Hot-blooded inspector Asuka
Episode 1-『堕天使のラブソング』

第1話 怪盗ルシファー、あらわる

 聖華警察署刑事課所属、飛鳥友貴。
 怪盗を追って遠方の都市へ移った時期もあったが、再び聖華市へと戻ってきた。
 近隣では敏腕刑事として名高い彼の名を、聖華市はもとより、県全域に知らしめたのは、かつてこのあたりを騒がせた怪盗達に対する手柄が大きい。あいにく捕らえるには至らなかったが、標的となったものを守り抜いたことは多い。
 彼の活躍を語るうえで、その怪盗たちの話題こそ、肝要である。その頃、彼はまだ24才。刑事課に配属されて1ヶ月の新米刑事だった。

 仕事に慣れきっていない飛鳥刑事は、今日も木下警部に率いられて、とある失踪事件の聞き込みに回っていた。
「なかなか、進展しませんね」
 焦れたような飛鳥刑事の言葉に、木下警部は自動販売機の取り出し口に手を突っ込んだまま、のんびりした口調で言った。
「飛鳥君。こういう仕事は忍耐だよ。あせらず、確実にこなしていけば成果は上がってくる。あせっては何もうまくは行かんぞ」
 木下警部は飛鳥刑事に缶コーヒーを渡し、その手でポケットからタバコをまさぐりだす。飛鳥刑事は木下警部のタバコに火をつけると、自分も倣ってタバコに火をつけた。
「それにしても、最近は物騒なことが増えてきましたね。先週のひき逃げといい……。今回の事件だって、だんだん血腥い話が出てきているじゃないですか」
「まったくだな。……我々の仕事は暇なほどいいもんだが、こう忙しくなられてはなぁ」
 飛鳥刑事はコーヒーを飲み干した。
「警部。空き缶捨ててきます」
「すまんね」
 木下警部が空き缶を渡すと、近くにあるゴミ箱へと走り出す。その後ろ姿を見て木下警部はふっ、と笑みをもらし、独りごちた。
「若いねぇ。私にもあんな頃があったもんだが、衰えたものだよ……」

 夕暮れもせまった頃、二人はたいした実入りもないままにその日の聞き込みを切り上げることにした。
 遠くの空がわずかに赤みがかっている。日も、半ば沈みかかっていた。時計は5時2分を差していた。
 寒さがだんだんと増している。しかし、今を乗り切れば春が訪れる。
「今日もご苦労だったな。どうだ、今日あたり、一杯ひっかけていかんか?今日は特に寒いしな。こう、熱燗をキューッと……な」
 署に戻り、自分の帰り支度を済ませた木下警部が陽気に言った。
 だが、飛鳥刑事は申し分けなさそうにかぶりを振る。
「いやぁ、何か招集がかかりまして。事件……と言うか、事件に繋がりそうなことがあったらしいんです。詳しいことは現場で知らせるって事なので、まだよくは分かりませんけど」
「おや、そうか。それは大変だな。新米はひま無しか」
 木下警部はにこやかな表情のまま言う。
「さっき聞き込みの時に前を通ったR美術館、あるじゃないですか。今夜『アナスタシア王女のティアラ』が運び込まれるっていう。あそこで何かあったみたいなんです」
「ああ、あのエメラルドのでっかいのがくっついたやつだな。先週の市報に写真がのってた奴だろう」
 市報とは聖華市報という新聞である。週一のペースで発行されている新聞で、聖華市内で起きた事件や、話題などを集めた新聞である。小さな市なので、毎週新聞を出すための話題探しに記者達も相当奔走している。平和な街なので事件もほとんどない。たまにあっても空き巣や詐欺などといったセコい犯罪がほとんどである。紙面の大部分を占めるのは、この市にやたらとある美術館にどんな作品が運び込まれたとか、どこそこのお花畑まんか、などという平和なニュースだ。まあ、良い事だろう。新聞より折込広告のほうが分厚いこともしばしばだ。
 その新聞にティアラについての記事が出ていたのだ。
「現場の方に佐々木先輩が先に行って留らしいです。私もそろそろ行かないと」
「そうか。がんばれよ」
 木下警部に見送られながら、飛鳥刑事は署を飛び出していった。

