Episode 4-『胎動』第5話 闇に消えた真相
今度は森中警視と共に、再び地下通路を探索する。森中警視は思わず感嘆の声を漏らした。
「これはずいぶんと大がかりなものだ。思っていたよりもずいぶんと広い」
くまなく歩き回ると、森中警視は結論を出した。
「犯人は西川君を担ぐなり背負うなりして移動していた。そうなればそう遠くまでは行かないだろう。近い所から、行き止まりになっている所の上に何があるか割り出していこう」
地図を用意し、オケラ屋を基点にして巻き尺と方位磁針を使いながら地下通路の地図を描き加えていく。
三つほど行き止まりの印が付いた所で、飛鳥刑事はその行き止まり地点の地上の様子を探りに行くために駆り出された。
最初の場所はオケラ屋と同じ通りにある花屋だった。それほど流行ってはいないようだが、一応店はやっている。
次の場所は喫茶店になっていた。こちらはずいぶんと客が入っているようだ。
最初に印が付けられた場所では最後になる三箇所めは貸店舗になっていた。
現在使われていないのは怪しい。飛鳥刑事は貸店舗の入り口の扉を確認してみた。鍵はかかっている。周りを一巡し、裏口を見つけたがそちらも閉まっている。
ひとまず飛鳥刑事は地下通路にいる森中警視にこの状況を伝えることにした。
その頃。連れ去られた小百合は再び目を覚ましていた。
小百合は体を起こし、あたりを見渡す。なんの飾り気もない殺風景な部屋だ。オケラ屋の地下室かと思ったが、狭すぎる。
自分はなぜこんな所に倒れていたのだろう。必死に思い出そうとするが、なにも思い出せない。どこから思い出せないのだろう。今日の行動を順番に思い出してみる。地下の警備を始めたあたりで記憶が途切れている。
なぜ?考えてみるがまったく分からない。
とにかく、ここがどこなのかが気になる。それにオケラ屋で何か起こっているかも知れない。急いでオケラ屋にも戻らなければならない。
小百合は入り口の扉を開けようとした。だが、扉は開かなかった。閉じこめられている。なぜ?誰に?
だが、それよりも先に出る方法も考えなくてはならない。小百合は再びあたりを見渡した。
高い所に採光のための小さな窓がある。しかし、踏み台になるものもなにもないこの部屋では手も届きそうにない。手が届いても、出ることはできないほど小さな窓だ。
さほど頑丈そうでもないこの扉を破った方がいいのではないか。そう思い、小百合は扉に体当たりを始めた。
証明が落とされたこの部屋を包んでいるのは揺らめく青い光。
ストーン総裁は待っていた。話では、そろそろのはずである。
ノックがされ、岩田が部屋に入ってきた。
「計画は全て終了しました。あとは処刑を行うだけです」
「そうか」
この部屋で交わされた言葉はこれだけだった。
「警視ー!どこですかー!」
地下通路に戻った飛鳥刑事は森中警視を呼んだ。
「こっちだー」
遠くからすぐに返事が返ってくる。
声のした方に急ぐと、森中警視を見つけることが出来た。佐々木刑事はいない。飛鳥刑事のように三箇所をチェックしに行かされていると言うことだ。
「で、どうだった」
森中警視の問いに、飛鳥刑事は見てきた三箇所の様子を伝えた。
「ふむ。空き家になっている店が怪しいな。客の出入りの多い喫茶店は使いにくいだろう。花屋も客がこないとも限らない。店主が犯人の協力者で、店内を通り裏口を使うという手もあるが……」
言いながら、地図に飛鳥刑事から聞いた話を書き込んでいく。
そして、飛鳥刑事には次に調べてくる場所を告げた。
飛鳥刑事は早速その場所に向かう。地下通路ではすぐにたどり着ける場所でも、地上では建物に阻まれ、なかなかに遠く感じる。
だんだん建物の多い込み入った区画になってきた。示された場所はこのあたりだ。この辺になるとただでさえ建物が多い所に来て、測定にも誤差が出る事が考えられる。付近の建物数棟を調べないとならない。
最初のポイント周辺ではとくに変わったものは見つからなかった。オフィスビルや小さな喫茶店などがある。どれも使われている建物ばかりだ。そもそもこの一帯は人通りの多い通りに面している。小百合がここを通って連れ去られたとも考えにくい。
