Hot-blooded inspector Asuka
Episode 6-『Stone in underground』

第1話 いつか見た草原で

 ゾディアック事件は、一応の収束を迎えた。だが、全てが終わったわけではない。
 チームは佐々木刑事による追跡を、山中にてまきびしをばらまく事にて撒く事に成功した。
 しかし、その車体に付着した牛の糞に混ぜ込まれた発信器には気付く事はなかった。
 すぐさま発信器の放つ信号を元に、さらなる追跡が始められた。チームの作業車は、佐々木刑事の車がまきびしを踏んだ山中を抜けたあと、山を大きく迂回して聖華市の近郊にまで戻ってきていたようだ。その場所で発信機の動きが止まっている。発信機が落ちたか、あるいはその場所に車が停まっているのか。
 大体の位置が特定できればさらに絞り込むのはさほど難しくない。
 森中警視はすぐさま飛鳥刑事に小型受信機を持たせ、現地に送り込むことにした。その際、小百合を同行させるように命じた。
「なぜ小百合を?」
 飛鳥刑事は不思議そうに聞き返す。
「発信機を捉えた一帯は郊外の淋しい場所だ。男一人がうろついていれば目立つし怪しい。男二人というのも似たようなものだ。女性同伴なら多少は怪しさを紛らわすことができる。寂しい場所に男が女を連れて行くのは珍しい事ではあるまい。それにこれはストーンがからんでいる。と言うよりストーンそのものの追跡だ。今のところストーン関係で全幅の信頼を置ける人物は少ない。そこで、君と西川君というわけだ」
 まあ、納得できる話ではある。
「分かりました。それでは捜査に向かいます」
 刑事課を出ると、小百合が私服に着替えて待っていた。いくら目立たないように男女で調査に向かうと言っても、片割れが警察の制服ではなんの意味もない。
「飛鳥刑事、どこに行くんですか?」
「聞いてないの?」
「ええ。飛鳥刑事の捜査に私服で同行としか……」
 まあ、無理もない。署内にはストーンの関係者が潜伏しているだろう。これから、ストーンに関する捜査に向かうと言う事が知られれば、向こうが警戒したり対策を打ったりするに決まっている。
 そうなれば、ここでも余計な事は言わない方がいい。壁に耳あり障子に目ありだ。とりあえず、小百合を署から連れ出してから詳しい話をする事にした。
 飛鳥刑事の車の中も、決して安全ではない。車内に盗聴器くらい取り付けられていてもおかしくはない。現に、今までに何度か見つかっている。ゾディアック事件の忙しさもあってここしばらくチェックしていないので、用心するに越した事はない。
 車に乗る前に、小声で大まかな目的を伝える。小百合の表情も引き締まった。
 そして、車内では万が一盗聴器があった時のことを考えてわざとらしい会話を続けた。この件について、敢えて踏み込んだ話をする必要もない。

 車で10分ほどで目的の場所に着いた。聖華市の周囲を取り囲む、なだらかな丘陵地帯だ。
 辺りは民家もまばら、この道も桜丘市に繋がる道ながらも、近くに大きな道ができたために使われることがほとんど無くなった旧道だ。
 適当なところに車を停め、発信機の反応を探す。小型受信機は小型だけあって、発信機の発する信号が来ている方向と大まかな距離くらいしか分からない。しかし、それだけ分かれば十分だ。
 飛鳥刑事と小百合は信号の方に向かって歩きだす。こんな山の中だ。近くにあるものなどそう多くはない。
 恐らく発信機がある場所は近くにあるゴルフ場だ。
 「チェリー・ブロッサム・ヒル・ゴルフクラブ」と言う看板が駐車場に掲げられている。だが、車は停まっておらず、駐車場の入り口には錆び切った鎖が張られているが、その鎖は全面的に入り口を塞いでいる訳ではなく、車くらいいくらでも通れるくらいの隙間が空いている。