 それより1時間ほど前。R美術館にはすでに警備にあたる警官の先発が数名到着し、新聞記者らしい男を牽制しながら、搬入のルートなどの説明を受けていた。
 それより少し離れた場所で、一人の少女がイヤホンでラジオを聞いていた。イヤホンからは、美術館の館長の説明が聞こえている。
 当然、通常のラジオでそんな放送はしない。盗聴器だ。
 館長は気づいていなかったが、スーツの襟の中に盗聴器が仕掛けられていたのだ。
 そんなこととは露知らず、運び込まれる時間、運び込む車の車種、館内の保管場所にいたるまで、なれた口調で一気に説明する館長。結果的に、盗聴者に対しても分かりやすい情報を流すことになってしまう。
 少女は、説明を一通り聞き終えてラジオのスイッチを切った。
「さてと、準備にかかろうかな、っと」
 少女は立ち上がり、小走りに走っていった。

 飛鳥刑事が到着したのはあたりがすっかり暗くなってからだった。
 ティアラの搬入は、午後9時。それまであと1時間ある。
「よし、怪しい人物が周囲をうろついていないか、確認してくれ。それから、不審な車なんかにも気をつけてくれよ」
 警官にありきたりな指示を出すと、飛鳥刑事は一服した。
 そこに、佐々木刑事がやってくる。飛鳥刑事からみて2年先輩の彼は、多少口は悪いが、飛鳥刑事とは妙に馬が合い、よくつるんでいる。性格は正反対なのだが、正反対なのがむしろいいのかも知れない。
「飛鳥。一応さまになってきたじゃないか」
 今の様子を見た佐々木刑事は、にやにやしながら飛鳥刑事に声をかけてきた。
「いや、まだまだですよ」
 照れたように飛鳥刑事が言う。
 辺りはいつになく物々しい警戒態勢だ。と言うのも、館長が着ていたスーツから盗聴器らしい物が発見されたのだ。搬入に向けての下準備を終え、脱いでいたスーツを羽織りなおし、襟を直す時に違和感を覚え、調べてみたら妙な機械が出てきたというのだ。警備に当たるべく準備をしていた警官にそのことを伝え、刑事課にも応援が要請されたというわけだ。
「盗聴器を仕掛けたのが何者かは分からねぇが、恐らく、今夜来るんだろうな。こっちもそのつもりで臨ませてもらおうぜ。館長の話を聞いたってことは、ルート上のどこかで狙ってくるはずだ。そう思えば警備もしやすいさ」
 その言葉を受けて、とたんに飛鳥刑事の表情が緊張する。美術館の庭に、ティアラをつんだ車と思しきヘッドライトが差し込んだのはそのときだった。
 やや大きめの白いバン。間違いない、この車にティアラが積まれている。美術館の入口の前に停まる。警官が数人駆け寄った。
「ここまでは異常ないみたいですね」
「と、言うことは、保管場所に忍び込むつもりか?飛鳥。気をつけろよ」
「わかってますよ、先輩」
 車からガードマンらしい男が降りて、あたりを確認する。そのあと、美術館の職員がティアラの入った箱を持って降りてきた。
 その時。近くにあった大きな木の上から、黒い影が降りてきたのが飛鳥刑事の目に映った。
 ガードマンが、上を見上げた。木の枝が揺れた音に反応したのだろう。その時、すでにティアラの入った箱は職員の手にはなかった。箱を奪われた職員が大きな声を出した。
「しまった!」
 飛鳥刑事が叫んだ。
「こんな堂々とかっさらうとはなんて奴だ!追うぞ、飛鳥!」
 佐々木刑事がタバコを投げ捨てて火も消さずに走り出した。飛鳥刑事もそれに続く。
 まだ、何が起こったのかわからずきょとんとしている職員を横目に、走り去る黒い影を追う。しかし、速い。見る見るうちに宵闇に紛れそうになる。
「ちくしょう、あんな大胆な手口、聞いたことあるか?ありゃぁ、まるでひったくりだぞ」
 全力疾走しながら佐々木刑事な叫ぶように言った。
「追いつきません!遠くなってきましたよ!」
 飛鳥刑事の言葉に佐々木刑事も叫ぶ。
「見りゃあわかる!くっそおおぉ!」
 佐々木刑事が全力疾走しても距離は縮まらない。黒い影は門を出て、左に曲がった。
 息が切れて、足が鈍る。その時、白いバンが佐々木刑事の横を走りぬけていくのが視界の端に入った。運転席には飛鳥刑事。
「左だ!左に曲がったぞ!」
 飛鳥刑事が頷いたのを見て佐々木刑事は足を止め、肩で息をしながら呟いた。
「た、頼むぞ、飛鳥……」