次のポイントに来た。ここも先ほどと大差ない。ざっと調べて最後のポイントに移動しようとした。
その時、飛鳥刑事はどこからか聞こえてくる物音に気付いた。
通りを走る車の音や行き交う人々の話し声などに紛れ、何かを叩くような音が微かに聞こえてきている。くぐもっているが、近くのようだ。
飛鳥刑事は音の元を探してみた。ただでさえくぐもって聞こえるような音だ。音の元は見える所にあった。
貸しビルの看板が掛けられていたビル。その側面の地面のそばにある小窓から物音は聞こえてくる。小窓には針金入りの曇りガラスが嵌っており、中の様子は窺えない。
飛鳥刑事か小窓を叩いてみた。中の物音が止む。
「誰かいるのか!」
飛鳥刑事が声をかけると、中から返事があった。
「出してぇ〜」
声だけでははっきりしないが、小百合のような気がする。
「小百合か?」
念のために聞いてみた。
「あっ、もしかして飛鳥刑事?助けてぇ〜」
間違いなかった。
「よし、待ってろ。今行く!」
飛鳥刑事はそう言って駆け出した。
駆けだしたのはいいが、どうやって入るかが問題だった。
どうしようもなければ窓か扉をぶち破るという手もあるが、それは最終手段だ。
入り口は閉まっている。窓も開かない。裏口も鍵がかかっている。
結局一周回ってしまった。そこで飛鳥刑事は物音が漏れていた小さな窓を思い出す。ここから小百合を助け出せないか。
「小百合、この窓は開かないか?」
「無理!手が届かないよ。それにこんな小さな窓通れない〜」
「痩せろよ……」
「うるさーい!痩せても通れるかー!女にゃおっぱいがあるんだぞー!」
飛鳥刑事はそんなに大きくないだろ、と言い返したくなったが、こんな所でそんな下らない言い合いをしている場合ではない。そもそも、つっかえるとすれば尻だろう。
とりあえず、非常階段を登り、非常ドアで開く物がないか探してみた。
運良く3階の非常ドアが開いた。と言うか、立て付けが悪くよく閉まらないようだ。ビルに侵入した飛鳥刑事はまっすぐ下を目指した。恐らく小百合がいるのは地下室だ。
地下にはいくつかドアがある。呼びかけると返事が返ってきた。声が聞こえてきたドアを開けようとするが、鍵がかかっている。
「中から開かないか?」
「開けられたらとっくに開けてる」
「だよな……」
だが、ドアには鍵穴があるだけで鍵を開けるためのノブなどはない。鍵がないと開けられないようだ。
「仕方ないな」
飛鳥刑事はドアを蹴破ることにした。
三回ほど蹴ると、ドアは勢いよく開いた。内開きのため、小百合がいくら体当たりしても開かなかったようだ。
「無事か!?」
「うん、なんとか」
「一体何があったんだ?」
「それが……。全然思い出せなくて」
小百合は飛鳥刑事に、自分の記憶がオケラ屋の警備を始めたあたりで途切れていることを伝えた。
「それは妙だな。仕事が退屈で居眠りしてたなんて事はないよな?」
「ないですよ。あたし、犯人を捕まえたら便所の床に叩きつけてやるって気合い入ってたんですから」
「ああ、そう言えばそうでした……」
飛鳥刑事は呆れ顔だ。
「もしかして……」
小百合は何かに思い当たったように口を開いた。飛鳥刑事は次の言葉を待つ。
「あたし、宇宙人に拉致され」
「それはない」
飛鳥刑事は小百合の言葉を遮った。
ひとまず、小百合が無事に見つかったことを森中警視に伝えねばならない。
オケラ屋に戻ると、森中警視は店舗に上がってきていた。
「警視、小百合が見つかりました!」
飛鳥刑事が言うまでもなく、後ろについてきている小百合を見て森中警視は小さく頷いた。
「無事で何よりだ」
「ご迷惑おかけしました」
小百合は軽く頭を下げた。その後、消えた記憶のことを含めて一連の出来事を伝える。
「もしかしたら、犯人は宇宙人かも知れませんよ。きっとあの地下室には宇宙人の秘密基地があるんです!」
小百合はまだ言っている。
「実は、さっきそれらしい物が見つかったよ。地下を縦横無尽に繋ぐ地下通路で、恐らくは地底王国に繋がっているのだろうが、地球上のテクノロジーでは開くことの出来ない扉で塞がれている」