 駐車場に入ると、クラブハウスの横にあるフェンスの一部が撤去されている。そこからコースに車が出入りしているらしく、土に真新しい轍が残されている。そこからコースに入ることもできそうだが、さすがにそれは目立つ。
 クラブハウスのすぐ近くから発信機の反応があった。しかし、見たところあの車の姿は見えない。
 しかし、ここは臭う。人気のない打ち捨てられたゴルフ場。そして、そこにあった車の出入りしている痕跡。そして。
 その鼻が捉えていた。芝生の臭いに混じって漂ってくる田舎の臭い、牛の糞の臭いを。まさに、この場所は臭うのだ。クラブハウス横にあるホースを使い、この近くで牛の糞を洗い流したのだろう。
 この場所。果たしてストーンに関係があるのだろうか。一度署に戻り報告することにした。

 署に戻ると、森中警視は二人を近所の喫茶店に連れて行き、そこで詳しい話を聞くと言う。古びた佇まいの、それでいて洒落た店だ。
 缶コーヒーとインスタントコーヒー以外のコーヒーに縁がない薄給の二人にとっては噂でしか聞いたことがない、モカだのキリマンジャロだのと言った言葉がメニューに並んでいる。どれも、一杯で二人の一日の食費くらいの額だ。その中でも桁外れの額のブルーマウンテンを何の躊躇いもなく注文する森中警視。
「君たちも同じでいいかね」
 自費でであればお冷やで十分だが、奢りなのだ。しかも、向こうから一番高い物を奢ると言っているのだ。ここで自分はモカでいいですなどと言うのは、むしろ失礼だ。勝手にそう納得し、もう当分口にすることもないだろうブルーマウンテンとやらを、ありがたくご相伴にあずかることにした。
「しかし、こんなところでこんな話をしていいんでしょうかね。誰かに聞かれませんか」
 飛鳥刑事は小声で森中警視に訊ねる。
「署内よりはマシだ。この店に来るのは初めてでね。まさか連中もここに先回りしていることはあるまい。追っ手が来ることはあるかもしれない。その前に話だけ聞いておこう」
 そう言われ、飛鳥刑事はゴルフ場で見たものについて報告した。報告が終わること、注文していたコーヒーが出て来た。上品ぶったコーヒーカップに上品ぶった量のコーヒーが注がれている。値段にそぐわないその量に、下品に取り乱したくなる気持ちをぐっと押さえ込む飛鳥刑事。
「あのゴルフ場、果たして連中に関係あるんでしょうか?」
「うむ。私は私であそこにあったゴルフ場について調べてみた。かつてはそこそこに流行っていたが、バイパスができてそちらにゴルフ場ができると一気に寂れたようだ。別な運営会社が権利を買い取りって再オープンする予定だったが、いつの間にかその話は立ち消えになっている」
「そういえば、クラブハウスの窓に昭和50年春・再オープンと言う張り紙が出ていましたね」
 今は昭和50年の秋だ。にもかかわらず、再オープンしている様子はまるでない。
「当初は随分と工事の車が入っていたようだがね。ただ、不思議なことに、それだけ派手に工事をしたはずなのに、コースなどはほとんど変わった様子がないそうだ」
 店に新たな客が入って来た。騒がしい女子大生三人組だ。席に着くまで、いや席に着いても、自分たちで喋るのに忙しく、他人の話に聞き耳を立てる様子はない。
 こんな軽そうな女子大生でさえこの高い店でコーヒーを飲んでいるのに、一生懸命市民のために働いている自分はここのコーヒー一杯分で一日を生きているのだ。なんとなく卑屈な気分になる飛鳥刑事。
 だが、彼女たちの注文したものはコーヒーではなく、少し安い紅茶だった。なんとなく、気分はよくなった。
「で、何の工事をしたんですか、それ」