「よし、見えた!追いつく、追いつくぞ!」
 飛鳥刑事は慣れないバンで、黒い影を追いかける。
 さすがに、車と人の足ではスピードに大きな差がある。車は黒い影に迫りつつあった。
「乗り物も用意せずに、逃げ切れるものか!」
 黒い影が振り向いた。バンのライトが相手の姿を照らしあげる。闇のような黒一色の服。その上に靡く長い髪。そして、見えたのは若い女の顔だった。
「お、女?」
 少しとまどうが、気にしてはいられない。バンが、女に追いついた。このまま、もう少し逃げさせて、路地に追い込むか、走りつかれたところを車から降りて捕らえる。つもりだった。
 しかし、女は、塀の上に身軽に飛びあがると、そのまま屋根の上に登り、屋根づたいに逃げていく。
「な、なんて奴だ!」
 呆気に取られていた飛鳥刑事は、我に返り車で追おうとした。が、路地が入り組み、思うように走れない。ただでさえ車体の大きなバンである。そうこうしているうちにも、女の影は遠ざかっていく。ほどなく、飛鳥刑事のバンは進退窮まった。
 バンから飛び降りる飛鳥刑事。しかし、女の姿はすでになく、物音さえも聞こえない。完全に見失ってしまった。

「全く、目の前で事件が起こったというのになんてざまだ!」
 知らせを受け、木下警部が署にやってきた。いつもは温和な木下警部も、さすがにいらだちと怒りを抑えられないようだ。無理もない。刑事2名に警官20数名の目の前でティアラを奪われてしまったのだ。
 飛鳥刑事、佐々木刑事ともに返す言葉もない。
「とにかく、今から現場検証に向かいたまえ。警察の名誉にかけて、この一件は解決せねばならん」

 現場は念入りに調べられたが、手がかりとなりそうな物は発見されなかった。辛うじて見つかった靴跡も、どこにでも売られている運動靴。しかも、発売されて間もないものの、流行の波に乗って売れに売れているタイプの靴だ。その靴を買った人間を探したところで決め手にはなりそうにない。
 盗聴機も至ってシンプルな物で、部品と回路図と人並みに器用な手先さえあれば、子供の工作でも作れるような簡単な代物だった。その部品も、割と簡単に手に入る物ばかりである。
「まいったなぁ。こりゃ、挙げるどころじゃないぞ」
 渡された鑑識からの書類を全て読みおわった佐々木刑事は困り果てていた。
「あの木から降りてきたんでしたよね。あの木は調べました?」
「ああ。しかし、髪の毛一本見つからなかったよ」
 佐々木刑事はうんざり、といった顔で言った。
「そっちはどうだ?」
「こっちもからっきしです」
 飛鳥刑事はかぶりを振った。
 飛鳥刑事は、犯人の逃げたルート上での証拠探しを任されていた。しかし、所々に辛うじて消えかかった足跡があるくらいで、とても犯人につながりそうな物は見当たらない。
「手口からみて、相当身軽な奴ですね、犯人は。あの木から飛び降りてそのままブツを奪って逃走、挙げ句の果てには屋根の上を跳んで回っている。その方からも調べたほうがいいかも知れませんね」
「うーん、まぁ、調べるに越したことはないな」
 こんな話をしても始まらないのは分かっていた。
 それでも、さっそくその路線で調査が始められる。
 しかし、聖華市内でそのくらいの芸当ができそうな女性はだいぶ見つかった。飛鳥刑事が逃げられた辺りは住宅も密集しており、人並以上の運動神経と、あとは度胸さえあれば飛び越えられる程度の隙間しかない。
 犯人の姿ははっきりと見た。しかし、犯人の痕跡はほとんど残されていない。その、どれもが犯人につながらない。
「駄目だ、八方塞がりだ。冗談じゃねぇ、こりゃ、怪盗じゃないか」
「完全にしてやられましたね。こうなったら、盗品が売りに出されたところから洗い出すしかないですね」
 いいながらも、飛鳥刑事は期待は薄いだろうと感じていた。