森中警視はノリがいい。
問題は、小百合がジョークで言っているのではなく本気で言っていることである。森中警視はそれを分かっていない。
森中警視に地下室の通路入り口を見せてもらい、小百合は完全に信じ込んだ。こんなに騙されやすいのは警官としてどうなんだろうか。まあ、相手が森中警視だからと言うのもあるのだろうが。
地下から戻ると、警官が慌てて店内に駆け込んできた。
「警視!犯人と思しき人物からコンタクトがありました!『ファントム』を名乗る人物が、西川小百合は葵通りの貸しビル地下にいると電話をかけてきました!」
「今頃言われても困る、もっと早く言ってくれと伝えておいてくれ」
「残念ながらもう電話は切れてます」
「わかっとる、冗談だ」
タイミング的には救出後となり、間の抜けた感じになったこの電話だが、この電話があったことで、あのまま犯人は小百合を返すつもりだったことがはっきりした。
小百合が見つかったことで騒動は一段落し、代わりに警備の警官が増えた。女子トイレ前は小百合達婦人警官が警備しているが、地下室は男の警官が見張っており、用心などのために地下室が開け放たれた。おかげでトイレに入りにくいと女性店員達は不満そうだが、被害者になるよりはましなので諦めるしかない。
結局その後は、その日も、その後の日もなにも起こらず、オケラ屋に今まで通りの平穏な日々が戻った。ただ一つ、以前と違うのは地下室の壁に開いた大きな穴だけだ。
気味が悪いので、穴の前に段ボール箱を積み上げて塞ぎ、地下室の扉には鍵を掛けて、板で打ち付けて塞いでしまった。
こうして、この奇妙な出来事は一応の幕切れを迎えたのである。
だが、警察の捜査が終わったわけではない。
オケラ屋が地下室を封鎖する前、オケラ屋の地下の廊下で、鑑識課員が床に散らばる翡翠の粉に気付いた。
ごく微量ではあったが、寒々しいコンクリートの上で微かな輝きを放っていたそれは、鑑識課員達の目を引くものであった。そして、分析によりそれが翡翠であることが刑事達に伝えられると、刑事達の脳裏には即座にローズマリーの高飛車な笑い顔が浮かんだ。
「ローズマリーが関わっているって言うことは、ストーンとも今回の出来事に関わってるんでしょうか」
飛鳥刑事の言葉に森中警視は暫し考え込む。
「あの地下通路が江戸時代にまで遡るとすれば、当時この一帯で大きな力を持っていた、石川商店の前身石川屋が何かに使っていたと言うことになるのだろう。そうなれば、それをストーンが受け継いでいてもなんの不思議もない。あり得る話だ」
「と言うことは、あの地下通路を詳しく調べていけばストーンの核心に迫れる可能性もありますね」
「いや、今回我々が見た区画で全てとは限らん。あの狭い区域だけを結ぶために地下通路があったとは思えないからな。一応、江戸時代のこのあたりの地図を探して照合してみることにするよ」
こちらに関しては、捜査とは直接関係もないので、個人的に気長に調べていくしかない。
問題は小百合の方だ。
なぜ、小百合が攫われたのか。小百合は一体何をされたのか。
その小百合が見つかったビルも、検証の結果、やはり地下が例の通路と繋がっている可能性が高まった。オケラ屋も壁をバズーカで撃ち破ってようやく入り口を見つけたのだから、実際に開けて確認するにはいたっていない。さすがに、今回は緊急事態でもないので壁を壊すわけにもいかない。
このビルの所有者についても調べた。現在このビルを取り扱っている不動産屋はこのビルを安く払い下げてもらったと言うことだが、それ以前は小さな商社が使っていた。そして、その商社について詳しく調べてみたところ、石川グループの傘下の企業と繋がりがあることまで突き止めることが出来た。が、今はその会社は倒産してしまっているので、それ以上のことはなにも掴めなかった。
何を調べてもそんな調子で、大した進展もないままに捜査は滞った。
一方のストーンも、今回の警察の行動には意表をつかれた。
なんと言っても、あの地下通路の存在に気付いたことだ。よもや、バズーカで壁を吹っ飛ばしてまで地下通路に入り込んでくるとは思いもしなかった。