「それが分からないから、あの場所に何かあると思っているのだよ。コースに何の変化もないのなら、どこが変化したと思う?」
 地上に変化がないのなら、変化があったと考えられるのは。
「……地下、ですか」
「だろうな。まさか寂れたゴルフ場の地下に別なものがあるとも思うまい」
 あのゴルフ場はさらに調査をする必要がありそうだ。しかし、見晴らしのいい場所だけに、下手にうろつけばかなり目立つだろう。そう容易く調べられはしない。
 流石に、白昼には。
 今夜、改めて調査をすべきだ。夜の闇の中なら目立たない。
「昼間下見に来て、夜もやって来たカップル。怪しいところは何もないだろう」
「別な意味で怪しいですけど……」
 とにかく、今夜再びあのゴルフ場に行くことになった。
 話は決まり、署に戻る。署には佐々木刑事と伊沢刑事が捜査から戻って来ていた。
 二人が何の捜査に行っていたのか飛鳥刑事は聞いていない。
 森中警視はこの二人も外に連れ出した。何の捜査をしていたのかは分からずじまいだ。こちらも気になるところではある。

 9時になった。飛鳥刑事は同じアパートに住んでいる小百合に声を掛けに行く。見逃せないドラマがあるので9時まで待ってくれと言われているのだ。
 警備課は刑事課に比べて緊急出動が必要になることが圧倒的に少ない。お陰で気楽にドラマを見逃さずに過ごせるという訳だ。
 小百合はワンピース姿で現れた。昼間はブラウスにジーンズだった。飛鳥刑事の服装は言うまでもなく背広だ。何せ、着て外を出歩けそうな服はそのくらいしかない。小百合は飛鳥刑事よりも衣装持ちであることが明白である。
 二人は車に乗り込み、夜のドライブと洒落込むことにした。
 市街地を抜け、ほどなく郊外に出る。街灯はなくなり、前に見えるのはヘッドライトに浮かび上がる薮と雑木林になる。ドライブという気分では既にない。夜走るには寂しすぎる道だ。
 ゴルフ場のある丘に差しかかった。ゴルフ場の名前は「チェリー・ブロッサム・ヒル」だが、桜丘市との境はこの丘の更に向こうだ。
 車を降り、聖華市の方向を振り返る。遠くに宝石をちりばめたような夜景が広がっていた。この景色は奇麗だ。進行方向は闇だが。
 闇に目が慣れると、空に浮かぶ半月の光だけでも辺りの状況が見て取れるようになる。
 二人はゴルフ場跡地に入って行った。
 駐車場に一台車が停まっている。この車は何だろうか。飛鳥刑事はナンバーを控える。そして、慎重に車内を覗き込んでみた。助手席に女物のハンドバッグが残されている。車そのものは女はあまり乗らないような飾り気のない黒い車。なんとなく、分かる。いろいろと。
 とりあえず、まずはクラブハウス周辺をよく調べて見る。牛の糞の臭いがまだ漂っている。
 受信機を使って、半ば牛の糞に埋もれた発信機を見つけた。やはりこの場所で車を洗ったようだ。
 こびりついた牛の糞を芝生になすり付けてから、持って来ていた新聞紙とビニール袋で包んでポケットに収めた。発信器はウズラの卵ほどの大きさがある。洗うときに気付かれなかったのだろうか。
 気付いていればどこかに持ち去り、ミスリードしようとするはずだ。だとしても、そのとき牛の糞までは持ち歩かないだろう。こうして牛の糞にまみれて発信器が落ちていると言うことは、やはり気付いていなかったのか。
 ここで牛の糞を洗い流した後、作業車はどこに消えたのか。
 もちろん、ここで車を洗い、出入口から外に出てどこかに行ったということも十分に考えられるが、そもそもこのゴルフ場跡地そのものに怪しい点があるのは見逃せない。それに、こんなゴルフ場のクラブハウスの横で、車を洗おうなどと考えるのは、ここにホースがあり、水がで、車が入れることを知っていたと言うことだ。連中はこの場所のことをよく知っていると考えて間違いない。
