Episode 2-『怪盗達の置き土産』第5話 プロジェクト
港の倉庫の奧で金田は新聞を広げていた。海沿いの眩しいくらいの陽光が窓から差し込み、薄暗い倉庫を窓辺だけ照らしている。
金田は人の気配を感じ新聞を下ろした。かつかつと革靴のそこがコンクリートの床を叩く音がした。堂々とした足の運び方でそれが誰なのか金田には見当がついた。やがて木箱の林の影から闇が盛り上がってくるのが見えた。闇の上に口元だけがみえ、にやっと笑った。金田は対照的にふう、とため息をつく。
「最近、警察の追及が厳しくなってきているみたいだ」
金田は相変わらず黒で固めた男にそう言った。
「ほう?」
続きを話せ、と言いたげに黒服は相槌を打つ。
「どうも裏でうちらみたいのが盗品を買い取っていることに気付き始めているみたいでねぇ」
「そりゃ、よろしくねぇなぁ」
「だわなぁ。どうよ、そろそろ頃合いだと思うんだが」
「うーん。まぁ、確かに金はたっぷりと稼がせてもらったし……総裁の肚次第か。それより聞いたか。ついにここにも進出するらしいぞ」
「おうおう。そうとなりゃ、その前に変なケチつけるわけにもいかねぇわな。いったん切り上げてほとぼり冷めるのを待つとするか」
「よし、総裁にも伝えとくわ」
黒服は手を振り立ち去っていく。その背中を見ながら金田も腰を上げ、決定がくだり次第速やかに逃げられるようにと準備を始めた。
この事は矢部にも伝えられた。
「それじゃ、もう仕事はねぇってわけか」
せっかく見つけた金づるなんだが、と言いたげに矢部はため息をついた。
「ここでは、な」
上がりかまちにふてぶてしい格好で座っている女装の組織員が煙草の煙と一緒に言葉を吐き出した。
「ここでは、って事は引っ越ししろって事か」
「ああ。ついでに一つこっちから提案がある」
「何だ?」
矢部は組織員の方に目を向けた。スカートがだいぶまくり上がって太ももが露わになっている。これが本物の女だったらどんなに嬉しいことか。
「うちの組織は知っての通り盗品の買い付けと海外売却なんかを中心に活動しているわけだが、まぁ、こういう仕事をしていると他のこともいろいろ頼まれたりするわけだ。何か盗んできてくれ、とかな。それをお前さんに手伝ってもらっていたわけだが、どうせならこれを事業として始めようって動きがあるんだよ」
「つまり、俺を雇いたいって事か」
「雇うとまでは行かないが……。まぁ、それに近い感じかねぇ。高校も出てない割には飲み込みがいいな、あんた」
少し苦い表情になる矢部。
「俺が高校行ってないのは頭が足りねぇからじゃねぇんだ。足りなかったのは金さ。親父もお袋ももういねぇしな」
「……そうか。まぁ、こんなことに手を染めるってのはだいたいそう言う境遇の連中ばかりさ。……この話、あんたにゃ本当にちょうどいいかも知れねぇな。あんたもうちの仕事を受けたりして、そう言う意味じゃ立派なプロだが、技術の方はまだまだだ。プロとして知っといてもいいことは山ほどある。今度の事業じゃたくさんの泥棒のプロが必要になるわけだが、そのためにプロの泥棒を養成していこうってのが組織の方で決まりつつあるんだ」
「泥棒の学校か」
矢部は苦笑した。
「どうだ。入学してみないか?寮だって用意してやれるしな。もちろんこんなアパートよりはよっぽど綺麗な部屋に住めるぜ?部外者は連れ込めないから女とは外でしか会えないが」
「あんたが出入りしてるおかげで女なんかできねぇんだけど。せっかく金ができたってのに女の声で電話がかかってくるから浮気と勘違いされるんだよ。おまけに近所のババアが髪の長いすらっとした女性が出入りしてるとか言うからとどめだ。2度ほどそれで逃げられてもう諦めてたんだ」
「ぶはっ、そりゃ悪かったな。……で、どうするよ」
「履歴書に書けない学校行ってもしょうがないが、泥棒続けるなら履歴書なんざ関係ねぇしな。今さら真人間にもなれないだろうからその話、乗らせてもらうぜ」