 犯人に関する情報は何一つ入ってこない。盗まれたものが売られたという話も聞かない。これといった進展もないまま、5日が過ぎた。
 その日、聖華署に一報が入った。
 とある邸宅の一室に盗聴機が仕掛けられていたという。場所は2階リビングのカーテンの裏。そして、その盗聴機はR美術館の館長の襟の裏から見つかった物と同じだった。
 あの女だ。あいつがまた現われる。
 佐々木刑事と飛鳥刑事は、前回の雪辱のため、警備にあたることになった。前回逃げられた二人だけでは不安であると、木下警部も同行することになった。警備はかなり大がかりなものとなった。
 早速、警備を始めるのだが、何が狙われているのかが分からないと警備もしようがない。
「何か、狙われそうな物はありますか?高価な品とか、貴重な品とか」
「まあ、高価な物はいくつかありますが……」
 3人は、案内されるままに邸宅の中にある高価な美術品や宝石などを見せられた。さすがは大きな家に住んでいるだけのことはあり、そういった物を数多く所有している。
「なるほど、どれが狙われてもおかしくはないですな」
 木下警部は貴重品のリストをみながらつぶやいた。絵画が数点、宝石が数個。他にもいくつかある。
「一ヶ所に集めておいたほうが警護しやすいと思いますが」
「いや、それはかえって危険だよ。被害があっても最低限になるように、ばらばらにおいて警護したほうがいい」
 邸宅の各部屋に一人ずつ警官が置かれた。木下警部、佐々木刑事、飛鳥刑事の三人は定期的に様子を見て回ることになった。やがて、日が暮れてきた。以前の犯行も夜だった。自然と緊張が高まる。
 飛鳥刑事は緊張を解そうと、テーブルの上に置かれた新聞を手に取った。
「………おや?この新聞は先週のか」
 テーブルの上には新聞が2つ置かれていた。飛鳥刑事はなにげなく手に取ったのだが、日付が一週間前になっている。
「それですか。それは、ほら、さっきみてもらったウエディングドレス。あれがちょっとした記事になってるんで、とってあるんです。ほら、ここですよ」
 新聞は、聖華市報。その新聞の中ほどに、あまり大きくない記事で、ウエディングドレスのことが書かれていた。
「へぇ。娘さんがご結婚を」
 記事によると、この邸宅の主人の末娘が、デザイナーをしており、姉の結婚を祝ってドレスのデザインをしたとのこと。
「なるほど。で、式はいつです?」
「来週の金曜日です。娘も楽しみにしていますよ」
 新聞の記事を見ているうちに予感めいた何かが沸き起こってくる。
 聖華市報。前回の事件のティアラもこの新聞の記事になった。……もしかすると。
「……木下警部。もう一度、そのドレスを見に行ってきます」
 飛鳥刑事が立ち上がると、木下警部も立ち上がった。
「飛鳥君、私も行こう。佐々木君は一応ここで待機していてくれたまえ」
 頷く佐々木刑事。一瞬目が鋭く光った。二人の考えが読めたのだろう。
 廊下で木下警部が飛鳥刑事に話しかけてきた。
「これが、狙われていると思うわけだね」
「勘に過ぎませんが、そう思います」
「こういうとき、一番頼りになるのは直感かもしれんからな。それに、盗聴器が仕掛けられていたところをみると、最近話題になった物を狙うというのが筋だ。このドレスはまさに、うってつけだな」
 部屋の前に着いた。特に変わった様子はなさそうだ。
 二人が部屋に入ると、警官が敬礼した。
「今のところ、異常ありません!」
 その言葉に頷く木下警部。
「うむ、ご苦労」
 その時だった。天井から黒い影が降りてきたのは。
 飛鳥刑事は、それに気付くと同時にウエディングドレスめがけて走った。賊よりも早くドレスを押さえよう。そうすれば、賊にも隙ができるはずだ。そうなれば警官が押さえてくれるだろう。
 ドレスに近づいていく。怪盗も、飛鳥刑事も。このままでは飛鳥刑事は不利か。いや、捨て身になれば間に合う。ドレスまであと二歩。一歩。飛鳥刑事はドレスめがけて跳躍した。
 間に合ったか!?
 しかし、飛鳥刑事がドレスに手を伸ばした瞬間、目の前を黒い影が過り、ドレスは飛鳥刑事の進行方向90°の方に動きだし、飛鳥刑事の手は空を抱いた。そのまま壁に激突する。涙が少しでて、目がかすむ。それでも、ドレスの消えた方向に目をやると、天井の板が一つ、はずれていて、怪盗がそこめがけて跳躍したところだった。