あの地下通路は、森中警視の想像通り、江戸時代に石川商店の前身である石川屋が、抜け荷の運搬などのために利用していたものだ。その後、長らく捨て置かれていたが、東京に進出していた石川商店が戻ってくる際、かつて石川屋が持っていた土地などを買い戻し、この地下通路を再利用できるように手を加えたのだ。
だが、実際利用されることはかなり少ない。これから、その利用価値について模索していく所だったのだ。
もっとも、彼らにとって幸いなことに、警察に見られた部分は地下通路の一部に過ぎない。その部分だけを切り捨てれば使えるだろう。
オケラ屋で起こった一連の騒動は、そう言った模索例の一つだ。作戦を立てたのは鉄也である。ストーン総裁の息子であり、父からこの地下通路のことを聞いていた鉄也だからこそ立てられる作戦だった。
遡れば、オケラ屋開店直後に、誰もいないはずの店内からピアノの音が聞こえたり、人魂のようなものが目撃されていたのは、その頃に地下通路を通って売り出した店舗の利用状況を確認していた構成員が店内をうろつく時につけていた懐中電灯の明かりを見られたり、ちょっと弾いてみたピアノの音を聞かれていたと言うだけのことだった。もっとも、お化けが出るより得体の知れない余所者が出入りしている方がよほど怖いのだが。
今はオケラ屋が入っている店舗は元々石川グループの関連企業の事務所だった。だが、カムフラージュのため敢えてこの建物を手放し、無関係の企業や店舗を入れさせる。その後、必要になれば買い戻すつもりだった。そんな建物の一つを使い、今回の作戦を立てることになった。いくつかの地下室の状況を見て回り、まったく利用された形跡のないオケラ屋に白羽の矢が立っただけのことだ。
事件がまるでオペラ座の怪人のストーリーになぞらえたかのように進んでいったのは、最初に更田が縛られて発見された時に森中警視が言った一言を、盗聴器越しに聞いていた鉄也が急遽作戦を練り直したためだ。
当初から、地下で様々な奇怪な出来事を起こし、警察に警備させる作戦だった所は変わりがない。そして、警察内部にまだ残っている仲間がうまいこと手筈を整え、小百合を一人で地下の警備に当たらせる。そこをローズマリーが催眠を駆けて連れ去る。作戦はオペラ座の怪人になぞらえる変更以外にはとくに滞りもなくうまいこと運んだ。ただ、最後の森中警視のバズーカによる地下通路侵入のみが予想外だったが。
事件の真相はこうだ。
全ては小百合を誘い出し、人目につかずに拉致するための作戦だった。
最初の下見の時に条件がもっともよいと判断されたオケラ屋がその舞台として選ばれた。その下見の時に地下通路の入り口を開けた音を、恵に聞かれていた。恵はその音を聞いてお化けだと思いこんだのだが。
鍵を無くし、長いこと放置されていた地下室には埃が積もり、黴臭い臭いが充満していた。
このままでは、地下通路から出て部屋をうろついている彼らの足跡が丸見えだ。長時間ここに潜伏するのも、この黴臭い臭いに耐えながらになるのは些かしんどい。最初に行った下準備は、この地下室の掃除だった。森中警視が指摘した、『きれいすぎる』理由はそれだ。
そう言った下準備が終了し、いよいよ実行の時が来た。地下室で息を殺し、トイレに誰かが入るのを待つ。現れたのは更田だった。更田がトイレに入っている間に地下室から出て、トイレのドアの前で待ち伏せた。ローズマリーと一緒にいた構成員が素早く更田の虚をついて口を押さえて声を封じ、ローズマリーが催眠をかける。ローズマリーの催眠で、今見たことを忘れさせたが、構成員の記憶だけが少し残ってしまった。
そして、その事件の捜査のために警察が駆けつけた。あらかじめ店中に仕掛けられた盗聴器により、その様子はローズマリーたちにも筒抜けだった。そこで、森中警視がちょっとした思いつきで事件をオペラ座の怪人に結びつける話をした。鉄也もそれを聞き、急遽作戦を練り直した。
店内に残された手紙。忽然と消えた合鍵。全て、地下通路を通って店内に侵入すれば簡単に出来ることだ。昼間が財布に入れて持ち歩いていた鍵だけは、ローズマリーが直接店に出向き、催眠をかけて奪い取らなければならなかったが。その時、更田に見られているが、更田はまじまじと見たわけでもなく、その時のことをはっきりとは憶えていない。