 とにかく、コースに沿って奥に向かうことにする。闇の中とはいえ、月明かりもある。コースの真ん中を堂々と歩くのは気が進まない。ゴルフ場を取り囲む林に沿って歩いて行く。
 そのとき、飛鳥刑事は何者かの気配に気付き足を止めた。
 声が聞こえる。飛鳥刑事は耳をそばだてた。林の奥から何か甲高い声が聞こえる。
「あ……ああ。いいわあ、もっとぉ……」
 飛鳥刑事は林を避けてコースの真ん中を通ることにした。
 どうやらさっき駐車場で見かけた車の持ち主たちらしい。丘の上で夜景を眺め、ムードを盛り上げたところで……と言ったところか。そういえば、ここに来るまでにも何台か路肩に停まっていた車があったが……。
 自分たちも、こういう手合いの振りをしてここを歩いているのだ。こういう手合いがいるのはむしろ好都合といえる。自分たちも、もっと堂々としていても怪しまれないかもしれない。
 コースの上を歩いていて、飛鳥刑事はふと気付く。オープンが見送られて打ち捨てられているゴルフ場にしては芝が荒れていない。今すぐプレイできそうなコンディションだ。やはり何かある。
 次のホールに着くと、様子が一変した。それこそ、芝は荒れ放題、ホール全体が深いラフのような有り様。素直に言えば、ただの薮だ。
 こっちは分かりやすいほどに、使われても手入れもされてもいないことが表われている。そういう心理トラップかもしれないが、ひとまず今は放っておくのが無難か。きれいに手入れされている第1ホールこそ何かありそうだ。
 グリーンの上に立ち、コースを見渡す。緩やかに曲がったコースだ。グリーンの側にはバンカー、コースの中程には大きな池がある。
 飛鳥刑事と小百合は池を覗き込んだ。澄んだ水が湛えられ、風が凪ぐと水面に映し出されていた無数の月のかけらが揺らぎながら寄り集まって揺らめく月となり、風の起こすさざ波にまた散っていく。
 町の喧噪はここにはない。時折吹く風の音、ざわめくような虫の声。そして、更に耳を澄ますと……さっきのカップルの声が聞こえるので、あまり聞き耳は立てない方がいいようだ。ただでさえ、隣に小百合がいるのだ。間違いを起こしそうになったらどうするのか。
 ふと小百合のほうに目を向ける。小百合はじっとクラブハウスの方を見つめている。
「何かあったの?」
 飛鳥刑事に声を掛けられ、はっとする小百合。ボーッとしていたようだ。ときどきぼけーっとしていることもあるので気にはならないが、警備の仕事もこんな調子ということはないのだろうか。不審者数人くらいは見落としていそうだ。
「退屈?……まあ、退屈だよな、こんなところ。大体感じは掴んだし、そろそろ帰ろうか?」
 見た感じ、気になった点はまずこの使われるあてがないのにやけに整備された1番ホールだ。2番ホールの荒れようと比較して不自然極まりない。
 そして、落ちていた発信機。あの作業車がここに立ち寄ったのは間違いない。やはり、この場所には何かありそうだ。本格的な調査が必要だろう。
 飛鳥刑事は小百合を連れて戻ることにした。
 さっきのカップルが潜んでいる所の反対側の林に沿って引き返して行く。
 クラブハウスも覗き込んでみる。50年春再オープンと書かれた張り紙で窓やガラスドアが覆われ、中はほとんど見えない。隙間から覗き込むと中はガランとしていた。気になるものは特にない。
 飛鳥刑事はクラブハウスの扉が開かないかどうか、試してみた。その時。
 じりりりりりりりりりりりりり。
 けたたましい非常ベルの音が建物の中から聞こえて来た。
 飛鳥刑事と小百合は脱兎のごとき勢いで一目散に逃げ出した。

 飛鳥刑事と小百合は息を切らせながら車に駆け戻り、乗り込んだ。
「あー、びっくりした……」