 木下警部は、後ろにいた飛鳥刑事が突然ドレスめがけて走っていったのを見た。そして、黒い影が目にはいる。凄まじい速さで動いている。
 あれが怪盗と言われている賊か!?あまりに突然の出来事に体が反応できない。半分は年のせいだ。
 木下警部の見ている前で、ドレスが奪われ、飛鳥刑事が壁にぶつかった。
 とっさに木下警部はあたりを見回し、テーブルの上に置かれていた灰皿を手に取った。賊は天井の、板の外された穴に飛び上がり、よじ登っている。
 木下警部は賊めがけ、灰皿を投げつけた。当たりはしたが、賊の足止めにはならなかった。
 天井の穴から賊が顔を出す。
「痛いじゃないの!乱暴な男は嫌われるわよ!」
 と言い放ち、木下警部に対しあかんべーをおみまいした。
 若い女性、いや、少女の声だった。

 佐々木刑事は何かが壁にあたったような、鈍い音を聞いて立ち上がった。次の瞬間には部屋からとび出ていた。
「やられた!くそ、どこに逃げた!?」
 木下警部の声が聞こえる。その内容を理解すると同時に、佐々木刑事は外に向かって走り出していた。
「犯人を追います!外だ、外を包囲してくれ!」
 その声を受けて、手のあいていた警官が外に走りだす。
 佐々木刑事は、邸宅をでて後ろの邸宅を振り返る。屋根の上に黒い影があった。玄関から飛鳥刑事と木下警部が出てきた。そして、佐々木刑事に倣い、屋根の上を見上げる。
 屋根の上では、人影が立っていた。月明かりに照らされた人影は、かぶっていた頭巾を外し、服の中に納められていた髪を出して、風になびかせた。
「くそぅ、気どりやがって!」
 佐々木刑事は庭の隅にあったビニールシートを引き剥がし、隠されていたバイクを出した。エンジンをかける。ボボボボボ、とエンジンが唸りを上げる。
 黒い影が跳躍した。佐々木刑事はその後を追う。距離は開かない。このまま行けば、相手が疲れたところを捕らえられる。
 この間、飛鳥は車で追って逃げられた。しかしバイクなら路地にも入れる。
 バイクのガソリンは入れたばっかりだ。どこまで逃げても追いつく……。しかし、エンジンの音は、だんだん絶え絶えになり、バイクは止まってしまった。ガソリン切れのランプが点灯している。
「な、なんで?」
 佐々木刑事は、飛び去って行く黒い影を、呆気に取られた顔でむなしく見つめていた。