「となりゃ、早めにここはトンズラだ。荷物は大した物ねぇみたいだし、一日あれば片づけられるだろ。明日までにここを引き払えるようにしといてくれ。引っ越し費用は組織で持ってやるよ」
これに気をよくした矢部は揚々と引っ越しの準備を始めるのだった。
翌日、矢部のアパートの前に軽トラが2台きた。一台は荷物用、もう一台は粗大ゴミ用だそうだ。
「アパートの引き払いは済んだのか?」
組織員は今日は引っ越しの邪魔にならないように部屋の奥の方に壁により掛かって座っている。何気ない仕草なのだろうが、大胆極まりない格好だ。男だと分かっていてもどうしても矢部はスカートの奧に見える白いモノに目を向けてしまう。
外に出て作業の終わりを待っていてもいいのだが組織員が人目の多い所には余り痛くないというのでこうして部屋の中の最後のひとときを過ごしているわけだ。
「ああ。管理人のババアがにやけてた。こりゃ、絶対あんたに養ってもらうか駆け落ちだと思われてるな」
「まぁ、似たようなもんだろ」
「やめてくれよ」
少ない荷物はあっという間に運び出され、部屋の中はがらがらになった。
「あんたともお別れだな」
立ち上がりながら組織員が言った。
「ん?そうなのか」
「ああ、俺はこのあたりの地域担当だからな。女装もしばらくしなくて済むし、おかげで俺もまた髭が伸ばせる」
「結構美人だったぜ。惚れかねないくらいにさ」
「うわ。早めに縁が切れて良かった」
「本気にしないでくれよ。いつもの態度みりゃ俺がどう思ってるか分かりそうなもんだ」
「この世界には本音を隠しながら生きてる奴らばっかりなんだぞ?突然正体を現すなんてざらだ。普段の姿ほど当てにならんものはねぇさ」
「……まさか、今まで本音を隠して俺に近づいてたとかはないよな」
組織員から離れるように動く矢部。
「馬鹿野郎。俺には心からそんな趣味はねぇよ」
組織員は矢部を睨み付けた。竦み上がるような目つきだが、矢部はだいぶほっとした。
警邏の強化により空き巣は激減し、他の事件にもかなりの抑止力になり、聖華市の治安は劇的に向上した。
できればこの状態を維持したいものだが、なにぶん警邏の人には極限とも言える労働を強いているのでそれは難しい。人手を増やすにも企業のように勝手に人事を行うわけにもいかない。なにぶん、今は応援を呼んでいる状態だ。怪盗事件が収束した所でもあり、怪盗事件のために各地から集めた警官たちをそろそろ帰してやらなければならない。となれば、ますます人手が足りなくなるのだ。
今のうちにがんばって一人でも多くの泥棒を諦めさせたい。
事件が減ったため出番も減った刑事課の面子も、その手伝いをすることになった。警察はお役所仕事だ。他部署の仕事を犯すことはできないが、今までに起きた事件の現場を回って聞き込みをしつつ、移動の際には覆面パトカーの上に緊急灯を乗せるだけ乗せて走り回ったり、聞き込みの振りをして不審な人物に声を掛けたりという地味な活動を行っている。
そして、そういった活動は佐々木刑事がさぼるにはまさにもってこいなのである。
声を掛ける相手もかなり好みが出ている。まるで不審ではない女性に声を掛け、世間話をする。
ただ、これでもこの活動の趣旨に添わないわけではない。真面目にやれ、と心の中では思いながらも飛鳥刑事は佐々木刑事の行動をとがめることもできないわけである。
「おねぇさん。ちょっといいですか」
次の獲物が決まったらしく佐々木刑事はすらっと背の高い女性に声を掛けた。
「こういうものですがちょっとこのあたりであった事件について聞きたいことが」
手帳を見せながら佐々木刑事が言う。
「警察!?」
驚いた女は男の声で言う。もっと驚いたのは佐々木刑事の方である。
「うぉわっ、てめぇ男かよ!なんて格好してやがんだ」
