
Episode 7-『Return back』第15話 泡沫候補の夢
砂島候補……いや容疑者にとってもとんだ青天の霹靂であった。そんな器でもないのに突然市長候補などに擁立されたかと思えば、ストーンにとっては宿敵とも言える、そして候補者としてはまるで勝ち目のない森中候補が対立候補として立候補し、万策尽きて勝手に誘拐まで企てられて荷担させられ、その結果が逮捕である。挙げ句、自分が主犯と言うことにされてしまった。
「そう、すべて私の欲望のための誘拐よ!むらむらしちゃったの、幼稚園児に!だって可愛かったんだもん!さあ、この変態を笑うがいいわ!」
トカゲの尻尾として切り捨てられた身だ。恥も外聞もプライドも捨てる所存だった。もはや、自分も捨てた。だからずっとオネエ言葉である。自分ではない誰かを演じていなければ、やってなどいられようか。
「大貴までさらったのは……?」
「性別なんて関係ないわ!変態だもの!」
こんな自供など信用してはいないが、一応話を聞くしかない。しかし、今の一言だけは口調のせいもあってやけにリアリティがある。
「そうは言うがね。それならあの脅迫電話はどう説明するんだ」
「う」
続きを佐々木刑事が引き継ぐ。
「悪戯目的ならあんな電話は要らないだろ。黙っていれば連れ去ったこともすぐにはバレないし。選挙がらみの要求で容疑があんたに向くしなぁ。黙って物陰に連れ込んで悪戯するだろ、普通」
「悪戯する時点で普通じゃないがな」
「変態なのは分かり切ってんだ、この場合は普通の変態の事だ」
「ううう。いぢめないでぇ……。私いぢめる方が好きなんだから」
「その言い方だと、られるのほうもまんざらじゃないってとれなくもないがな」
煙草をくゆらせながら、涼しい顔でなかなかなことを言い放つ飛鳥刑事。
「何とでも言うがいいさ……いや言うがいいわ」
何とでも言えという割には、ストーンとの関わりについて触れようとすると必死に話を逸らそうとするのだ。バレバレであるのに、この事件はあくまで自分が変態的な欲求を満たすの為の犯行だと言い張る。
「だが、手は出してないと言うわけか」
プライドを捨てきれない砂島がここにいた。いや、プライドの為ばかりでもない。警察には半ば保護されるように逮捕されたのだ。深森候補の御令嬢に粗相をしたなどと思われては両腕両足をバイクに繋がれ四方に引き裂かれそうだ。
「聖良ちゃん……深森候補の娘さんはな」
佐々木刑事は言う。
「あの日、人生で初めて父親以外の男の人の大事な部分ってものを目にしたそうだぜ」
「なっ……!?あのアマ、とんだでたらめを!知らない知らない!あたし知らないわっ」
黙って聞く飛鳥刑事は知っている。人質となった大貴が危機を脱する為におしっこをうまいこと利用したことを。多少不格好ながら機転の利いた、大貴の武勇伝の中でも誇れる話として胸を張って語っていたものだ。その時に何か見えたとか見られたとかそんな話は当然端折られたのだが、両手を縛られておしっこをしたのにズボンもパンツも汚さずに済んだというのは、それなりの悪戦苦闘があったはずだ。
聖良も聖良で、あれだけいろいろなことがあった中で父親に知らせることの一つにそれを選んだ。大貴にとっては忘れてしまうほどの──心に鍵をかけて無かったことにしたわけでなければ──その程度の出来事でしかないのだが、聖良にとってはそれだけ印象に残る出来事だったのだ。
ただ、それが誰のモノかを言ってしまえばともに危機を乗り越えた仲間であり危機を脱させてくれた恩人である大貴にいらぬ危険が及びかねない。だから少しぼかして話した。大事な部分にぼかしは付き物である。なので、誰のものを見たのかは当人同士しか知らないのだが……。いかにも見せそうな変態は然るべくして濡れ衣を着せられるものである。着せられると脱いだことになる濡れ衣を。
変態だと思われることについての覚悟はできている。だが、聖良にまだ手出しはしていないという前提があってのことである。あの恐ろしいチンピラ親父の娘に何らかの傷を付けるようなことをしたとなれば命の危機であった。認められるはずがあろうか。
佐々木刑事は言う。