 飛鳥刑事はほっと胸をなでおろす。いきなりのあの音量は心臓に悪い。非常ベル全般に言える事だが、いきなりあんなのが鳴ったら、驚いて失神して逃げ遅れる人も出るのではないだろうか。
 飛鳥刑事は車を走らせた。
 少し行ったところで道路脇に明かりを見つける。ジュースの自動販売機だ。さっき驚いたせいもあり、喉が渇いた。
「何か飲む?」
 小百合に声を掛けて見るが、反応はない。硬い表情でダッシュボードをぼんやりと見つめている。
「小百合?」
 もう一度呼びかけると、小百合ははっと顔を上げた。またぼんやりとしていたようだ。さっきからこんなことばかりだが、どうも様子がおかしい。いつも以上にぼんやりとしがちだ。心ここに有らずと言った様子である。
「どうした?大丈夫か具合でも悪いのか?」
「ううん。なんだろ。今日は何かおかしいな、あたし。ドラマのせいかなぁ」
 出掛けに見ていたドラマのことか。くだらないメロドラマだったはずだ。時間が時間だけに、昼メロのようなどろどろねちねちした愛憎劇ではなく、さわやかなラブロマンスものだが、飛鳥刑事にとっては極めてどうでもよかった。
 飛鳥刑事は小百合の分も合わせて2本のジュースを買った。小百合には夜、缶から飲むと分かりにくいが毒々しい色の炭酸飲料を、自分は缶コーヒーというコーヒー風味の砂糖水。
 小百合は炭酸で気持ちも落ち着いて来たようだ。飛鳥刑事は昼間飲んだブルーマウンテンとの味の落差に悶えた。甘すぎる。
 とは言え、昼間のブルーマウンテンもなんだかよく分からない味だった。インスタントコーヒーとは次元が違う飲み物だとは感じたが、良さはいまいち分からなかった。やはりモカから入った方が良かったのでは。
 それぞれ、ジュースとジュースとしか言えない名前だけコーヒーの飲みものを飲み終え、自販機横のくずかごに缶を捨てに行く。
 再び車に乗り込もうとした小百合はドアを開けた所でふと足を止めた。
「夜景、きれいですね」
「うん。こんな夜景が見られる所があったんだなぁ」
 時間は丁度一家団欒も終わり、子供たちも自室に戻って自分の時間を過ごしている頃合いだ。家々の明かりもそれだけ増えている。
 町にはけばけばしいネオンサインは多くない。華やかさはないが、星が地上に零れたような質素で上品さのある夜景だ。
 この丘は星も良く見える。近くには小さな天文台もあるくらいだ。星空と町の明かりが遠くの海で隔てられている。
 幻想的な眺めだ。カップルも来る訳である。道は寂れきっている。邪魔者も来ない。カップルくらいしかこの道を通らないのではないだろうか。
 小百合はしばらく夜景を見つめていたが、やがて満足したのか車に乗り込んだ。飛鳥刑事も車に乗り込み、発進させた。

 飛鳥刑事はその夜なかなか眠ることができなかった。
 夜も遅いのにこれっぽっちも眠くならないのだ。なぜか。少し考えて思い当たる。夕暮れ前に飲んだブルーマウンテン、そして夜の缶コーヒー。どう考えてもカフェインの仕業である。
 仕方ないので適当な本を取り出して読み耽る。学生時代から愛読している文庫本だ。ぼろぼろで、内容ももう分かり切っているが、最近は新しい本を買う余裕もない。読み飽きた本のおかげもあって、夜明けが近づいたころにようやく眠くなって来た。
 明日、起きられるだろうか。もっとも、寝坊しそうになっても小百合が叩き起しに来るだろう。
 そう思いながら眠りに落ちかけたとき、ドアをノックする音がした。
 なぜこんな時間に。聞き間違いか。でかい蛾でもドアにぶつかって来たのか。そう思ったとき、もう一度ドアがノックされた。
 飛鳥刑事はドアを開けた。そこにはパジャマ姿の女性が立っていた。三つ編みも解かれ、メガネもかけていないので誰なのか気付くのに時間がかかったが、小百合だった。