この頃、軽井沢が風邪をひいたのも偶然ではない。丁度風呂にお湯を入れていた軽井沢に催眠をかけ、風呂に水を入れさせた。これで風邪をひくかどうかは賭けだったが、見事に風邪をひいて声が変わり、よりオペラ座の怪人のイメージを強くすることに成功した。野尻にうつったのは偶然であるが、一人年増女の野尻は店内でも一際抵抗力が弱い。必然だろう。
第2の事件。奇妙な事件である。何が奇妙かと言えば凶器であろう。なぜ、ドリフのような金ダライなのか。
理由は簡単である。ローズマリーも前にやられたのだ。
森中警視が仕掛けたトラップで立て続けに金ダライを頭にぶつけられたのを、作戦を立てる時に『頭上からシャンデリアが落ちてくる』というオペラ座の怪人の一幕を耳にした時に思い出し、今更ながらあの時の屈辱と怒りが沸々と湧き上がってきたのだ。大変馬鹿馬鹿しい理由である。シャンデリアなので最初は天井の蛍光灯でも落とす予定だった。だが、こちらの方が準備も楽だし、見た目的に派手でよい。
ターゲットは都合よく偶然にも警察が『マダムジリー』役としていた野尻が風邪をひいて休んだために代わりにに来た比留間夫人、小夜子だ。小夜子がトイレに降りてきた所を、更田の時のように待ち受けた。催眠をかけて操り、頭の上に金ダライを持ち上げさせた状態で催眠をとく。気がつけば、頭上には大きな金ダライ、状況が飲み込めない小夜子には上から降ってきたとしか思えなかった。これが世にも奇妙な金ダライ落下事件の真相だ。
風邪がいい感じで蔓延し、揃いも揃ってマスクをしていた頃に起きた栗本=クリスティーヌの連れ去り事件。風邪が流行り、マスクをし始めた状況は、仮面舞踏会のシチュエーションを作るのに最適だった。
小夜子に金ダライを掲げさせる催眠の時、比留間に『風邪をうつされないように自分達もマスクをする』と言う提案をするようにもすり込んでおいた。比留間もその提案に賛同し、マスクをし、更田にも勧めたのだ。
そして、地下室に栗本を縛り付ける事件を起こす。オペラ座の怪人になぞらえるためには必要なプロセスだったが、秘密のある地下室をより印象づけるという意味では危険な賭けでもあった。
この事件で警察はより警備を強化する。女子トイレの前で、女性の警官が警備を行う。小百合にそのローテーションが回ってくるのは当然だった。そして、小百合が一人、地下に立つことになった。その後のことは、ご存じの通りだ。
そして、この事件の幕が下りる時が来た。
奇妙な死体が港で見つかったのだ。
引き上げてみると、思わず目を逸らしたくなるような凄惨な死体だった。
顔がまるで炎で焼かれたように爛れている。黒い背広にがっしりとした体つきは男であると言うことを顕著に表しているが、顔のない死体からでは、どこのだれなのかなのかも分からない。
まさか、この死体があのオケラ屋の事件と結びつくとは、誰も思わないだろう。ただ一つ、彼の着ていたワイシャツの背に書かれた『哀れな怪人の死をもって、舞台の幕は閉ざされた』という血文字がなければ。
小百合は、自分が何をされたのかまるで理解していなかった。消えた記憶がオケラ屋にいる間だけだと思いこんでいる。もっとも、他に消された記憶は、元々ローズマリーのかけた催眠で思い出せなくなっているのだ。
小百合は、ストーンに監禁されている間に、いくつかの重要な秘密を目にしていた。以前、ローズマリーはその記憶を思い出せないように催眠をかけていたが、今回はより強力な催眠で、より思い出しにくくするための計画だった。
最後に発見された変死体。その正体は誰なのか。
実は、この人物、オケラ屋で何度か目撃されている。そう、更田などが目にした、ローズマリーと共に作戦を実行した男だ。
この人物は組織内の規律を犯し、ストーンに割り当てられた『家族』共々処刑されるはずだった人物だ。この作戦に加わることで、彼の妻と子供達は処刑を免れることが出来た。ストーンでは、構成員同士を家族として住まわせ、お互いを守りたいという感情を持たせることで裏切りを防いでいる、ということを憶えている読者もいることだろう。
