくばこのタクシー移動だけは早く終わってほしい。そんな祈りが通じたようにエルダーサンドサーペントの移動速度は普通サイズよりも速かった。ただでさえ怖いのにスピードも怖かった。擡げる鎌首の高さまで高く、見晴らしがよくて怖い。移動の時間は短いが怖さも凝縮されて濃密である。
「揺れ方が馬と違うのは慣れないけど、案外快適だな」
 ルスランの呟きに同意しかねるエイダだった。