「お仕事の迎えが来るまで待ってるんですぅ〜」
太い声のまましなを作るカマ。
「くっそー、昼間っから女装して立ってんじゃねぇ、カマ野郎!詐欺罪でしょっ引くぞ、オラァ」
喚く佐々木刑事を笑いを堪えながら引っ張っていく飛鳥刑事。
その後まもなく、一台の車がすっとその女装男の前に停まった。
「遅ぇよ。今デカに職質掛けられそうになったぞ」
いそいそと車に乗り込んだのは組織員のカマだ。
「そりゃついてなかったな」
「男と知ったらビビって逃げたけどな」
「ついてたじゃないか。多少挙動不審でも女装男なら存在自体不審だからなんの問題もないってわけか」
「言ってくれるな。まぁ、言われてみりゃあの刑事はどこかで見た顔だ。素顔であったら何か嗅ぎつけられるかも知れねぇ。そういう意味じゃついてたか」
走り出した車の中で女装男はほっとするのだった。
ストーン内では大きなプロジェクトが動き始めていた。
プロジェクト“ジュエル”。補導歴のある青少年の中から特に悪質と言える者をスカウトし、言うなれば立派な犯罪者に仕立て上げる。そんなプロジェクトだ。
ろくでもない話だが、請け負い仕事が増えてきたストーンとしては外部に丸投げばかりもしていられない。
元々は盗品の横流しや密輸などで成り立っていたストーン。しかし、そんな仕事をしていれば何かを盗んで欲しい、と言った話も出てくるようになる。そのため、ローズマリーや今までの矢部のような者に話を持ちかけ盗んでもらう事も度々あった。
だが、やはりトラブルはあまりにも多かった。当然だ、何せ相手は泥棒なのだから。技術が至らず失敗する者もいるし、盗んだ物を自分の物にして逃げてしまう愚か者もいた。
ローズマリーや矢部はその中でもまだ信頼を置ける方であった。しかし、いつ裏切るかも分からない。そのため、組織はより信頼の置ける仕事人を必要としていた。そのために、一から教育しようと言うのだ。
まさに、原石を磨き上げ一つの宝石として育て上げる。犯罪者という宝石に。
ここで教育された者は技術も忠誠も十分な、完璧な組織の一員となるのだ。
技術指導についてはまったく問題はない。ストーンの構成員そのものに泥棒はいないが、泥棒を相手に商売を続けていた組織だ。彼らから仕入れた知識の量は大変なものである。
しかし、技術を教え込むだけでは組織の一員としては使い切れない。
今いる組織員の多くはストーン総裁の忠実な部下だ。同族はもとより、長い年月をかけて信頼を築き上げた仲間や信用のおける他組織から引き抜いた者。いずれも組織に密接な関係である。
彼らは組織に入る時にいくつかしなければならないことがある。まずは死亡届を出すこと。戸籍を失い、その後は組織の中でしか生きていくことはできないだろう。そして、与えられた『家族』を養わなくてはならない。法的に死んでいるので結婚はできないが、仮の妻をもらい、夫婦のように暮らし、子供を育てていく。例えそれが仮初めの夫婦でも、いつしか愛が生まれる。子供だって愛おしいだろう。忙しい組織員の世話をするため、と言う名目でつけられる妻役の女性たちだが、本当は愛情を抱いた家族が自分の反逆で処刑される事に対する恐怖心を持たせるためなのだ。もちろん、生まれるはずのない彼らの子供たちも将来組織の一員となるか、それがいやならば身元の分からぬ捨て子として孤児院に預けられることになる。まさに、人生の全てを組織に握られているのだ。
だが、プロジェクト“ジュエル”で育てる人材にはそこまでのことはできない。何せ、犯罪者として直接罪を犯す人間だ。警察に捕まることも少なからず考慮せねばならない。組織員は犯行に直接関わることはほとんど無い。そのため捕まりにくいのだが、彼らは別だ。