ストーンの構成員の大半は、戸籍上は既に死んでいることになっているか、生まれたという届け出もされていない、存在しないはずの人物なのだ。闇の中でしか生きることが出来ない人物。まさに、怪人と変わりない。
そして、顔まで分からないのであれば、彼らの正体を掴むことは不可能である。
謎ばかりを残し、事件は遠く去っていく。
ローズマリーはわずかな荷物をまとめていた。
この街での目的は果たした。今はこの街を去るつもりだ。
そう、今は。
ストーンはこの街を狙っている。これからも様々なプロセスでこの街に入り込んでいこうとするだろう。そうなれば、またローズマリーにも声がかかるかも知れない。
そうでなくても、この街にはまたそう遠くないうちに来ることになる。そんな予感がした。
外に出て暫し待つ。木漏れ日、木々のざわめき。風は森の匂いを漂わせている。
辛うじて舗装だけはされている山道を、似つかわしくない高級車が走ってくる。ローズマリーの迎えだ。
わずかな間だけだが世話になったボロ屋をあとにする時が来た。ローズマリーは先ほどまで寝所としていた建物を振り返る。
思えば、とんでもない物件だ。まず、古びていてボロい。町はずれにあるので買い物に行くのも一苦労だ。そして、林の奥なのでカマドウマだのムカデだの、いやな生き物がわんさかと湧くのだ。不動産屋の物件を借りただけだが、果たしてこんな物件が売れるのだろうか。
あたいにはやっぱり、こういう暮らしは向かないね。
ローズマリーはそう心の中で呟く。もっとも、買い物にも行けないムカデだらけの家が性に合う人は、偏屈な世捨て人だろうが。
黒塗りの高級車がローズマリーの目の前に停まった。
「お疲れ様でした」
運転手は見慣れない男だった。もっとも、ストーンの組織内の人間で、ローズマリーが顔を見知っている人数などたかが知れている。
この車で、一度ストーン総裁の元に向かうことになる。総裁は労いの言葉でもかけるつもりだろう。
やはり、ローズマリーたちの乗る後部座席からは外が見えない。退屈だ。
話しかけようと鉄也の方を見るが、鉄也の表情はいつになく堅い。父親のところに向かっているせいだろうか。
どこをどう走ったのか、目的地に着いたようだ。そう長いことは走っていない。聖華市のどこかだろう。ローズマリーが車から降ろされた場所は既に地下の駐車場のような場所だ。見覚えはあるかも知れない。ストーンが持つこのような施設は、どれもこれもデザインが画一的で見分けがつかない。
案内されて廊下を歩いていると、建物の構造がやはり知らない場所ではないような気がした。
部屋にはいると、ストーン総裁がいた。この部屋にも見覚えがある。まあ、どうでもいいことだ。
ストーン総裁は書類に目を通していた所のようだ。ローズマリーが来ても広げて読んでいられる程度の書類のようだ。
ストーン総裁は書類から顔を上げ、ローズマリーの方を見る。そして、その後ろに従う鉄也に気付き、複雑な顔をした。
「連れてこない方が良かったかい?」
「いや、別に構わん。それなら俺もそう言うからな」
無造作に書類を置き、ストーン総裁は立ち上がった。
「首尾については聞いている。多少損害はあったが、計画は成功だったそうだな。それに、予想以上の収穫もあったようだ」
「収穫?」
ローズマリーが聞き返すと、ストーン総裁は少し考えてから口を開いた。話していいか少し迷ったようだ。
「あんたが本業の方で聖華市にいた時にだいぶお世話になった髭の刑事がいただろう。森中という中年男だ」
「ああ、いたねぇ。今回もずいぶんあの警視さんにゃ手こずらされたよ」
「だろうな。我々もあの刑事とはずいぶんと長いお付き合いでね。……あの西川という婦警、奴とは懇意にしているようだ。そして、森中が密かに動くべく、仲間を集めていると言うことも聞き出すことができた。放っておけば、我々にとって大きな障害になるだろう」
小百合は連れ去られたあと、催眠をかけられて思い出されてはまずい記憶を思い出せないようにされた。その時、ついでにいくつか警察の動きなどについても聞き出したのだ。