「ど、どうしたこんな時間に」
「起こしちゃってごめん。でも……」
 起こしたと言う以前に、まだ寝てもいないが。
 小百合は辺りを警戒するように見回した後、飛鳥刑事の部屋に入って来た。そして、飛鳥刑事に小声で言う。
「あたし、思い出したの」
「え、何を?」
 小百合はあのゴルフ場に行ったときから、何かが心に引っ掛かっていたそうだ。結局、その何かが何なのかは分からないまま眠りに就いた。
 そして、夢を見た。
 月明かりの中、あのゴルフ場を一心不乱に走る夢。その夢で小百合は汗びっしょりになって目が覚めた。
 目を覚まして、ふと思う。脂汗にまみれて跳び起き、鼓動は激しい。悪夢を見て跳び起きた時と同じだ。だが、今の夢はそこまでの悪夢だっただろうか。ただ、ゴルフ場を走るだけの夢。そんな夢になぜ恐怖を感じるのか。
 よく考えてみた。そのとき、一つの光景が記憶によみがえって来た。
 小百合はあの夢と同じように月明かりの下、あのゴルフ場を一心不乱に駆けていた。背後ではあの非常ベルが鳴り響いている。その音を聞き付け、追っ手が動き出していた。
 あの池を回り込み、バンカーを躱す。追っ手はどんどん迫って来ていた。
 小百合は裸足だった。草が容赦なく小百合の足を切り裂く。
 その痛みと疲れ、そして目の前に広がる薮。小百合は追っ手に取り囲まれ、捕らえられた。両腕を掴まれたまま、あのクラブハウスに連れ込まれて行く。
 そのときの恐怖と絶望感がよみがえって来たのだ。
 それはローズマリーが小百合と入れ替わっていたころ、小百合がストーンに捕らえられていた時の記憶。今まで催眠術によって思い出すことを封じられていた記憶だった。
 だが、思い出してはいけないという強い暗示は、何を思い出してはいけないのかという指示と共に心に刻み込まれる。暗示が働いているという事は、その思い出してはいけない記憶も心に強く焼き付けているのだ。
 そして、そのような暗示は、意識が強く“無意識”に働きかけることで成り立つ。逆に言えば、意識の働きが無い無意識の状態では暗示は働かない。
 思い出してはいけない出来事の中にあった景色を目にし、その印象に残したことがきっかけとなり、夢という制御できない無意識が、開いてはいけない記憶の引き出しを開いてしまったのだ。そうなれば、あとは開きかけた引き出しを開くだけ。暗示のために逆に心に強く焼き付けられていた記憶が、見る間にフラッシュバックしてきたと言う訳だ。
「明日、森中警視にその話もしよう」
 話を聞き終えた飛鳥刑事は小百合に言う。
 あのゴルフ場がストーンに関わりがあるのはほぼ間違いない。しかも、ストーンの核心に迫るほどの関わりが。
「起こしちゃってごめんなさい。あたし、怖くて……」
 小百合は再び詫びたが、返す返すも、まだ寝ていない。むしろ、ただでさえ眠れていなかったのに眠るのが更に遅れた感じだ。明日起きられるかどうかが不安だ。そう思ったとき、小百合は言った。
「飛鳥刑事。今夜は、この部屋に居ちゃだめですか?」
「え、なんで?」
「怖くて……、一人になりたくないんです」
「そうか。いいよ。でも、布団これしか無いけど」
「どうせ、もう眠れそうも無いです」
「ああ……。あ。じゃ、明日朝になったら起こしてくれない?」
 飛鳥刑事は自分がカフェインのせいで眠れなかったことを告げた。小百合はもちろん快諾し、飛鳥刑事も安心して眠りに就くことができた。

 翌朝。小百合に揺り起こされると、時間は出勤間際だった。一瞬慌てるが朝食の用意もあらかた終わっており、後は食べて着替えて出るだけになっていた。
 飛鳥刑事が食事を取って着替えている間に小百合も着替えた。