「こんな話も聞いたなぁ。トイレに連れて行かれて……とても怖いことがあったとか何とか」
飛鳥刑事はその話ももちろん聞いている。連れて行ったのも大貴だ。そして、怖い怖いスライムに遭遇した。実際に何が起こったのかをこの言葉から想像するのは不可能だ。トイレに限らずスライムに遭遇するなど考えつくものではない。遭遇したものがポリ袋をかぶった人間であることを踏まえてハードルを怖い人にまで下げたところで、何も知らなければその怖い人が想像に登場するまでのハードルが高すぎる。トイレに連れ込んだ人物が怖いことをしたという発想からそうそう離れられるものではない。
「してないしてない!トイレになんて連れ込んでない!」
まあ、そうなのだろう。
「んー。そういやあ、例の部屋の床にションベンが垂れてたけど。トイレに行かせずおもらしするのを眺めて楽しんだわけか」
「眺めてないったらあああ」
本当のことを聞き出せそうもないことだし、からかって憂さ晴らしすることにしたようである。ところで。こんなことのために聖良を仮定の話でも変態の餌食にしたことがバレれば佐々木刑事の命も危険であった。そして、佐々木刑事はなかなか変態的なプレイにも通じているのであった。
「で、結局砂島のおっさんはそっちなのかどうか」
そっちかどっちか分からないようなおっさん相手の取り調べは刑事二人にも気疲れをもたらす。休憩を挟んだ二人のうち、先に口を開いたのは佐々木刑事であった。
「それは重要なのか……?」
「重要に決まってんだろ。……女好きの変態オヤジのイメージはあったが……男でもいいとなると俺たちのケツも危ねえぞ」
「女好きってのは聞いてたがな。男色って話はなかったぞ。しかし、あのキャラはなぁ。……そうだな、仕事で女を相手にすることの多い人は女に安心してもらうために自然と女言葉になったりするだろ。あのおっさんもそういうことじゃないのか。女と話すにしても、これからその女にしてやろうとしていることが危険極まりないわけだし」
「そういうことか。納得した」
そういうことであってほしいという希望も込みでそれで納得することにしたようである。
「……それにしても、なんかここ最近オカマのおっさんとばっかり喋ってる気がするな。この町にいる気持ち悪いオカマのおっさんコンプリートしてそうだ」
「庸二。お前が女にだらしないから神が試練を与え給うておられるのだ。巻き添えを食う俺の身にもなれ」
「何を。お前があんな冴えない嫁で満足しているから浮気相手を斡旋してくれてるのかもしれねえぞ。趣味が悪すぎるだけでよ」
「冴えないと思ってくれてありがとうよ。そう思ってるうちは手を出しゃしないよな」
「冴えないくらいなら問題なくいけるぜ?面倒くさいから口説いてまではいかねえが。あー、あのくらいのでいいからそろそろ女と遊ばねえと魂が腐る」
「女といえば。なんかローズマリーがぱたりと出なくなったな」
「言われてみれば。……まあ、いいよ。あんまり遊びたいような女じゃねえし。しばらく見ないうちに老け込んでないか?」
「何かと気苦労が多いんだろ」
「誰のせいだろうな」
森中元警視のせいであった。候補となってもなお、大概であった。新市長のこれからに期待である。
「さて、と。適当に調書を取って野郎を留置所に放り込むか」
「だな。あんなうすら気持ち悪いおっさんといつまでも密室で懇ろにしてやる意義は全然無い」
砂島にとって今回の誘拐事件は、自分の選挙のためやっているのだからと場所を貸してやったのが運の尽きなのだった。せめて場所を貸すにしても、当座の間に合わせとして位にしておいてすぐに移動させるようにしておけば、咄嗟の時の移動がもう少し早かったのでは。そうは言っても詮無いこと、そもそもこの誘拐自体が咄嗟なのだ。誘拐など計画も無しにやるものではなかった。無計画だからこそ、誘拐対象は間違えるわ、人質の場所はたちどころにバレるわ、人質は逃げるわ余計なところまでかき回されるわ。当然容疑者となってしまった候補者を市長になどできるわけもなく。ストーンそのものにとっても散々である。