そんな彼らに忠誠を誓わせるのは容易ではない。裏切れば死、と言う恐怖はもちろん与えるが、どうせ死ぬならと口を開いてしまう者もいないとは言い切れない。自分しか失う物はないのだから。それに、警察に捕まりやすい立場にある者たちだ。警察に捕まるたびに口封じのため殺したり、死を選ばせていたのではきりがない。絶対に組織のことは話さず、それでいて懲役を食らってもまた仕事に出せる、使い回しの効く人材に育て上げねならないのだ。
その問題を解決に導いた、そして『磨かれる者たち』と言う意味の他にプロジェクト“ジュエル”と名付けられたもう一つの理由である人物。彼が、ストーン総裁の前に現れた。
地の底でもある水の底。湖底を満たす深いブルーの光が揺らめく総裁の部屋。その男は部屋に踏み入った時に呟いた。
「ブルー。ブルーだ。ブルーは心を穏やかにしてくれる。冷静な思考を生む。知的な指導者に相応しい色だ」
その人影は青い光の中に幽霊のように浮かび上がった。青く照らしあげられたためだけではない。あまりにも華奢な体つきだった。顔もその体つきに相応しく痩せこけている。その覇気のない容姿に反し目だけは気味悪いほどに輝いていた。
「お待ちしておりました、あなたに協力して頂けるのならば我々は安泰と言っていいでしょう」
ストーン総裁はその風変わりな男に一礼した。男も一礼で返す。
「こちらこそ、お招き頂き恐悦です」
男の名は神代忠臣。かつてローズマリーに催眠術の手ほどきをした男だ。
ストーンがプロジェクト“ジュエル”において育て上げた人材に忠誠を誓わせる方法として選んだのは洗脳だった。
催眠術のエキスパートである神代はその延長線上にある洗脳に関してもエキスパートである。
もちろん、そのくらいのことができる人物は日本各地に少なくはない。しかし、彼を選んだ事には理由がある。彼は悪人だ。だからこそ、相応しい。
神代もこの誘いを一も二もなく承諾した。催眠術を操る悪人など近寄りたくもない。なので誰からも疎まれる存在となっていたのだ。彼の在籍していた稲城奇術団も、彼を気味悪がって早々に手放していた。ストーンはそんな彼に高い契約金を払い招き入れたのだ。
「早速だが、そのお手並みを拝見させて頂きましょう。間もなく、我々のプロジェクトの第一弾となる少年がここに来ることになっています。彼は家を飛び出して一人暮らしをしていました。……まずは、彼の過去を消して頂きたい。故郷も何もない、人形に」
「それはお安い御用です。しかし、家族は?彼のことを探すのでは?」
「彼は勘当同然の仲違いをし家を飛び出したのです。例え探しても見つからなければ諦めるでしょう。諦めないようなら……手を打てばよいだけです」
「分かりました。では準備して頂きたい物がいくつか……」
そのような恐ろしい会話がなされたことなど知らず、組織の用意した寮で暮らし始めた少年とは矢部のことであった。
矢部が組織に呼び出されたのはまもなくのことだった。
窓にはフィルム、前にはカーテンでまったく外の見えない後部座席に座らされ、居眠りしながら辿り着いたストーンの本部。
矢部が案内された部屋は、ぱっと見とても質素な部屋に感じられた。まるで雪の中にいるかのような純白の部屋だった。壁や床はもちろん、調度品に至るまで真っ白だった。部屋の中はどこかで嗅いだことのあるような懐かしい香りで満たされ、静かな音楽が流れていた。
この部屋で少し待て、と言われ、矢部は椅子にかけた。落ち着いた服装の綺麗な顔をした女性がドリンクを運んできた。しかし、彼女はすぐに部屋を出てしまい一人になった矢部はすることもなくドリンクに手を伸ばした。
目が痛くなるほどの白い部屋。
入り口のドアが開き、入ってきた男も白衣に身を包んでいた。その目を見た瞬間、いやな感じを受けた。犯罪者の気配。しかし、ここはあのストーンの本部だ。そんな男がごろごろしていて当たり前だ。何も不思議はない。
男は矢部にこれから簡単な質問と検査をおこなう、と告げた。