 いつも通りの出勤風景になるが、なかなか眠れなかった飛鳥刑事も、夜中に目を覚まして以来眠っていない小百合も寝不足だ。
「よう、眠そうだなお前ら。二人そろって夜遅くまで何をしてたんだ?」
 二人そろって眠そうな顔でやって来たのを見て佐々木刑事が茶化して来た。
 やがて、森中警視もやって来る。
「警視。昨晩の調査についての報告ですが……」
「うむ。詳しい話はまた昨日の店で聞こうか。二人とも眠そうだから濃いめのコーヒーでも飲みながら話を聞こうか」
 喫茶店に連れ込まれた二人は早速昨日の報告をおこなった。
 今日はモカが注文された。森中警視は時間帯によって飲むコーヒーを変えるらしい。昨日のブルーマウンテン同様、インスタントコーヒーや缶コーヒーとは違う次元の代物だということだけは感じた。
 昨夜見たもの。そしてそれが原因で見た夢。全てを伝えた。森中警視はコーヒーの香りを嗅ぎながら、黙ってその話に聞き入った。
「思った以上の収穫だったな。私にとっては十分目の覚める話だった。まあ、君たちはそれも度が過ぎて寝不足のようだがね」
 森中警視は、そう言うとコーヒーを口に含んだ。森中警視は目が覚めたようだが、飛鳥刑事の寝不足の原因は昨日こうしておごってもらったコーヒーと自分で買った缶コーヒーのカフェインのせいだ。
「他にも何ヶ所か目をつけていた場所はあった。だが、これ程まで目を引く場所を見つけてしまっては注目しない訳にはいかない。相手に逃げる隙を与えないためにも、今からみんなで押しかけてみようじゃないか」
 森中警視はそう言うとにっと口元に笑みを浮かべた。

 署に戻ると、森中警視は刑事や警官数名を引き連れ、目的地を告げずにパトカーを走らせた。
 場所も告げずにどこに向かうのか。皆一様に訝る。そんな中、途中から一人だけ表情を強ばらせるものがいた。伊沢刑事だ。
 まさか。この方向は。この道は。パトカーは、まさかまさかと思う方にどんどん向かって行くのだ。
 やがて、パトカーはゴルフ場の駐車場に入って行く。
 なぜここが分かったのだ。まさか。
 伊沢刑事は硬い表情のままパトカーを降りた。
 狼狽えるな。下手に焦って動くと自分の正体に気付かれる。まずは、なぜここに来たのか、ここで何をする気なのか。それを確認しなければ。
 恐らくは、黙っていれば誰かがそのことを聞くに決まっている。
 そして、案の定刑事の一人から質問が飛んだ。このゴルフ場跡に何があるのかと。
「佐々木君。ここがどんな場所か知っているかね」
 いつもの思わせ振りな話し方が始まったか。この男が知るはずない。だが、佐々木刑事は意外なことを言う。
「そりゃあ、もちろん。ちょっと知れた場所ですからね」
 何だと。そんな馬鹿な。
「そうなのか?」
 森中警視もそれは初耳だったらしい。
「俺も何度か来たことがありますよ。……ナンパ師の間じゃちょっと知られたスポットでしてね。最近じゃ野外プレイのメッカとも呼ばれてるっす。丘のてっぺんで夜景を見ながら愛を語らい、人気の無いゴルフ場跡地でオープンな星空の下燃え上がる、と」
 イスラム教徒に怒られそうなメッカだ。森中警視もそんな事情は知らなかったようだ。
「一応所有者がいる土地だぞ。不法侵入じゃないか」
 森中警視の言葉に佐々木刑事は人差し指を立て、チチチと舌を鳴らす。
「ここに来る連中はどいつもこいつも不法侵入以上に罪深い“侵入”を企てる野郎と、それを受け入れる気満々の女ばかりっす」
 よく分からない反論だ。ただでさえどうでもいいことなのだから、こんなものに更に反論して無駄な時間を費やす必要も無い。