ストーンの機密文書などは、大貴と聖良がひとまず救出されて刑事二人が退出してから本格的な捜索が始まるまでの間にこっそり大慌てで余所に運び出されていた。佐々木刑事がおとなのおもちゃに反応して追及の手を止めたことにより、警察がそれらを目にするチャンスは失われた。ストーンの秘密はおとなのおもちゃによって守られたのである。その事実は誰も知らない。おとなのおもちゃのために大きな成果を逃した警察も、逆に大人のおもちゃのおかげで救われたストーンも、その事実を知ったところで微妙な気分になるだろう。知ったところで不幸でしかない事実、知らぬが仏である。そしてこんなことに引き合いに出してしまうのは仏にとって罰当たりだった。
誘拐事件はスピード解決したが、それで何が終わったわけでもなかった。選挙すら、候補者の一人が逮捕されたくらいでは粛々と何事もなく進む。そうでなくてもやり直し選挙なのだ。予算的にも余裕などない。強行せざるを得ないのである。
ストーンの見立てと言うか願望では森中候補に肉薄していたつもりの砂島候補も、市民の間ではただの泡沫候補という印象でしかない。さとう候補と言われてもそんな人いたっけと言う感じだ。まあ、すなしま候補と言われれば「ああ、いたかも」となることもあるだろう。ポスターには「さとう」と書かれているのにだ。どちらにせよ、森中候補と競っているほどではない。妥当な競争相手はいしいいわお候補。それでも勝てるかどうかは怪しいところ。ピエとろ店主の女性人気は圧倒的だ。そんないしい候補も深森候補には勝てないかもしれない。そしてそんな深森候補も初戦は若者やその保護者を中心に人気の色物候補でしかない。小細工なしの選挙ではやるまでもなく森中候補の一人勝ちだった。
よって、砂島候補の逮捕が選挙そのものに与えた影響はほとんどない。むしろ候補者として票集めのために暗躍していた間の方が悪影響が大きかった。
もうここからの選挙戦は消化試合のようなものだった。それでも、終わってはいない。
そして、森中候補の選挙事務所ではもう一つ、決着していない戦いがあった。
いつものように飛鳥刑事が事務所に女房と息子を迎えにいくと、珍しい顔がそこにあった。聖美だった。
「おや。心配で見に来ましたかな」
聖良相手に土下座を……土下座にしては些かけったいなポーズだが……している大貴はひとまず気にしないことにして声をかけた。
「心配なんてしてませんよ。小百合さんもいらっしゃいますし、いざとなったらまた大貴君が守ってくれますもの」
あんなことになった原因も大貴だったような気がするが、まあ、黙っておくことにする。
「それで、守ってくれたお礼を兼ねてほっぺにちゅーするっていうから、これを」
ポラロイドカメラを掲げる聖美。決定的瞬間の写真を撮りに来たようである。
「その写真を、昭良に」
「まさか。そんな恩を仇で返すようなことはしませんよ。写真はへそくりと一緒に隠しておきますわ」
それは、見つけられるフラグが立ちまくっている気がする。
「へそくりの隠し場所って、趣向を凝らしたつもりでもだいたい定番の場所になってて、泥棒だとだいたいチェックするもんですがね」
「あら。うちの人は泥棒じゃありませんもの。それに、私のへそくりを探そうなんて大それたこと、考えませんわ。そんなことを企もうものなら……うふ。うふふふふふふ」
具体的な話は今夜の夢見のためにも聞かずにいるのが得策のようだ。暴走親父に見えて、ブレーキとクラッチはがっちりと嫁に握られているらしい。
そして、大貴の妙ちきりんなポーズにも合点だ。あれは土下座ではない。いや、ある程度は勘弁してくれという気持ちの籠もった土下座でもあるのだろうが、顔を畳に押しつけつつ両腕で両頬をガードしているのだ。
「上の守りが堅いなら、一見関係なさそうな下を攻めてみるのもいいと思うぞ」
飛鳥刑事はある一点を指さす。聖良は理解したようである。
「さすが師匠ですわ」
その言葉で二人の遊びで自分が師匠と呼ばれていたことを思い出す。
「俺は聖良ちゃん……いやセーラ姫に何かを教えたことはないけど」
「あら、キッスの師匠ですわ」
「え」
まさかと思う飛鳥刑事だが、言われてみればキスの手本を示して見せた記憶があった。紛れもなくキッスの師匠であった。