 次の日の朝刊には『怪盗』の文字が踊っていた。○○氏の長女の夢を盗んだ空から降りた悪魔、と小見出しがつけられている。
 飛鳥刑事が新聞を読んでいる横で佐々木刑事は不機嫌そうな顔でタバコをふかしている。そのタバコを灰皿に押しつけたところで、木下警部が部屋に入ってきた。
「昨日、佐々木君のバイクが置いてあった場所に、これがあったそうだ」
 木下警部が差し出したのは、ガソリンの入った缶だった。それを見て、無意識のうちにさっきのタバコの火が消えているか確認する佐々木刑事。
「昨日は参ったよ。あんなに手際がいいんじゃ、なまじの奴じゃ捕まえられないね。前回、君たちが取り逃がしたのもうなずけるよ」
「なんで、バイクが隠してあるのまでわかったんでしょうね。ガソリンが抜かれていたとは……」
 ガソリン入りの缶を手に取り、佐々木刑事が誰となく言う。その横で飛鳥刑事が新聞から顔を上げてぼやいた。
「この記事を見てくださいよ。警察の悪口が長々と書かれてますよ。何かあるとすぐにこういうことをするからマスコミというのは嫌ですね」

「悪魔って、あたしのことかしら。ひどいこと書くわねぇ。こんな可憐な少女が悪魔だなんて」
 映美は、新聞の一面に出ている記事を見てぶつぶつ言っている。聖華市にある海沿いの小さなアパート。そこに映美は住んでいた。この少女が空から降りた悪魔といわれた怪盗の正体なのだ。
 映美は新聞を放り投げ、紅茶を飲み干す。そして、押し入れのふすまを開けてそのまま天井裏にもぐりこんだ。
 昨日盗んだドレスとその前に盗んだティアラは天井裏に隠してあった。
 映美はドレスとティアラを出すと、身につけて姿見の前に立った。
「うーん、きれいだなあ。あたしじゃないみたい。……この姿を見たらだれも悪魔なんて言わないよね」
 満足そうに呟くと、映美はまた元の服に着替えてベッドに座る。横になってみる。体の向きを変えてみる。また起き上がってみる。
 なんだか、落ち着かない。落ち着かない理由は、盗みを働いたこともそうなのだが、もう一つある。
 ふと、顔を上げると、ハンガーにかけられた学校の制服が目にはいる。
「明日は卒業式か……」

 ドレス盗難騒ぎの2日後の午後。入ってきた一報の内容を聞いた木下警部は飛鳥刑事を呼び出した。
「ええっ、ドレスとティアラが見つかった?」
「ああ。どういうわけか、高校の人体模型が着せられていたらしい」
「人体模型?犯人は何だってそんなまねを……」
 その日、県内の公立高校は卒業式を迎えていた。そして、卒業式が終わり、残った生徒たちがいつものように掃除をしようと、理科室に入った。その時入った生徒が、ドレスを着、頭にティアラを乗せた人体模型を発見したのだ。
「いずれにせよ、犯人が盗んだものを返して来たということは、これ以上調べようがない。とりあえず、盗まれたものが帰ってきただけ良かったと思うしかあるまい」
 そして、その日以来、怪盗が現れることがないまま一月が過ぎた。