小百合はつい先日、森中警視の邸宅に呼び出されてストーンに関する話を聞いたばかりだ。小百合も記憶にこそ残ってはいないが、一度ローズマリーの手によりストーンに監禁状態になっていたのだから、無関係ではない。むしろ、聖華警察署内では森中警視に次いでストーンに関わっていると言ってもいい。だからこそ、森中警視も警備課で捜査に関わることもないような小百合にも声をかけたと言う所もある。
ストーンの聖華市進出プロジェクト。それに対抗する警察内での動き。様々なものが、徐々に動き始めている。
そして、鉄也がローズマリーに預けられたことも、何か大きな出来事に繋がっていきそうだ。
ローズマリーは鉄也に視線を移した。鉄也は父親である総裁を複雑な面持ちで見つめている。
総裁も、その視線に気付いた。総裁は目を細め、口を開いた。
「……久しぶりだな、鉄也。ずいぶんと大きくなったものだ」
その言葉に驚いたのはローズマリーだった。もっとも、当事者同士はお互いに長らく顔を合わせていないことなど分かっていて当然なのだが。
鉄也は何を言えば分からないらしく、何か言いたげにしながらも何も言えずにいる。総裁は言葉を続けた。
「もう、私の顔など覚えていなかっただろう」
「……いえ、よく写真を見せられました」
「写真?」
「母には15年前に撮られたものだと聞きました」
総裁は懐かしそうな目をする。15年前を思い出しているのだろう。
「写真、か。そんな時期もあった。あの頃は何も関係ないと思っていたものだ。だが、3人いた兄は皆この世にはなく、私がこの座に着いている。因果なものだ」
よくは分からないが、なんの話なのか、大体想像はつく。総裁には3人の兄がいた。そのため自分にかつての石川商店、その裏の部分である今のストーンを掌握するのは、一番上の兄のはずだった。だが、権力争いかよそとの抗争などで命を落とし、関係ないと思っていた自分にその座が回ってきた。そんな所だろう。
時期的に鉄也が生まれる少し前だ。鉄也の母が彼を身ごもったのはそのくらいの時期のはずだ。
「あの頃の写真の顔と比べて、私は変わったか?」
「変わったと言えば変わりました。変わらないと言えば変わりません」
「無難な答えだな」
総裁は苦笑いを浮かべた。
「母さんはずっと父さんのことばかり話してました。最後まで、父さんのことを気にかけてました」
「……そうか。あいつには悪いことをしたな。お前にも」
「僕は……」
鉄也はいうべき言葉を探しているようだが、その言葉が見つからない。
「……一つだけ言っていかなければならん。お前もこれからローズマリーに連れられて私と会う機会も増えるかも知れないが、私のことを父は呼ぶな。誰が聞いているか分からん。私とお前の関係を知られるわけにはいかんのだ」
総裁は真顔になり、そう事務的に告げた。鉄也は幾分暗い面持ちになり頷く。
「はい、分かっています」
「『彼ら』にお前を渡したくはないからな。……喋りすぎたかもしれん。ローズマリー、今日聞いた話は忘れてくれ。……こんな事を言われると忘れられなくなるか」
そう言い、総裁は苦笑する。
「心配にゃ及ばないよ。途中からはなんの話かさっぱりだからね」
ローズマリーは肩をそびやかして見せた。
その後、総裁はローズマリーに鉄也を頼む、とだけ言った。多くは語れないようだ。
部屋をあとにすると、部屋の前には岩田が待っていた。ずっと部屋の前で待っていたようだ。ただ待っていた訳ではない。この部屋の前に人が近づかないように見張っていたのだ。理由は簡単である。鉄也と総裁の会話を誰にも聞かれてはならない。そのための見張りだった。
岩田はそのままローズマリーを送るといった。行き先を聞かれ、ローズマリーは少し考える。
「山奥の不便な家に住んでたら免許が欲しくなったよ。教習所に連れて行っておくれ」
「免許くらいいくらでも偽造できますが」
「免許証があっても、そもそも乗れないんだよ」
その後、ローズマリーがちゃんと免許を取れたかどうか。それは誰も知らない。
Prev Page top Next
Title KIEF top