「その呼び方が昭良にばれたら事件が起きるな。内密に頼む」
「姫の秘め事ですわね、わかりましたわ。それでは、キス師匠直伝の必殺技……いきますわ。頭隠して足隠さずスペシャル!」
「あ、足!?」
畳に顔を押しつけて顔の両側を塞いでいる大貴の弱みの一つは周りの状況が見えないこと。そのため、不意打ちし放題である。その弱みにつけ込まぬ、何が起こるか丸わかりの技名をコールするのは聖良の優しさの現れなのだろうか。しかし、丸わかりでも大貴がこの体勢を続けている限り、背中から尻、そして足の裏がどうしようもなく無防備である。
「とりゃとりゃー」
「ひっ。ほ、ほわ。くっ……ふひっ」
「右の足をくすぐられたら左の足も差し出せサイクローン!」
言われるまでもなく、元々右も左も揃ってはいたが。
「ひひっ。ほおおっ、ほわああああ!くううぅうぅ……ぐっはあああああ!」
耐えきれず立ち上がる大貴。いや、顔は畳に押しつけたままだ。顔面三点倒立。いや、腕でも体重は支えているか。尻を高く突き上げている。男同士なら七年殺しのいい的だが。
「かんちょー!」
今回はとてもシンプルな技名であった。聖良の声に大貴も叫ぶ。
「な、な、なにいいいい!?」
すわ、やる気か!?息を飲んだ刹那、大貴はひっくり返った。尻を守ったのである。顔を畳に押しつけていたので大貴は知る由もないが、聖良のかんちょーは口先だけで手の準備すらしていない。本当にやる気があったかは甚だ疑問である。これまでの有言実行が功を奏したようだ。
尻を隠しても顔は隠せる。大貴は顔を手で覆っていた。往生際の悪い息子である。足裏と尻を地に付け、上体を起こして前側の急所も足でガードだ。
飛鳥刑事は聖良にサインを出した。右手を挙げ、左手を脇腹に添える。頷く聖良。
「わきわき!動物ランド!」
「ど、動物!?」
そっちをピックアップすると一体どんな技なのか全く分からないと思うのだが。そんなことよりそんな古い番組名をなぜ知っているのか。
「とりゃとりゃー」
「ひっ。ほ、ほわ。くっ……ふひっ」
「わきにく躍るフィエスタ!」
血沸き肉躍るには血が足りないようである。血を求めパワーアップする指、大貴の脇肉は踊り出す。
「ひひっ。ほおおっ、ほわああああ!くううぅうぅ……ぐっはあああああ!」
妖しく体をくねらせる大貴。まるでフラワーロックである。だが、顔のガードは頑なに外れない。
「えい」
「あ」
顔に張り付いているだけでもはや力はいくらも入っていなかった。聖良の手であっさりと引き剥がされる。むろん、聖良はこの隙を見逃さない。そして、聖美のポラロイドカメラも準備万端であった。
閃光が迸り、闇よりも黒い紙が吐き出された。そこにゆっくりと、決定的瞬間が浮かび上がってきた。後ろから抱きしめられ、と言うか抵抗できないように両腕を押さえつけられた大貴はキスされながらだらしない笑顔を浮かべていた。擽られて笑っていたせいだが、その事情を知らなければ変態的ににやけているようにしか見えない。ますます昭良には見せられない写真だ。
それが浮かび上がるまでの間、大貴はさめざめと泣いていた。飛鳥刑事は優しく声をかける。
「めそめそするなよ、減るもんじゃなし。幼稚園、いや今日日第二次性徴前のキスなんてノーカンだろうに。唇でもないし、ましてや男だろ」
言っている内容は優しくなかった。
「ううう。だって。初キッスは絶対にこっちからだって決めてたのに」
似合いもしないことにそんなプランを立てていたことに驚きを禁じ得ない。
「だから、まだまだノーカンだっての。それに、そう決めてたならキスするって決まった時点でこっちから行くって言えばいいのに」
「だって、相手が深森なんだぞ」
「聖良ちゃんのこと、嫌いか?」
「まあ、ひどいですわ」
「いやいや、そうじゃないけどさ。深森って嘘とか隠し事のない正直な奴だから。こういうことがすぐに女子全員に知られちまう」
「大丈夫、何の心配もいりませんわ。私だって、こんなことは簡単に話しません。ここぞと言う時までそっと胸にしまっておきますわ」
さらっと織り込まれた一言に飛鳥刑事は反応した。
「ここぞ……?」
「いけませんわ。つい、本音が」