「とにかく。先日のスコーピオン盗難の犯人グループの車が、このゴルフ場を訪れている可能性が大変高いことが判明した。ただ、その後の行方に関しての情報が一切無い。そこで、ここで今日は何らかの痕跡が無いか探してもらいたいのだ」
 他の刑事たちもそれは初耳だったようだ。だが、犯人グループがここを訪れたという根拠について聞き出そうとする者はいないのか。仕方ない。伊沢刑事は自分でその疑問をぶつけてみることにした。
 刑事や警官から、おお、言われてみれば、などと声が上がった。言われる前に気付いてほしいものだ。
 ストーンは多数の構成員を警察にスパイとして送り込んでいる。総構成員数の4分の1は警察に潜り込んでいるのだ。
 国家公務員第一種試験に合格すれば、キャリア警官としてすぐに重要な地位に立てる。採用に際し、経歴にも怪しい所など無い。乗っ取った戸籍で一般人に混じって学校に通い育った、傍目に見ればごく普通のエリートでしかない。ただ、自宅に帰ればストーン構成員である両親から、ストーン構成員としての生き方を教育されるのだが。
 そうやって警察に入り込んだ彼らは、組織に情報を流したり、捜査を誘導・撹乱するなどの工作のほか、警察官の質を落とす工作も行っている。人事を担当すれば敢えて出来の悪そうな志望者を採用してみたり、有能な警官に罠を仕掛け、失職や場合によっては殉職させたり、昇進を妨害したり、経歴に汚点を付けたり。
 おかげで質の悪い警官も増えて来てストーンとしても仕事がやりやすくなってきてはいるのだが、逆にこちらの思うように動いてくれないこともしばしばだ。ミスリードを誘うためにせっかく用意した意味深長な偽の証拠にも興味を示さないまま、分かりやすい真実にそのまま行き着いてしまう。いいことばかりではない。
 森中警視が県警から飛ばされてこんな地方署でヒラの刑事に混じって捜査を行っているのも、ストーンの計略に引っ掛かったためだった。しかし、警察側も馬鹿ではない。薄々この事に気付き、ストーンにとって一番痛い所に森中警視を飛ばしたのだ。
 そうやってストーンにとって一番飛ばして欲しくないところに飛ばされて来た森中警視は、ストーンにとって一番探って欲しくない場所を探ろうとしているのだ。
 そして、ここに自分を連れて来た。この事が何を意味するのか。
 自分がストーンのスパイだと知らずに何の気無しに連れて来たのか。それとも、全てを見抜いたうえで出方を窺っているのか。伊沢刑事は自分がどうすべきか決めかねていた。
 とにかく、ここがばれた理由だ。それは森中警視の口から語られた。
「実はあの車には牛の糞と一緒に発信機が付着していたのだ。牛の糞と一緒に洗い落とされていたのを飛鳥君と西川君が昨夜ここで発見してくれた」
 言葉には出さないが、伊沢刑事は心の中でなんだってええぇぇと叫んだ。あいつら、そんな大ポカまでやらかしていたのか!とことん、役に立たない連中だ。
「なんだってえええええ!?」
 伊沢刑事は自分が思わず声に出してしまったのかと思ったのだが、そうではなかった。佐々木刑事が叫んでいた。
「飛鳥と小百合が野外プレイのメッカに、夜中に二人きりで!?」
 何を言い出すのか、この男は。
「何もありませんでしたから!」
 真っ赤になりながら声をそろえて反論する二人。
「こんなところまで来ておいて、何もなかったのならそれはそれで大きな問題だと思うけどなぁ……」
 そんなに大きな問題なのか。どうでもいいではないか。そんな事より、どうやってこのピンチを切り抜けるか。このまま何もなく警官達が引き上げてくれるように仕向けるしかない。だが、あの森中がそんな策略にあっさりと引っかかってくれるものか。伊沢刑事は考えを巡らせた。


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