「ではまず、あなたの名前と年齢を聞かせてください」
「矢部光二、16歳」
「ご両親の名前は」
「……清彦と光江」
「他にご家族は」
「弟と妹が一人ずつ」
「では、その名前は」
「明男と陽子」
一応、どのような字を書くのかまで質問された。嘘をつく必要は特にないと感じたし、嘘がバレて酷い目に遭わされるよりは正直に言った方がいいだろうという思いもあり全て正直に答えた。
「……では、次は検査を行います。……こちらへ」
男は立ち上がり、手である方向を指し示す。導かれた場所は部屋の一角にあった水槽のそばだった。水槽の中にはポンプでひっきりなしに空気が送り込まれているが、その中に魚の姿は見えなかった。水槽の底に敷かれた石までご丁寧に真っ白だ。
「これから行うのは集中力の検査です。この水槽の中で何が起こるか、よく見ていてください」
矢部は水槽の前に置かれていた椅子に座り、水槽の様子にじっと目をこらした。
静かに流れていた音楽が変わり、水槽の中で石に混じって埋め込まれていたカラーランプがちかちかと明滅する。様々な色が水槽の中でめまぐるしく踊り始めた。
集中力、と言われたが矢部はだんだん眠いような、だるいような感じに襲われ始めた。
最初に飲まされたドリンクに薬物が混じっていたことなど知ろうはずもない。そして、この部屋を包む音楽や甘ったるい香りも精神の活動を鈍らせるまどろみを誘うものだった。
矢部の意識は遠くなりかかっていた。眠りにでも落ちていくような感じだった。
矢部はこの直後、とても眩しい光を見たのを憶えている。まるで薄暗いトンネルを歩き続けて、出た所で直接太陽を見上げたような、目に刺さるような強い光だった。そして、そこからの記憶はこの男に揺り起こされる所まで途絶えている。
家族で暮らした記憶は消えていた。彼は孤児院で育った。幼少のころ一緒に過ごした仲間たちの顔も名前も朧気にしか思い出せない。明男という子がいたような気がする。陽子という子もいたような気がする。しかし、もう関係はない。俺は矢部光二。プロの窃盗犯の卵。
「見させてもらっていたよ。……だが果たして効果はあるのだろうか」
ストーン総裁は真っ白な部屋で神代に声をかけた。暗い色調のスーツが、この部屋だと一際黒く見える。ブラウンがかった濃いグレーのはずだが、ここではまるで墨の色だ。まるで空間がそこだけ切り取られたかのようにさえ思える。
「疑っておられますか。……まぁ、結果を見られたわけではないのですから仕方ないでしょうね。この白は無垢にして清めの色。この白で心を真っさらにすることで何ものにも染まりやすい精神状態に変えるのです。洗脳のための土台作りと言えるでしょう。彼の過去は私の手により塗り替えられました。今日はほんの手始めです。すでに薄れかけている遠い過去の記憶を、そちらが用意したシナリオ通りに書き換えました。数回繰り返せば、彼の生まれてから今までの記憶はそっくり塗り変わります。回数を繰り返すことで洗脳はより強くなるでしょう。逆行催眠でさえ、本当の過去を引き出せないくらいに……」
自慢げに言う神代。
「頼もしい。やはりあなたを選んだのは正解だったようだ。後は、効果のほどをじっくりと見せて頂こう」
二人は自分たちのしていることの恐ろしさに気付いていないのではないかと思うほどに穏やかな笑みを浮かべるのだった。
徹底した巡回のおかげもあって泥棒による被害は一気に減った。
一応、表面上はそういうことになっていた。
泥棒が減ったのは事実だ。しかし、その理由が巡回の効果だというのが表面的な理由だ。実際の所は唐突に減った、としか言えない。
「なーんだか、平和になっちまったなぁ」
佐々木刑事は机の上に足を放り出したやる気のない格好のまま近頃めっきり静かになった電話に目をやった。