なるほど、嘘や隠し事は苦手らしい。
「ここぞと言う時には喋る気満々じゃねーか!」
さらっと聞き流すところだった大貴は息巻いた。
「物証があるから、そん時ゃ言い逃れはできんなぁ」
ポラロイド写真を手に取る飛鳥刑事。
「まあ、なんだ。ここぞという場面さえ作り出さなきゃ安泰だろうさ」
写真をテーブルの元の場所に放った。
何かやらかしてその報復でぶちまけるというようなケースにはそれでよい。このことをネタに大貴に何か交渉を持ちかけた場合、例えば近い将来に宿題を写させてとか遠い将来にこんな事があったんだから責任とってつきあってなどと言われたときには諦めるしかないが。聖良がそんな子じゃないと信じよう。
いずれにせよ、こんな事が交渉材料になる期間は長くはない。しょせんは幼稚園児同士のじゃれ合いだ。
聖美は写真をバッグにしまう。
「昭良さんに見つからないように隠しておかなきゃね」
昭良がバックにいる限り、この写真は大人になってからも結構な効力を持つかもしれなかった。
大貴の未来に暗雲が垂れ込め始めているが、こちらは既にお先真っ暗であった。無論、ストーンである。
そんなストーンのとあるエージェントの元に一本の国際電話が掛かってきた。
『チョバヌップリーク。そっちはどうだい、何かあったかい?』
最初の意味不明な一言は挨拶だろうか。声で相手が誰かは判った。ローズマリーである。
「ああ。……散々さ」
お前が逃げたせいでこのざまだと怒鳴ってやりたかったが、そんな元気すら残っていなかった。
「そういうそっちはどうだい。ちょっとくらいはいいことあったか」
『何にも。本当に何もない国だよここは。あ、ちょっと待ってくれ』
ローズマリーは一旦受話器を置いた。遠くで言い争うような声が聞こえた。
『うらー!どっか失せやがれ!皮を剥いでハンドバッグにしてやろうか!……悪いね、待たせたよ』
「……誰ともめてたんだ」
『やだよ、聞いてたのかい。……いや、ちょいとワニがさ』
「ワニ!?ワニってあのワニだよな?そんなものがいるところからかけてるのか、その電話!」
かつて。日本にもワニがいたのである。動物園とかバナナワニ園とかそういう話ではなく、サメの事をワニと呼んでいたのだ。だが、どう考えてもサメを追い払いながら電話を掛ける状況の方が異常である。やはり、あのワニなのだろう。
『あたしの酒のつまみの……唐揚げみたいな奴を盗みにくるんだよ。この国じゃ野良猫みたいなもんさ。人口よりワニの方が多いらしいよ。道ばたに寝てても誰も気にしやしない。あたしも見飽きたし食い飽きたね』
「く、食い……?」
『まあ、ジビエってやつだね』
心の中が底冷えしてくるエージェント。もしかして、唐揚げみたいなやつと言うのはワニ肉だろうか。ならばワニ同士の共喰いになってしまうが。
『あ。ちょっと待っておくれ』
受話器を置くローズマリー。何か、打撃音が響いた。
「ま、またワニかい」
『いや、サソリだよ』
「怖いとこだな、そこ!秘境かよ」
『そうでもないさ。何せリゾートだし。ワニは割とおとなしいし、サソリも刺される前に気付ければただの美味しいおつまみさ』
「食うのかい!」
そして、そんな剣呑なリゾートがあるか。
『素揚げで食べると香ばしくてたまらないんだよ。反り方が逆なだけでエビみたいなもんだ』
エビぞりとはよく言うが、エビの腰はエビ反りとは逆でむしろサソリがエビ反りなのは確かだ。
「ワニとかサソリに囲まれてる割には平和で楽しそうで何よりだ。……どこだっけ、そこ」
『プロマゴワ共和国のアブレ=ビデロゲ=ルジスタだよ。チョインパットで一騒ぎ起こしてここまで引っ込んできたんだ』
「おお、そうか。国名からして知らねえや。一騒ぎってのは聞いてやった方がいいのか」
『チョインパットの首長から金の冠を騙し取ってやろうとしたら、おつきの呪術師と悪霊対決になってさ』
「おお、そうか。それだけでもう腹一杯だ」
『悪霊ったって催眠術じゃないか。それならこっちも専門だよ。細長いものが全部大蛇に見える催眠をかけてやったよ。まあ、こっちはこっちで丸いものが全部目玉に見える催眠に一晩苦しんだけど』