 飛鳥刑事が、木下警部に呼び出された。今あたっている事件のことだろうか、と思いながら警部のところまで行く。佐々木刑事がすでにきていた。
「飛鳥君。佐々木君。一月ぶりに怪盗が現れたよ。見たまえ」
「ええっ、本当ですか?」
 二人は驚きながら調書を見た。出た場所は、西山村市。海沿いの聖華市からはだいぶ離れた山間の町だ。手口は、持ち主の目の前に置かれたものを、真っ正面から堂々とという、奴の手口そのものである。盗まれた物は骨董市で手に入れたという外国産の葉巻入れだという。そして、通報を受け警官が駆けつけたときには、犯人は屋根のうえに立っていて、そのまま屋根の上を飛び跳ねながら去って行ったという。
「間違いない、奴ですよ!この手口、この逃げ方!」
 興奮気味の飛鳥刑事。
「今度は西山村市か!」
 楽しそうな顔をする佐々木刑事。
「どうだね、君たち。追いかけて見るかね」
「はい!やらせてください!」
「ルシファーは、手ごわそうだ。気を引き締めてかかれよ」
 二人を見て、木下警部は思う。若いな、と。

 雪辱に燃える二人は、木下警部の計らいで西山村市に転属ということになった。
 そして、奇しくも、その転属初日、怪盗は現れたのである。

 車が現場に滑り込んできた。そして、そこから飛鳥刑事と佐々木刑事が飛びだす。
 怪盗は屋根の上にいた。長い髪を得意げに風に泳がせてポーズを取っている。
 被害者は無名の画家、盗まれた物はその画家が市の展覧会で賞を取った絵であった。
 キャンパスを脇に抱え、こちらに手を振っている。
「なめやがってぇ!」
 佐々木刑事はすでに走り出していた。その方向とは逆の方向に逃げる怪盗。飛鳥刑事はその方向に追って走りだす。
 身軽に屋根から屋根へと飛び移る怪盗。一方、入り組んだ路地を走る飛鳥刑事は見失わないようにするのが精一杯だ。
 怪盗は屋根の上を跳んで逃げるので、広い道路の上は飛び越せない。つまり、広い道路のところまで追い詰めれば、あとは道の上に降りて来るはずだ。そうすれば追いやすい。
 怪盗が、屋根の切れ目から道路に降りた。しめた。飛鳥刑事は近くにあった自転車にのり、怪盗に向かって突進する。怪盗は屋根には登らず、そのまま道なりに走り出した。バカめ。追いつく。もう目の前だ。
 が、その瞬間、飛鳥刑事の視界から怪盗の姿が忽然と消えた。
 わけがわからず、自転車を止める飛鳥刑事。その時、背後から足音がした。見ると、怪盗が逆方向に走って行くのが見えた。そして、路地に入って行く。怪盗は飛鳥刑事の頭の上を飛び越えたのだ。
 慌てて、怪盗を追い路地へ自転車を走らせる。怪盗の姿は見えない。しかし、路地にはしばらく分岐はない。まだ間に合うはずだ。
 自転車を走らせる飛鳥刑事。
 横で声がした。飛鳥刑事がその方に顔をむけると、怪盗が塀の向こうから手を振っていた。景色と共に流れていく怪盗の姿を目で追う。
「よそ見したら危ないよ!」
「え?」
 怪盗の言葉を受け前を見ると、ゴミ捨て場が目の前に迫っていた。
「うわあああぁっ!」
 叫ぶ飛鳥刑事。ブレーキをかけるところまで頭が回らないまま、ゴミの山に突っ込む。
 ゴミまみれにながらも、飛鳥刑事は自転車を捨て、怪盗が顔を出していた場所を覗きこんだ。
 しかし、そこには既に怪盗の姿はなかった。

 怪盗は、いつのころからか、ルシファーと呼ばれるようになっていた。空から降りた悪魔、ルシファー。誰が言い出したのかは分からない。
 堂々とターゲットを奪い去る。警察が通報を受け、駆けつけるまで現場にとどまり、その後、警察の追跡をかわし、逃走する。人々は怪盗ルシファーに対し、恐怖と憧れのまなざしを向けた。
 警察と、怪盗ルシファーの長い戦いが始まっていた。決着に1年近い歳月を要したその戦いが。

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