未解決のままの窃盗事件に関する調書の山からひと束手に取り、退屈しのぎに眺めている。本当は現場で聞き込みに行きたい気分なのだが。目の前には木下警部がいるので息苦しい。もっとも、その木下警部も外回りに行った刑事たちからなんの報告もないので手持ちぶさただ。だらしない佐々木刑事に説教する気力さえすでにない。
だが、外回りに出ていた刑事たちがようやく帰ってきてにわかに活気づいた。
彼らが運んできた知らせは今回の聞き込みも空振り、と言う活気づく理由に繋がらないものだったが、入れ替わりで外に出られる佐々木刑事と飛鳥刑事には帰ってきただけでも十分だ。
「さーて飛鳥、外のすがすがしい空気でも吸ってこないか」
「ちゃんと聞き込みするんだぞ」
佐々木刑事の一言にすかさずつっこみを入れる木下警部。その本心と言えばそのやる気のない態度だけで2係全体がだらけてしまいそうなのでとっとと現場にでも行って欲しいと言う所だ。それに、佐々木刑事は根っからの現場型。現場でのやる気とここでのやる気は段違いだ。
早速聞き込みを始めるが、だいたいは事件の関係者に思い出したことはないか聞いて回るだけだ。
また女にばかり声をかけるのかと思ったが、佐々木刑事は今回は真面目にやっている。この間オカマに当たったのでちょっと懲りたのだろう。長く続くとは思えないが。
今日は、あの質屋の周辺での聞き込みだ。
質屋は今はもぬけの殻になり、貸し店舗の張り紙が出ている。この店舗を貸し出した業者にはすでに問い合わせたが、借りたことになっていた人物はこの近くでリンゴ農園を営む老人で、本人に聞いたがまったく身に覚えがないという答えが返ってきた。この老人を騙って店を借りたのだろう。おそらく事実が表沙汰になるまえにすぐに行方をくらますつもりだったのだろうし、現にさっさと引き払ってしまっていた。引き払ったと言っても、夜逃げ同然に消えたのだ。貸し出した業者は警察に聞いて初めてそれを知ったらしい。実質借りたことになっていた老人は借りていても仕方ない店を返却した。それで、今は貸店舗になっているわけである。
その周辺にある店などに聞き込みに行く。やはり、怪しい男がひっきりなしに出入りしていたので周辺の住人たちは気味悪がっていた。無くなってほっとしているらしい。その住人たちから店に出入りしていた連中の特徴を聞き出すことができた。が、そのほとんどはすでに泥棒ホイホイ作戦で捕まえた連中と一致した。
その証言の中に一つ、気になるものがあった。
「子供?」
「ええ。まぁ、若く見えただけかも知れないけどねぇ。高校生くらいに見えたかしら。よく出入りしてたみたいよ。あそこの店の子供か孫だと思って気にもしてなかったけど」
飛鳥刑事は考えた。もしかしたら本当にこの店を出していた男の家族かも知れない。
「どんな少年だったか憶えてますか?」
「そうねぇ……。目つきは悪かったわねぇ。ちょっと頬骨が出てたかしら。髪はあまり長くなかったわね。あ、そうそう。目はちょうどそちらの髪の長い刑事さんみたいな感じで、髪型はこんな」
飛鳥刑事を指さして言うおばちゃん。
「いやなこと言うね、おばちゃん」
佐々木刑事は顔を引きつらせた。
「先輩悪党面ですからね」
「てめぇ……」
佐々木刑事に首を絞められる飛鳥刑事。
「でも、どこかで見たような感じですね」
解放された飛鳥刑事は佐々木刑事の顔をまじまじと見ながら言った。
「そうか?」
しばらく記憶を辿る飛鳥刑事。高校生くらい、と絞ると逢った人間はそう多くはない。すぐに思い当たった。
「あっ。あの朝田の向かいに住んでた少年だ」
「誰だっけ、それ」
「ほら、あの窃盗グループ」
「ああ、むさいオヤジどもな」
佐々木刑事は思い出したかのように頷いたが、今回一連の連続窃盗絡みで次々と捕まった犯人はむさいオヤジが多かったので本当に思い出せているかは定かではない。
飛鳥刑事は高校生くらいの少年があんなところで一人暮らしをしていたので何となく気にはなっていたのだ。