「腹一杯だと言ったのに。……俺たちはゴミ袋が全部探偵に見える呪いに苦しんでる最中だ。そんな感じでこっちはごたついている。しばらく帰ってこない方が得策だろうぜ。本心を言えば帰ってきて助けてほしいところだけどよ」
『やなこったね。その探偵がいなくなったかどうか聞きたかったんだから』
「だろうよ。当分サバイバ……いやバカンスを楽しむこった」
『そうするよ。まあ、そう遠くないうちに帰るから、おみやげを楽しみに待つんだね』
「ワニとサソリ以外で頼むぜ」
言い終わる前に電話は切れていた。おみやげはワニとサソリになりそうだ。
投票日が訪れた。
もしも、砂島候補とストーンが誘拐など企てて自滅などせずにこの日を迎えていたら。……いや、迎えていたところで。果たして森中候補相手にどこまで戦えていたであろうか。そんなことを考えてしまうほどの一人勝ちであった。案の定である。
意外なことが起こらなかったわけではない。深森候補が、拮抗するだろうと思われていたピエとろのいしい候補をダブルスコアの票数でぶっちぎったのである。ピエとろいしいに投票するような適当な有権者は深森候補に流れたらしい。票数では負けたが、ピエとろいしいもある意味戦いでは勝っていた。ピエとろの売り上げが選挙の前後で倍に伸びたのである。選挙戦のどさくさに営業を行っていたというわけではないのだが、名前が読めないというおいしいネタがあったおかげでちょっとだけ注目を浴びた。知っている人からすればやはり彼はピエとろの人であり、そんな知っている人から話を聞いた知らない人にしてみれば「ピエとろって何?」ということになる。そんなきっかけで口コミが広がったのだ。なお、真の本業味噌屋の方は何の変化もなかったという。
一方、深森候補すなわち昭良の店では特にそのようなことはない。元々客を選ぶ店だし、専門であるとっぽいバイク以外の、もう少し一般向けの自転車やそれのパンク修理などはお世話になる頻度も多くはない。そういうことを気軽に頼めそうな店の空気でもないのは相変わらずである。
ただ、新しい客は増えていないものの旧い客に金を使わせることには成功した。ガラの悪いバイク乗り達にうるさい音や危険な運転で注目を集めることを禁じた代わりに見た目の派手さで勝負させることしたのだ。アートトラックならぬアートバイクである。これなら、うっとうしさは大差なくとも視界に入らなければ迷惑ではない。自ずと昼の走行が増え夜は静かになるのだ。なお、電飾は流行らなかった。バイクにあまりごてごてと電飾をつけると、自分の目にもがんがん飛び込んできて走りにくいのである。
いまはまだ絵の描きやすい大きなカウルが売れる程度の変化しかないが、やがてこのことが聖華市を少し変えていくことになる。バイクや車に絵を描く絵描きや飾りを作る彫刻家などの需要が伸び、この町に芸術家の卵が集まり出す。元々美術品好きの好事家が多い町だけに数年後にはすっかり芸術の町になっていくのだ。
例えばその一人が名画・マルガリーの女で知られるジョナサン・リージェントである。アシスタントをしていた漫画家が売れなくなったのを機に、かつての友人を頼ってこの町に流れてきたのだ。彼は最近存在が明らかになった『裸体で横たわるマルガリーの女』が注目を浴びたこともあり、エロスを求めるものから裸婦像をリクエストされたが、長い漫画家アシスタントで絵柄がすっかり漫画チックになっており、エロカッコよさを求めていた不良からは不評であった。しかし別口に需要が起こり、後に痛車アーティストとして名を馳せていくのであるが、かなり未来の話であった。
そして現在に話を戻す。今回市長の座には遠く及ばなかったが他の中では善戦した深森候補は、次の狙いは市議選だと宣言した。市議くらいなら、本当になれてしまいそうである。
何はともあれ、選挙戦によってこの町にもたらされた最大の変化は新しい市長であることは言うまでもない。
森中市長誕生には、本人が地元の名士だったという理由以上にエリート刑事でかつてこの町を騒がせた、いや正に再びリアルタイムで騒がせ始めた怪盗と戦ったことがあることも大きい。
もちろん、そうやって選ばれた新市長に市民が望むのは怪盗に限らずこの町で横行する犯罪への対抗である。とは言え、直接その点について市長ができることは多くない。それに、早急な対応が望まれた怪盗ローズマリーはいつの間にかいなくなっていたし、その後ろ盾だったストーンも今回のダメージでしばらくは大きくは動けないものと思われる。破れかぶれで最終決戦でも仕掛けてくれば話は別だが、そのきっかけが変態親父が中心の勘違い誘拐事件というのはあまりにも無様で不格好である。さすがに自重すると信じたい。
そして。その誘拐事件について、大貴と聖良はこんなことを言っていた。聖良が名前を聞かれてそれに正直に答えた後、犯人たちは血相を変えて部屋を出、扉の外で話し合った。
「森中の姪じゃない……?」
「深森の娘、だと……?」
「これは、まさか。……まさか!」
部屋の外に場所を移して秘密の話をしていたのだろうが、ちゃちな扉一枚隔てただけの場所で混乱のあまりトーンを落とすことさえ忘れて、話していたことは筒抜けだった。この後彼らは森中候補が深森候補の娘を拉致していたなどと言うとんでもない結論にたどり着くが、今となってはもはやどうでもいい。
今重要になるのは、どうやら二人は間違われて誘拐されたらしいと言うことだ。そして、本来なら誘拐されるはずだった姪が、そこにいた。
いつも通り大貴を迎えに行くと、聖良ではなく見慣れない女の子がいた。多少ガラは悪くてもみんなと一緒の方が安心だし、今日は特に大事な日なので聖良はパパと一緒に居るのだ。
その代わりにいた同じくらいの見慣れない女の子が、その姪のリナであることを小百合から聞いた。
「つまり……もりなかリナか。りなだらけだな」
「妹さんの娘さんだから。名字は旦那さんの名字よ」
「なんだ、そうか」
大貴とリナはいつものヒーローごっこのようだ。しかし、リナ姫を取り返すための戦いではなさそうである。二人は共闘しているのだ。敵は……すでに当選確実が出て誕生が確定した森中市長である。
「甦ったヒデオサンダーか」
「はずれー。新宇宙皇帝ヒデロよ」
「皇帝ネロがモデルか」
「ざんねーん。ピサロの方」
「うう、なんか今日は読みがことごとくはずれるな……。しかし、ピサロがベースならばさ、もっとこうピサロ感を出してヒサロにするとか」
半ば八つ当たりのようにいちゃもんを出すが。
「それじゃ日焼けしちゃうでしょ」
「……確かに」
「ヒデロはヒデロで夜明けを待ってる感じするけどね」
「宇宙の夜明けぜよってか」
そんなことを言っている間にもヒデロは倒れた。だがやはり、第二形態があるようだ。上半身裸になるヒデロ。市長当選を祝おうとする選挙事務所の光景ではない。いや、ビールかけでもやればあり得るのだろうか。
「うおっ。ちょ、ちょっと待ってくれ」
ビビる大貴。一方リナは。
「きゃあ。おじさまナイスバディ!ナイスガイ!おじさまがパパだったらすてきなのに」
リナは強い男が好きなのだろう。事務所には日曜と言うことで候補の妹夫婦も来ているが、いかにも文系の優男の旦那が悄げている。
「どうだ、プリティ刑事リナ・ファンタジック。私と共に来ないか?そうすれば世界の半分とこの筋肉はお前のものだ」
「うん!力こそ正義よね!」
あっさり寝返った。
「どうすんだ、これ。もう勝ち目ないぞ。また愛のパワーでも使って取り返すしかないな」
「あ、愛!?また愛か!」
怯え出す大貴。
「え?愛?愛って何のこと?」
「だめよ、そんなに方々に愛を振りまいたらただの浮気ヤローじゃない」
女の子らしく愛に食いつきかけるリナだが、小百合がそれを阻止した。大貴には佐々木刑事のような大人になって欲しくないという思いの現れであろう。それについては飛鳥刑事も同感である。
「仕方ないな。俺が一肌脱ぐか」
そういうと本当に脱ぎ出す飛鳥刑事。参戦するとなるとヒデロとの格闘は免れまい。子供の遊びでも大人同士となればそれなりの激闘が予期できる。ワイシャツがよれよれになりかねない。そういう意味では相手は失うものは既にないのだ。先に脱いじゃっているのだから。ならば自分も同じフィールドに立つまで、である。
「このピンチに帰ってきてやったぞ。この……地獄師匠がな!」
「あら。地獄に堕ちちゃったの?」
小百合の合いの手。