あの少年は飛鳥刑事たちが押しかけた時も涼しい顔をしていた。だが、それは警察が来ることが予期できていたからにすぎない。まさかそんなこととは知らない飛鳥刑事はその落ち着いた対応から不審だとは思わなかったのだが。
とりあえず、朝田の住んでいたアパートに向かう。その向かいのアパート。
記憶を頼りに矢部の部屋の前に立つ飛鳥刑事。だが。
「ん?表札がねぇな」
佐々木刑事は部屋の名義人を書いた紙がドアに貼ってないことに気付く。
「無くなっただけかも知れませんよ」
言いながら飛鳥刑事がノックするが、返事はない。
「管理人に聞いてみるか」
佐々木刑事は管理人の部屋に向かう。飛鳥刑事もそれに続いた。
管理人は部屋で茶菓子を食べながらワイドショーを見ていた。
その邪魔をされたのが不愉快だったのかしかめっ面をして応対に出ていたが、矢部の話が出ると途端に表情が変わった。
「あーあー、あの部屋にいた子ね。矢部君って言うんだけどさ、なーんかしばらくこのボロアパートに似合わないようなすらーっとした美人が来るようになってねぇ。それであたしゃ感づいたね。あの子、あんな若いのにろくすっぽ仕事もしてないみたいだったんだけどどうして生活できてるのか不思議だったのよ。親からお金送られてるのかと思ってたけどさ、ありゃあ間違いなくジゴロよね。それから割とすぐよ、この部屋引き払って出て行ったのは。もちろん、その女の人もいたわよ、引き払う時に。きっと今は囲われていい暮らししてるんだわぁ」
矢部の思っていたとおりに思われていたのである。
それにしても、やはりワイドショーに釘付けになっているだけあってこういう話題になると勢いが違う。
「畜生、いいご身分だな、ガキの分際でよぉ」
佐々木刑事は何故か対抗心を燃やしているようだが。
「それより、その女性が誰なのか、何か分かりませんかね」
「うーん。さすがにあたしでもそこまで突っ込んでは話せないわねぇ」
これだけ喋っといて今さら何を、と思う飛鳥刑事。
「きっかけもなかったし。遊んでそうだけど結構無口な子だったからねぇ。あの子のことあんまり知らないのよねぇ。喋りたがる性格でもないし」
ああ、突っ込んで話せないというのはそういう意味か、と思う飛鳥刑事。
「でもね、あんまりまじまじとは見たこと無いけど……ぱっと見、モデルみたいにすらーっと背が高くて、足も長いから綺麗に見えるけど、なんか男みたいな体つきよね。ほら、歌手でいるでしょ、よく紅白に出る背の高い女の……ほら、あのかーねーをーっての歌った人」
「えーっと、和田アキ子?」
「そうそう、そんな感じなのよねぇ。顔も化粧が濃かったし。顔も男みたいな顔だったりしてね」
佐々木刑事は何かを思い出したらしく顔をしかめた。
「そういえばこの間このあたりで出っくわしたカマもそんな感じだったなぁ」
「言われてみればそうですね。探してみますか、あの男」
「気が乗らねぇなぁ」
佐々木刑事は露骨にいやな顔をした。
その後、矢部光二の実家を当たってみたり、例のオカマに関しても捜査を続けてみたのだが、矢部の方は中学を出て家を飛び出してから連絡がまったく途絶えており、父親も勘当したも同然なので関知していないらしく、得られるものは全くなかった。オカマに関しては他になんの情報もなかった。完全に行き詰まってしまったのだ。
その後、遠い町で矢部光二の名を聞くことになる。が、それはだいぶ経ってからのことだ。やがては彼と再び相まみえることとなり、人生も変えていくなどと飛鳥刑事は知るよしもない。
全ては気味の悪いほどに中途半端なまま、捜査は行き詰まり事件は起こらなくなった。
だが、それは間もなく起こる激しい動乱の前の静けさにすぎなかった。
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