「天国帰りだと……なんかあんまり強くなさそうじゃないか」
「それもそっか」
「師匠。師匠は……お化けなのか!?」
お化けが嫌いな大貴にとってとても大事なことであった。この答えは間違えると大貴が自分を味方と認めてくれない。
「それは違う。私は……地獄で悪魔として蘇ったのだ」
「何だって!……それならいいや」
飛鳥刑事の答えは間違いではなかった。
「悪魔の仲間になってどうすんのよ……」
だが、大貴の選択は怪しかった。
「それでは、悪の頂上決戦と洒落込もうではないか、魔王・地獄師匠よ!」
肩書きが増えてますますヒーロー宇宙刑事の味方とは思えないキャラになる飛鳥刑事。
肉弾戦が始まるかと思いきや、リナの放った一言で戦いの方向性は大きく変わる。
「おじちゃんもなかなかいい筋肉……」
「ん?そうか?まあそうだろう。若いしな!」
筋肉を見せつける地獄師匠。
「なんのなんの、若い者には負けんぞ。枯れた魅力、詫び寂ってぇ奴だよ」
負けじとヒデロもポーズを取り出す。
「私も君にこの若々しい筋肉と世界の半分をくれてやるぞ。正義のために我らの元に戻っておいで」
魔王・地獄師匠が世界の半分を餌に何か言っている。
「さあ、どちらと共に行くのか選ぶがいい!」
主役であるはずの大貴は完全に置いてけぼりで途方に暮れていた。ひとまず、自分も脱いだ方がいいのか、やめておいた方が身の為なのか悩んでいる。そして白けた目でそれを眺める小百合。
「奪い合ってる間に横からかっさらっていくっていう選択肢もあるわよ」
魔女小百合が正義の宇宙刑事に悪辣な提案をした。ここには悪い大人しかいない。
「さらうって誘拐だよな……?誘拐は、ちょっと……」
さすがの大貴でもあの体験はトラウマになったようだ。この遊びで大貴は様々なトラウマを作ったようである。なのに、なぜまたやるのだろう。
世界が宇宙皇帝の手に落ちるのか、魔王の物になるのか。運命が決しようとした、その瞬間。
「ご当選おめでとうございますっ、聖華タイムズでーす。取材を……」
取材のためにやってきた記者たちは目撃する。幼女の前でボディビルをする新市長と謎の青年を。対応に困る記者たちだったが、カメラマンはとりあえずシャッターを切ることにしたのだった。
翌日の新聞の一面は支持者たちに囲まれ堂々とした様子の新市長の写真が飾った。そしてそこから何枚かめくると、当選の喜びを顕わにする森中市長という見出しでボディビルの写真もとても小さく掲載されていたのだった。
ただでさえよく分からない状況の写真だ。そこにきて、写真が小さく二人の人物の他は何が写っているのかさえよく分からない。多くの市民はその写真をよく分からない写真としてスルーした。ただ漠然と、服を脱ぎ捨ててはしゃいでいる新市長の姿だと認識し、元警察官の名士というからもっと堅苦しい人なのかと思っていたけど案外親しみやすそう、などと思われることになった。
一緒に写っていた飛鳥刑事だが、それが誰なのかを認識していた者はほとんどいなかった。だが、それも最初のうちだけ。佐々木刑事が知り合いのおねえちゃんたちに吹聴して回ったのだ。女性たちの噂話というネットワークにより話はじわじわと伝播し、半月ほどかけて小百合が「恥ずかしくて外を歩けないわ」などと言い出すような事態になっていくのである。もっともそれは小百合が多少自意識過剰なだけで、「あんたの旦那さん、新聞に写真が出てたんですってね」と言われるくらいでその話が終わる程度の話題でしかないのだが。
とにかくこうして、途中こそどたばたしたが結局何事もなく選挙戦は幕を閉じた。もっともそれは飛鳥刑事や森中市長、他の普通の市民たちにとっての話だ。ごく一部の普通じゃない市民、市民と言っていいのか分からない輩・ストーンはてんてこ舞いの大わらわ、修羅場で阿鼻叫喚と言った有様である。いずれ彼らが体勢を立て直したとき、またこの町に混乱が、ちょっとした騒動が巻き起こることになる。だがそのときは今ではない。それまで、この町はしばしの平穏に包まれるのである。
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